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02) 家産国家の曹氏政権

越智重明『魏晋南朝の貴族制』研文出版、1982
の読書メモです。まとめるのでなく、ダラダラと引き写しながら、問題関心を整理していくという作り方です。ろくな考えもなく、筆写しているところばかり。自分用メモとしては、超有用な予定! 敬称略です、すみません。

曹氏政権と貴族制_044

曹氏政権の直接的基盤は、州郡民でない。曹氏の私民的な兵戸と、屯田の耕作者だった。兵戸と屯田耕作者の合計は、州郡民より多かった。曹氏政権は、変質した家産国家(君主の私物)である。

ぼくは思う。「州郡に課税して天下を治める」という、ソボクなイメージと違い過ぎて驚いているんですが、、もうコンセンサスのあることなんでしょうか?
@Golden_hamster さんはいう。どこまでコンセンサスがあることかって言われると難しいところですが、基盤が漢代の郡県制に乗っかっていたなら、民屯みたいなのはどんどん解消されてしかるべきですが、そんな感じがないですからね。
@sweets_street さんはいう。典農中郎将は孝廉を推挙する権限があったので、民屯は郡国に匹敵する人口を抱えていたと考えて良いんではないでしょうか。264年に屯田が廃止されて、266年に屯田民を郡国に編入して、何個も郡国が新設されています。晋書武帝紀の泰始二年の項に、「十二月,罷農官為郡縣」とあります。

貴族制が存立するとき、官人層とくに貴族層が、郷論に地位を支えられる。兵戸や屯田の意見はは、郷論にふくまない。後漢末、「豪族」層の輿論として、郷論があらわれた。曹氏は「豪族」を無視できないが、現実の選挙では、郡単位に中央官人層の意向をきいた。徳行よりも人才を重んじた。
ただし郷論は「礼」を基準としたから、直接全員にきかないが、小「豪族」層=里正クラス、の意見を反映した。貴族制の萌芽はあるが、州大中正が出てくるまで、曹氏は一方的支配の貫徹をめざせた。

兵戸制・屯田制と後期家産国家_045

曹操は、地盤も兵力もなかった。郷村社会に「豪族」が跋扈したので、後漢をにぎっても仕方ない。兵戸制と屯田制をはじめた。
後漢末、流民がおおく、州郡民がすくなく、傜役を徴発しにくい。「豪族」のもとに入った州郡民を徴発しにくい。

ぼくは思う。州郡が弱ったので、曹操は兵戸と屯田で解決した。光武は、兵戸と屯田をしたっけ。曹操と光武の差異は、なんだろう。光武のときは州郡が生きていたから、兵戸も屯田も不要だった?光武も曹操も「戦闘がながびくなあ」という感じは同じだと思う。だから光武が「生産基盤をいじらなくても、既存の体制のまま、天下統一まで行けるでしょ」と楽観したとは考えにくい。

建安十三年、司馬芝伝にいう。済南郡で豪族の賓客を徴発できず、県掾史がみずから兵になろうとした。豪族の庇護下にいる人を徴発できない。曹操は建安九年、税率を軽減した。収穫の100分の1。田租は東晋まで変更なし。

曹操は、士家=兵戸の制度をもうけた。 典農 屯田をやり、経費をまかなう。兵戸制は浜口重国。典農屯田制は西嶋定生。

浜口も西嶋も、読んだような、読んでないような中途半端な状態。ちゃんと読む。

屯田は、建安元年。1年に数千万石の収入。兵1人が年間60石なら、3千万石で、兵50万人。司空掾属の国淵が屯田をつかさどる。曹操個人のもので、献帝と連ならない。建安十八年、魏公となり大農をおく。のちに曹朝の大司農。軍兵がたがやす。魏朝は、尚書の度支尚書がつかさどる。西と南におく。
すでに後漢で、度支尚書が国家財政をみて、大司農は治蔵した。魏朝の収入も、度支尚書がみた。

後漢の度支尚書は、屯田「以外」の管理をしてたわけね。後漢には、屯田がないだろうから。

西晋初、課田となり、典農屯田の官位が、郡県の長官にかわる。

屯田耕作者と兵戸は、戸数が郡民(編戸)でない。曹操が魏公となるとき、荀攸が「魏公国の戸数は、4百万の半分もない」という。魏代の州郡民は、50万戸。後漢の戸数より少ない。魏公国はさらに少なかろう。
西晋初、245万戸。屯田を州郡に入れたものだろう。70万は屯田だ。377万戸に増えるのは、呉を併合したから。平呉のとき、西晋は60万戸、呉は23万戸。合計で460万戸、約500万戸で計算があう。。

