表紙 > 曹魏 > 『三国志』巻15・張既伝、献帝がぬけた西方を、曹丕のとき収束する

02) 漢魏革命で、涼州が離反する

驢馬の会をうけて、張既伝を復習。『三国志集解』を読みます。
張既が、献帝が長安をでたあとの西方を、まとめる過程です。
カギは韓遂。1ページ目の本文、2ページ目の裴注『魏略』で、韓遂について、くわしく考えています。馬騰と韓遂は、献帝に臣従した。しかし馬超が韓遂を出しぬき、涼州の秩序を破壊した。そういう話をやります。

漢魏革命とともに、涼州の刺史、太守が背かれる

是時,武威顏俊、張掖和鸞、酒泉黃華、西平麴演等並舉郡反,自號將軍,更相攻擊。俊遣使送母及子詣太祖為質,求助。太祖問既,既曰:「俊等外假國威,內生傲悖,計定勢足,後即反耳。今方事定蜀,且宜兩存而鬭之,猶卞莊子之刺虎,坐收其斃也。」太祖曰:「善。」歲餘,鸞遂殺俊,武威王祕又殺鸞。是時不置涼州,自三輔拒西域,皆屬雍州。文帝即王位,初置涼州,以安定太守鄒岐為刺史。

このとき、武威の顏俊、張掖の和鸞、酒泉の黃華、西平の麴演らは、将軍を号して、攻撃しあう。張既は曹操に言った。「蜀漢の平定が優先です。曹魏は、だれにも味方せず、彼らをつぶしあわせよう」と。張既の言うとおり、殺し合った。このとき、涼州をおかない。三輔で西域をふさぎ、みな雍州に属した
文帝が魏王につき、はじめて涼州をおく。

趙一清はいう。『晋書』地理志はいう。献帝のとき、涼州は遠くて、兵乱がおおい。黄河の西にある5郡を、雍州とした。古代の九州制度にあわせた。関右をあわせ、雍州とした。曹魏のとき、ふたたび涼州刺史をわけた。領戊己校尉、護西域するのは、漢代とおなじ。涼州は、8郡。金城、西平、武威、張掖、酒泉、敦煌、西海。
ここから、涼州に属する郡について、盧弼は長く引用するが、、はぶく。興味ぶかいから、また後日見てみたい場所ではある。『三国志集解』446ページ。

安定太守の鄒岐を、涼州刺史とした。

張掖張進執郡守舉兵拒岐,黃華、麴演各逐故太守,舉兵以應之。既進兵為護羌校尉蘇則聲勢,故則得以有功。既進爵都鄉侯。

張掖の張進は、郡守をとらえ、鄒岐をこばむ。黃華、麴演も、それぞれ太守を追いはらい、張進におうじた。

盧弼はいう。太守の杜通をとらえたのだ。蘇則伝にある。黄華は、太守の辛機を、受けいれなかった。蘇則伝にある。
ぼくは思う。いま、つぎに読みたいのは、楊阜伝と、蘇則伝。
『資治通鑑』の延康元年(220)5月、魏王の曹丕は、安定太守の鄒岐を、涼州刺史とした。西平の麹演は、まわりの郡とむすび、鄒岐をこばんだ。張掖の張進は、張掖太守の杜通をとらえた。酒泉の黄華は、酒泉太守の辛機を受けいれず。みな、みずから太守を称して、麹演におうじた。武威にいる三種の胡族は、ふたたびそむく。毋丘倹伝にひく注釈には、西海太守の張睦もまた、とらえられたとする。
ぼくは思う。延康は、曹丕が禅譲をうける、直前の年号。曹操の死をうけ、漢魏革命の失敗をみとおし、涼州がまるまる、そむいた。あまり有名でないが、重大な事件だと思う。

