02) 公孫淵を見捨て、曹氏4代も拒む
『三国志集解』を見つつ、管寧伝をやります。
王烈伝がまぎれこむ(すぐ終わる)
王烈は、あざなを彦方。
王烈は、邴原や管寧よりも、名声があった。公孫度の長史を辞して、商人となり、自らを穢した。
『御覧』697にひく『晋令』で、商人がいやしい服装をするという。『唐六典』で、工商の家は、士に預かれないという。
ぼくは思う。どうして商人が「いやしい」と考えられたのだろう。思想的な背景に興味があるなあ。ともあれ王烈は、商人として「けがれる」ことで、公孫度を拒否した。ただ山ごもりするよりも、積極的な反抗である。
曹操は王烈に命じて、丞相掾とした。徵事がとどく前に、王烈は海表で死んだ。
『晋書』嵆康伝はいう。嵆康は王烈にあい、ともに山に入った。云々。
ぼくは思う。王烈の生年は、西暦140年ごろ。曹操より15歳ぐらい、年長だ。
遇歲饑饉,路有餓殍,烈乃分釜庚之儲,以救邑里之命。是以宗族稱孝,鄉黨歸仁。以典籍娛心,育人為務,遂建學校,敦崇庠序。其誘人也,皆不因其性氣,誨之以道,使之從善遠惡。益者不自覺,而大化隆行,皆成寶器。門人出入,容止可觀,時在市井,行步有異,人皆別之。州閭成風,咸競為善。
『先賢行状』はいう。王烈は、頴川の陳寔を師とした。陳寔の子、陳紀と陳諶を友とした。頴川の荀爽、賈彪、李膺、韓韶は、王烈の器量がすごいので、王烈に親しんだ。3年喪した。
飢饉のとき、邑里にほどこした。学校をつくり、教化した。
ときに、ウシの所有者が、ウシの盗者をとらえた。盗者はいう。「王烈にだけは言わないでくれ」と。
だが王烈は、盗難のことを知った。王烈は盗者に、布を与えた。理由を聞かれたので、王烈は答えた。「むかし秦の穆公は、盗者に酒を与え、善行をうながした。それと同じことをした」と。
その年のうちに、老人の荷物を、数十里かついだ人がいた。老人が名を聞いても、かついだ人は答えない。
のちに同じ老人は、道路で剣をなくした。剣を見つけ、剣が持って行かれないように見張っていてくれた人がいた。まえに荷物をかついだ人だった。王烈は、このように盗者を改心させたのだ。
太祖累徵召,遼東為解而不遣。以建安二十三年寢疾,年七十八而終。
ときに国主が、みずから王烈に、政令のアドバイスをもらいにゆく。
孝廉に察され、三府に辟された。みな就かず。董卓が乱したので、遼東にゆく。ときに世相がすたれ、士人は朋党をくんで、誹謗しあった。
だが王烈は、巻きこまれなかった。しばしば曹操が徴召したが、遼東では、曹操の文書を解いて、王烈を中原に行かせず。
しかし、曹操と公孫氏との、人材の取り合いなのだろう。公孫氏は、貴重な人材が流出しないように、抑えていた。戦場で、部隊ごと将軍が寝返ると、戦局がとても不利になる。王烈が遼東から出て、曹操にゆくとは、公孫氏にとって、それぐらいのイメージで捉えられていたかも。
曹操が王烈を選補して、徴事されたことは、邴原伝の注釈にもある。
盧弼はいう。王烈が曹操にゆかなかったのは、王烈が自ら望まなかったからである。
建安23年、病死した。78歳だった。
ぼくが陳寿だったら、迷うだろう。
「王烈伝を立てたいが、後漢代の人だし、曹操に仕えてもいないし、史料も少ない。ウシの盗者のエピソードはおもしろいが、『三国志』の編集方針とは馴染まない。仕方ないから、王烈と同じように、曹操に仕えなかった管寧伝に、混ぜこむか。ムリにどこかに合わせるなら、管寧伝が、まだマシだ。河北の名声ある人士で、遼東に逃れていた人を、この巻に集めたことだし、他に入れる場所がない」と。
