02) 漢魏革命で、涼州が離反する
驢馬の会をうけて、張既伝を復習。『三国志集解』を読みます。
張既が、献帝が長安をでたあとの西方を、まとめる過程です。
カギは韓遂。1ページ目の本文、2ページ目の裴注『魏略』で、韓遂について、くわしく考えています。馬騰と韓遂は、献帝に臣従した。しかし馬超が韓遂を出しぬき、涼州の秩序を破壊した。そういう話をやります。
漢魏革命とともに、涼州の刺史、太守が背かれる
このとき、武威の顏俊、張掖の和鸞、酒泉の黃華、西平の麴演らは、将軍を号して、攻撃しあう。張既は曹操に言った。「蜀漢の平定が優先です。曹魏は、だれにも味方せず、彼らをつぶしあわせよう」と。張既の言うとおり、殺し合った。このとき、涼州をおかない。三輔で西域をふさぎ、みな雍州に属した。
文帝が魏王につき、はじめて涼州をおく。
ここから、涼州に属する郡について、盧弼は長く引用するが、、はぶく。興味ぶかいから、また後日見てみたい場所ではある。『三国志集解』446ページ。
安定太守の鄒岐を、涼州刺史とした。
張掖の張進は、郡守をとらえ、鄒岐をこばむ。黃華、麴演も、それぞれ太守を追いはらい、張進におうじた。
ぼくは思う。いま、つぎに読みたいのは、楊阜伝と、蘇則伝。
『資治通鑑』の延康元年(220)5月、魏王の曹丕は、安定太守の鄒岐を、涼州刺史とした。西平の麹演は、まわりの郡とむすび、鄒岐をこばんだ。張掖の張進は、張掖太守の杜通をとらえた。酒泉の黄華は、酒泉太守の辛機を受けいれず。みな、みずから太守を称して、麹演におうじた。武威にいる三種の胡族は、ふたたびそむく。毋丘倹伝にひく注釈には、西海太守の張睦もまた、とらえられたとする。
ぼくは思う。延康は、曹丕が禅譲をうける、直前の年号。曹操の死をうけ、漢魏革命の失敗をみとおし、涼州がまるまる、そむいた。あまり有名でないが、重大な事件だと思う。
張既は兵をすすめ、「護羌校尉の蘇則をたすける」と言った。ゆえに蘇則は、戦功を立てることができた。
張既は、都鄉侯となる。
涼州の盧水胡である、伊健妓妾、治元多らがそむいた。河西は大擾した。
曹丕はうれい、「張既でないと涼州は安らがない」と言った。鄒岐をもどし、張既を涼州太守とした。曹丕は張既を、光武帝の部将・賈復になぞらえた。
護軍の夏侯儒、將軍の費曜らが、張既につづく。張既は金城にきた。諸将の制止をふりきり、張既は黄河をわたった。
帝甚悅,詔曰:「卿踰河歷險,以勞擊逸,以寡勝眾,功過南仲,勤踰吉甫。此勳非但破胡,乃永寧河右,使吾長無西顧之念矣。」徙封西鄉侯,增邑二百,并前四百戶。
賊軍7千余は、鸇陰口で張既をふせぐ。
張既は、鸇陰にゆくと言って、じつは武威にゆく。費曜と夏侯儒は、まだ着かない。張既は、参軍の成公英に、いつわって撤退させた。胡族をつりだし、大破した。
いま、成公英がでてきた。裴注の魚豢は、成公英の話がはじまる。おもしろい!
曹丕はよろこび、詔した。「黄河の右は、張既がながく平和にしてくれた」と。張既は、西郷侯となり、増邑された。
韓遂の故将、金城の成公英と閻行
◆成公英
『魏略』はいう。成公英は、金城の人。中平末(189ごろ)、韓遂にしたがい、腹心となる。建安のとき、韓遂にしたがい、華陰ににげた。湟中にもどる。部黨は散去したが、成公英だけは、韓遂にしたがう。
ぼくは思う。盧弼にはわるいが、韓遂・文約がちぢまったものだと思う。『献帝春秋』は、孫引きのトンデモ本。『典略』は、いまの『魏略』とおなじ魚豢の著書。魚豢がまちがえました、というだけで説明がつく。/華陰は、夏侯淵伝にある。
『典略』はいう。韓遂が湟中にきた。むこの閻行は、韓遂を殺して、曹操にくだりたい。韓遂は言った。「むこの閻行にまで、そむかれた。羌中から西南して、蜀にゆくしかない」と。成公英は言った。「曹操はこず、夏侯淵だけだ。羌族、胡族を手なずければ、夏侯淵に負けない」と。成公英の言うとおりとなる。
たまたま韓遂が死に、成公英は曹操にくだる。軍師、列侯となる。成公英は下馬して、曹操に言った。「韓遂が生きていれば、曹操にくだらなかった」と。延康、黄初のとき、河西がそむく。成公英を涼州にゆかせたいが、病没した。
成公英は、韓遂に従いつづけた。同郷の部下として、韓遂に共感したのだろう。曹操よりも韓遂を重んじているから、個人的な関係かな。
曹丕は成公英を、涼州刺史・張既の副将として、つかいたかったようだ。 一瞬だけ張既のしたで戦ったが、すぐに死んでしまった。
◆閻行
『魏略』はいう。閻行は、金城の人。あざなは、彦明。韓遂にしたがう。建安初、馬騰と韓遂が攻めあう。閻行は、馬超を殺しかかった。
