表紙 > 読書録 > 宮城谷昌光『三国志』9巻の抜粋と感想

02) 馬謖の処刑、孫権の即位

宮城谷『三国志』9巻の、読書メモ。

原典を厳密に引用しません。要約と感想とゴッチャにします。面白そうだと思った方は、ぼくのいい加減なメモでなく、原典をお買い求めください。笑


街亭_094:亮が馬謖に、罪を転嫁して殺す

趙雲は撤退しながら、漢中を守らなければならない。
だが趙雲は、背後が空虚だ。劉備がいないから、戦いに意義を見つけにくい。それどころか、劉備が皇帝に就いてから、楽しくなくなった。志を果たして死んだのは関羽だけ。劉備は変節して、皇帝なんか名のった。

宮城谷氏の関羽と劉備は、独創的。以前、書きました。
宮城谷『三国志』より、関羽と劉備の最期を考える

ここで作者は、趙雲に翻弄される、曹真軍の「隊長」を描く。隊長というのが、誰だか、分からない。作者が『趙雲別伝』っぽい、かっこいい趙雲を描くための、狂言まわしだ。上手くない。笑

さて、趙雲のつぎは、馬謖の話。
馬謖の副将・王平について。曹操派、巴郡の異民族を治めるため、巴東郡と巴西郡に分けた。どちらも異民族を太守にした。この太守が、洛陽に使者したとき、従った人が王平だ。

知らなかった。どこに書いてある?

馬謖は、戦国時代の趙括に似ている。馬謖は、張郃が水路をふさいでいるとき、逆落としすれば、勝てた。だが機会を逃した。馬謖は、自分の周りだけ、陣を厚くした。馬謖は、わるい情報を得るたび、命令を変えた。「われは、どこへ行けばよいのか」と、怒った隊長がいた。

おもしろい、肉付けです。馬謖なら、いかにも。と思わせる。

『孫子』は、天下を平定していない、敗者が書いた本だ。兵站について、書いてない。馬謖は『孫子』を信じて、おのれの危うさに気づかなかった。

馬謖は39歳。まさっている知を、徳で裏(つつ)みはじめる歳。のちに馬謖は、まちがいなく蜀の丞相となる。曹操ですら敗退を経験した。敗退だけで、馬謖は殺されない。だが馬謖は、撤退の仕方が見苦しかった。属将に指示することも忘れて、逃げてしまった。だから亮に殺された。

まちがいなく、蜀の丞相。宮城谷氏が、そう云うのだから、そうなのだ。笑

魏延よりも馬謖が先鋒になったのは、馬謖と亮が、作戦を立てたから。馬謖が街亭まで進めたのは、
「われが街亭で魏軍を止めますので、その間に天水郡より西を丞相が平定してください。雍州の三分の一は、百日をすぎぬうちに蜀の版図となりましょう」
と、云ったからかも知れない。
だが亮は、宮城谷氏の解釈では、これを採用しては、いけなかった。魏の首都をねらうべきだった。洛陽に迫れば、漢室に愛着のある人が、亮に従ったかも知れない。初戦のあり方と、主戦場の位置は、重要だった。

おなじことを、云ってますが。宮城谷氏としては、最重要な主張なんだろう。
孟達がらみの、意味不明な1年の滞留。洛陽への働きかけについて、何か云えそうなのだが。宮城谷氏は、仮説を交わらせることが出来ず、沈黙&放置した。

諸葛亮は、自分の失敗を、馬謖になすりつけて、殺した

曹休_124:揚州・豫州の国境の地理

遊楚が、隴西太守として、諸葛亮をふせぐ話。

ぼくは遊楚を、ほとんど知らない。史料を見てから、ここに帰ってくるべきだ。小説を読んでも「ふーん」としか、言えない。

この北伐で蜀軍は、漢中から放射状に、出陣した。連携しない。遊楚に敗れると、蜀軍はすでに手に入れた、南安郡もあきらめた。
曹真は、諸葛亮が陳倉をおそうと考え、郝昭と王生をおいた。曹真が、これを考えた時点で、諸葛亮の陳倉攻めは、すでに失敗したも同然。

さすがに、云いすぎだ。笑


鄱陽太守の周魴は、孫権に宿題をもらった。曹休をだますこと。国境に接した廬江太守がやれば良さそうだ。だから周魴は、宿題を嫌がった。でも、敵国との近いと、情報がおおいので、だませない
周魴のアイディアは、孫権に何度も却下された。孫権は、周魴を叱った。周魴は、頭を丸めた。周魴は、面白くない。ついに孫権が、アイディアを出した。周魴から見ても、稚拙だ。周魴は、孫権に文句をつけた。

こんな、コミカルな話だったっけ。笑

豫州刺史の賈逵と、前将軍の満寵が、曹休を後詰した。

小説の、このあたりで。豫州や揚州や荊州について、軍事地理的に、いろいろ分析してある。武昌の位置とか。このテーマだけに絞りこんで、分析したい。袁術から、淮南の三叛まで。ぜったい再読。

