表紙 > 曹魏 > 巻18・李典、李通、臧覇、文聘、呂虔、許褚、典韋伝、初期の曹操軍

02) 文聘、呂虔、許褚、典韋

『三国志集解』で、巻18をやります。
初期の曹操軍団を見たいので、兗州や豫州の人たち。200年代前半まで。

曹操軍の徐州北部を担当、袁譚と戦う臧覇

臧霸字宣高,泰山華人也。父戒,為縣獄掾,據法不聽太守欲所私殺。太守大怒,令收戒詣府,時送者百餘人。霸年十八,將客數十人徑於費西山中要奪之,送者莫敢動,因與父俱亡命東海,由是以勇壯聞。

臧覇は、あざなを宣高。泰山の華県の人だ。父の臧戒は、縣の獄掾だ。太守の私殺をこばみ、つかまった。18歳の臧覇は、費県で父をうばいかえした。父とともに、東海に亡命した。勇壯が知れわたる。

華県は、武帝紀の初平四年にある。曹操の父が殺されたところ。
ぼくは思う。詳細はわからないが、臧覇の父は、霊帝-宦官に、さからったのだろう。歴史書は、霊帝-宦官への反発は、謀反でなく、手柄のように書くのだ。そのたぐいか。


黃巾起,霸從陶謙擊破之,拜騎都尉。遂收兵於徐州,與孫觀、吳敦、尹禮等並聚眾,霸為帥,屯於開陽。太祖之討呂布也,霸等將兵助布。既禽布,霸自匿。太祖募索得霸,見而悅之,使霸招吳敦、尹禮、孫觀、觀兄康等,皆詣太祖。太祖以霸為琅邪相,敦利城、禮東莞、觀北海、康城陽太守,割青、徐二州,委之於霸。

黄巾が起つと、臧覇は陶謙にしたがった。騎都尉となる。兵をあつめ、徐州へゆく。孫觀、吳敦、尹禮らをしたがえ、開陽(琅邪の郡治)にいる。曹操が呂布を討つと、臧覇は呂布をたすけた。呂布が捕えると、曹操は臧覇をさがした。曹操は、臧覇を琅邪相,呉敦を利城、尹禮を東莞、孫觀を北海、孫康を城陽の太守とした。青州と徐州をさいて、臧覇にゆだねた。

武帝紀の建安三年(198)に、琅邪、東海、北海をさいて、城陽、利城、昌慮をつくった。
盧弼はいう。李通は淮汝、臧覇は青徐、鍾繇は関中をゆだねられた。どれも重たい任務だ。ここを失えば、いち地方の損失ですまず、全体に影響すると。
ぼくは思う。李通、臧覇、鍾繇を並列にするところが、おもしろい。曹操は許県にいて、袁紹と対峙せねばならない。地方まで、手がまわらない。「ゆだねた」というと、聞こえがいいが、ほぼ同盟相手のような位置だろう。曹操は、献帝を持っているから、頭がひとつ出ているに過ぎない。冀州を平定して、根拠地を得るまで、曹操は安心できない。
徐州と言えば、袁術の通過、劉備の独立などの事件が、官渡の前におきる。どちらも、臧覇が活躍していない。なぜか。どうやら臧覇は、徐州の北方が担当みたいだ。琅邪は、北だから。地域が重ならないので、下邳の呂布と並列できた。


太祖之在兗州,以徐翕、毛暉為將。兗州亂,翕、暉皆叛。後兗州定,翕、暉亡命投霸。太祖語劉備,令語霸送二人首。霸謂備曰:「霸所以能自立者,以不為此也。霸受公生全之恩,不敢違命。然王霸之君可以義告,原將軍為之辭。」備以霸言白太祖,太祖歎息,謂霸曰:「此古人之事而君能行之,孤之原也。」乃皆以翕、暉為郡守。

かつて曹操が兗州にいるとき、徐翕、毛暉がそむいた。のちに曹操は兗州を平定し、2人を殺そうとした。2人は、臧覇を頼った。臧覇は劉備に言った。「たよってきた2人を助けたい」と。曹操は、徐翕、毛暉を太守とした。