閻行は、韓遂の部下だから、馬超を殺そうとした。敵味方の関係は、明解。
建安十四年(209)、韓遂のために、曹操のところにゆく。曹操に厚遇され、閻行は犍為太守となる。
馬騰と韓遂のたたかいは、「どっちが、より曹操と仲よくなるか」にあるのかも。
閻行は「父を宿衛に入れたい」と請うた。曹操は閻行をつうじて、韓遂に言った。「韓遂は涼州をでて、はやく朝廷に来い」と。閻行も韓遂に「子を曹操に差しだせ」と言った。韓遂は「数年、見てからだ」と言った。
韓遂は曹操に完全に敵対しないから、単馬会語もした。孫権は、赤壁や合肥で、曹操陥をこばんだ。孫権のほうが、すこし強硬である。なお馬超は、完全に曹操に敵対した。単馬会語する韓遂の後ろで、曹操の生命をねらっていた。馬超の態度は、曹操の宿敵・劉備となじむなあ。
のちに韓遂は、子を曹操におくる。閻行は、父母とともに東へゆく。韓遂は張猛を討ちにゆき、閻行に留守させた。馬超が反謀して、韓遂の都督とむすぶ。
霊帝末、王国は賊のリーダーに推された。韓遂も、賊のリーダーに推された。馬超が韓遂を推すのも、おなじ手段である。
ぼくなりに読めば、馬超は韓遂の留守を出しぬき、韓遂の部下を手に入れた。韓遂がことわれない状況をつくり、韓遂をおどしてリーダーにした。韓遂が根拠地をはなれるまで、馬超がこの行動を起こさなかったことが、「出しぬき」の証拠だ。馬超は韓遂を納得させたのでない。韓遂は、張猛を討伐したという行動からも分かるとおり、曹操にちかい。しかし馬超に利用された。
馬超は言った。「司隷校尉の鍾繇は、信じられない。私は馬騰をすて、韓遂を父とする。韓遂は子をすて、私・馬超を子としてくれ」と。閻行がいさめたが、韓遂は馬超にかつがれた。韓遂は言った。「馬超はじめ諸将は、みな曹操にそむけという。どうやらこれが、天數だろう」と。
ぼくは思う。韓遂の存在価値は、反乱したくてウズウズしている涼州の諸将を、抑えていたことだ。韓遂がいなければ、「後漢を切りとれ」と暴発する賊たちを、かろうじてまとめていた。馬超がそそのかし、暴発させてしまった。
韓遂は東にゆき、華陰にゆく。曹操と韓遂は、交馬語した。うしろに閻行がいる。曹操は閻行を見て、言った。「まるで閻行は、韓遂の孝子だな」と。馬超がやぶれた。韓遂は金城にゆく。
曹操は閻行の親族をころさず、韓遂の親族だけを殺した。曹操は閻行に、手紙した。「韓遂の行動(馬超にかつがれたこと)は、笑わせやがる。閻行の父は、朝廷にいて、諌議をつとめ、生きている」と。
韓遂は、閻行に娘をとつがせ、西平郡を領させた。閻行は韓遂を攻めたが、勝てず。東して、曹操をたよった。列侯となる。
西平郡は、武帝紀の建安十九年(214)にある。斉王紀の熹平五年にある。
20余年、涼州と雍州をおさめ、人材を推挙
酒泉の蘇衡がそむく。羌豪の鄰戴と、丁令胡は、まわりの県を攻める。張既と夏侯儒が、みなくだす。張既は上疏して「左城をなおして、胡族に備えたい」と言った。西羌は曹魏をおそれ、2万餘落がくだる。
王基伝はいう。南頓に、おおきな邸閣がある。40日分の兵糧がある。
裴注『魏略』は夏侯儒をのせる。夏侯尚の従弟。樊城で朱然にかこまれ、司馬懿にすくわれた。諸葛瑾とも、関わるんだっけ。はぶく。
のちに西平の麴光らが、太守を殺した。張既は言った。「麴光はそむいたが、郡人はそむかない。麴光を攻めれば、吏民や羌胡は、まるごと曹魏に敵対する。羌胡に麴光を討たせれば、曹魏が官軍をうごかす必要がない」と。張既の言うとおりになった。
張既は、涼州と雍州に20余年いた。張既が禮辟したのは、以下の人だ。扶風の龐延、天水の楊阜、安定の胡遵、酒泉の龐淯、燉煌の張恭、周生烈らである。みな名位にのぼる。
胡遵は、征東将軍、青徐州諸郡。毋丘倹伝にある。正元二年、衛将軍となる。曹髦紀にある。
楊阜と龐淯は、みずからの列伝がある。張恭は、閻温伝にある。
周生烈は、姓が周生だ。何晏『論語集解』にある。王粛伝にある。
『魏略』はいう。張既は、功曹の徐英にムチうたれたことがある。徐英は、馮翊の著姓だ。張既は、徐英を根にもたない。
黃初四年、張既は薨じた。曹丕は、詔した。「光武帝は、馮異の2子を封じた。もと涼州刺史の張既は、小子の張翁歸を関内侯とする」
明帝が即位すると、肅侯とした。子の張緝が嗣いだ。(以下略)
雍州や涼州をおさめる機能としては、鍾繇の後継者(もと部下)であり、邯鄲商と張猛というコンビの機能を吸収し、びみょうに韓遂の統治機能もあわせた。すべてが張既にあつまり、うまくいった。諸葛亮が北伐しなかった理由は、張既がいたからかな。もちろん、ほかに多くの理由がからむが。110621