張既は兵をすすめ、「護羌校尉の蘇則をたすける」と言った。ゆえに蘇則は、戦功を立てることができた。

張既は、曹丕に答えて言った。「蘇則に、奉邑をふやすべきだ」と。蘇則伝の注釈にある。また張既は、毋丘興の功績を上表した。毋丘倹伝の注釈にある。

張既は、都鄉侯となる。

涼州盧水胡伊健妓妾、治元多等反,河西大擾。帝憂之,曰:「非既莫能安涼州。」乃召鄒岐,以既代之。詔曰:「昔賈復請擊郾賊,光武笑曰:『執金吾擊郾,吾復何憂?』卿謀略過人,今則其時。以便宜從事,勿復先請。」遣護軍夏侯儒、將軍費曜等繼其後。既至金城,欲渡河,諸將守以為「兵少道險,未可深入」。既曰:「道雖險,非井陘之隘,夷狄烏合,無左車之計,今武威危急,赴之宜速。」遂渡河。

涼州の盧水胡である、伊健妓妾、治元多らがそむいた。河西は大擾した。

盧水胡は、文帝紀の延康元年の注釈にある。ぼくは思う。モロに、この反乱の記述だ。武帝紀のつづきと、文帝紀のつづきを読みたい。読みたい史料が、おおすぎる。

曹丕はうれい、「張既でないと涼州は安らがない」と言った。鄒岐をもどし、張既を涼州太守とした。曹丕は張既を、光武帝の部将・賈復になぞらえた。

『後漢書』賈復伝はいう。光武帝が即位すると、賈復は執金吾となる。光武帝は賈復に、郾吾の平定を、ゆだねた。

護軍の夏侯儒、將軍の費曜らが、張既につづく。張既は金城にきた。諸将の制止をふりきり、張既は黄河をわたった。

賊七千餘騎逆拒軍於鸇陰口,既揚聲軍由鸇陰,乃潛由且次出至武威。胡以為神,引還顯美。既已據武威,曜乃至,儒等猶未達。既勞賜將士,欲進軍擊胡。諸將皆曰:「士卒疲倦,虜眾氣銳,難與爭鋒。」既曰:「今軍無見糧,當因敵為資。若虜見兵合,退依深山,追之則道險窮餓,兵還則出候寇鈔。如此,兵不得解,所謂『一日縱敵,患在數世』也。」遂前軍顯美。胡騎數千,因大風欲放火燒營,將士皆恐。既夜藏精卒三千人為伏,使參軍成公英督千餘騎挑戰,敕使陽退。胡果爭奔之,因發伏截其後,首尾進擊,大破之,斬首獲生以萬數。
帝甚悅,詔曰:「卿踰河歷險,以勞擊逸,以寡勝眾,功過南仲,勤踰吉甫。此勳非但破胡,乃永寧河右,使吾長無西顧之念矣。」徙封西鄉侯,增邑二百,并前四百戶。

賊軍7千余は、鸇陰口で張既をふせぐ。

胡三省はいう。鸇陰は、前漢のとき安定郡、後漢のとき武威郡に属す。

張既は、鸇陰にゆくと言って、じつは武威にゆく。費曜と夏侯儒は、まだ着かない。張既は、参軍の成公英に、いつわって撤退させた。胡族をつりだし、大破した。

はぶきましたが。張既は、戦術もつかえましたよと。張既は、胡族の指揮系統が、いまいち整備されていないことを、突いたみたいだ。官軍のくせに、奇襲がちな戦術だ。
いま、成公英がでてきた。裴注の魚豢は、成公英の話がはじまる。おもしろい!

