01) 半官軍の韓遂、賊軍の馬超
驢馬の会をうけて、張既伝を復習。『三国志集解』を読みます。
張既が、献帝が長安をでたあとの西方を、まとめる過程です。
鍾繇の軍事に参じ、并州と河東を平定
魏略曰:既世單家,(富)富 從何焯說刪為人有容儀。少小工書疏,為郡門下小吏,而家富。自惟門寒,念無以自達,乃常畜好刀筆及版奏,伺諸大吏有乏者輒給與,以是見識焉。
張既は、あざなを德容。馮翊の高陵の人だ。16歳で郡の小吏となる。
『魏略』はいう。張既は、世よ單家だ。郡門下の小吏となり、刀筆をもつ。もろもろの大吏で、刀筆がない人がいると、さしだした。張既は、知られるようになる。
孝廉にゆかず。曹操が司空府に辟するまえに、茂才にあがり、新豐令(董卓伝にあり)となる。治政は、三輔で第一。袁尚が、黎陽で曹操をこばむ。袁尚がおいた河東太守の郭援、并州刺史の高幹および、匈奴單于(呼廚泉)は、平陽をとる。郭援らは西につかいし、關中の諸將と合從した。
司隸校尉の鍾繇は、張既をやり、馬騰らに利害を説かせた。
ぼくは思う。馬騰は、董卓の死後、混乱を利用して、いきなり官位をあげた有象無象だ。馬騰は、李傕や郭汜にやぶれて、長安からはなれた。献帝が長安をでてから、諸将が入り乱れる。馬騰は、献帝から距離をおいたことにより、関中に勢力をのこした人。献帝にむらがり、自滅していった人たちより、中長期的な利益を手にしているなあ!
馬騰は、張既にしたがう。馬超は、鍾繇とともに、高幹や郭援をやぶる。高幹と単于は、みな降る。
のちに高幹は、ふたたび并州でそむく。河内の張晟は、崤澠の間を寇した。
河東の衞固、弘農の張琰は、おのおの起兵して、張晟に応じた。
曹操は、張既を議郎として、鍾繇の軍事に参じさせた。西から馬騰を徵し、張晟をやぶった。衞固と張琰を斬った。高幹は、荊州に奔った。張既は、武始亭侯に封じられた。
つぎ、曹操は荊州を攻める。荊州の劉表は、高幹の逃げこみを許したなら、曹操の敵となる。曹操に攻められた理由の1つに、高幹との同盟が想定できるかも。状況証拠しか見つけてないが、掘りさげたい。
馬騰と韓遂が朝廷にしたがい、馬超がそむく
曹操が荊州を征するとき、馬騰らは、關中に分據した。曹操は張既に馬騰を説得させ、部曲を釋き、都に還れと求めた。馬騰は張既にOKしたが、べつに思惑があるようだ。張既は、馬騰が変事をおこすのを恐れた。張既は諸県に命じて、貯蓄をうながした。二千石が、馬騰を迎えにゆく。やむをえず馬騰は、東に出発した。
ぼくは思う。馬騰は、軍閥が解体されたのか。判断がむずかしい。「息子をだせ」ならば、人質である。「当主がこい」ならば、朝廷への従属をもとめたことになる。馬騰は、長安で李傕に敗れてから、献帝に近づかない。いま張既が馬騰をよんだのは、ふたたび馬騰を、朝廷に結びつける政策だろう。張既が恐れた変事は、最悪の想定では、馬騰が献帝から独立することかな。これを防いだ。涼州の豪族は、当主みずから、朝廷に行くことがおおい。馬騰は、ワン・オブ・ゼム。
ぼくは思う。高幹がいるとき、張既は「利害」を説いて、馬騰を味方にすることができた。高幹が滅びると、馬騰が曹操に味方する「利」が、なくなったのだろう。だから208年のとき、張既は馬騰を警戒した。
馬騰が釣られた「利」とは、何だろう。曹操が、高幹や匈奴を牽制することが、馬騰にとっての「利」か。高幹が、三輔に勢力をのばすと、馬騰は不自由。だから馬騰は、曹操に協力した。しかし曹操が、高幹を平定すると、馬騰にとってジャマなのは、曹操である。だから張既は、馬騰を警戒した。「利害」でなく、「そろそろ皇帝にアイサツしたらどうか」と、名目にうったえた。もちろん、すなおに馬騰が聞かない。
曹操は、馬騰を衛尉とした。馬超を将軍とした。
ぼくは思う。べつにムリに、十三年と十五年を、ひとつに決める必要はない。曹操が荊州に出発するとき、張既が説得をはじめた。赤壁の結果をみて、馬騰は曹操をねぶみした。やっと3年たち、馬騰は曹操にしたがう気分になった。これで、充分にツジツマがあうだろう。
では、なぜ馬騰の心境が、変化したか。ぼくが思うに、209年、張猛が邯鄲商を殺したから。太守が刺史を殺したので、馬騰の気分がかわった。曹操による秩序回復を期待した。このとき韓遂は、張猛を討伐するため、挙兵している。馬騰だって、張猛を平定したかったのだろう。
長男の馬超は、30代なかば。馬騰は50代かな。馬騰は、張猛が刺史を殺したので、危機感をもった。ただし、馬騰じしんが戦うよりも、適齢の馬超に軍事をゆだね、老年の馬騰は、曹操との外交にまわったのかも。老年は、戦場を走るよりも、政治の根回しをやるほうが、活躍できる。
のちに馬超がそむいた。張既は曹操にしたがい、華陰(の潼関)で馬超をやぶる。
涼州の部将、『三国志』巻18より、龐徳、龐淯、閻温伝
『典略』の記事をふくらますと、韓遂と馬超の対立の、意味がかわる。韓遂と馬超は、反乱した同士が、対立したのでない。官軍の韓遂と、賊軍の馬超の対立となる。曹操が韓遂と、やたら親しそうで、朝廷の思い出話なんかをしちゃうのは、韓遂が(自己認識において)、官軍だからだ。韓遂が曹操と談笑しているとき、馬超は曹操を殺そうとギラギラしている。韓遂と馬超は、まったく立場がちがう。
ぼくは思う。馬騰や韓遂の世代は、後漢の統治が機能している時代を、知っている。いくら涼州を切りとっても、最後は朝廷に帰してゆく。馬超は、世代がくだるから、涼州を切りとるときは、ほんとうに切りとる!冀城(涼州の州治)をとった!