(管寧伝のあと、張セン伝、胡昭伝も、やっつけで合わさってる)
ぼくは思う。王烈の名声が、管寧や邴原より上だったのは、当然である。15歳から20歳も、年長だからだろう。後漢の、いわゆる党錮された世代である。そりゃ、先輩のほうが、名声が上だろうよ。老人として、奉られるだろうよ。
王烈は、遼東に籠もり続けた。管寧は、中原にもどり、曹氏への仕官を拒み続けた。結論は同じなのだが(曹氏に仕えない)、王烈のほうが、引きこもりが強い。これは、世代の差じゃないかな。王烈は、後漢のひどさを、中原で見てきた。心底、あきらめてる。管寧は、後漢のひどさを、王烈ほどは味わっていない。中原へのアレルギーが小さい。
(王烈伝がおわり、管寧伝にもどります)
公孫淵を見限り、北海に帰郷する
中國が少安したので、客人(郷里を離れてた人)は、みな故郷にかえった。管寧は、遼東にいつづけた。黃初4年(223)、司徒の華歆が、管寧を薦めた。
曹丕が即位すると、管寧を徴した。
家属をひきい、海路で、遼東から北海に帰郷した。公孫恭は南郊に見送り、服物を加贈した。管寧は、公孫度、公孫康、公孫恭からの贈物を、封じていた。帰郷するとき、すべて返却した。
王鳴盛はいう。管寧は、遼東の公孫度に客寓した。文帝は管寧をめした。家属をひきいて帰郷した。だが管寧は、公孫氏が滅びそうだと知っていた。管寧は、曹氏を恨むから、遼東に留まっていたのでもない。管寧は、公孫氏とも曹氏とも、うまくやった。
ぼくは思う。管寧は、「漢帝か、魏帝か、はたまた燕王か」という枠組みで、身の振り方を決めていない。 一身の平穏が、基準に見える。そういう意味では、ふつうの人間である。身の丈にあった「共同体」をつくる。
ぼくは思う。『三国志』管寧伝で、公孫氏が、人材を大切にするのを見ると。河北の人材が、いちど公孫氏を頼ったところを見ると。孫呉と遼東のちがいは、ただ「その国を主題とする史書が、後世に伝わったかどうか」だけに思える。地勢、政治や軍事や外交、そして「天子」としての儀礼などは、よく似てる。陳寿が『燕書』のようなものを、まとめてくれれば、孫呉とほぼ同列だった。
っていうか、公孫氏の討伐は、司馬氏の功績。『燕書』をつくり、『四国志』みたいにすれば、司馬氏をほめたことにもなったなあ。陳寿の時点で、すでに遼東の記録は、集めにくくなっていたか。遼東の滅亡は、司馬懿の代。陳寿にとって、呉蜀の滅亡は「同時代」だが、遼東の滅亡は「同時代」でない。曹魏に呉蜀をぶつけたように、遼東の史書を並列する必要性までは、感じなかったか。
寧之歸也,海中遇暴風,船皆沒,唯寧乘船自若。時夜風晦冥,船人盡惑,莫知所泊。望見有火光,輒趣之,得島。島無居人,又無火燼,行人咸異焉,以為神光之祐也。皇甫謐曰:「積善之應也。」
『傅子』はいう。ときに公孫康が死んでた。嫡子でなく、弟の公孫恭を立てた。公孫恭は弱い。公孫康の孽子・公孫淵はつよい。管寧は、「嫡子をやめて、庶子を立てると、乱れる」と言った。
管寧は家属をひきい、37年すごした遼東から、北海に帰った。
果たして、公孫康は王を称して、司馬懿に滅ぼされた。管寧が案じたとおり、死者が1万をかぞえた。
さらに言外から読み取れば。
管寧は、曹操よりも公孫康のほうが、統治者として優れると見ていたことがわかる。カンタンな比較・計算だと思う。董卓の乱のとき、みんな中原から遼東に逃げた。遼東のほうが、中原より安全だと思ったから。曹操が河北を平定すると、みんな帰郷した。遼東より中原が安全だと思ったからだろう。しかし管寧だけは帰らなかった。曹操の中原より、遼東が安全だと思ったからだ。
