表紙 > 曹魏 > 曹操の青州より、公孫康の遼東の統治をみとめた管寧伝

02) 公孫淵を見捨て、曹氏4代も拒む

『三国志集解』を見つつ、管寧伝をやります。

王烈伝がまぎれこむ(すぐ終わる)

王烈者,字彥方,於時名聞在原、寧之右。辭公孫度長史,商賈自穢。太祖命為丞相掾,徵事,未至,卒於海表。

王烈は、あざなを彦方。

『後漢書』独行伝で、王烈はあざなを彦方という。太原の人。章懐注は『三国志』のここをひき、あざなを彦考とする。周寿昌はいう。いま『三国志』を見ても、彦方である。唐代に章懐が注をつけるまでに、ちがう『三国志』のテキストがあったか。

王烈は、邴原や管寧よりも、名声があった。公孫度の長史を辞して、商人となり、自らを穢した。

沈欽韓はいう。漢制で、商人は、官人になれない。
『御覧』697にひく『晋令』で、商人がいやしい服装をするという。『唐六典』で、工商の家は、士に預かれないという。
ぼくは思う。どうして商人が「いやしい」と考えられたのだろう。思想的な背景に興味があるなあ。ともあれ王烈は、商人として「けがれる」ことで、公孫度を拒否した。ただ山ごもりするよりも、積極的な反抗である。

曹操は王烈に命じて、丞相掾とした。徵事がとどく前に、王烈は海表で死んだ。

『後漢書』王烈伝はいう。孝廉に察された。三公府に辟されたが、みな就かず。黄巾と董卓の乱のため、遼東にのがれる。遼東の夷人は、王烈を尊奉した。太守の公孫度は、昆弟の礼で王烈に接した。長史にしたいが、王烈が断った。曹操が王烈の高名をきき、徴させたが、建安24年に王烈が死んだ。78歳だった。
『晋書』嵆康伝はいう。嵆康は王烈にあい、ともに山に入った。云々。
ぼくは思う。王烈の生年は、西暦140年ごろ。曹操より15歳ぐらい、年長だ。


[一]先賢行狀曰:烈通識達道,秉義不回。以潁川陳太丘為師,二子為友。時潁川荀慈明、賈偉節、李元禮、韓元長皆就陳君學,見烈器業過人,歎服所履,亦與相親。由是英名著於海內。道成德立,還歸舊廬,遂遭父喪,泣淚三年。
遇歲饑饉,路有餓殍,烈乃分釜庚之儲,以救邑里之命。是以宗族稱孝,鄉黨歸仁。以典籍娛心,育人為務,遂建學校,敦崇庠序。其誘人也,皆不因其性氣,誨之以道,使之從善遠惡。益者不自覺,而大化隆行,皆成寶器。門人出入,容止可觀,時在市井,行步有異,人皆別之。州閭成風,咸競為善。

『先賢行状』はいう。王烈は、頴川の陳寔を師とした。陳寔の子、陳紀と陳諶を友とした。頴川の荀爽、賈彪、李膺、韓韶は、王烈の器量がすごいので、王烈に親しんだ。3年喪した。
飢饉のとき、邑里にほどこした。学校をつくり、教化した。

時國中有盜牛者,牛主得之。盜者曰:「我邂逅迷惑,從今已後將為改過。子既已赦宥,幸無使王烈聞之。」人有以告烈者,烈以布一端遺之。或問:「此人既為盜,畏君聞之,反與之布,何也?」烈曰:「昔秦穆公,人盜其駿馬食之,乃賜之酒。盜者不愛其死,以救穆公之難。今此盜人能悔其過,懼吾聞之,是知恥惡。知恥惡,則善心將生,故與布勸為善也。」

ときに、ウシの所有者が、ウシの盗者をとらえた。盗者はいう。「王烈にだけは言わないでくれ」と。

頴川にも、こんな人がいた。漢家の法律よりも、「名士」サマのお裁きのほうが、恐ろしいという。後漢の桓帝や霊帝のころ、こういう話は多かったのだろう。

だが王烈は、盗難のことを知った。王烈は盗者に、布を与えた。理由を聞かれたので、王烈は答えた。「むかし秦の穆公は、盗者に酒を与え、善行をうながした。それと同じことをした」と。


