02) 『邴原別伝』が描く邴原
『三国志集解』を見つつ、邴原伝をやります。
別伝1:仕官するまで学問に励む
欲遠游學,詣安丘孫崧。崧辭曰:「君鄉里鄭君,君知之乎?」原答曰:「然。」崧曰:「鄭君學覽古今,博聞彊識,鉤深致遠,誠學者之師模也。君乃舍之,躡屣千里,所謂以鄭為東家丘者也。君似不知而曰然者,何?」原曰:「先生之說,誠可謂苦藥良鍼矣;然猶未達僕之微趣也。人各有志,所規不同,故乃有登山而採玉者,有入海而採珠者,豈可謂登山者不知海之深,入海者不知山之高哉!君謂僕以鄭為東家丘,君以僕為西家愚夫邪?」崧辭謝焉。又曰:「兗、豫之士,吾多所識,未有若君者;當以書相分。」原重其意,難辭之,持書而別。原心以為求師啟學,志高者通,非若交游待分而成也。書何為哉?乃藏書於家而行。
『邴原別伝』はいう。
ぼくは思う。『邴原別伝』は、いつ出てきたのだろう。まるで、邴原の子孫でもない人が、腕試しのために、書いたような感じがする。言い回しが凝っているが、列伝の本編を変えないような話がおおい。
邴原が11歳のとき、父が死んだ。家が貧しく、早くに孤となった。邴原は鳴きまくった。学師が問うた。「童子よ、何を哀しむか」と。邴原は答えた。「父兄がいないと、貧しくて学問ができない。だから泣くのだ」と。
学師は「学ぶ気持ちがあるなら、学費は取らない」と言った。『孝経』『論語』を暗誦した。長じた。
遠くに遊学したいと思い、邴原は、安丘の孫崧を訪ねた。
ぼくは思う。孫崧でも孫嵩でもいいから、もっと事績を探したいなあ。きっと『邴原別伝』の著者は、関わりがありそうな人物を探して、「創作」したのだろうから。どんな事績が「邴原と出会わせるのに、ぴったりだ」と思わせたのか。思考の経路をたどると、楽しめる。
趙一清はいう。『後漢書』郡国志によると、北海の安丘県である。渠丘亭がある。安丘県は、瑯邪に属していたときもある。光武の建武5年、張歩が光武にくだり、安丘侯に封じられた。このとき瑯邪から安丘をけずったと。安丘は瑯邪から、北海に移ったか。趙一清は考える。『漢書』地理志で、北海の安丘に、孟康が注釈する。安丘とは、いまの渠丘であると。曹魏のとき、安丘を渠丘と改称したか。
孫崧は「邴原の故郷には、鄭玄がいる。私よりも鄭玄に学べ」と断った。邴原は「鄭玄よりも、あなたに学びたい」と答えた。孫崧は「兗州や豫州に知人はおおいが、邴原が最もすごい」と言い、書物を分け与えた。
邴原は、心から学師を求めたのである。書物を分けてもらいたくて、遊学したのでない。邴原は、孫崧にもらった蔵書をしまい、家を出た。
書物は貴重で、「文化資本」そのものである。邴原は、もっと孫崧に感謝すべきだ。もし孫崧から、財貨を投げつけられたら、「いらんわ!侮辱するな!」と言えばよい。だが書物をくれたのだから、最高の交際を孫崧が申し出てくれたのだよ。
邴原は言葉を尽くして、孫崧の弟子を望んだ(ぼくは言葉を省いたけど)。言葉を尽くした割には、「in vain」な結末 となった。なぜか。列伝の本筋を、変えてはいけないからだ。
物語の「外伝」や「映画版」は、本筋に影響を与えてはいけない。「映画版」に出てきた人物は、その中だけで片づく。主役クラスが「映画版」で死んではいけない。本筋だけを見ている人が、理解できなくなる。
もとは邴原は酒飲みだったが、学問のために家出してから、8、9年間、酒を飲まない。陳留の韓卓、頴川の陳寔、汝南の范滂、涿郡の盧植に交際した。帰郷してから、孫崧に書物を帰した。
それぞれの列伝を見比べながら、「邴原がここに行ったことにしよう。矛盾が出ないように、時期と場所を設定しよう。えーと、邴原がこの歳のときなら、范滂は党錮されて、故郷にいたはずだな、よし」と考える、楽しい作業である。
