01) 華歆と邴原の友、遼東を頼る
『三国志集解』を見つつ、管寧伝をやります。
華歆、邴原と友となり、遊学して陳寔に学ぶ
管寧は、あざなを幼安という。北海の朱虚の人だ。
『傅子』はいう。斉相の管仲の子孫である。むかし田氏が斉国をたもつと、管氏は斉国を去った。ある管氏は魯国にゆき、ある管氏は楚国にいった。漢初、管少卿が燕令となった。管少卿が初めて朱虛に住んだ。世に名節あり、9世のちに管寧が生まれた。
管寧が16歳のとき、父が死んだ。孤児で貧しいが、財産を受けとらず、葬送した。身長8尺、ひげが美しい。平原の華歆、同県の邴原と友となる。
ともに異国に遊学し、陳寔を敬善した。
趙一清はいう。管寧は陳球の弟子である。
ぼくは補う。陳寔は、陳羣の祖父である。陳寔-陳紀-陳羣である。
趙一清のいう「陳球弟子」というのは、弟の子ってこと?それとも、師匠に対する「弟子」の意味? 陳球なら、以前にやった。
『後漢書』陳球伝、陽球伝を抄訳し、『三国志』を補う
陳球の血縁については、「子瑀,吳郡太守;瑀弟琮,汝陰太守;弟子珪,沛相;珪子登,廣陵太守:並知名。」とある。管寧は出てこない。異姓だし。
『水経注』はいう。泗水ぞいに、後漢の太尉・陳球の墓がある。墓前に、3碑がある。これは、弟子の管寧、華歆らが作ったものだと。
あー、なんだ。師匠に対する「弟子」ってことだったのか。
ってことは、管寧と華歆は、陳寔にも師事したし、陳球にも師事したってことか。陳寔は頴川の許県の人。陳球は下邳の淮浦の人。べつべつに学んだのか。もしくは、どちらか1人が正解で、混同された? 陳寔も陳球も、史料的に確からしいから、混同はないかな。
遼東の郡北で教化し、公孫氏に敬い憚られる
天下がみだれた。公孫度の威令が海外に行われると聞いた。管寧は、邴原と、邴原の王烈とともに、遼東にゆく。公孫度は、館に空きをつくり、管寧らを待遇した。管寧は公孫度に会い、山谷に廬した。ときに遼東した人は、みな郡南にいた。だが管寧は郡北にゆき、中原に帰らぬ意思を示した。
のちに管寧も、郡南にうつった。
では、管寧の見積もりを良いほうに裏切り、中原に秩序を作ったのは、袁紹か、曹操か。袁紹から辟されたら、『三国志』には、それが記される。その記述がないということは、管寧は、袁紹との交渉はなかったとするのが妥当。
だが、のちに見るように管寧は、曹氏に絶対に仕えない。「曹氏はすばらしい」と考えるタイプでない。袁氏であろうが、曹氏であろうが、故郷の秩序を回復してくれるなら、誰でも良かったのだろう。現実的な答えになったなあ。
曹操が司空となると、管寧を辟した。
曹操から見ると、中原の士人が逃げこんだ周辺地域は、人材の畑なのだろう。潜在的に、自分の臣下や協力者たちなのだ。献帝を手に入れるとは、そういう高い目線、つまり「天下の為政者」の視点で、天下と向き合うこと。曹操が勝った理由の1つが、これだと思う。
よく「曹操は献帝を手に入れたから、天子の名で、群雄に命令できるようになった」という。しかし、因果関係は、一方向じゃない。群雄に命令するような、「天下の為政者」の目線があるから、曹操は献帝を手に入れた。献帝を手に入れたあと、ちゃんと「使い方」を分かっていた。ただ自分を高い官爵につけて、満足して終了!、にはならなかった。
サラリーマンも同じ。部長の肩書きをもらったから、部長として振る舞うのでない。課長のとき(課長のくせに)部長として振る舞っていたから、周囲が認めて、部長になることができるのだ。部長になり、部長として振る舞ったら、出世はそこで止まる。いまの地位に満足して、部長として、部下を自分の好きなように使うことに専心してしまう。口うるさいけど、怖くない部長である。
組織の階層のなかでは、分相応に振る舞ったら、そこに安住し、居着いてしまい、そこで終わる。いまの地位を「消費」するだけだから、余計や仕事をたくさんつくる。タチが悪い。だが、底が浅いので(だって、口に出したことが、考えていることの全部だから)部下から見ると、くみしやすい。つまり、侮ることができる。
いっぽう部長から、さらに出世するのは、どんな場合か。さっきと同じだ。つまり、部長のとき(部長のくせに)取締役として振る舞っていると、もしかしたら取締役になる。無論、ならない可能性もあるけど。
