01) 李典、李通、臧覇
『三国志集解』で、巻18をやります。
初期の曹操軍団を見たいので、兗州や豫州の人たち。200年代前半まで。
曹操を初期から支えた兗州豪族・李典
李典は、あざなを曼成。山陽の钜野の人だ。李典の從父は、李乾である。李乾は、賓客の數千家をあわせ、乘氏にいる。
初平のとき(190-)、軍をつれて、曹操にしたがう。黄巾を壽張でやぶる。
また曹操にしたがい、袁術を撃った。徐州を征した。
呂布が兗州を乱すと、曹操は李乾を乗氏にもどし、諸県を慰勞させた。呂布の別駕・薛蘭、治中・李封は、李乾を招いた。「ともに曹操に叛こう」と。李乾は曹操についたので、殺された。曹操は、李乾の子・李整に、李乾の兵をひきいさせ、薛蘭と李封をやぶった。兗州の平定に功績があり、李整は青州刺史となる。
そして李典は、なかなか出てこない。従父と従兄が、兗州の兵を率いていたから。
従兄の李整は、青州刺史だが、どうせ遙任だろう。曹操は、董昭や賈詡の「冀州牧」よろしく、遙任をけっこうやる。ただし、遙任にしろ、刺史にしてもらったのだから、初期の曹操軍団で、李整がいかに重要かがわかる。
魏書曰:典少好學,不樂兵事,乃就師讀春秋左氏傳,博觀群書。太祖善之,故試以治民之政。
李整が死ぬと、李典は潁陰令となる。中郎將となり、李整の軍をひきいた。離狐太守となる。
ぼくは思う。曹操は、李典にためしに民政をさせるために、郡をおいたのだろう。県令として、民政をさせてもよかった。しかし、兗州の李氏のネイムバリューからすると、県令では軽すぎる。「李整が死んだ瞬間に、いきなり待遇のおとすのか」と思われたら、部曲をひきいる人たちが、曹操を見限る。しかし、曹操には領土がない。だから、離狐郡を捏造した。
魏書はいう。李典は、兵事より学問が好きだ。師事して『春秋左氏傳』をまなぶ。曹操は、ためしに李典に民政をやらせた。
ときに曹操は、官渡で袁紹をふせぐ。李典は、宗族および部曲をひきい、穀帛をはこび、軍に供給した。袁紹をやぶると、裨將軍となり、安民に屯した。
安民は、荀彧伝にある。東平国の寿張県にある。『水経注』はいう。汶水が、済水にはいる。荀彧伝がいう、建安六年(201)、曹操が穀物をはこんだ場所である。
曹操は、袁譚と袁尚を、黎陽で撃った。李典と程昱らに、船で軍糧をはこばせた。
李典と程昱は、兗州のうち、珍しく? 曹操に味方した豪族だ。官渡ののちも、曹操は兗州の豪族にたよっている。兗州の人の重要度がおちるのは、曹操が冀州を平定してからだろう。
以下、袁尚、劉備、高幹、孫権を撃退する。はぶく。
汝水あたりで、曹操の献帝奉戴を支持した李通
以俠聞於江、汝之間。與其郡人陳恭共起兵於朗陵,眾多歸之。時有周直者,眾二千餘家,與恭、通外和內違。通欲圖殺直而恭難之。通知恭無斷,乃獨定策,與直克會,酒酣殺直。眾人大擾,通率恭誅其党帥,盡並其營。後恭妻弟陳郃,殺恭而據其眾。通攻破郃軍,斬郃首以祭恭墓。又生禽黃巾大帥吳霸而降其屬。遭歲大饑,通傾家振施,與士分糟糠,皆爭為用,由是盜賊不敢犯。
李通は、あざなを文達という。江夏の平春の人だ。『魏略』はいう。幼名は、万億。
李通は、侠気をもって、長江と汝水のあいだで有名だ。同郡の陳恭とともに、朗陵で挙兵起兵した。
周直という人が、2千余家をひきいた。李通は、周直を殺し、人口をうばった。のちに、盟友の陳恭が殺されると、仇討した。黄巾の大帥・呉覇をくだし、人口をくだした。飢饉があると、李通は家財をかたむけて救った。盗賊は、李通の人口を犯さない。
