01) 序言+家産国家の漢家
越智重明『魏晋南朝の貴族制』研文出版、1982
の読書メモです。まとめるのでなく、ダラダラと引き写しながら、問題関心を整理していくという作り方です。ろくな考えもなく、筆写しているところばかり。自分用メモとしては、超有用な予定! 敬称略です、すみません。
序言
北朝の貴族は除く。貴族に3つの理解。1) 用語の内容、2) 歴史感覚にもとづく概念規定、3) 用語+概念。宮崎市定は、概念規定をした。
東晋南朝では、貴族とは門地二品。公卿大夫、士庶の身分にてらせば、大夫以上。大夫以上が、門地二品のだいたいの前身。越智氏は、門地二品から遡って見る。
社会的存在(士人)と、政治的存在の両面をもつ。政治的には、天子の支配下。だが社会的には、天子から部分的に独立。独立の基盤を検討すべき。
清代は貴族に、家系の優秀性をみた。内藤湖南はいう。地方の名望家として永続した関係からでたのが貴族。名望の源泉は、幾代も官吏を出したこと。貴族は社会の実権をもち、通婚した。だれが天子になっても高官を占め、政治を持ちあった。いくら実力者でも、天子となれば、貴族階級のなかの機関になる。機関としての天子は、貴族の共有物だから、1人で絶対君主になれない。貴族は天子に屈しない。
「だれが天子になっても」は、王朝がつぎつぎと後退した南朝の研究から、出てくる話だなあ。漢魏の交替期を見つめている限り、まったく発想できない。ただし、「やがて南朝のようになるから、漢魏にその前提が含まれている」というのは、詭弁だ。歴史の決定論、進化論である。そんなの、面白くない。また、「前提が含まれていない」は、誤りだ。ゼロじゃない原因が含まれている。「胚胎する」なんて比喩に逃げれば、ゴマかされるが、、どこが必然的(に見えるほど) につながり、どこが偶然的にでも断絶したのか。その選択が、論者の腕前によるのだろうな。
岡崎文夫はいう。南北の通婚がない。南朝の天子は、北朝と対立するため、権力を与えられる。梁代、国家が貴族制に体制をあたえた(因果が逆転した) ので、貴族制は完成し、かつ同時に消滅した。北朝の孝文帝の改革とおなじだ。
宮崎『九品官人法の研究』はいう。
貴族制は、君主権と対立する。君主権は貴族制をきりくずし、純粋な官僚制に変えたい。しかし君主権のおかげで、貴族制が維持された。君主権が弱ければ、貴族制は、割拠して終わった。
矢野主税の寄生官僚。『南斉書』明帝紀に、私門の困窮がある。『顔氏家訓』に、北人貴族が土地をもたず、俸禄で生活しているとある。
越智氏はいう。官人は、個人としての出自に重点がある。世襲は結果にすぎない。漢代は、郷挙里選が行われない。曹魏の中期から、郷村の輿論が、官人の資格となる。貴族に、貧困や、俸禄生活者がいても、貴族の本然が寄生官僚ではありえない。南朝の北人貴族は、官人の特権をつかい、大土地所有をしてゆく。
貴族は、郷党社会に基盤があるというのが、川勝義雄、谷川道雄。一般民衆から、肯定や敬仰をうけてると理解する。堀敏一、渡辺信一郎もおなじ。
魏晋南朝で、天子の支配権力は2面ある。1つ、専制君主権力。2つ、郷村社会の輿論。貴族制は、司馬懿により、州大中正によって基礎づけられた。貴族制は、上は天子、下は官人や郷村(さらに一般農民層)まで連結していた。
貴族制は、貴族のなかから天子を出さなかった。なぜか。天子は軍事力を持つが、北人貴族は軍事力がない。南北の貴族が一体でない。事務官としての能力を欠く。ほかに以下4つがある。
1) 貴族層が唯一の政治的支配者になり、かえって宙にういた
2) 三五門といわれる庶民層の台頭に、対処できず
3) 分割相続により、父の官職を順調につげない
4) 恩恵と報恩による、任侠の結合
貴族制が衰退した原因は、以下3つがある。
1) 天子が郷論を優先して、一元支配した
2) 郷論に有力庶民層が混じった
3) 貴族層を認めない叛乱;侯景、西魏の江陵攻撃
漢魏晋南朝の国家の性格_014
氏族制社会が戦国に崩壊した。君主は、土地と民衆を、私的・直接的に支配し、官人層をもちたがった。土地のすべて課税する。不毛の土地も課税する。官人は個人の能力による。世襲はない。官人は、農民層=庶民層からでる。組織としての国家は未成熟である。「家産国家」とよぶ。
ありがちだが、西洋から借り物の概念。ぼくは、借り物であることの是非は問わない。ただし、「秦漢帝国が家産国家を目指した」という前提で、話をしてはいけない。ここは留意する。越智氏が秦漢帝国を見たとき、家産国家の概念が使えるなー、と思ったということ。「家産国家」というアトヅケの用語だけでなく、その内容についても、注意して扱おう。漠然と「支配が徹底した帝国」というと、この家産国家を思い浮かべてしまう。この「思い浮かべてしまう」という誘惑の強さが、判断を狂わせそう。