部下が緊張を強いられ、お仕えするのが難しいのは、こちらの、底が見えない上司だ。つまり、上司自身が、さらに上を目指している場合だ。
なんかぼくの日常話に飛んだが、、
献帝を得れば、誰でも自動的に「天下の為政者」になるのでない。反例は、興平中に献帝が東遷する過程で、いくらでも見つかる。もとから曹操は「天下の為政者」としての自負があったから、献帝を有効に利用できた。たとえば、はるか遼東にいる管寧を、袁紹の頭越しに辟してしまうほど、曹操は天下に目を配っていた。そして、このように目線の高い曹操は、部下にとって、仕えるのが難しい上司であったと。
公孫度の子・公孫康が、曹操の辟命を握りつぶし、管寧に伝わらず。
ぼくは思う。
はじめ公孫度は、ただの太守だったと思う。せいぜい「中原の戦乱を避けられたらいいな」と、 公孫度自身が思っているくらいの、消極的な赴任だったと思う。だが、遼東に人材が集まったゆえに、野心を持つことになった。実際に、自立することができた。いちど野心を持つことができれば、こんどは人材の獲得に熱中する。あとは、この循環をまわして、どんどん高みに登るだけ。燕王とかね。
いま、邴原、管寧あたりが、公孫氏と曹氏のあいだで、取り合いされている。
史料的な「偏向」を指摘しておきたい。『三国志』らの史料では、公孫氏に仕え続けず、中原に帰ってきた士人にばかり、記述がおおい。『三国志』に列伝がないが、少なくとも曹魏に見劣りしない人材が、質も量もともに、公孫氏に仕えていたはずだ。このぼくの指摘は、史料的な根拠をもって唱えている仮説でなくて、論理的な推論をもって唱える仮説である。
曹操がわざわざ北伐した理由は、公孫氏や袁氏が抱えこんだ人材を、吐き出させるためだろう。ただ曹操が遠方にいて、北方の群雄(というか州郡の長官たち)を文書の交換だけで屈服させても、人材は吐き出されない。曹操がみずから出張って、いちいち辟して、関係を結ばねばならない。
同じことが揚州にも起こったのだと思う。(これを言いたいから、こんな話を、長々と書いているのです)
曹操が劉琮から荊州を回収したときのこと。曹操が孫権に、ちがう官職を与えていたら、孫権はさっさと従っただろう。孫権が物理的に移動して、それで終わり。だがこれでは、揚州に避難した人材が、揚州に残ってしまう。曹操は、揚州の人材もいちいち辟して、丞相府に組み込みたかった。だから、わざわざ出張った。
曹操が怖いのは、揚州が「独立」して、別の皇帝を立てることじゃない。っていうか、そんなこと想定できない。そうでなく、揚州に群れた派閥が、後漢のなかで丞相府の対抗勢力となることだ。だから、自ら乗りこんで、解体せねばならない。河北でやったのと同じように。河北の平定後、人材の大再編があったように。
曹操が荊州から長江を降ったとき、揚州の人材が問われたのは、もちろん「曹魏に屈服するか、独立するか」ではない。「曹操の丞相府に辟されるか、断るか」を確認されたのだ。軍隊をつれてモノモノシイが、曹操がやっているのは、「わざわざ遠方まで自ら訪ねて、賢者をまねく」という、人材登用の基本である。劉備と諸葛亮と、基本的な構造は、同じなんだと思う。
その証拠に、赤壁前夜の揚州の人々は、「自分がどんな官位になるか」という話ばかりしている。赤壁のメインテーマは、少数で大船団をつぶす水戦の戦術でなく、官位を得るための身の振り方である。よく「戦争は政治の手段」というが、官位を得ることを政治の一部だと見なせば、赤壁もまた、政治なんだなー。
張昭は「降伏」を唱えたのでない。「丞相府に辟され、それを起点に多くの官位を歴任すること」が、「政治的に、私の利益が大きい」と判断したのである。魯粛は「漢家はもう滅びる」と言って、もっと別のフレームで考えていた。だから危険人物として排除された。結果として、孤立していた。
張昭と魯粛の対立は、「曹操を支持するか、しないか」という、同じ土俵の上で、かみあった衝突でない。問題設定がちがう。「1グラムと、1メートルは、どちらが美味しいか」という問いと同じように、ワケが分からず、争点すらない対立である。
『傅子』はいう。管寧は世事にかかわらず、『詩経』や『尚書』の学問だけをした。旬月に、邑を成した。学者でなければ、会わなかった。公孫度は管寧の賢さに安らぎ、民は管寧の徳に教化された。
