02) 陳寿はパウロ、裴松之は公会議
橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書2011
を読みました。読書メモをやります。
「三国志のサイトでキリスト教かよ?」と意外に感じます(おもにぼくが)。もともと、三国志と関係ない興味で買った本でした。しかし読んでいるうちに、三国志の理解、なかでも学術論文やネットの三国志の議論を理解するとき、役に立つなあと感じたので、ここで扱います。
イエス・キリストとは何か
イエスは、預言者として「実在の人物」である。福音書にあるイエスの言葉は、人格の一貫性を感じさせるから、「実在」だと橋爪氏は考える。
ここからは、イエスの役割を、王沈や韋昭に準えて理解します。三国の同時代につくられた史書です。とんでもない比喩、連想であることは、承知の上です。わりに共通点が浮かんできて、おもしろいと思う。
キリスト教の信仰は、イエスについての歴史的事実を信じることに根幹がある。仏教や相対性理論は、提唱者の伝記を知らなくても、理論を学べる。だがキリスト教は、伝記と理論がセットである。イエスの復活を事実だと信じなければ、キリスト教を信じることにならない。
イエスの言行は、複数の福音書で読める。イエスの著作でなく、周囲の人が書きとめたもの。福音書は4つあり、古さや系統が研究されている。証言が複数あり、視点や解釈が異なるほうが、真理に迫れると考える。福音書の差異や、微妙な不確定性をふくめて、一連の出来事を反映すると考える。
福音書は、事実のイエスだけを書かない。信仰の立場から、尾ひれがつく。ダビデ王の後裔、預言者の預言を叶えること、病気治療の奇蹟、などが載っている。
誤解される前提で言えば、『三国志』研究は、福音書の研究と同じなのだ。方法が。
イエスがGODの子だと言ったのは、パウロだ。事実のイエスは、預言者の1人として現れた。預言者は、GODを伝え聞くだけだ。だがGODの子は、GODとして直接語りかける。預言者とGODの子は、そもそも質がちがう。
ユダヤ教から見れば、イエスは預言者の1人だ。だが、イエスをGODの子に祭りあげたパウロに、キリスト教のオリジナリティがある。
事実のイエスは、ユダヤ教の内容を解釈し、改革しただけ。だがパウロはイエスをアレンジして、キリスト教の基点をつくった。
イエスは終末を語るが、発言は断片的で比喩ばかりだ。人間が救われる規準を教えない。なぜか。救いについて、情報公開し、説明責任を果たしたら、一神教にならない。人間が理解できる規準があれば、人間が人間を救うことになる。それはダメ。規準は、GODが理解していればよい。
ユダヤ教では、ノア以前とノア以後で、時代を分ける。ノアの洪水のとき、GODの介入があったからだ。だがノア以後も、人間はGODの決めた律法を守らなかった。GODは人間を滅ぼすこともできたが、それを避け、イエスを人間に送りこんだ。とパウロのつくったキリスト教は考える。
キリスト教では、イエス以前と以後で、時代を分ける。イエスを通じて、GODと人間の「契約」が更改されたからだ。GODは「わが子」を磔刑にして、もういちど人間に律法を守らせようとした。イエスは隣人愛をとき、「人が人を裁かない。裁けるのは神だけ」という律法を徹底させた。律法と隣人愛は、一貫したGODのメッセージ。
日本人は、律法=隣人愛を、いまいち理解できない。
キリスト教は贖罪をいう。人間であるイエスは、人間の罪をせおって、十字架にかけられた。だが単なる人間の死では、先輩の預言者の死に埋もれる。イエスはGODの子でもある。GODは、自分の子を磔刑にすることで、人間がGODのために払った犠牲にむくいた。イエスは人間であり、GODの子でもある。二重性がある。
復活について。