盧弼はいう。臧覇のこの行いは、昌豨を斬った于禁より、すぐれる。
ぼくは思う。時系列が分かりにくい。兗州で2人が叛いたのは、193年、194年ごろ。臧覇が2人を助けたのは、199年、200年ごろ。劉備が、ちゃっかり曹操の右腕のように、振舞っているのがおもしろい。徐州の南方は、ほんのり劉備が担当していたのかも。だから、袁術の通過を迎撃した。独立することができた。劉備は、呂布とおなじような扱いだから。


時太祖方與袁紹相拒,而霸數以精兵入青州,故太祖得專事紹,不以東方為念。太祖破袁譚於南皮,霸等會賀。霸因求遣子弟及諸將父兄家屬詣鄴,太祖曰:「諸君忠孝,豈複在是!昔蕭何遣子弟入侍,而高祖不拒,耿純焚室輿櫬以從,而光武不逆,吾將何以易之哉!」東州擾攘,霸等執義征暴,清定海岱,功莫大焉,皆封列侯。霸為都亭侯,加威虜將軍。(後略)

曹操は、袁紹と戦った。臧覇は、しばしば精兵をひきい、青州に攻め入った。曹操は東方を思わず、袁紹に専念できた。曹操は、袁譚を南皮で破った。臧覇は、子弟や諸将の父兄・家屬を、鄴に置きたい。曹操は言った。「高帝の蕭何、光武帝の耿純とおなじだ」と。臧覇は、海岱を清定した。

ちくま訳は、海岱=青州とする。青州は、袁紹の死後、やっと曹操が平定できた。それまでは、袁譚が治めていた。
ぼくは思う。曹操にとっての脅威は、青州の袁譚だったかも。袁紹と袁尚は、官渡に集中していたが、ほぼ独立した袁譚は、べつに動く可能性があった。袁紹が、四子を州牧にした件は、じつはうまく機能している。曹操が鄴県を攻略したとき、幽州の袁煕、并州の高幹は、補給をたすけている。

臧覇は、都亭侯、威虜將軍となる。以下、はぶく。


而孫觀亦至青州刺史,假節,從太祖討孫權,戰被創,薨。子毓嗣,亦至青州刺史。
魏書曰:孫觀字仲台,泰山人。與臧霸俱起,討黃巾,拜騎都尉。太祖破呂布,使霸招觀兄弟,皆厚遇之。與霸俱戰伐,觀常為先登,征定青、徐群賊,功次於霸,封呂都亭侯。康亦以功封列侯。與太祖會南皮,遣子弟入居鄴,拜觀偏將軍,遷青州刺史。從征孫權於濡須口,假節。攻權,為流矢所中,傷左足,力戰不顧,太祖勞之曰:「將軍被創深重,而猛氣益奮,不當為國愛身乎?」轉振威將軍,創甚,遂卒。

臧覇も孫観も、青州刺史となった。『魏書』はいう。孫観は、泰山の人。臧覇とともに黄巾を討ち、騎都尉となる。功績は臧覇についだ。

ぼくは思う。陶謙のもと騎都尉となり、曹操のもと青州刺史となる。臧覇と孫観は、おなじ官位についた。孫観のほうが、すこし若かったのかな。


南陽で、袁術でなく劉表を支持した文聘

文聘字仲業,南陽宛人也,為劉表大將,使禦北方。表死,其子琮立。太祖征荊州,琮舉州降,呼聘欲與俱,聘曰:「聘不能全州,當待罪而已。」

文聘は、あざなを仲業。南陽の宛県の人。劉表の大将となり、北方を守る。

こうして劉表は、地元の支持をとりつけ、州牧になりましたと。それだけの列伝。笑

劉表が死んだ。劉琮は、文聘とともに、曹操に降りたい。文聘は言った。「荊州を保てなくて、ごめんなさい」と。以下、はぶく。

文聘は、江夏に数十年いた。文聘が江夏をおさえ、劉備や孫権をふせいだのは、劉表の時代のキネヅカだろう。劉表が荊州を支配するとき、長江やその支流を、どのように活用したのか、気になる。江陵の水軍は、曹操もほしがった精鋭だ。赤壁で、焼けちゃったけど。