曹丕はよろこび、詔した。「黄河の右は、張既がながく平和にしてくれた」と。張既は、西郷侯となり、増邑された。

韓遂の故将、金城の成公英と閻行

◆成公英

魏略曰:成公英,金城人也。中平末,隨韓約為腹心。建安中,約從華陰破走,還湟中,部黨散去,唯英獨從。

『魏略』はいう。成公英は、金城の人。中平末(189ごろ)、韓遂にしたがい、腹心となる。建安のとき、韓遂にしたがい、華陰ににげた。湟中にもどる。部黨は散去したが、成公英だけは、韓遂にしたがう。

張鵬はいう。韓約とは、韓遂である。韓遂、あざなは文約、というのが縮まった。盧弼がいう。韓遂は、韓約ともいった。『後漢書』董卓伝にひく『献帝春秋』、『三国志』武帝紀の建安二十年にひく『典略』は、韓約という。
ぼくは思う。盧弼にはわるいが、韓遂・文約がちぢまったものだと思う。『献帝春秋』は、孫引きのトンデモ本。『典略』は、いまの『魏略』とおなじ魚豢の著書。魚豢がまちがえました、というだけで説明がつく。/華陰は、夏侯淵伝にある。


典略曰:韓遂在湟中,其壻閻行欲殺遂以降,夜攻遂,不下。遂歎息曰:「丈夫困厄,禍起婚姻乎!」謂英曰:「今親戚離叛,人眾轉少,當從羌中西南詣蜀耳。」英曰:「興軍數十年,今雖罷敗,何有棄其門而依於人乎!」遂曰:「吾年老矣,子欲何施?」英曰:「曹公不能遠來,獨夏侯爾。夏侯之眾,不足以追我,又不能久留;且息肩於羌中,以須其去。招呼故人,綏會羌、胡,猶可以有為也。」遂從其計,時隨從者男女尚數千人。遂宿有恩於羌,羌衞護之。及夏侯淵還,使閻行留後。乃合羌、胡數萬將攻行,行欲走,會遂死,英降太祖。太祖見英甚喜,以為軍師,封列侯。從行出獵,有三鹿走過前,公命英射之,三發三中,皆應弦而倒。公抵掌謂之曰:「但韓文約可為盡節,而孤獨不可乎?」英乃下馬而跪曰:「不欺明公。假使英本主人在,實不來此也。」遂流涕哽咽。公嘉其敦舊,遂親敬之。延康、黃初之際,河西有逆謀。詔遣英佐涼州平隴右,病卒。

『典略』はいう。韓遂が湟中にきた。むこの閻行は、韓遂を殺して、曹操にくだりたい。韓遂は言った。「むこの閻行にまで、そむかれた。羌中から西南して、蜀にゆくしかない」と。成公英は言った。「曹操はこず、夏侯淵だけだ。羌族、胡族を手なずければ、夏侯淵に負けない」と。成公英の言うとおりとなる。
たまたま韓遂が死に、成公英は曹操にくだる。軍師、列侯となる。成公英は下馬して、曹操に言った。「韓遂が生きていれば、曹操にくだらなかった」と。延康、黄初のとき、河西がそむく。成公英を涼州にゆかせたいが、病没した。

盧弼の注釈は、目ぼしいものがない。
成公英は、韓遂に従いつづけた。同郷の部下として、韓遂に共感したのだろう。曹操よりも韓遂を重んじているから、個人的な関係かな。
曹丕は成公英を、涼州刺史・張既の副将として、つかいたかったようだ。 一瞬だけ張既のしたで戦ったが、すぐに死んでしまった。


◆閻行

魏略曰:閻行,金城人也,後名豔,字彥明。少有健名,始為小將,隨韓約。建安初,約與馬騰相攻擊。騰子超亦號為健。行嘗刺超,矛折,因以折矛撾超項,幾殺之。至十四年,為約所使詣太祖,太祖厚遇之,表拜犍為太守。行因請令其父入宿衞,西還見約,宣太祖教云:「謝文約:卿始起兵時,自有所逼,我所具明也。當早來,共匡輔國朝。」行因謂約曰:「行亦為將軍,興軍以來三十餘年,民兵疲瘁,所處又狹,宜早自附。是以前在鄴,自啟當令老父詣京師,誠謂將軍亦宜遣一子,以示丹赤。」約曰:「且可復觀望數歲中!」