キリスト教の立場では、イエスはGODの子として、福音を語るべきだ。だがGODの子なら、処刑+復活がネタバレしている。十字架の苦しみは、ただの演技になる。復活が奇蹟でなくなる。だからイエスは、人間として苦しむべきだ。イエスの立場は、逆説をふくむ。
パウロは、イエスの弟子でない。はじめはイエスを弾圧する側だった。あとから、弟子の証言を編集して、キリスト教をつくった。
いかに「西洋」をつくったか
ユダヤ教のとき、GODとの「契約」があった。イエスが、GODとの契約を更改した。預言者は、キリスト(救世主)の登場を予言する者だったから、イエスの登場後は、役割がない。イエスの死後、人間はGODとの交渉を持てなくなった。
GODに交渉できず、終末を待つだけ。パウロが整理した文書は、GODの言葉でなく、パウロの著作にすぎない。読んでも、GODはわからない。
それでは困るから、キリスト教は「聖霊」をつくった。聖霊は、GODと等しく、イエスとも等しい。聖霊は、GODと人をつなぐ。パウロの著作(新約聖書)は、パウロの著作でない。聖霊がパウロに自動筆記させたものだ。パウロの著作は、ひとつの解釈に過ぎないが、その背後には聖霊=GODがある。
一神教は、人間のはたらきを認めない。だが、パウロの著作は、編纂が進んでいる。ゆえに公会議を開き、ただしい解釈を決める。公会議は、聖霊のはたらきにより、GODに沿った解釈が「わかる」のだ。公会議では、福音書(イエスのセリフ)の矛盾も、うまく解消していった。
公会議により、GOD=イエス=聖霊という見解がうまれた。三位一体説という。
イスラム教では、預言者のムハンマドが直接、GODの言葉を受けとって記録した。ムハンマドの言葉は、そのまま。多様性や多義性はない。解釈の不一致もない。
キリスト教は、現地語(俗語)に翻訳して布教しなかった。ラテン語を「聖なる言葉」とした。一神教のGODの超越性をたもった。ラテン語は難しいから、宗教画、音楽や儀式によってひろまった。
キリスト教の解釈(三位一体など)は、詭弁にすら聞こえる。いっぽう、イスラムのムハンマドの言葉は、整合している。一貫した法律もある。だから最初、イスラムのほうが哲学や思想が発展した。
だがキリスト教は、イスラム教を追いぬいた。キリスト教会には、明確な法律がなかったから、ぎゃくに自分で作れた。議会制民主主義、銀行取引を発明した。キリスト教徒は、まず何をやりたいかという目的を設定する。GODに禁止されていなければ、手段を考え、実現までのロードマップをつくる。キリスト教徒は、現実に恵まれないから、わざわざ大航海までした。
これらの営みは、恵まれたイスラムには必要のないことだった。
キリスト教徒は、イスラムからギリシャ哲学・理性を逆輸入し、GODが創造した世界について考えた。GODがやっても、人間がやっても、同じ答えがでるのが、数学・論理学である。だから、数学・論理学を研究した。自然科学の「自然」とは、GODがつくったそのまま、という意味。
キリスト教徒はGODを理解したいが、人間の理性ではGODを把握できない。だが、GODが創造した世界なら、GODではないから、理解できるはず。信仰と理性を両立させて、自然科学をやった。
キリスト教徒の神学は「存在とは」を考えた。だが、GODの存在を検討するのでない。GODの存在は前提である。GODは、時間にも空間にも縛られず、存在している。だが、GODに「存在させられた」人間は、存在を考えずにはいられない。
GODが「存在する」というときと、ペンが「存在する」というとき、同じ言葉を使っているが、言葉の濃度がちがう。GODの「存在」は疑いようもないが、ペンの「存在」については、哲学・理性で分析できる。
宗教改革は、GODと人を区別すること。GODのものと証明できないなら、人間の作ったもの(偶像)。偶像の崇拝は禁止だ。GOD、新約聖書(イエスとパウロと公会議)、人間(自分)、という関係だけを重んじた。聖書中心主義である。聖書さえあればよく、自分だけがGODと対話する。公会議でない解釈は、人間の作品なので従わない。