管寧の故郷の青州は、海を隔てて、遼東の勢力圏である。曹操は、泰山から、青州、徐州など、海沿いが弱い。青州の人々にとって、曹操が強いか、公孫康が強いかは、「人によって判断が異なる」ほどの、微妙な問題だったのだろう。
公孫越は、単なる太守を抜け出して、さらに上を目指した。太守で均衡していた状況を、あえて崩した。ハイリスク・ハイリタンである。この賭事に、管寧が乗らなかった。それだけのことだ。
曹魏が正統か、遼東が正統か、なんて抽象的な話は関係ない。少なくとも、遼東にも曹魏にも、仕えなかった管寧伝を読むにあたっては。
帰りの海路で、管寧は迷いそうにあったが、奇跡に導かれた。
曹丕は詔して、管寧を太中大夫とした。管寧は受けず。
『傅子』はいう。管寧は「病気だから、太中大夫にならない」と辞した。曹丕は、みずから管寧の仮病レターを見た。
曹叡、曹芳に口説かれる
曹叡が即位すると、太尉の華歆が「私の後任に、管寧を」という。
『傅子』はいう。司空の陳羣も、管寧をすすめた。
黄初から青龍まで(220-236)、なんども管寧は徴命された。毎年8月には、牛酒を賜った。
曹叡は、青州刺史の程喜に問うた。「管寧は、節高を守るために出仕しないのか。老病のせいで出仕しないのか」と。
ぼくは思う。管寧は青州の北海の人だから、青州刺史が調査した。刺史は、太守の調査だけじゃなくて、在野の士人のことも、知らないといけないのか。
程喜は上言した。「管寧の族人の管貢は、州吏(私の部下)です。管貢と管寧は、連絡を取り合っているようです。管寧は老いており、出仕しないのでしょう。節高を守るために、出仕しないのではない」
於是特具安車蒲輪,束帛加璧聘焉。會寧卒,時年八十四。拜子邈郎中,後為博士。初,寧妻先卒,知故勸更娶,寧曰:「每省曾子、王駿之言,意常嘉之,豈自遭之而違本心哉?」
正始2年(241)、太僕の陶丘一と、永寧衞尉の孟觀と、侍中の孫邕と、
孫邕は、斉王紀の嘉平6年の注釈にある。鮑勛伝、盧毓伝にある。
中書侍郎の王基とは、管寧を曹芳にすすめた。
曹芳は、わざわざ安車・蒲輪をそなえ、1束の帛に璧をつけて、管寧を招聘した。たまたま管寧が死んだ。
管寧は84歳だった。管寧の子・管邈は郎中、博士となる。
はじめ管寧の妻が、さきに死んだ。管寧は後妻をもらわず。理由を説明した。「私は、曽参や王駿の発言のようにしたい」
ぼくは思う。後妻をめとらない連鎖が、続いてゆくのかなあ。つぎに後妻をめとらない人は「私は、曽参、王駿、管寧のようにしたい」と言わねばならない。管寧は、天下から尊敬された人物だから、抜かしてはいけない。
『傅子』はいう。衰乱のとき、みだりに氏族を変える人がおおい。管寧は『氏姓論』を記し、氏族のあるべき姿を論じた。長いから、裴松之がひかない。
管寧は教育をした。天下はみな、管寧に教化された。管寧が死ぬと、管寧を知る人も知らぬ人も、嗟嘆した。醇德が人に感じさせる様子は、このようであった。
蘇文定はいう。管寧は、若くして漢人でなくなる。老いては魏人でない。天が管寧を逸民にさせた。
胡三省はいう。華歆、邴原、管寧の3人は「1龍」といった。華歆は龍頭、邴原は龍腹、管寧は龍尾。華歆と邴原は、曹操のために功績があり、官爵をもらった。管寧だけが、高尚をたもった。当時の「龍頭だ、龍尾だ」という評価の議論は、官爵の高さでなされたのだ。ああ。
ぼくは思う。寄生官僚論である(笑)
管寧はともあれ、遼東太守の公孫氏がおもしろくなってきた。おもしろいテーマが見つかるのは、嬉しいことです。20120414