閒年之中,行路老父擔重,人代擔行數十里,欲至家,置而去,問姓名,不以告。 頃之,老父復行,失劍於路。有人行而遇之,欲置而去,懼後人得之,劍主於是永失,欲取而購募,或恐差錯,遂守之。至暮,劍主還見之,前者代擔人也。老父擥其袂,問曰:「子前者代吾擔,不得姓名,今子復守吾劍于路,未有若子之仁,請子告吾姓名,吾將以告王烈。」乃語之而去。老父以告烈,烈曰:「世有仁人,吾未之見。」遂使人推之,乃昔時盜牛人也。烈歎曰:「韶樂九成,虞賓以和:人能有感,乃至於斯也!」遂使國人表其閭而異之。時人或訟曲直,將質於烈,或至塗而反,或望廬而還,皆相推以直,不敢使烈聞之。

その年のうちに、老人の荷物を、数十里かついだ人がいた。老人が名を聞いても、かついだ人は答えない。

読みの便宜のために、ネタバレする。さっきのウシの盗者が改心した姿だ。

のちに同じ老人は、道路で剣をなくした。剣を見つけ、剣が持って行かれないように見張っていてくれた人がいた。まえに荷物をかついだ人だった。王烈は、このように盗者を改心させたのだ。

時國主皆親驂乘適烈私館,疇諮政令。察孝廉,三府並辟,皆不就。會董卓作亂,避地遼東,躬秉農器,編於四民,布衣蔬食,不改其樂。東域之人,奉之若君。時衰世弊,識真者少,朋黨之人,互相讒謗。自避世在東國者,多為人所害,烈居之歷年,未嘗有患。使遼東強不淩弱,眾不暴寡,商賈之人,市不二價。
太祖累徵召,遼東為解而不遣。以建安二十三年寢疾,年七十八而終。

ときに国主が、みずから王烈に、政令のアドバイスをもらいにゆく。
孝廉に察され、三府に辟された。みな就かず。董卓が乱したので、遼東にゆく。ときに世相がすたれ、士人は朋党をくんで、誹謗しあった。 だが王烈は、巻きこまれなかった。しばしば曹操が徴召したが、遼東では、曹操の文書を解いて、王烈を中原に行かせず。

ぼくは思う。ちくま訳では「遼東では、王烈に代わって言い訳をして行かせなかった」である。まるで、庶人の王烈が、庶人たちに慕われて、まとわりつかれて、遼東に残ったような感じ。おとぎ話みたいな、大らかさ。
しかし、曹操と公孫氏との、人材の取り合いなのだろう。公孫氏は、貴重な人材が流出しないように、抑えていた。戦場で、部隊ごと将軍が寝返ると、戦局がとても不利になる。王烈が遼東から出て、曹操にゆくとは、公孫氏にとって、それぐらいのイメージで捉えられていたかも。
曹操が王烈を選補して、徴事されたことは、邴原伝の注釈にもある。
盧弼はいう。王烈が曹操にゆかなかったのは、王烈が自ら望まなかったからである。

建安23年、病死した。78歳だった。

ぼくは思う。管寧伝に王烈伝が入っているのは、なぜか。『三国志』巻11が、この管寧伝で終わりだからだ。
ぼくが陳寿だったら、迷うだろう。
「王烈伝を立てたいが、後漢代の人だし、曹操に仕えてもいないし、史料も少ない。ウシの盗者のエピソードはおもしろいが、『三国志』の編集方針とは馴染まない。仕方ないから、王烈と同じように、曹操に仕えなかった管寧伝に、混ぜこむか。ムリにどこかに合わせるなら、管寧伝が、まだマシだ。河北の名声ある人士で、遼東に逃れていた人を、この巻に集めたことだし、他に入れる場所がない」と。
(管寧伝のあと、張セン伝、胡昭伝も、やっつけで合わさってる)
ぼくは思う。王烈の名声が、管寧や邴原より上だったのは、当然である。15歳から20歳も、年長だからだろう。後漢の、いわゆる党錮された世代である。そりゃ、先輩のほうが、名声が上だろうよ。老人として、奉られるだろうよ。
王烈は、遼東に籠もり続けた。管寧は、中原にもどり、曹氏への仕官を拒み続けた。結論は同じなのだが(曹氏に仕えない)、王烈のほうが、引きこもりが強い。これは、世代の差じゃないかな。王烈は、後漢のひどさを、中原で見てきた。心底、あきらめてる。管寧は、後漢のひどさを、王烈ほどは味わっていない。中原へのアレルギーが小さい。