馬超伝によれば、韓遂と馬騰は、つかず離れず。むしろ、いちど離れたとき、韓遂が馬騰の妻子を殺したから、関係が修復できない。張猛の反乱で、一時的に手を結んだけれど、永続しない。しかも、もともと朝廷に対する態度がちがう。
ぼくは思う。いま韓遂が、朝廷に近いと書いた。しかし曹操から見れば、韓遂も、賊の予備軍でしかない。韓遂は、遠くて強いから、曹操から見れば、単純にジャマである。韓遂の忠臣ぶりは、馬超との離間にはつかえるが、涼州を委任できるほどでない。曹操は、韓遂をも滅ぼすのでした。あとで韓遂のもとにいた成公英が、曹操に合流する。すんなり合流できたのは、韓遂が朝廷を慕っていたからかな。
西にゆき、關右を平定した。
京兆尹、雍州刺史として、武都の氐族を剥がす
張既は、京兆尹となる。流民を招懷し、縣邑を興復した。魏國が経つと、尚書となり、雍州刺史となる。
盧弼は考える。『後漢書』献帝紀の興平元年(194)、夏六月、雍州をつくった。龐淯伝にひく『典略』は、建安初、邯鄲商(張猛に殺された人)を、雍州刺史にした。興平元年がただしく、建安十四年は誤りだ。建安十四年は、張猛が邯鄲商を殺した歳であり、雍州が設置された歳でない。ぼくは思う。それしかない。
曹操は張既に言った。「故郷で、昼に着飾って歩くようなもの」と。
曹操にしたがい、張魯を征す。わかれて、散關から入り、叛氐を討つ。張魯がくだると、張既は曹操に説き、漢中の民・数萬戸を、長安と三輔にうつす。のちに曹洪とともに、下弁で呉蘭をやぶる。夏侯淵とともに、宋建を討つ。わかれて、臨洮、狄道を、平定した。
夏侯淵と宋建について、テキストがおかしいが、夏侯淵伝に照らして直せる。臨洮は、董卓伝にあり、隴西の郡治だ。狄道は、武帝紀の建安十九年にある。
このとき曹操は、人口を河北にうつしたい。隴西、天水、南安は、動揺した。張既が、しずめた。曹操が漢中をすてるとき、「劉備が北して、武都氐をうばい、関中にせまる」と恐れた。張既は答えた。「氐族のうち、さきに武都からでて、扶風や天水にきた人を、あつく待遇せよ。氐族は、続々と武都から離れるだろう(劉備が使えなくなるだろう)」と。曹操は、漢中から撤退した。張既は、武都にゆく。氐族5万は、扶風、天水の境界にでてきた。
『三輔決錄注』はいう。張既が児童のとき、郡功曹の游殷は、張既を特異だとみとめた。游殷は言った。「張既は、方伯之器である」と。游殷は、子の遊楚を、張既にたくした。
游殷は、司隷校尉の胡軫と、仲がわるい。胡軫は誣搆して、游殷を殺した。胡軫は、遊楚の幽霊をおそれて、月余で死んだ。
張ジュが考えるに、『九州春秋』はいう。董卓は、東郡太守の胡軫を、大督とした。呂布を騎督とした。胡軫の性格は、急である。胡軫は、あざなを文才という。涼州の人。また張ジュが『華嶽残碑陰』を見ると、胡軫は、ふるい功績があり、曹太尉掾となる。頻陽、游殷幼斉。
ぼくは思う。游殷-張既の人脈が、董卓の部将・胡軫と、対立していたのが、おもしろい。つまり張既は、董卓の部下の部下、みたいなもの。厳密には、けっこう違うけど。ちなみに胡軫は、呂布とも対立して、孫堅にやぶれた。全員にきらわれて、死にざまを、わるく書かれたのだろう。「涼州の大人」のわりに、史料がない。
游殷の子は、遊楚。あざなを仲允。蒲阪令となる。
曹操が関中を平定したとき、漢興太守が欠員だ。曹操は張既に、人選をたずねた。張既は、遊楚を漢興太守とした。
呉増僅はいう。遊楚が太守となったのは、建安十六年(211)だ。曹操が関中をさだめたときだ。「呉志」呂岱伝にひく『呉書』はいう。建安十六年、呂岱は「西にゆき、漢中の張魯をさそい、漢興郡にゆこう」と言った。ここから、曹操が関中をさだめたとき、漢興郡をおいたとわかる。漢安を漢興とした。
ただ遊楚は、隴西太守にうつる。魏代の史料は、関中の記事がおおいが、漢興郡の記事がない。漢魏革命のとき、漢興郡ははぶかれた。黄初初年、西城に魏興郡をおいた。漢興がはぶかれたのは、このときだ。
以下、扶風との出入り、王朝名のはいった地名についてつづく。はぶく。
のちに遊楚は、隴西太守に転じた。
次回、後半。漢魏革命のとき、涼州がほぼ独立する。つづく。