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03) 魯粛と、孫権の皇帝即位

『三国志集解』で孫権伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。

魯粛は構想を達成し、死んだ

ぼくは思う。前頁で217年、孫権は曹操にくだった。これを「どうせ、ウソでしょ」と思ってはいけない。赤壁の戦いとならぶ、大きな画期である。

『三国志』呉主伝の裴注は、陳寿が採用しなかった韋昭『呉書』の列伝が多く並ぶ。『江表伝』が、本文と矛盾した話を混ぜるから、ムダにパニくる。呉主伝の裴注は、陳寿本文の流れを見失わせるほど、長い。ぼくの読解力の不足のせいで、なんとなく孫権は、独立について態度を左右する印象がある。ところが、裴注を消化すれば、わりにシンプルなストーリーだと思う。昼休み、食堂で気づいた。

孫氏を整理。袁術が滅びてから、孫策は曹操にしたがい、孫権も曹操に従った。208年の赤壁で、曹操を攻めた。その9年後、曹操にくだった。のちに曹丕から、「孫登を任子によこせ」と言われるまで、孫権は曹魏にしたがっている。関羽討伐も、この流れで理解できる。曹操とむすび、劉備をたたく。

なぜ孫権は、方針を転換したか。魯粛の構想が、実現したからだ。ひとつ目標が達成されたら、つぎの目標にゆく。成長する組織の常態である。

方針の転換と、魯粛の死と。どっちが先か。「魯粛が死んだから、方針を変えた」のか、「方針を変えたあと、たまたま魯粛が死んだ」のか。ぼくは魯粛をキライでないので、後者をとりたい。魯粛は、構想の実現に満足して、力尽きたのか、死んだ。

赤壁の前後、魯粛は2つを言った。①江南に自立すること。②劉備を曹操にぶつけること。この2つに、目処がついた。

①江南に自立するとは、揚州を防御できる範囲まで、領土を広げること。217年の孫権は、荊州の東半分をもらい、長江の上流をおさえた。「江西」の人口を得て、緩衝地帯ができた。満足した。どちらも孫権が、わざわざ短期間で長距離を移動して、みずから出張った。重要な戦いだとわかる。この1、2年の戦いで孫権は、関羽と一触即発。張遼に殺されかけた。これ以上の領土拡張は、当初の戦略に入っていないし、劉備や曹操と戦うから、代償がデカすぎる。やめてよい。
②劉備を荊州においたのは、荊州で劉備と曹操をぶつけるため。もし劉備が益州に引きこもるなら、荊州を劉備に貸す理由がない。魯粛による荊州貸与は、役割を終えたと言える。赤壁から10年、劉備が荊州にいたことは、いちおう曹操への牽制になったのだろう。牽制だから、戦闘の予防であり、史料から確認しづらいが。

魯粛の死後、後漢支持にもどる

魯粛が、つぎに何を考えていたか。魯粛伝から考えると、漢室を滅ぼすことだ。魯粛は、孫権に天下統一させたい。しかし魯粛は、死んじゃった。
魯粛は、サギみたいに赤壁を開戦させた。いちどの戦闘なら、それもできた。いちどのサギを引き金に、孫権は10年間、曹操にさからった。

王朝の歴史家が伝説化した、孤高の詐欺師・魯粛伝
「孔明のワナ、魯粛のサギ」と。この2つを、セット売りにしていきたい。笑

だが魯粛でも、さすがに「漢室を滅ぼす」という方針を、サギ、というか、突発的なクーデターで実現することはできない。
暗殺とか言うとキリがないから、ぼくは言わない。ただ魯粛は、孫権が方針を転換すべきタイミングで、ちょうど表舞台を去った。孫権は、魯粛を更迭する権限があった。孫権は、魯粛を暗殺する必要はない。魯粛は、暗殺でなく、みずから力尽きて死んだのだろう。ともあれ、死因は、知らん。

「いつの間にか、死んでいた魯粛」というのは、おいしいキャラである。魯粛の死、よく分からないなあ。孫亮以後の孫呉では、北伐を企てると、政争で殺される。魯粛は、政争で殺された人たちの、先がけなんだろうか。