兗州の軍人として、泰山の十数年・呂虔

呂虔字子恪,任城人也。太祖在兗州,聞虔有膽策,以為從事,將家兵守湖陸。(襄陵)〔襄賁〕校尉杜松部民炅母等作亂,與昌豨通。太祖以虔代松。虔到,招誘炅母渠率及同惡數十人,賜酒食。簡壯士伏其側,虔察炅母等皆醉,使伏兵盡格殺之。撫其餘眾,群賊乃平。
太祖以虔領泰山太守。郡接山海,世亂,聞民人多藏竄。袁紹所置中郎將郭祖、公孫犢等數十輩,保山為寇,百姓苦之。虔將家兵到郡,開恩信,祖等黨屬皆降服,諸山中亡匿者盡出安土業。簡其強者補戰士,泰山由是遂有精兵,冠名州郡。

呂虔は、あざなを子恪。兗州の任城の人。曹操が兗州にきて、呂虔の膽策をきき、從事とした。呂虔は、家兵をひきい、湖陸(山陽)をまもる。襄陵校尉の杜松は、部民を炅母という。炅母らが、乱をなした。昌豨と通じた。

襄陵は、東海郡である。昌豨と近いから、通じることができる。陳留や河東にも、似た地名があるが、遠い。昌豨と通じることができない。

曹操は、杜松の代わりに、呂虔を襄陵校尉にした。呂虔は、平定した。
呂虔は、泰山太守となる。郡は、山海と接するので、おおくが逃げこむ。袁紹がおいた中郎将の郭祖、公孫犢らは、泰山を寇した。呂虔は、郭祖らを降伏させ、泰山から兵を補充した。泰山兵は、いちばん強い。

王昶『金石スイ編』にある上奏で、「屯騎校尉、都亭侯の臣祖」と署名するのは、郭祖のことである。ふーん。
ぼくは思う。泰山は、曹操から見て、東すぎる。袁紹も、支配が行き届いていない。郭祖らは百姓を寇すし、曹操の役人がきたら、さっさと降伏しちゃうし。のちに臧覇にゆだねた。


濟南黃巾徐和等,所在劫長吏,攻城邑。虔引兵與夏侯淵會擊之,前後數十戰,斬首獲生數千人。太祖使督青州諸郡兵以討東萊群賊李條等,有功。太祖令曰:「夫有其志,必成其事,蓋烈士之所徇也。卿在郡以來,禽奸討暴,百姓獲安,躬蹈矢石,所征輒克。昔寇恂立名於汝、潁,耿弇建策於青、兗,古今一也。」舉茂才,加騎都尉,典郡如故。虔在泰山十數年,甚有威惠。(後略)

濟南の黃巾・徐和らは、長吏を却し、城邑を攻めた。呂虔は、夏侯淵とともに、黄巾を討った。曹操は、青州の諸郡であつめた兵で、東萊の群賊・李條らを討った。呂虔に功績あり。

時系列が書かれていないが、、汝南の反乱は、官渡の直前か。青州の平定は、黄巾の後か。官渡のとき兗州は、袁紹の領土と接する。最前線である。李典、程昱ほど、地域への影響力はないが、呂虔もがんばった。

曹操は令した。「呂虔の戦場での活躍は、光武帝のときの、寇恂や耿弇にひとしい」と。茂才に挙げられ、騎都尉となる。もとのまま、泰山を典した。泰山に十数年にて、とても威惠あり。