ぼくは思う。注意したいのは、劉表が出てこないこと。っていうか、州牧レベルの介入がない。江夏は、汝水にちかい。豫州の南、荊州の北あたりは、空白地帯なのかも知れない。孫堅が死んで、袁紹が北方にゆき、袁術は淮南に出てゆき、劉表はまだ手がおよばず。
空白という点で、曹操が入る前の潁川も、似ているなあ。
建安はじめ、李通は、許県の曹操にしたがう。李通は、振威中郎將となり、汝南の西界に屯した。
曹操は、張繍を討った。劉表は兵をやり、張繍を助けた。李通は、夜に曹操にあわさり、張繍を破った。裨將軍、建功侯。
ぼくは思う。張繍は、曹操が献帝を手に入れたことに、そむく人。張繍と李通は、曹操の献帝奉戴をめぐり、正反対の態度である。
汝南の2県をわけて、李通を陽安都尉とした。
趙一清はいう。『郡国志』の汝南郡に、陽安道亭がある。朗陵侯国の注釈にある『魏氏春秋』はいう。初平三年(192)、2県をわけて陽安都尉をおいた。『方輿紀要』巻50はいう。曹操は汝南をわけて、陽安都尉をおいた。朗陵県は、これに属したと。謝鍾英はいう。曹魏が受禅してから、陽安郡はない。
ぼくは思う。よく分からんが。江夏と汝南の境界を、李通が守ったのだろう。曹操につく前から、李通が拠点としたところ。曹操は、この拠点を追認したのだ。太守の権限をもった。
李通の妻の伯父が、法をおかした。朗陵長の趙儼は、妻の伯父を捕えた。このとき、妻の伯父の生死は、牧守である李通がにぎる。妻子は、李通に泣きついた。「伯父をたすけてくれ」と。李通は言った。「曹操とともに、力をつくす。私を公に優先しない」と。李通は、きびしい趙𠑊をよみし、親交をむすぶ。
ぼくは思う。李通が曹操にもとめたものが、「公」権力だとわかる。李通は、江夏のあたりで、「私」権力を築いた。しかし、ほしいのは「公」だった。おなじことが、荀彧にも言えると思う。荀彧は潁川に献帝をまねいたが、豫州を「公」権力で立て直すことが、願いだったのだろう。献帝がいるだけで、自然と秩序ができてゆく。漢の歴史、すごい。ぎゃくに長安のあたりは、献帝がいなくなり、秩序がくずれたのだろう。馬超とか、出てきた。
官渡のとき、袁紹は、李通を征南将軍にした。劉表もまた、ひそかに李通をさそった。李通は、こばんだ。親戚や部曲は、流涕して言った。「孤立した。袁紹につこう」と。李通は剣をにぎり、叱った。「曹操が天下を定めるはずだ」と。袁紹の使者を切って、征南将軍の印綬を曹操にとどけた。
ぼくは思う。以下の2つを確認した。曹操が孤立して、勝ち目がないこと。袁紹が、官位を勝手に発行していること。本文にある李通のセリフは、いかにも曹操バンザイである。こんなセリフ、アトヅケだろう。ともあれ、汝南がめちゃめちゃ動揺したことは、間違いない。
陽安郡の賊・瞿恭、江宮、沈成らを、李通は撃った。ついに李通は、淮水、汝水の地を定めた。
さっき、妻の伯父をたすけたら、この方針がゆらぐ。同郡のライバルたちに、勝てなくなる。待てよ。政略結婚するだろうから、李通の妻も、地元の豪族だろう。発言力がある。妻子が、刑罰の内容について、口出ししたことから、推測できる。
李通に敵対した「賊」たちは、誰になびいたか。劉表や袁術だろうね。いま「淮水、汝水の地を定めた」とある。つまり、官渡のころまで、曹操が平定していないことが、わかる。
李通は、都亭侯、汝南太守となる。
ときに賊の張赤らが、5千余家で、桃山にいる。破った。劉備と周瑜が、曹仁を攻めた。李通が曹仁を救った。李通は、42歳で死んだ。曹丕が皇帝即位し、李通に剛侯と贈る。曹丕は詔した。「むかし官渡のとき、許や蔡より南は、曹操にそむいた。李通は、そむかず」と。
つづきます。臧覇、文聘、呂虔、許褚、典韋です。