『魏略』はいう。閻行は、金城の人。あざなは、彦明。韓遂にしたがう。建安初、馬騰と韓遂が攻めあう。閻行は、馬超を殺しかかった。

ぼくは思う。いま「建安初」を見て、確信した。韓遂と馬騰の対立は、曹操が献帝をつかまえたことが原因だ。李傕がほろび、献帝が長安から去れば、涼州をそとから抑える力がはずれる。だから韓遂と馬騰は、争いはじめた。まるで、袁譚と袁尚が、曹操が南すると争いはじめるのと、おなじである。
閻行は、韓遂の部下だから、馬超を殺そうとした。敵味方の関係は、明解。

建安十四年(209)、韓遂のために、曹操のところにゆく。曹操に厚遇され、閻行は犍為太守となる。

ぼくは思う。韓遂は、曹操の朝廷と、わりに仲がいい。閻行は、韓遂を曹操にむすびつけるための使者。209年、武威太守の張猛が、雍州刺史の邯鄲商を殺すと、韓遂は曹操のために動いて、張猛を攻めた。
馬騰と韓遂のたたかいは、「どっちが、より曹操と仲よくなるか」にあるのかも。

閻行は「父を宿衛に入れたい」と請うた。曹操は閻行をつうじて、韓遂に言った。「韓遂は涼州をでて、はやく朝廷に来い」と。閻行も韓遂に「子を曹操に差しだせ」と言った。韓遂は「数年、見てからだ」と言った。

ぼくは思う。韓遂と孫権の共通点。曹操がいる朝廷に対して、使者を出すくせに、人質は出さない。孫権の煮えきらない態度は、孫権だけのものでない。遠隔の群雄がやりがちな、共通する態度だ。曹操は、「献帝こそ皇帝」と叫んでも、全土が収束しない。曹操は、煮えきらない群雄を認めねばならない。
韓遂は曹操に完全に敵対しないから、単馬会語もした。孫権は、赤壁や合肥で、曹操陥をこばんだ。孫権のほうが、すこし強硬である。なお馬超は、完全に曹操に敵対した。単馬会語する韓遂の後ろで、曹操の生命をねらっていた。馬超の態度は、曹操の宿敵・劉備となじむなあ。


後遂遣其子,與行父母俱東。會約西討張猛,留行守舊營,而馬超等結反謀,舉約為都督。及約還,超謂約曰:「前鍾司隸任超使取將軍,關東人不可復信也。今超棄父,以將軍為父,將軍亦當棄子,以超為子。」行諫約,不欲令與超合。約謂行曰:「今諸將不謀而同,似有天數。」乃東詣華陰。及太祖與約交馬語,行在其後,太祖望謂行曰:「當念作孝子。」及超等破走,行隨約還金城。太祖聞行前意,故但誅約子孫在京師者。乃手書與行曰:「觀文約所為,使人笑來。吾前後與之書,無所不說,如此何可復忍!卿父諫議,自平安也。雖然,牢獄之中,非養親之處,且又官家亦不能久為人養老也。」約聞行父獨在,欲使并遇害,以一其心,乃強以少女妻行,行不獲已。太祖果疑行。會約使行別領西平郡。遂勒其部曲,與約相攻擊。行不勝,乃將家人東詣太祖。太祖表拜列侯。