ぼくは思う。曹操が、功績をたたえる「令」を出すのは、袁紹をやぶって、安心したあとだ。武帝紀が、そんな調子だ。呂虔が青州を平定したのも、官渡のあとでよいだろう。
盧弼はいう。文聘は、江夏に数十年いた。杜畿は、河東に16年いた。張既は、揚州や涼州に、10余年いた。梁習は、并州と冀州に20余年いた。呂虔は、泰山の10余年いた。当時の刺史や太守は、このように任期がながい。ぼくは思う。支配が安定するまで、ローテーションは組めない。


譙国や汝南で、砦ごと曹操に従った・許褚

許褚字仲康,譙國譙人也。長八尺餘,腰大十圍,容貌雄毅,勇力絕人。漢末,聚少年及宗族數千家,共堅壁以禦寇。時汝南葛陂賊萬餘人攻褚壁,褚眾少不敵,力戰疲極。兵矢盡,乃令壁中男女,聚治石如杅鬥者置四隅。褚飛石擲之,所值皆摧碎。賊不敢進。糧乏,偽與賊和,以牛與賊易食,賊來取牛,牛輒奔還。褚乃出陳前,一手逆曳牛尾,行百餘步。賊眾驚,遂不敢取牛而走。由是淮、汝、陳、梁間,聞皆畏憚之。

許褚は、あざなを仲康。譙國の譙県の人。漢末に,少年および宗族を數千家あつめ、ともに壁をかため、寇から禦した。ときに汝南の葛陂の賊に、攻められた。許褚は、石を投げて防いだ。

『郡国志』はいう。豫州の汝南に、葛陂がある。
ぼくは思う。譙国と汝南は、隣接して、攻めあう関係。譙国は曹操の故郷で、汝南は袁氏の故郷。曹操と袁紹の関係について、いろいろ気になってしまうのだ。

許褚は、牛をひっぱった。淮、汝、陳、梁のあいだは、許褚を畏憚した。

このあたりの地域が、ひとつのウワサの圏内だ。二袁の争いも、曹操と袁術、曹操と袁紹の争いのときも、とても気になる範囲。こまかく地図見て、いろいろ考えてみたい。許褚は、この地域のド真ん中。じつは、このページは、許褚伝のこの記述が気になって、始めた。許褚に興味がないが、「淮、汝、陳、梁」というのが、すごい。


太祖徇淮、汝,褚以眾歸太祖。太祖見而壯之曰:「此吾樊噲也。」即日拜都尉,引入宿衛。諸從褚俠客,皆以為虎士。從征張繡,先登,斬首萬計,遷校尉。從討袁紹於官渡。

曹操が、淮水や汝水をしたがえると、許褚は曹操に帰した。曹操は、「許褚は、私の樊噲だ」と言った。都尉となり、宿営に入る。許褚がつれる侠客を、虎士とした。張繍の征伐にしたがい、斬首すること1万。校尉となる。官渡にしたがう。

盧弼に注釈がない。ここが、気になったのに。
「徇」を、『字典』で引いてみた。したがう、主となるもののために死ぬ(=殉)。めぐる、ひとまわり、一巡する。となえる、全部に命令を行き渡らせる。あまねし。すばやい。つかう。
ぼくは思う。このページで明らかなように、曹操が汝南をカンペキに平定するのは、官渡のあとだ。もし許褚が曹操にしがたうのが、その後だとしたら、つぎの記事(官渡への従軍)と矛盾する。ということは、ここの「徇」は、ひとまわり、くらいの意味である。ちくま訳は「攻め陥とす」としているが、ちょっとちがう。
曹操は196年、兗州から潁川にうつる。その後、袁術とぶつかりながら、献帝を獲得する。たびたび袁術は、陳国や汝南に出てきて、曹操を攻めた。許褚は、袁術を嫌って、自力救済してきた仲間ごと、曹操に従ったことになる遠征しつつ、敵を増やす。これが、袁術サマのクオリティである。尊敬するなあ。
『蒼天航路』では、曹操が兗州にいるとき、許褚が臣従する。ちがう。曹操が豫州に入ってから、臣下になったのだ。物語の初期に、いっしょに船に乗って、月を数えるシーンは、いかにも物語だから、批判するのはおかしいけれど。