(王烈伝がおわり、管寧伝にもどります)

公孫淵を見限り、北海に帰郷する

中國少安,客人皆還,唯寧晏然若將終焉。黃初四年,詔公卿舉獨行君子,司徒華歆薦寧。文帝即位,徵寧,遂將家屬浮海還郡,公孫恭送之南郊,加贈服物。自寧之東也,度、康、恭前後所資遺,皆受而藏諸。既已西渡,盡封還之。

中國が少安したので、客人(郷里を離れてた人)は、みな故郷にかえった。管寧は、遼東にいつづけた。黃初4年(223)、司徒の華歆が、管寧を薦めた。

『世説』徳行にひく『魏略』はいう。邴原と華歆は、仕官した。華歆は司徒となり、管寧を薦めた。管寧は笑って、華歆に言った。「もともと華歆は、私は老吏にしたいだけ。だから私をほめて、私を薦めたのだ」と。

曹丕が即位すると、管寧を徴した。

盧弼はいう。上にある黄初4年は、すでに曹丕の年号。「文帝即位」は衍字。

家属をひきい、海路で、遼東から北海に帰郷した。公孫恭は南郊に見送り、服物を加贈した。管寧は、公孫度、公孫康、公孫恭からの贈物を、封じていた。帰郷するとき、すべて返却した。

ぼくは思う。贈与を受けとり、返報しないと、呪われるからな。
王鳴盛はいう。管寧は、遼東の公孫度に客寓した。文帝は管寧をめした。家属をひきいて帰郷した。だが管寧は、公孫氏が滅びそうだと知っていた。管寧は、曹氏を恨むから、遼東に留まっていたのでもない。管寧は、公孫氏とも曹氏とも、うまくやった。
ぼくは思う。管寧は、「漢帝か、魏帝か、はたまた燕王か」という枠組みで、身の振り方を決めていない。 一身の平穏が、基準に見える。そういう意味では、ふつうの人間である。身の丈にあった「共同体」をつくる。
ぼくは思う。『三国志』管寧伝で、公孫氏が、人材を大切にするのを見ると。河北の人材が、いちど公孫氏を頼ったところを見ると。孫呉と遼東のちがいは、ただ「その国を主題とする史書が、後世に伝わったかどうか」だけに思える。地勢、政治や軍事や外交、そして「天子」としての儀礼などは、よく似てる。陳寿が『燕書』のようなものを、まとめてくれれば、孫呉とほぼ同列だった。
っていうか、公孫氏の討伐は、司馬氏の功績。『燕書』をつくり、『四国志』みたいにすれば、司馬氏をほめたことにもなったなあ。陳寿の時点で、すでに遼東の記録は、集めにくくなっていたか。遼東の滅亡は、司馬懿の代。陳寿にとって、呉蜀の滅亡は「同時代」だが、遼東の滅亡は「同時代」でない。曹魏に呉蜀をぶつけたように、遼東の史書を並列する必要性までは、感じなかったか。


[一]傅子曰:是時康又已死,嫡子不立而立弟恭,恭懦弱,而康孽子淵有雋才。寧曰:「廢嫡立庶,下有異心,亂之所由起也。」乃將家屬乘海即受徵。寧在遼東,積三十七年乃歸,其後淵果襲奪恭位,叛國家而南連吳,僭號稱王,明帝使相國宣文侯征滅之。遼東之死者以萬計,如寧所籌。
寧之歸也,海中遇暴風,船皆沒,唯寧乘船自若。時夜風晦冥,船人盡惑,莫知所泊。望見有火光,輒趣之,得島。島無居人,又無火燼,行人咸異焉,以為神光之祐也。皇甫謐曰:「積善之應也。」

『傅子』はいう。ときに公孫康が死んでた。嫡子でなく、弟の公孫恭を立てた。公孫恭は弱い。公孫康の孽子・公孫淵はつよい。管寧は、「嫡子をやめて、庶子を立てると、乱れる」と言った。

ぼくは思う。どこの家も、やることは同じだ。後漢末から三国にかけて、後継問題がこじれるという、悪しき風習が、一気に噴出したかに見える。なぜか。「名目の正しさでなく、実力で選べ」という要請が、みんなを混乱させたのか。実力の有無や、将来性なんて、誰にも分かりゃしない。客観的・合理的な証拠なんてない。