別伝2:北海相の孔融を拒否し、遼東へ
のちに北海に召され、郡の功曹主簿となった。
ときに魯国の孔融が北海にいて、公卿之才を郡府の計吏につかった。鄭玄が計掾、彭璆が計吏、邴原が計佐となった。
きっと、このページをご覧の何人かは、ぼくが『邴原別伝』を後世人の創作だと決めつけることに、違和感があるでしょう。
ぼくが思うに、「過去は実際はどうであったか」という真摯な自問をした歴史家と、エンターテイメント性を重んじる(現代的な)小説家は、立っている場所が同じです。どちらも、過去の現場に立ち会っていないという決定的なハンデを負いつつも、より真実味のある記述を起こそうとしている点で。
「『邴原別伝』が、邴原を褒め過ぎているから、ウソだ」と言いたいのではありません。べつにぼくは、邴原と利害関係がない。邴原がカッコよくなり過ぎても、ぼくは構わない。
そうでなく、『邴原別伝』の著者が、どういう思考回路で記述したのか、気になる。きっと『邴原別伝』の著者は、「ウソを書いてやれ」とか、「エンターテイメントを」とか、そんなことを考えていない。「真実の」邴原を模索して、諸史料を検討しているに違いない。史料を検討した上で、著者自身がもっている語彙やセンスを加えて、「真実の」邴原を描き出しているのだ。ありがたく拝読する。
あるとき孔融は、寵愛する人物を殺そうとした。みな助命を願ったが、邴原は願わない。孔融が不審に思って、助命を願わない理由を聞いた。
邴原を引き立たせるための演出であろうが、孔融の態度が、さっそくおかしい。寵愛する人物を殺したいなら、「なぜ邴原は助命を願わないか」なんて質問は、する必要がない。孔融は本心で、救いたいと思っているなら、みなの助命嘆願を聞いてやればいい。下手に邴原に声をかけたら、殺すべき理由が強化されるかも知れない。
「邴原がほかと違うから、孔融が気にとめた」という話だろうが。邴原を引き立てるという目的以外では、ものすごく不合理な話だ。
邴原は孔融にこたえた。
「あなたは毎年末、推挙する名簿にこの人物を載せなくても、推挙する予定があると言い続けた。あなたはこの人物を、わが子のように寵愛した。だが、この人物を殺すという。愛しているのか、憎んでいるのか。あなたの意図が、私には分からん。助命を願いようもない」と。
孔融はこたえた。「この人物は微門に生まれたが、私が兄弟を抜擢してやった。そのくせ、私の恩に報いない。殺しても構わないのだ。まえに泰山太守の応劭は、孝廉にあげた者を、旬月のあいだに殺した。君主の意図は、変化しても良いのだ」と。
邴原はいう。「応劭は正しくない。孝廉とは、国之俊選である。いちど孝廉にあげた者を殺したのであれば、応劭は孝廉の人選を誤ったということだ」と。
孔融の発想は、孝廉というのは、君主(太守)に帰属する人事権を、君主(太守)が自分で行使することだと思っている。おそらく応劭も、孔融と同じように、人事権が自分に帰属すると思っていた。だから、孝廉にあげた人物を殺した。まるで「暴君」の振る舞いである。
もし応劭に「国家のために人物を選ぶ」という気持ちがあり、かつ、「いちど孝廉にあげた人物は、国家につくす人材である」と思っていれば、おいそれと気軽に、私奴隷みたいに殺さないだろう。
孔融は「ふざけただけだ」と大笑した。邴原は「君士の言葉は、民におよぶ。殺人のジョークなんて、言ってはいけない」とたしなめた。
孔融は、黙ってしまった。
ぼくは思う。長官は属官を殺せたのか? どこまで事例を見つけられるのだろうか。とても興味がある問題。「殺せない」と主張する邴原が、わざわざ『邴原別伝』に描かれるほどだ。殺せるのが、常識だったのかも。