魯粛の死後、どうなるか。周瑜や魯粛のような天才がいないと、「後漢(曹操)と敵対する」という方針を、維持できない。上から下にモノが落下するように、みんな後漢を支持する。結果、孫権は、曹操とむすび、曹操の敵・劉備と敵対した。
軍事的な問題としても。孫権が攻めるなら、張遼か、関羽しかいない。だったら、隙だらけの関羽をねらえばいい。呂蒙は、曹操をふせぐキリフダだ。呂蒙がなければ、濡須をぬかれ、孫権は建業を保てなかった。その呂蒙を、濡須からぬいて、荊州に投入した。なにを意味するか。孫権は確固として、曹操の部将となったのだ。赤壁の前に、方針をもどしたのだ。魯粛が遺してくれた、広めの領土を保ったまま。
呂蒙は、魯粛のように、トンデモ作戦を思いつかない。ただ、目の前の曹操軍をふせげ、目の前の関羽を殺せ、という仕事ならできる。孫権は、魯粛の構想を放棄して、平凡な戦争を始めた。というか、魯粛がいなけりゃ、非凡な戦争はできない。

曹氏に後漢を滅ぼさせ、孫権が曹氏を滅ぼす

あとの史料を読みつつ、明らかにしますが。
孫権は、曹操もしくは曹丕に易姓革命をやらせて、失敗させたかった。孫権は、後漢を滅ぼす難しさを、よく知っている。万全を期したはずの袁術は、お話にならなかった。孫権のとりまきは、みんな後漢バンザイ。もし曹氏が革命をしたら、そこに隙が生まれる。魯粛がいなくても、孫権は野心を実現できるかも知れない。
219年、孫権は曹操を「火の上に座らせ」ようとした。魏諷の叛乱は、おなじ219年だ。後漢を滅ぼそうとすると、自壊しちゃうんだ。魏諷は、自壊の兆しだった。400年続いたことになっている漢室は、地盤が固いのだ。

曹丕は、「益州だけ残し、すべてオレの領土」という絶頂の状態で、漢魏革命をやった。孫権は、曹丕を浮かれさせておいた。ところが孫権は、劉備との和解が完成すると、たちまち曹丕を裏切った。曹丕は、「孫権を平定しないと、漢魏革命をやった手前、ひっこみがつかない」と焦り、寿命を縮めた。孫権の思いどおり。バーカバーカ!曹丕は、孫権のねらいどおり、恥をかいた。
いわば孫権は、曹丕の刀を借りて、後漢を滅ぼした。自分で後漢を滅ぼすのは、とてもムリだ。しかし曹丕に後漢を滅ぼしてもらえば、天下をねらうことができる。北伐しても、「後漢の仇討をするんだ」という口実がたつ。
もともと孫権は、環境にゆるされず隠していたが、天下統一の野心がある。魯粛がペラペラしゃべるから、焦っただろうが、その魯粛を任用したのは、孫権である。孫権と魯粛は、根元のところでは、おなじ意見である。

孫権は、いちおう「漢室をつぐ」という蜀漢と同盟した。あとで読むけど、蜀漢と、天下を二分する計画を語った。ちゃんと官位の任命を整理した。「蜀漢も孫呉も、後漢をつぐ国家ですよ。おおきな目的は共有しているよ」という意思表示である。これならば、後漢バンザイの人たちと、折り合う。
もし劉禅が後漢そのものなら、劉禅に臣従せねばならん。しかし、臣従の必要はない。劉備がどこかの馬骨なのは、みんなが知っていること。孫権は劉禅と、「後漢をつぐ国家」として、対等に張り合うことができる。呉蜀同盟は、孫権の正統性から見たとき、天下統一に有益である。
軍事面でも、北伐に狂う諸葛亮は、曹魏への牽制として有効だ。

孫権が皇帝になった、直接の動機

ただ孫権には、誤算があった。献帝が存命なのに、曹叡が皇帝となり、いちおう曹魏を保った。袁術のように、自壊しなかった。
ぼくは、呉蜀同盟が天下二分を語ったとき、曹魏の自壊を待っていたのだと思う。さもなくば、あまりに机上の空論だ。外交の場で、大真面目にしゃべれない。
漢魏革命をやった曹丕が、まだ中年なのに死んだ。自壊するよ、フツウ。諸葛亮の北伐と、孫権の皇帝即位は、どちらも「漢魏革命は、やっぱり失敗だった。曹魏は自壊せよ」という、揺さぶりだったのだと思う。

3年前に書いた。呉王孫権と呉帝孫権は、別の人だ
こちらは、ぶじに曹丕から曹叡に皇帝が継承されたとき、孫権が焦ったという話。「あれ、漢魏革命は、成功したんじゃないか」とみんなが思えば、孫権は求心力を保てない。


先走りました。次回、孫権伝の史料にもどります。110415