GODに関する解釈がちがえば、集団が分裂する。聖職者も教会も、邪魔である。1人1人が読めばいい。宗教改革をすすめるルターは、1人1人がGODとのつながりを作るため、新約聖書をドイツ語に翻訳した。
自然科学でGODの創造物を分析する以外に、キリスト教徒は、社会や政治のルールをつくった。これは、GODの仕事のアナロジーだ。
橋爪氏の定義で、宗教とは、行動のおいて、それ以上の根拠をもたない前提を置くこと。この定義では、ほんとうの無神論は、ほとんど不可能。近代のキリスト教徒(マルクスやヘーゲル)も、GODの影響下。
日本人の無神論とは、神に支配されたくないという感情。「ハマると怖い、主体性を奪われるから」と考える。
日本人は、主体性が好き、努力が好き、努力による結果が好き。努力しない人や、カミまかせの人がキライ。カミが大勢いることにする。カミひとりの勢力が削がれ、人間の主体性を発揮できるからだ。
神道がカミの像をつくらないのは、拝む義務がイヤだから。拝む義務があると、支配される。キリスト教の偶像禁止とはちがう。
ぼくらは三国志をやるとき、唯一絶対の過去の事実を想定すると、どうも息苦しい。そりゃあ、何らかの事実はあるんだろうが、、どうせ矛盾に満ちたものだろう。見方によって、どーにでも言えてしまうだろう。なんて、思っている。少なくとも、ぼくはそう。
「自分がバカなので、過去の事実が分かりません。ああ事実は、唯一絶対なのに。史料が矛盾して見えるのも、意味不明なのも、情報不足に感じるのも、自分が悪いのだ」という姿勢を保たねば、一神教の態度を貫けない。果たして可能か?
っていうか、やりたいか?
現代日本の大学の歴史学者は、キリスト教、自然科学の流れをひく。キリスト教徒でなくても、事実(GOD)に対する祈りを絶やしてはいけない。歴史学の分野で、とくに古代を扱えば、史料が少ないので「なかなか新しいことが言えない」という苦しみを味わうという。飽和した市場で、押し売りするようなものだ。しかし、新しいことが言えないのは、事実(GOD)や史料(聖書)が悪いのでなく、信仰心の足りない自分が悪いのである。「史料が少ない」という不満だって、GODに対する冒涜なのだ。言っていることがムチャだが、ヨブを苦しめたGODの言い分がこれなんだ。
ひるがえり、
ぼくは、カミを大量発生させてもいいと思う。弱いカミ、小さいカミ、怪しいカミ、を想定する。ぼくは、部分的なカミと、主体性を保って遊んでいたい。山のカミを拝み、川のカミを拝み、トイレの神様がいてもいい。だって、この本が言うところの、日本人なんだもん。
ちなみに一神教のGODは絶対だから、このように修飾語はつかない。
まとめる。
三国時代には、中心に揺るがない事実(GOD)があるだろう。顔が見えないなりにも、いちおうGODらしい何かがいてくれるから、『三国志』は文学でなく歴史となる。史料を読むとき、文学のように「そう書いてあるから」で議論が止まらず、「実際はどうであったか」という妄想を膨らますことができる。ただしGODの周りには、八百万のカミが、取り巻いているのだ。GODの目を盗んで、楽しみを提供してくれるかも知れない。
『三国志』と日本人を振りかえると、
前近代の日本人は、『三国志』から教訓をひきだすことはあっても(儒教風の研究)、事実はどうであったか(キリスト教風の研究)という問題を立てなかっただろう。「赤壁の戦いは、実際はどうであったか」という興味は、純粋&素朴なものだと思う。だが、まったくの前提がなく出てくる興味でない。キリスト教風、自然科学風(サイエンスとしての歴史学)の流れをくむ探求心ですね。
ちょっと胸に手をあてて考えれば、「損にも徳にもならないのに、ただ知りたい」というのは、けっこう不思議なものです。
ぼくには、事実(一神教のGOD)の信仰はムリだなあ、ジジツカを目指していないなあ、と確認できた。クリスマスイブに、これを書き終えるとか、ちょっと皮肉だけど。111224
