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01) 過去の事実は、一神教GOD

橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書2011
を読みました。読書メモをやります。
「三国志のサイトでキリスト教かよ?」と意外に感じます(おもにぼくが)。もともと、三国志と関係ない興味で買った本でした。しかし読んでいるうちに、三国志の理解、なかでも学術論文やネットの三国志の議論を理解するとき、役に立つなあと感じたので、ここで扱います。

世間には、三国志の話をしているとき、「それは事実か」という観点で、史料を読解し、検討をくわえる人がいます。便宜的に「事実家」と呼びます。あんまり音韻がキレイじゃないが、「ジジツカ」です。レキシカの一種みたいなものです。

例えば、にゃもさん(@AkaNisin) のいった「史実厨」も、事実家に属します。

いちおう事実家を定義する。
歴史への興味(学問や趣味)の目的が、事実を解明することにある人。
例えば10年前のぼくが該当する。当時ぼくは大学1年で、日本史学の専攻を望んでいた。事実家に想定されるセリフとして、「主観的な解釈をはさまず、客観的な事実を追求しよう」、「文学を味わうより、事実を究めたい」、「文学より史学が楽しい。なぜなら背景に事実があるから」、「真実はいつも1つ」などがある。

いずれも、二十歳前のぼくが、つねに言っていたことだ。ただし、最後の1つは、眼鏡をかけた探偵風の少年の口癖だ。

事実家をさかのぼれば、19世紀のランケがいるのかな。

事実家にとっての事実は、『ふしぎなキリスト教』で説明された、キリスト教のGODに似ている。いかに似ているか。そこから何を指摘できるか。『三国志』の読解に、どうやって活用できるか。などをメモるのが、今回のねらいです。

歴史学者とジジツカ

本題に入る前に、今週のできごとを1つ。
大学で歴史学をやらなかった人と一緒に、三国時代をあつかった歴史学の論文を読んだ。その人の感想が、面白かった。「論題の人物が、どんな人だったか分かると思ったのに、意外に分からなかった。残念だった」と。

期待の肩すかし。まるで、「うまいものが食いたいだろう。うちに来い」と言われたので、昼飯ぬきで遊びにいったら、「高級圧力鍋をあげる。うまい料理が作れるぞ」とだけ言い、空腹のまま帰されたような感じ。ウソじゃないが、期待とちがったなあと。

大学の歴史学者は、世間から何を期待されるか。事実家のなかで、最先端をいくことだろう。つまり「あの先生なら、過去の事実を見てきたように語ってくれる。私たちの知らない事実を知っている」という期待がある。テレビやイベントに歴史学者が出演すると、この類いの質問にさらされてる。
しかし、歴史学者=ただの事実家じゃない。歴史学者は、史料や遺物をもとに、仮説を組み立て、検証する人。事実が分かることもあるが、それは結果の1つでしかない。とぼくは区別して捉えてます。

朝霧さん(@Jonathan_apple)は、歴史学者の仕事を、対象となる時代の(部分又は全体)構造を明らかにすることだと言ってた。ぼくは、構造だけに限定する必要はないと思う。しかし、『三国志』のように史料が限定されると、各論が分からなくなるので、、構造まで後退しないと、確たることは何も言えなくなるかも。


歴史ファンは、歴史小説を楽しみつくすと、次の段階として、事実家に進むことがおおい。ぼくもそうだった。なぜ事実家に進むか。という問題を立てたところで、本の内容に入ります。地文が本の内容、枠内がぼくの感想。

まえがき

「われわれの社会」とは、近代社会、科学的な社会、西洋的な社会。西洋の中核には、キリスト教がある。日本人は、キリスト教を分かってない。文化的伝統がちがうから。近代社会、科学的な社会、西洋的な社会のピンチを乗り越えるために、キリスト教を理解せねばならない。

ぼくの読解方針、結論を書いておきます。
ぼくら日本人は、キリスト教を信仰していなくても、キリスト教に由来する科学的なものの見方をしている。キリスト教に由来する見方を、『三国志』の読解に持ちこむと、事実家になってしまう。これを言いたい。

本は、3部構成をとる。1部はユダヤ教、2部はイエス・キリスト、3部は歴史や文明への影響。大澤が聞いて、橋爪が答えるという対話形式。

いちおう、ぼくのキリスト教に対する態度・体験を明らかにしておきます。小学生のとき読んだ、世界史偉人マンガ「イエス・キリスト」のイメージが8割。高校生のとき、世界史でカタカナ固有名詞を覚えた体験が2割。以上です。この本が想定する、キリスト教を信仰も理解もしていない日本人、という読者だと思います。