のちに韓遂は、子を曹操におくる。閻行は、父母とともに東へゆく。韓遂は張猛を討ちにゆき、閻行に留守させた。馬超が反謀して、韓遂の都督とむすぶ。

ぼくは思う。馬超が挙兵した、直接の動機は、韓遂が留守にしたこと。韓遂の留守をねらって、馬超は挙兵した。韓遂は、これに巻きこまれた。とりあえず曹操や張魯は、直接関係ない。わざわざ賈詡が離間するまでもなく、韓遂と馬超は、挙兵したときから、距離がある。
霊帝末、王国は賊のリーダーに推された。韓遂も、賊のリーダーに推された。馬超が韓遂を推すのも、おなじ手段である。
ぼくなりに読めば、馬超は韓遂の留守を出しぬき、韓遂の部下を手に入れた。韓遂がことわれない状況をつくり、韓遂をおどしてリーダーにした。韓遂が根拠地をはなれるまで、馬超がこの行動を起こさなかったことが、「出しぬき」の証拠だ。馬超は韓遂を納得させたのでない。韓遂は、張猛を討伐したという行動からも分かるとおり、曹操にちかい。しかし馬超に利用された。

馬超は言った。「司隷校尉の鍾繇は、信じられない。私は馬騰をすて、韓遂を父とする。韓遂は子をすて、私・馬超を子としてくれ」と。閻行がいさめたが、韓遂は馬超にかつがれた。韓遂は言った。「馬超はじめ諸将は、みな曹操にそむけという。どうやらこれが、天數だろう」と。

ぼくは思う。韓遂のセリフは、消極的だ。巻きこまれたことがわかる。馬超のいう父子のちぎりは、脅迫めいている。「数」が運命をあらわすことは、高島俊男『しくじった皇帝たち』133ページにある。
ぼくは思う。韓遂の存在価値は、反乱したくてウズウズしている涼州の諸将を、抑えていたことだ。韓遂がいなければ、「後漢を切りとれ」と暴発する賊たちを、かろうじてまとめていた。馬超がそそのかし、暴発させてしまった。

韓遂は東にゆき、華陰にゆく。曹操と韓遂は、交馬語した。うしろに閻行がいる。曹操は閻行を見て、言った。「まるで閻行は、韓遂の孝子だな」と。馬超がやぶれた。韓遂は金城にゆく。
曹操は閻行の親族をころさず、韓遂の親族だけを殺した。曹操は閻行に、手紙した。「韓遂の行動(馬超にかつがれたこと)は、笑わせやがる。閻行の父は、朝廷にいて、諌議をつとめ、生きている」と。

ぼくは思う。曹操から見れば、韓遂は、朝廷のために働いていたはずが、不注意により、馬超にかつがれた。韓遂は、朝廷に反乱する気がないのに、反乱にくわわったから「笑わせる」のだ。馬超は、朝廷に対する敵意が明らかだから、笑いの対象とはならない。曹操は、韓遂を見捨てて、閻行だけでも抜擢したい。

韓遂は、閻行に娘をとつがせ、西平郡を領させた。閻行は韓遂を攻めたが、勝てず。東して、曹操をたよった。列侯となる。

ぼくは思う。閻行は、曹操のため、韓遂を殺そうとした。閻行では、能力が足らず。
西平郡は、武帝紀の建安十九年(214)にある。斉王紀の熹平五年にある。


20余年、涼州と雍州をおさめ、人材を推挙

酒泉蘇衡反,與羌豪鄰戴及丁令胡萬餘騎攻邊縣。既與夏侯儒擊破之,衡及鄰戴等皆降。遂上疏請與儒治左城,築鄣塞,置烽候、邸閣以備胡。 西羌恐,率眾二萬餘落降。

酒泉の蘇衡がそむく。羌豪の鄰戴と、丁令胡は、まわりの県を攻める。張既と夏侯儒が、みなくだす。張既は上疏して「左城をなおして、胡族に備えたい」と言った。西羌は曹魏をおそれ、2万餘落がくだる。

『方輿紀要』巻64はいう。石城の西140里に、左南城がある。『水経注』はいう。その南に、左南津がある。西寧の衛の東南である。
王基伝はいう。南頓に、おおきな邸閣がある。40日分の兵糧がある。
裴注『魏略』は夏侯儒をのせる。夏侯尚の従弟。樊城で朱然にかこまれ、司馬懿にすくわれた。諸葛瑾とも、関わるんだっけ。はぶく。