ツイッターは、字数制限があるので、こちらで返信させて頂きます。このページの意図を要約しますと、「大学の歴史学は唯一真理を見つけるという態度を崩さない(ように私には見える)。私は(歴史学者じゃないので) 唯一真理を見つけることを諦める」です。
歴史学が科学(サイエンス)である、という立場をとる限り、大学の歴史学は「唯一真理を見つける」というスローガンを、放棄することができないのではないでしょうか。学外にいる私には、そう見えます。
このページで私がつかった「事実家」という語と、drきのこるさんの仰る「唯一真理を見つける」人は、同じ意味だとお見受けします。これらと、大学の歴史学者を、私はイコールで結んでいます。いま読み返すとザツな議論ですが、三国志に関しては、概ねこれでいいと考えています。
20世紀の諸思想により、唯一真理を見つけることの限界(不可能性)は多様に検討されました。ただし、管見の限りで歴史学の論文(少なくとも三国志に関して論じたもの)は、客観的で合理的で実証的な「真理」を探しているように見受けられます。「真理」という言葉を直接使うことは少ないかも知れませんが。
日本史の場合、「真理」に向かう態度の当否が、深く吟味されているように感じます。その理由として、史料が多かったり、身近な感覚に裏打ちされたり、政治的な意図が含まれたり、利害に結びついたりすることが考えられます。しかし、上記の条件を持たない三国志を対象とする研究分野では、「真理」探求に向かいがちだと、私は感じています。
歴史学が「真理」を目指すこの姿勢が、『ふしぎなキリスト教』で紹介されていた信仰の態度に似ていたので、それを強引に結びつけて理解したのがこのページです。本のなかで、キリスト教の発想が、が西欧の科学の母胎であると書いてあったので、これをキッカケに、連想を膨らませました。この本が宗教オンチのための解説書であることに、異存はありません。
私は「歴史学は唯一真理を見つけるもの」という姿勢を、アホとまで言うつもりはありません。なぜなら、私がこれを肯定すれば、私の定義内において、客観的で合理的で実証的な「真理」を探している科学者、すなわち三国志の研究者をアホと言うことになります。その意図は全くありません。「真理」の発見は、おそらく大学外から歴史学への期待ではあると思います。私も同じ期待を持っていました。その期待を断ち切ります、というのがこのページを書いたときの私の気持ちです。言いたいことは以上です。
また、言葉尻を捉えて申し訳ありませんが、
「史料絶対主義」という言葉を、私はページのなかで使っていません。そして不勉強ながら存じません(大学で日本史を学びましたが、そのときは出会わなかったと記憶しています)。グーグルで検索すると、井沢元彦氏の書籍紹介が出てきましたが、読んでおりません。すみません。
「史料絶対主義」の字面を見ると、史料に書いてある内容を無条件に信じる人のことかと推察します。どんな荒唐無稽なことや、矛盾することが書いてあっても、史料に書いてあれば、それを絶対とする人のことでしょうか。そういった意味であれば、私の使った意味での「事実家」は、史料絶対主義ではありません。「事実家」は、史料に書いてあることを疑い(史料を批判し)、背後に「真理」があると想定する人のことを指しています。史料と違うことを言う場合、そこに万人を首肯させる客観的で合理的な根拠を示すことは(原理的に)不可能ですが、自分の推論する能力を信じる人です。また事実(この世の中に起こる全ての事象)に、唯一の正しい解釈が存在し、かつそれを自分が認識&記述可能だと信じる人のことです。
史料絶対主義の定義が分からないので、推測を含む回答ですみません。
疑問に対する回答になっていないかも知れません。申し訳ありません。疑問や反論等、もし詳細に頂けましたら、ご回答させて頂きます。以上です。