一神教を理解する-起源としてのユダヤ教

キリスト教のなかに、ユダヤ教をふくむ。ユダヤ教をイエスが「再解釈」したのが、キリスト教。2つの宗教の共通点は、一神教であること。
ユダヤ教のGODは人間を創造し、人間を所有する。人間はGODの奴隷にすぎない。人間は、多神教の神ならば、馴れ馴れしく接して、仲良くしたりケンカしたりできる。だがGODは怒りっぽく、全知全能のエイリアン。

ユダヤ教、キリスト教のGODがもつ性質は、事実家が祭りあげる、過去の事実サマに似ていると思う。それを念頭に読んでください。
人間は、過去の事実の奴隷に過ぎない。過去の事実と馴れ馴れしくして、交渉を持つことなんてできない。

人間は、預言者をつうじてGODの考えを教わり、安全保障のためにGODと「契約」する。だがユダヤ人は、連戦連敗して国をうしない、捕囚された。敗北は、GODでなくユダヤ人のせいだ、と考えられた。

過去の事実サマは、人間がアクセスできない。厳然として存在する。後世の人間が、夢に見てまでも知りたいことの全てが、過去の事実に含まれている。ぼくらは(預言者の代わりに)史料をつうじて過去の事実をさぐる。だが、期待したとおりに知ることはできない。ぼくらがバカだから、知ることができないのだ。知識が頭打ちになる挫折感に、ブチあたらざるを得ない。

一神教は、唯一のGODの視点から、この世界を見る。GODから見たら、どう見えるかを考えて、想像するしかない。メートル原器に「あなたはなぜ1メートルか」と聞いても、質問が成り立たない。GODに「あなたはなぜ正しいか」と聞くのは、質問が誤っている。GODは、とにかく正しい。

ぼくらには認識できなくても、事実は事実として、とにかく正しい。客観的に正しい、どこまでも正しい唯一の事実が、過去にあるはずだ、、というのが、事実家が念頭に置いていること。意識するか、無意識かに関わらずね。

自分が不幸になっても、GODが与えた試練と見なすべきだ。GODは、人間を試していい。人間は、GODを試してはいけない。一神教のGODとのコミュニケーションは、不可能である。

たとえ事実が、ワケが分からないものでも、事実は正しい。事実は、人間のアタマを試してもいい。だが人間は、事実を疑ってはいけない。事実は過去に完結している。人間は、ただただ、認知&理解できない事実の前に、アタマを抱えるしかない。


なぜ全知全能のGODがつくったはずの世界に、悪があるか。聖書には、GODが後悔した、修正した、と読める話がある。そもそも、なぜGODは、間違いを犯す人間をつくったか。
GODは全能だから、修正すら自由にできるのだ。また全知だから「予想外のことに後悔する」なんてあり得ない。世界のすべての出来事の背後には、唯一の原因がある。唯一の原因とは、GODという責任者である。すべての自然現象は、GODが責任をもつメッセージである。
GODは人間から見て、不可解なことをする。だから一神教徒は、GODと不断のコミュニケーションをする。祈りだ。祈りにより、重病や事故の理由が見つかったりする。「運が悪かった」「悪い神のせいだ」と片づけない。GODの意思を感じとる。

矛盾した史料を見たり、空白だらけの史料を見たりするとき、事実家は何をするか。矛盾を解決できるような解決策=仮説をさがす。空白を埋めてくれるアイディアや理由をさがす。あたかも、唯一の事実にアクセスして、事実サマの意思を感じとるかのような営みだ。これを祈りというのか。確かに祈りに似ているなあ。

ちなみに仏教は、世界を普遍的・合理的に理解しようとする。仏教は、自然現象の背後に、神をおかない。因果法則によって起こるだけ。自然法則のみがあり、GODのような人格はない。

矛盾した史料を見たり、空白だらけの史料を見たりするとき、「そんなことも、あるわな」「わかんね」「併記しとこう」とあきらめるのが、仏教っぽい姿勢だろう。


聖書『ヨブ記』で、信仰ぶかいヨブが、苦難を味わわされる。ヨブが、不当な苦難の理由をGODに問うと、GODは答える。「ヨブよ、お前は私に論争を吹っかける気か。ナニサマのつもりだ。私はGODだぞ」と。ヨブは反省しましたとさ。
不当な苦難は、信仰を検証するものである。苦難がおとずれても、信仰するしかない。信仰を辞めるようなら、一神教は成立しない。世界を合理的に理解するよりも、GODを信仰することが優先である。