以下、はぶく。徐他の暗殺を見ぬき、馬超、曹仁をふせいだ。

曹操が張邈から借りパクした護衛・典韋

典韋,陳留己吾人也。形貌魁梧,旅力過人,有志節任俠。襄邑劉氏與睢陽李永為讎,韋為報之。永故富春長,備衛甚謹。韋乘車載雞酒,偽為候者,門開,懷匕首入殺永,並殺其妻,徐出,取車上刀戟,步(出)。永居近巿,一巿盡駭。追者數百,莫敢近。行四五裏,遇其伴,轉戰得脫。由是為豪傑所識。

典韋は、陳留の己吾の人だ。襄邑の劉氏と、睢陽の李永は、仲がわるい。典韋は報復を代行し、豪傑に知られた。

ぼくは思う。デビューのエピソードですね。この話、知らなかった。
己吾は、武帝紀の初めにある。曹操が起兵した土地だ。
王先謙はいう。後漢は、寧陵と襄邑をさいて、己吾をつくった。襄邑は、武帝紀の初平四年にある。睢陽は、武帝紀の巻首にある。


初平中,張邈舉義兵,韋為士,屬司馬趙寵。牙門旗長大,人莫能勝,韋一手建之,寵異其才力。後屬夏侯惇,數斬首有功,拜司馬。太祖討呂布於濮陽。布有別屯在濮陽西四五十裏,太祖夜襲,比明破之。未及還,會布救兵至,三面掉戰。時布身自搏戰,自旦至日昳數十合,相持急。太祖募陷陳,韋先占,將應募者數十人(中略)、軍中為之語曰:「帳下壯士有典君,提一雙戟八十斤。」

初平中、張邈が義兵をあげた。典韋は、司馬の趙寵にしたがう。牙門旗をささえた。夏侯惇に属して、司馬となる。曹操が濮陽で呂布を攻めた。典韋が、曹操を救った。都尉となる。

こまかい戦闘の描写は、まあいいや。盧弼の注釈のなし。
張邈-夏侯惇-曹操と移った。張邈と曹操は、もとは同軍だったのだろう。っていうか、曹操が張邈軍の一部なのかな。曹操は、兵を張邈にもらっている。

軍中で語る。「曹操のそばで、典韋は80斤の双戟をもつ」と。

ぼくは思う。張邈が曹操に謀反したのか、曹操が張邈に謀反したのか。曹操は張邈から、典韋を借りパクした。典韋は、曹操のために働いてくれた。


太祖征荊州,至宛,張繡迎降。太祖甚悅,延繡及其將帥,置酒高會。太祖行酒,韋持大斧立後,刃徑尺,太祖所至之前,韋輒舉斧目之。竟酒,繡及其將帥莫敢仰視。後十餘日,繡反,襲太祖營,太祖出戰不利,輕騎引去。韋戰於門中,賊不得入。兵遂散從他門併入。時韋校尚有十餘人,皆殊死戰,無不一當十。賊前後至稍多,韋以長戟左右擊之,一叉入,輒十餘矛摧。左右死傷者略盡。韋被數十創,短兵接戰,賊前搏之。韋雙挾兩賊擊殺之,餘賊不敢前。韋複前突賊,殺數人,創重發,瞋目大罵而死。賊乃敢前,取其頭,傳觀之,覆軍就視其軀。太祖退住舞陰,聞韋死,為流涕,募間取其喪,親自臨哭之,遣歸葬襄邑,拜子滿為郎中。車駕每過,常祠以中牢。太祖思韋,拜滿為司馬,引自近。文帝即王位,以滿為都尉,賜爵關內侯。

曹操は宛城で、張繍に敗れた。典韋が救った。大牢をまつった。

曹操が死にかけるほどの大敗。大敗が確認できれば、ぼくには、こまかい描写に用はないのでした。はぶきます。


龐徳、龐イク、閻温ら、涼州人は、また今度。
以上、兗州や豫州あたりの、初期の曹操軍団を確認しました。110518