其後西平麴光等殺其郡守,諸將欲擊之,既曰:「唯光等造反,郡人未必悉同。若便以軍臨之,吏民羌胡必謂國家不別是非,更使皆相持著,此為虎傅翼也。光等欲以羌胡為援,今先使羌胡鈔擊,重其賞募,所虜獲者皆以畀之。外沮其勢,內離其交,必不戰而定。」乃檄告諭諸羌,為光等所詿誤者原之;能斬賊帥送首者當加封賞。於是光部黨斬送光首,其餘咸安堵如故。 既臨二州十餘年,政惠著聞,其所禮辟扶風龐延、天水楊阜、安定胡遵、酒泉龐淯、燉煌張恭、周生烈等,終皆有名位。

のちに西平の麴光らが、太守を殺した。張既は言った。「麴光はそむいたが、郡人はそむかない。麴光を攻めれば、吏民や羌胡は、まるごと曹魏に敵対する。羌胡に麴光を討たせれば、曹魏が官軍をうごかす必要がない」と。張既の言うとおりになった。
張既は、涼州と雍州に20余年いた。張既が禮辟したのは、以下の人だ。扶風の龐延、天水の楊阜、安定の胡遵、酒泉の龐淯、燉煌の張恭、周生烈らである。みな名位にのぼる。

龐延は、邴原伝にある。河南尹。扶風の龐テキが出てくるが、龐延のこと。
胡遵は、征東将軍、青徐州諸郡。毋丘倹伝にある。正元二年、衛将軍となる。曹髦紀にある。
楊阜と龐淯は、みずからの列伝がある。張恭は、閻温伝にある。
周生烈は、姓が周生だ。何晏『論語集解』にある。王粛伝にある。


魏略曰:初,既為郡小吏,功曹徐英嘗自鞭既三十。英字伯濟,馮翊著姓,建安初為蒲阪令。英性剛爽,自見族氏勝既,於鄉里名行在前,加以前辱既,雖知既貴顯,終不肯求於既。既雖得志,亦不顧計本原,猶欲與英和。嘗因醉欲親狎英,英故抗意不納。英由此遂不復進用。故時人善既不挾舊怨,而壯英之不撓。

『魏略』はいう。張既は、功曹の徐英にムチうたれたことがある。徐英は、馮翊の著姓だ。張既は、徐英を根にもたない。

黃初四年薨。詔曰:「昔荀桓子立勳翟土,晉侯賞以千室之邑;馮異輸力漢朝,光武封其二子。故涼州刺史張既,能容民畜眾,使羣羌歸土,可謂國之良臣。不幸薨隕,朕甚愍之,其賜小子翁歸爵關內侯。」明帝即位,追諡曰肅侯。子緝嗣。

黃初四年、張既は薨じた。曹丕は、詔した。「光武帝は、馮異の2子を封じた。もと涼州刺史の張既は、小子の張翁歸を関内侯とする」

『後漢書』馮異伝はいう。建武二年、馮異を陽夏侯にふうじた。長子の馮彰がつぐ。光武帝は、馮異の功績をおもい、馮彰の弟・馮訴をキ郷侯とした。

明帝が即位すると、肅侯とした。子の張緝が嗣いだ。(以下略)

陳寿と『魏略』が張緝について載せるが、はぶく。後日。むすめを皇后として、司馬師に殺された。夏侯玄伝にありますよと。


雍州や涼州をおさめる機能としては、鍾繇の後継者(もと部下)であり、邯鄲商と張猛というコンビの機能を吸収し、びみょうに韓遂の統治機能もあわせた。すべてが張既にあつまり、うまくいった。諸葛亮が北伐しなかった理由は、張既がいたからかな。もちろん、ほかに多くの理由がからむが。110621