「家産」は、日本史を考えるときに駆使された用語。そちらも見ねば。
家産国家は、専制君主権力にすすむ。隋が郷官をやめて、科挙をやり、専制君主国家をつくった。律令により組織化された支配機構が、君主権をつかう。国家が、君主の私物から、公的なものになった。
企業なら、大学院から定常的に人材を吸い上げるパイプをつくって初めて、組織が完成する。いちかバチか広告を打ち、集まった人を面接し、ヤマカンで人材採用しているうちは、秦漢帝国どまりである。笑
前漢の景帝までは、家産国家だ。景帝の末期、国家財政と、天子の私的財政を分けた。武帝は、天子の私財を国家の財産とした。収入を、帝室から国家に移した。後漢に、国家の財政が、帝室の財政を吸収した。
はじめは、天子の私財のみ。つぎに、国家財政に分裂。国家財政が充実してゆくと、ぐるんと裏返って、ぎゃくに国家財政が、天子の私財を吸収すると。
っていうか光武は、挙兵しばらくは、私財しかなかったはず。体制を整備するプロセスのうち、どこで国家財政を作ったのだろう。「物理的な財宝を、前漢から引き継いだ」と考えるのは誤りだ。王莽や更始帝が使っちゃったはずだ。そうじゃなく、管理する組織の整備という点から、見るのが正解だろうなあ。
天子の私財をみるのは少府。少府は、尚書や侍中を統率した。少府から、尚書や侍中がでたのは、六朝。六朝になり、家産国家(天子の私物国家)の性質は、ぬぐわれた。だが魏晋の天子は、2種類の土地と民衆をもつ。天子の私民(兵戸や屯田)により運営した。後漢より後退している。
いちど後漢で、国家と天子の財布があわさった。主導権を持ったのは国家である。つぎに「期待」されている専制君主では、君主が主導だ。この分化は「後退」とは言えないと思う。せいぜい「やり直し」「リセット」と言うべきだ。
以下、ドラゴンボールに例えて理解する。
はじめ、「18号(天子の私財)しかいない」前漢だった。武帝のとき「セル(国家の財政)」が後から作られた。光武のとき、セルは18号を吸収した。最後に「18号がセルを吸収した」隋唐にゆくべきなら、「セルが18号を吸収した」後漢よりも、「セルが18号を吐いた」魏晋のほうが、まだ近づいている。うっかり、望む結果とは逆の合体をしたので、いちどリセットしたと考えるのだ。
この例え話には、3つの欠点がある。1つ、ドラゴンボール世代以外には分からない。2つ、17号を無視している。3つ、「18号がセルを吸収すべき」というゴール設定は妥当か。とくに3つめが良くない。見た目がキモい。じゃなく、家産国家から先制君主という筋道で考えるのは是か非かということ。べつに隋唐をつくるため、後漢が滅びたんじゃない。
西晋は、天下の土地と民衆を、天子が一元支配した(兵戸はのぞく)。貴族制が、一元支配を妨げた。先制君主権力になれなかった西晋を、越智氏は後期家産国家とよぶ。
曹叡は、尚書令の陳矯に「尚書の文書を見るのは、天子の職務でない」と妨げられた。天子は、官人の検討結果を決裁するだけ。法家として組織に厳しい曹叡ですら、うっかり手を出すほど、家産国家(天子の私物たる国家)の色彩がのこっている。
おなじ葛藤が、雇われ社長のいる会社でも起きそうだ。会社のオーナーは株主。社長は、職務を与えられているだけ。うっかり部下の職分に手を出すと、「社長の仕事じゃありません」と叱られる。「オーナー社長のつもりかよ」と叱られる、雇われ社長。曹叡は、そんな感じだ。
曹叡は、家産国家の君主(オーナー社長)として振る舞った。だが陳矯は、専制君主制の君主(雇われ社長)になれよと、曹叡を叱った。ぼくが一瞬まちがえたのは、専制君主制なら、君主は何でもできるってこと。ちがうのね。官人機構を整備して、それぞれ職分をもつ。機構の頂点にいる天子は、機構がまわるようにつとめ、最終的に決裁するだけ。何でも手を突っこめる、オーナー社長ではない。
ぼくは、隋唐の皇帝のように「つよい君主」と聞くと、家産国家の君主をイメージしていた。ちがうのね。「よく調教された雇われ社長」なんだ。イメージ的には。ぼくが誤りやすいから、くり返しても、くり返し過ぎることはない。ウェブは、スペースがゼロコストだし。笑
前漢の景帝までは、財政的にはオーナー社長だったが、後漢にかけて変わってゆく。後漢は、まったくの雇われ社長。雇われ社長というのは、オーナーの世襲によって、就任するのでない。ヒラとして入社して、コツコツと出世し、従順&安定&調整するタイプだ。「創業者一族とのパイプ」はあるだろうが(でないと社長になれない)、創業者とは他人である。前漢と後漢の、同族のような他人のような、微妙な距離感をイメージしやすい。
魏晋の君主は、みずから大企業の雇われ社長でありながら、自分がオーナーのミニ会社をつくり、こっそりバイトしているような感じ。税金対策なのか?