管寧は家属をひきい、37年すごした遼東から、北海に帰った。

盧弼はいう。逆算すると、霊帝の中平4年に移住した。

果たして、公孫康は王を称して、司馬懿に滅ぼされた。管寧が案じたとおり、死者が1万をかぞえた。

ぼくは思う。逆説的に、管寧は、公孫氏の統治能力を認めていたことがわかる。公孫康、公孫恭の代は、管寧はわざわざ主体的に選択して、遼東にいたのだ。ちゃんと、公孫氏の統治をチェックしながら、いつでも遼東を去る、心理的な準備はあった。その準備をした上で、遼東にいた。でなければ、公孫淵に代わった途端に、逃げたりしない。
さらに言外から読み取れば。
管寧は、曹操よりも公孫康のほうが、統治者として優れると見ていたことがわかる。カンタンな比較・計算だと思う。董卓の乱のとき、みんな中原から遼東に逃げた。遼東のほうが、中原より安全だと思ったから。曹操が河北を平定すると、みんな帰郷した。遼東より中原が安全だと思ったからだろう。しかし管寧だけは帰らなかった。曹操の中原より、遼東が安全だと思ったからだ。
管寧の故郷の青州は、海を隔てて、遼東の勢力圏である。曹操は、泰山から、青州、徐州など、海沿いが弱い。青州の人々にとって、曹操が強いか、公孫康が強いかは、「人によって判断が異なる」ほどの、微妙な問題だったのだろう。
公孫越は、単なる太守を抜け出して、さらに上を目指した。太守で均衡していた状況を、あえて崩した。ハイリスク・ハイリタンである。この賭事に、管寧が乗らなかった。それだけのことだ。
曹魏が正統か、遼東が正統か、なんて抽象的な話は関係ない。少なくとも、遼東にも曹魏にも、仕えなかった管寧伝を読むにあたっては。

帰りの海路で、管寧は迷いそうにあったが、奇跡に導かれた。

詔以寧為太中大夫,固辭不受。

[二]傅子曰:寧上書天子,且以疾辭。書奏,帝親覽焉。

曹丕は詔して、管寧を太中大夫とした。管寧は受けず。

『続漢書』百官志はいう。太中大夫は1千石。定員なし。『漢官』はいう。定員20人、比2千石。韋昭『弁釈名』はいう。太中大夫は、在中最高大である。

『傅子』はいう。管寧は「病気だから、太中大夫にならない」と辞した。曹丕は、みずから管寧の仮病レターを見た。

曹叡、曹芳に口説かれる

明帝即位,太尉華歆遜位讓寧,

[三]傅子曰:司空陳羣又薦寧。

曹叡が即位すると、太尉の華歆が「私の後任に、管寧を」という。
『傅子』はいう。司空の陳羣も、管寧をすすめた。

自黃初至于青龍,徵命相仍,常以八月賜牛酒。詔書問青州刺史程喜: 「寧為守節高乎,審老疾尩頓邪?」喜上言:「寧有族人管貢為州吏,與寧鄰比,臣常使經營消息。臣揆寧前後辭讓之意,獨自以生長潛逸,耆艾智衰,是以棲遲,每執謙退。此寧志行所欲必全,不為守高。」

[五]高士傳曰:管寧自越海及歸,常坐一木榻,積五十餘年,未嘗箕股,其榻上當膝處皆穿。

黄初から青龍まで(220-236)、なんども管寧は徴命された。毎年8月には、牛酒を賜った。
曹叡は、青州刺史の程喜に問うた。「管寧は、節高を守るために出仕しないのか。老病のせいで出仕しないのか」と。

程喜は、あざなを申伯。杜恕伝にある。
ぼくは思う。管寧は青州の北海の人だから、青州刺史が調査した。刺史は、太守の調査だけじゃなくて、在野の士人のことも、知らないといけないのか。

程喜は上言した。「管寧の族人の管貢は、州吏(私の部下)です。管貢と管寧は、連絡を取り合っているようです。管寧は老いており、出仕しないのでしょう。節高を守るために、出仕しないのではない」