「こんな事件が起こるもんか。おかしいなあ!」と、思ったとする。すると、過去の事実サマに叱られる。「お前は私に論争を吹っかける気か。ナニサマのつもりだ。事実を否定するのか。事実は事実で、とにかく正しい」と。無秩序で怪しげでも、それが事実サマとして現れたら、平伏するしかないのだ。
もし、唯一絶対の事実を疑ってしまったら、事実家は、歴史を探究できなくなる。何もかも疑わしくなって、歴史への興味を失うだろう。

GODが、アダムとイブに「知恵の実を食べるな」と言ったのは、おとり捜査みたいなもの。意地悪である。だがGODが正しい。知恵の実を食べた人間のほうが悪い。GODが厳しく不合理に見えるときほど、対話=信仰が重要になる。

ぼくは思う。ここまで書いてきて、GODはひどいなあ!という気持ちだ。だからぼくは、この側面でGODを信仰できない。本の中で、大澤氏もGODに懐疑的だ。
この気持ち悪さを、『三国志』の読解に持ちこみたいと思う。史料を読んでいて、ただ事実を、事実を、唯一絶対の事実を、と探求するのは、窮屈だと思う。自分の価値判断に照らして、事実が決まらないと思えば、「そんなに事実にこだわらなくてもいいじゃん」と割り切るのも、楽しみ方の1つかな。一神教からの離脱だ。


一神教は偶像を禁じる。感覚や知覚で捉えられるものは、みな偶像。GODは「ここにいる」と示さない。「GODを見た」というのは、偶像を見ただけ。GODは、どんな方法でも確認できない。存在感がないGODゆえに、逆説的に存在感が最大になる。GODは、宇宙の外部にいる。人間は偶像を作れるが、GODを作れない。

事実家が崇拝している「客観的事実」が、このGODの性質にあたる。「客観的事実」は、誰も論じることができない。誰かが認知・論証した時点で、それは「主観的意見」になるから。論じた本人はGODに似せて論じたつもりでも、他の人から見れば偶像に過ぎない。
事実家は、誰かの手による「主観的意見」がキライだよね。そして、自分で偶像を作り直して「これこそ、GODにそっくり」という。しかし別の事実家から見れば、それは「主観的意見」に過ぎない。以下、無限のくり返し。よくある話だ。

GODの姿は、聖書では人間に似ているという。橋本氏 橋爪氏は「人間はGODに似ているが、GODは人間に似ていない」と提案する。GODは四次元の怪物。三次元に投影すると、人間みたいなカタチになる。人間は三次元にいるから、GODを自分に似ていると思う。だがGODの存在そのものは、人間より次元がたかい。人間と全然ちがうカタチをしているかも知れない。

いかに賢い人でも、事実の影絵のカタチしか、捉えることしかできない。事実がほんとうはどんなカタチをしているのかは、分からない。分からないけれど、事実の存在を信じる。


GODは人間社会から隔絶するが、メッセージを伝えねばならない。預言者をつかう。だが預言者がホンモノか分からない。ホンモノだと証明するため、自然法則を一時停止して、奇蹟を起こす。
西洋人は科学をつくった。奇蹟を信じることと、科学つくることは、一神教では両立する。自然法則が厳格だからこそ、奇蹟が例外的に停止することがスゴいと理解できる。マジックや呪術ではない。日本人は奇蹟を、マジックや呪術と混同する。
西洋人のなかで、宗教と科学は矛盾しない。例えば「科学と矛盾しない限りで、キリスト教を信じる」「キリスト教と矛盾しない限りで、科学を信じる」と。日本人だって「サルから天皇に進化した」「神の子孫が天皇である」を両立させていた。

このあたりは『三国志』や事実家とどう結びつけるか、アイディアがない。でも、おもしろい話なので、引いておきました。

ドーキンス『利己的な遺伝子』はいう。もしGODが宇宙をデザインしたなら、こんな効率の悪い進化はしない。宇宙はGODが想像したのでないと。GODを否定しているが、態度や情熱は宗教的である。GODによる創造を気にしている。
「信仰しています」と言わなくても、態度や行動のレベルで、キリスト教の伝統を踏まえていることがある。ドーキンスのように。

ネットでピュアに「三国時代について、事実を明らかにすべきだ」という人は、まるで不偏不党を謳っている。しかし、近代西洋の科学、ひいてはキリスト教に、態度や行動のレベルで染まっている。かもねえ。事実家に「あなたの議論は、一神教を踏まえたものですか」と聞いても「??」としか、答えてもらえないだろう。


次回、後半。イエス・キリストが出てきます。イエスを、王沈や韋昭になぞらえて理解します。