魏晋南朝は、後期家産国家の時代であるが、専制国家との関係も見るべき。
個別人身的支配-集落農民の均質性_019
漢代の支配は2つの理解。西嶋定生は、個別人身的支配。増淵龍夫は、任侠的習俗にもとづく支配。
越智氏はいう。人身は、農村・農民への支配。任侠は、土地から離れた者への支配。西嶋と増淵は、見ている対象がちがう。
氏族制がくずれ、農村は集落単位に、均質な構成員を、年齢秩序でたもった。二十等爵制。集落民が、おしなべて貧しいとき、支配しやすい。ふるい支配形態、家産国家になじむ。
『白虎通』は、親兄弟らに経済的に相互扶助しろという。女子を媒介として、九族まで含める。自立の現実的な単位は、夫婦。夫婦のサイフは同じで、子は夫婦に「孝」して尽くす。つまり漢代、父子のサイフは別。年齢秩序は「悌」による。
城内に集落、入会地あり。『公羊伝』何休注。
集落の秩序は、君主への「忠」に直接ならない。「悌」を「孝」に読み変え、「孝」を「忠」に読み変える。
年齢秩序は父になぞらえ(悌から孝)、里三老、郷三老になる。県三老、郡三老、国三老にひろがる。輿論に支えられる。
もし父子のサイフが同じなら、子は父を重んじない。だから漢代の法制は、父子のサイフを別にさせた。これが「時代的限界」である。
漢代の「家人=庶民」という図式。天子が、漢家
として直接支配するのは、庶民層だけ。士族は、まだ漢家の家人でない。漢家から独立した家の主である。漢家と同質である。士族(やがて貴族)が、漢家の支配をさまたげた。
「家人=庶民」は、戦国時代から用法がある。後漢中期に、急に減る。六朝には用法が消える。六朝は貴族が強まるのに、おかしい。戦国以来、「家人=庶民」は、均質な個人を官人にもちいるという図式をしめす。後漢の中期から、上下の社会階層が割れ、六朝で均質性が破綻する。官人の家と、庶民の家が固定化する。だから「家人=庶民」の図式がきえた。
個別人身支配は、おしなべて貧しいことが前提。漢代の河北で、牛耕で貧富がひろがり、父子のサイフが一緒になる。年齢の秩序が否定され、三老の支配がきえる。民爵は形骸化する。そのくせ漢家は、年齢秩序、爵制、税役をつづける。「おしなべて貧し」くない社会に、「おしなべて貧しい」社会むきの支配をしたから、漢室は滅びた。
すると、曹操の革新性を、すごく大きく見積もることにある。もちろん、曹操その人だけの力じゃないんだが、、呉蜀がダラダラしているうちに、曹魏はすごく「時代の先取」をしていた。言い方によっては、「呉蜀のプレッシャーのおかげで先取れた」「曹魏が南朝の基礎をつくったのであり、曹魏が南朝を先取ったのでない」とも言えるけど。曹魏は、ほんとに過渡期的にあらわれ、司馬懿の州大中正などを生み、美しく散ったなあ!
官界における任侠的習俗、他_033
増淵龍夫の任侠的習俗。土地をはなれた結合なので、農村の均質性が破れても存続。秦漢の群雄は、遊民を組織した。前節・西嶋の、土に根ざした郷村とはちがう。
まず故吏。もと掾属。新たな長官に移ると、たいていは消える。しかし、建碑、悪評への反論、妻子の保護などもする。司馬攸の掾吏・温羨は、司馬冏に親しまれた。侍中の周毖は、袁紹の外延勢力になった。韓馥は袁紹に冀州をゆずった。『魏略』で桓範が司蕃に「わが故吏のくせに」という。
『傅子』で韓嵩は、劉表から曹操にうつった。曹操は韓嵩を零陵太守とした。零陵太守は、荊州刺史の臣でない。
後漢で、張掖の呉詠は、馬賢と龐参の板ばさみ。長官が複数になる。これは日本のタテ社会では起きにくい。中根千枝『タテ社会』を見よ。中国はヨコ社会だ。
南朝には、天子よりも長官を重んじる。賀弼とか。「二君に仕えない」は稀薄。西晋の懐帝の侍中・辛勉は、劉聡に仕えなかった。王育や韋忠は、劉聡につかえた。彼らが『晋書』忠義伝にあるのは、二君に仕えても良いってこと。
受禅は儒教的名教による。礼を奉ずる貴族層は、旧王朝から新王朝にうつるべき。貴族層より以下が、まごころを持って新王朝の天子を迎えれば、非難されない。1王朝に殉じるのは例外、というのが六朝貴族。
2章の曹魏へとつづきます。