ぼくは思う。程喜、かわいそう。族人と連絡をとれる管寧は、本人がその気があれば、いつでも出仕できる。だが、曹魏に仕えたくないから(節高を守りたいから)仕えていない。しかし、ありのままに報告したら、程喜は曹叡に「あんたの徳が足りないよ」と言うに等しい。だから、前半の報告と、後半の説明が整合していない。


正始二年,太僕陶丘一、永寧衞尉孟觀、侍中孫邕、中書侍郎王基薦寧。
於是特具安車蒲輪,束帛加璧聘焉。會寧卒,時年八十四。拜子邈郎中,後為博士。初,寧妻先卒,知故勸更娶,寧曰:「每省曾子、王駿之言,意常嘉之,豈自遭之而違本心哉?」

正始2年(241)、太僕の陶丘一と、永寧衞尉の孟觀と、侍中の孫邕と、

銭大昭はいう。明帝の元皇后・郭氏は、太后となった。永寧宮と称した。ゆえに、永寧の衛尉をおいた。
孫邕は、斉王紀の嘉平6年の注釈にある。鮑勛伝、盧毓伝にある。

中書侍郎の王基とは、管寧を曹芳にすすめた。
曹芳は、わざわざ安車・蒲輪をそなえ、1束の帛に璧をつけて、管寧を招聘した。たまたま管寧が死んだ。

趙一清はいう。『水経注』汶水注にいう。朱虚県の龐徳に、管寧の墓がある。ぼくは補う。管寧は、故郷に葬られた。

管寧は84歳だった。管寧の子・管邈は郎中、博士となる。
はじめ管寧の妻が、さきに死んだ。管寧は後妻をもらわず。理由を説明した。「私は、曽参や王駿の発言のようにしたい」

『漢書』王吉伝はいう。王吉は瑯邪の阜虞の人。王吉の子は、王駿である。孝廉から、郎となる。王駿は少府となる。ときに王駿の妻が死んだ。王駿は後妻をめとらず。理由を問われたので、説明した。「むかし曽参は後妻をめとらず。曽参ほどの徳がないから、私も後妻をめとらない」と。
ぼくは思う。後妻をめとらない連鎖が、続いてゆくのかなあ。つぎに後妻をめとらない人は「私は、曽参、王駿、管寧のようにしたい」と言わねばならない。管寧は、天下から尊敬された人物だから、抜かしてはいけない。


[一]傅子曰:寧以衰亂之時,世多妄變氏族者,違聖人之制,非禮命姓之意,故著氏姓論以原本世系,文多不載。每所居姻親、知舊、鄰里有困窮者,家儲雖不盈擔石,必分以贍救之。與人子言,教以孝;與人弟言,訓以悌;言及人臣,誨以忠。貌甚恭,言甚順,觀其行,邈然若不可及,即之熙熙然,甚柔而溫,因其事而導之於善,是以漸之者無不化焉。寧之亡,天下知與不知,聞之無不嗟歎。醇德之所感若此,不亦至乎!

『傅子』はいう。衰乱のとき、みだりに氏族を変える人がおおい。管寧は『氏姓論』を記し、氏族のあるべき姿を論じた。長いから、裴松之がひかない。

『隋書』経籍志はいう。南朝梁には、魏代の徴士『管寧集』3巻がある。1巻を録する。『唐書』経籍志もおなじ。

管寧は教育をした。天下はみな、管寧に教化された。管寧が死ぬと、管寧を知る人も知らぬ人も、嗟嘆した。醇德が人に感じさせる様子は、このようであった。

『困学紀聞』はいう。管寧は郭泰のように、天子は臣を得られず、諸侯は友を得られなかったと。ぼくは思う。うまく訳せてない。イメージはわくが。
蘇文定はいう。管寧は、若くして漢人でなくなる。老いては魏人でない。天が管寧を逸民にさせた。
胡三省はいう。華歆、邴原、管寧の3人は「1龍」といった。華歆は龍頭、邴原は龍腹、管寧は龍尾。華歆と邴原は、曹操のために功績があり、官爵をもらった。管寧だけが、高尚をたもった。当時の「龍頭だ、龍尾だ」という評価の議論は、官爵の高さでなされたのだ。ああ。
ぼくは思う。寄生官僚論である(笑)


管寧はともあれ、遼東太守の公孫氏がおもしろくなってきた。おもしろいテーマが見つかるのは、嬉しいことです。20120414