ニセ情報を流して、勝とうとする孫権。魯粛が生きていたころの、浩然の気が、呉の王朝にはなくなった。曹休は苦戦したが、賈逵に救われた。

陳倉_152:現地・現物を見ていない諸葛亮

卑劣な手段で、敵の裏をかくのは、孫呉の限界をしめす。黄蓋が曹操をあざむいて大勝したことが、軍事的な悪癖をつくった。

なぜ孫呉はウソばっかなのか。なぜ孫呉のウソは、相手に通じるのか。むやみに孫権を嫌う前に、考察したい。後漢末や魏初の時代に蔓延していて、孫呉のウソを可能にした、価値観の「隙」の中身を、考えてみたい。またぼくは「全国を統一した、漢室の永続」を起点に、話を作りそうですが。

曹休が死んだので、満寵が都督した。満寵は、樊城を死守した人。満寵には「洞察力」がある。曹休が敗れることを、見通した。

曹休が敗れたので、諸葛亮が軍を動かした。
これまで諸葛亮は、敵の武将を、おのれより下に見た。劉備や関羽も、平凡だと思っていた。対する曹操は、敵将を恐れたから、優れていた。

諸葛亮の弱点、みごとに言っていると思う。このあと、おなじ話が、司馬懿と張郃のあいだでも、描かれる。司馬懿は、政治家。曹操-張郃の用兵を、見下している設定。司馬懿は、張郃を殺してしまう。

諸葛亮は、郝昭が守る陳倉を攻撃した。城は無傷。三日後、諸葛亮は、靳詳を送った。靳詳は郝昭に、降伏を説いた。郝昭は思った。
「三日間の(蜀軍の)攻撃で、城がどうなったのか、諸葛亮はおのれの目で見ていないのだろうか

「おのれの目で見ていない」は、ぼくの勤務先で、最大の失態とされてます。

諸葛亮が、穴を掘った。だが戦国時代のはじめに、考案された攻め方だ。郝昭は、対策のとりようがある。

諸葛亮と袁紹の共通点、また出てきました。笑

諸葛亮は、陳倉を落とせなかった。でも、王双を斬ったことを強調して、執政をつづけた。

陳倉が終わった直後。魏の不意をつくつもりで、すぐに北伐をした。諸葛亮は、范ショの作戦を、実行にうつした。
「点と点を、ながい距離につないでも、占領を維持できない。かならず3点をとって面をつくり、その面を増やしてゆく」と。
武都郡と陰平郡をとった。諸葛亮は、軍事的成長した。丞相に復帰した。

三帝_181:曹魏に詫びて、退位する孫権

孫権が、皇帝を名のった。
蜀漢から見れば「孫権は、劉禅を正統と認めているから、孫権が皇帝を名のらない」だった。だが孫権が、皇帝を名のった。諸葛亮は、孫権の即位を祝った。孫権は狡猾だ。もし蜀漢が孫呉を攻めたら、すぐに皇帝の位からおりて、魏に詫びを入れ、魏呉で蜀漢を攻めるだろう。
孫権が即位を進められたのは、呂範が死んだ直後。孫権が即位したキッカケは、曹休を倒したことか。

孫権が、この時期に即位した理由は、けっきょく、よく分からない。

諸葛亮は、裏表がない。裏表のない外交は、もっとも騙しやすいが、もっとも騙しにくい。この逆説が、孫権にはわかる。

この逆説が、ぼくには、わからない。

孫権は、盟(ちか)いの文をつくって、内外に示した。蜀漢は、孫呉が初めて魏を否定したから、安心した。

この文、おもしろそう。読もう。


曹叡が、宮殿を築いた。孫権が、遷都した。諸葛亮が、漢中に城を2つ作った。三国とも、内政をした歳だった。
曹真と曹叡が、漢中を攻める作戦を立てた。少府の楊阜が、これに反対した。楊阜は、天水郡の出身である。

ここから、楊阜の伝記が始まる。馬超とのからみ。面倒くさい。ぼくが先週、『資治通鑑』の翻訳でウンザリして、省略したところである。まるまる、そこが重複した。楊阜の話は、つぎの章まで、食いこむ。みんな、そんなに楊阜が好きなのか。


曹真_210:王淩と満寵と、合肥

楊阜の云うとおり、曹真の漢中攻めは、失敗した。
満寵が、合肥新城を築いた。曹叡は、兗州と豫州の兵を、合肥に集めた。孫権は、合肥をあきらめると見せかけ、再度攻めた。
攻めあぐねた孫権は、周魴とおなじ作戦をした。揚州刺史の王淩に、降伏を願い出た。王淩は、董卓のあと、発干の県長だった人。発干とは、
「袁術と公孫瓚の勢力にくわわった陶謙が、軍を駐屯させた」
という場所だ。
王淩は、孫呉からの降伏者に、だまされそうになった。満寵が、王淩をとめた。たまたま中央に召還されて、王淩はだまされずにすんだ。

おわりに

まだ『三国志』9巻は、まだ3分の2ぐらいですが。ぼくのなかでピークは去ったので、終わります。気が向いたら、また再開します。
あとは。司馬懿と諸葛亮が戦い、孫権が公孫淵に使者をします。諸葛亮は、指揮官として成長します。諸葛亮とおなじく、軍事を見くだす司馬懿は、張郃を殺してしまう。
司馬懿と諸葛亮の戦いを、抜粋しないとか、あまりにもKYですが、今日は疲れたので、これまで。101109