いっぽう邴原は剛直で、公孫度に警戒された。管寧は邴原に警告した。「潜み龍は、大人しくしていないと、禍いの道を招く」と。
孔融を嫌って遼東へゆき、名声が鄭玄とならぶ邴原伝
管寧の発言を見ると、管寧が「わざと」大人しくしていることが分かる。中原の混乱を避けて、遼東に来たが、遼東は「何をやっても許される、別天地」ではない。公孫度に警戒されたら、殺されるかも知れない。管寧は、もともと隠士キャラっぽい性格だが、「公孫度に警戒されない」という処世術を、わざわざ選んで、大人しくしていた。生来の気質のまま、正論を振りかざし「清議以格物」する邴原とはちがう。
生来の気質と、処世術との関係を、メタ認知できてるなあ。もし管寧が、生来の隠士キャラを破って、正論を振りかざすほうが、処世術として有利な場合(そんな場合は、まずなかろうが)管寧は、派手に立ち回っただろう。
管寧は、ひそかに邴原を、西(中原)に帰らせた。
公孫度の庶子・公孫康は、父のかわりに遼東の郡治にいる。そとには「将軍」「太守」を名のったが、うちでは「王」心があった。管寧を補佐につけたいが、公孫康はそれを口に出せなかった。このように管寧は、敬い憚られた。
現代日本で、どこかのブログで、ふつうに「今日の出来事」として、このように友人の心を見透かしている記事があったら、疑わしい。まして、公孫康に会ったこともない後世人が編纂した史料の記事なんてなー。
皇甫謐『高士傳』はいう。
管寧のいた屯落では、井戸をくむとき、男女が闘訟した。こっそり管寧は水を汲んでおいた。闘訟せず、ラクに水を得た男女は、これが管寧のしわざだと知り、闘訟を恥じて辞めた。また、隣家のウシが管寧の田を食べると、管寧はウシを涼処につれてゆき、さらに飲食させた。管寧による教化は広まった
参考:ツイッターからの引用
このページを作っていたとき、おもしろいツイートを見たので、引用します。リツイートじゃ、いつ消えるか分からないので。勝手にいただいて、すみません。
@Golden_hamster 交州(士氏)-揚州(孫氏)-徐・青州(臧覇ほか)-遼東(公孫氏)というつながりがあった可能性。交州と遼東は直接には接点が無かったかもしれませんが、孫氏を介して文物の交流(交易)なんかあったりなんかしちゃってたんじゃないか、とか夢が広がりますね。公孫氏の青州側進出は交易拠点か海軍の拠点の構築のためか。
@gishigaku 遼東抑えたくらいでは中原に鹿をおう内に加わったとはみなせないということなんでしょうかね。結構広大な東夷世界(東夷伝の戸数合わせたら蜀漢にほぼ匹敵)の実質的宗主だったとも思われるわけですが。
@yunishio 臧霸が反逆者をかくまうと劉備が説得。平素に親交あったか。麋竺は泰山から分割された嬴郡太守に。劉備が挙兵すると昌霸が呼応。劉備と昌霸が敗れて関羽が曹操に帰服、関羽と張遼に親交あり。劉備を推挙した平原相の孔融も魯人で、陶謙らとともに朱雋を推戴、遼東と関係。平原名士の多くは遼東へ。
@yunishio 朱雋を推戴した陶謙らの上表文の列名はとても興味ぶかいのだが、『三国志』に引かれてないのでほとんどスルーされている。陶謙、孔融、応劭、徐璆、鄭玄らがずらずらと名を連ねている。その他の顔ぶれもおおむね泰山一帯の領袖ども。劉備はそのうち陶謙、孔融、鄭玄と面識あり。
@yunishio 陶謙の上表文に列名したのはおおむね青州、徐州の統治者。服虔の名も見え、なぜか学者が多い。被支配層も学者。諸葛亮もここから輩出。朱雋は孫堅の元上司であり、孫堅と陶謙は元同僚。孫堅との繋がりも。「海岱」地域は、文と武の両面を極めている。これを支配したのが陶謙、劉備、呂布、臧霸。
@Golden_hamster @yunishio 応劭、鄭玄、服虔と有名学者が名を連ねてましたっけ、確か
@yunishio 鄭玄以外は、肩書きとしては刺史か郡守でしたが、なぜか学者として名を残す人が多いです。学者まみれっすなw あと、陶謙は呉の張昭にも慕われてましたし。
こうして引用しておくと、自分でこのサイト内検索をしたとき、たかい確率でヒットするので、どんどん読み返せるのです。
次回、管寧と邴原をうわまわる名声の、王烈伝がまぎれこむ。
そのあと管寧は、曹氏の4代にわたって招かれる。つづく。