後漢が陵遅したので、邴原は家属をひきい、鬱洲の山中に入る。孔融が有道に挙げて、「いっしょに働こう」と説得した。邴原は、孔融を拒否して、遼東にゆく。
前ページで、邴原が孔融を拒否したのか、しなかったのか、列伝の本文では分かりにくいと書いた。『邴原別伝』では、孔融を拒否したことが、明確に描かれていた。『邴原別伝』の著者も、もっとハッキリさせたいな、と思ったに違いない。
別伝3:遼東からもどり、鄭玄と並び称される
遼東に虎がおおいが、邴原の邑落だけは襲われない。
邴原が銭の落とし物を、樹にかけた。銭は取られず、むしろ増えた。邴原が「なぜ銭が増えるか」と聞くと、ある人が「神樹だから、お供えがある」と答えた。邴原は、自分が淫祀を作り出したことを悪み、「はじめの銭は、私がかけたのだ」と説明した。銭は、里中の社に供えなおした。
故郷に戻ろうと三山にゆくと、孔融から手紙がきた。「協力してくれ」と。邴原は遼東に、引きかえした。
遼東に10余年いて、邴原は故郷に逃げもどる。公孫度は、邴原を逃がしたことを悔いた。
自国にもどり、『礼楽』を講述し、『詩書』を吟咏した。門徒は數百。服道は數十。鄭玄と学問の名声がならび、「青州に邴鄭の学あり」といわれた。
何焯はいう。鄭玄のほうでも、鄭玄と邴原がならび称されたとある。家伝(別伝)が、ウソを書いているのでない。
ぼくは思う。あーそうですか、何焯さん。失礼しました。
列伝4:曹操と荀彧、曹丕にも、敬われる
曹操が司空になると、邴原を辟して東閤祭酒とした。
曹操が、3郡の単于を北伐した。昌國にもどった。
盧弼は考える。武帝紀の建安12年(207)9月、曹操は兵を柳城からひいた。11月、易水にいたる。建安 13年正月、鄴県にかえった。曹操の経路に、昌国がない。「昌平」の誤りではないか。
ぼくは思う。盧弼のように、まじめに『邴原別伝』を検討すべきなんだな。
曹操は、燕の士大夫(将士)と酒酣して言った。「私がもどると、鄴県を守る諸君が、迎えにくる。だが邴原だけは、来てくれないだろう」と。だが邴原が、真っ先に迎えにきて、曹操を驚かせた。「賢者は予測できないものだ」と。
軍中の士大夫は、曹操に会ったのち、邴原だけを訪問した。荀彧が曹操に解説した。「士大夫は、曹操と邴原にだけ会っておけば、充分なのだ」と。曹操は、ますます邴原を敬った。
邴原は軍にいて、役職を歴任したが、いつも病気なので、実務をしない。河内の張範は、名公の子である。
邴原と親しい。曹操はいう。「邴原はすごい。張範は勉強に熱心だが、邴原のマネだけして、残念なことにならなければ良いが」と。
太子燕會,眾賓百數十人,太子建議曰:「君父各有篤疾,有藥一丸,可救一人,當救君邪,父邪?」眾人紛紜,或父或君。時原在坐,不與此論。太子諮之于原,原悖然對曰:「父也。」太子亦不復難之。
曹丕が五官中郎将になったが、邴原は曹丕に近づかない。曹操が邴原に理由を問うと、邴原は答えた。「国家が危うければ、宰相に仕えない。君主が去るとき、世子を奉らない。それが典制だ」と。
ここにおいて、五官長史に転じた。曹操は邴原に、曹丕の指導を頼んだ。
曹丕は宴会で、賓客を百数十人あつめて、議論した。「君主と父親が、重病である。丸薬が1つしかない。どちらを救うべきか」と。みな
紛糾した。邴原は「父親です」と言った。曹丕は、邴原に反論せず。
『通典』巻67は、邴原と鄭玄が、皇后が父母を敬うことの議論をのせる。ぼくは思う。つまり、後漢の外戚権力を、どのように捉えるかという問題だ。こわいなあ。
『邴原別伝』はおしまいです。すごかった。
基本的に、列伝の本文と、『邴原別伝』では、キャラが同じ。ただ『邴原別伝』のほうが、セリフやエピソードが多かった。別伝としての、あるべき姿だな。いい「小説」のお手本だった。120412