ちゃんと引用してない。また50ページを見よう。

曹氏が兵戸の維持をがんばり、西晋は兵戸だけで平呉できた。曹操は兵戸に、むりに妻帯させた。兵戸も屯田も、賤民でない。『魏略』曹叡への上言で、太学や仕官が言われている。鄧艾は、屯田民が出身。
魏代から西晋の統一まで、数も質も、兵戸と屯田の戸数が多かった。どちらも天子の私民だが、州郡民とおなじく国家の民であった。孫呉も同じだ。つまり魏晋は、家産国家である。

兵戸と屯田は、州郡の民でなく、天子の私民だけれど、社会的な身分はおなじ。むりに西洋近代の「所有」「公私」の概念で見ようとするから、ワケが分からなくなるのだ。ちょっと頭を冷やして考えよう。「じゃあ、州郡の民はだれのもの?」という疑問が湧いてくるが、問いの立て方を誤っているのかも知れない。
浜口、西嶋を読んで、出直してこよう。

『隋書』食貨志では、西晋後半に、州郡民が260万戸に減る。豪強がつよまり、天災で流民がおきた。

後漢末って、曹操だけが屯田を始めたのだろうか。曹操の創意ではない。前漢から前例があるから、誰でもやるだろ。後代につながらないから、記録に残らなかった。短期間では結果が出なかった、とか? そういえば呉蜀はどうしてたんだろう。


異姓養子_052

軍国主義にむすびつき、旧来の礼にそむくのが異姓養子。曹操。陳矯。呉商。王粛。賈充。

後漢末魏晋南朝の郷村社会と任侠的習俗、郷論_059

後漢末、保、ホ、塁、塢をつくる。数千家も住む。田疇。塢主は、全面的に服従される、恩恵と報恩の関係。塢主との関係が、天子との関係より重い。塢をつくるのは、一族、同郷、流民との混合、流民のみなど。
東晋の塢主劉カ・劉カが死んだとき、東晋がおなじ官位の後任者をおくりこんだ。塢主の子を立てる動きがあったが、けっきょく後任者が立てられた。東晋が後任者を任じたことから、「もとは塢衆は州郡の民」という前提がある。

劉焉の死後、劉璋に継がせるか、という問題を思い出す。もちろん益州は「州」であって、「塢」ではない。字が違うから、知ってるけど。笑


宮川尚志によると、「村」という名称の集落は、後漢に出現した。自律性があり、水利や潅漑をする。自衛するから、塢壁をつくる。東晋南朝になると、1村で数百家、2千家にいたることも。新たに無人の地にも出現する。
塢主の支配は、「豪族」の任侠的支配といえる。村の出現は、恒常的な動乱が始める可能性をしめす。村は里をさしおく。

郷論は、「豪族」とその下の任侠的関係の人の意見の総和でない。儒教的名教-礼をふまえたもの.
 1) 漢代から六朝も、礼は庶人におよぶ
 2) 学問さえ修めれば、微賤な庶民でも士人となれた
 3) 郡で名声ある「豪族」でなく、中央で士名を得られた

家格が固定されるのは六朝。漢魏では、儒教さえ修めれば、地域の名声がなくても、地域に財政基盤がなくても、代々高官を出していなくても、高官になれる可能性があった。つまり、天子がプライベートに抜擢する、家産国家として、「おしなべて貧しい」均質な庶民の集団から、人材を抜擢してくれたと。

晋代になると、郷村社会の名声と官位がつながり(鄭沖伝)、郷党に認められるのが任官の条件となり(裴秀伝、王濬伝)、家族道徳を中心とする礼でまとまる(孔愉伝)。寒微で官吏になるのが残るが(張茂伝)。
官人になるには、学業を修める必要があるが(魏舒伝、虞溥伝)、やがて学問より家格が階層を帯びてゆく。

曹操政権と士人層_066

周代に、公卿大夫士庶という身分があったとされる。戦国時代、士庶の区別ができた。政治的身分、社会的身分の両方をしめす。「均質な庶から、すべての士が出てくる」という考え方。「家人=庶民」という図式。六朝に消える。
魏晋南朝の貴族制は、君主権力と、士人・郷論との相関関係で生まれる。だが曹操と、士人・郷論の相関関係には、貴族制の萌芽があらわれない。曹操が受禅をめざすと、変化がうまれる。

曹操が受禅するまでは、曹操もまた家産国家の延長にいましたと。郷論なんて無視して「君主-均質な庶人」の構図が成立していましたと。越智氏はそこまで書いてないが、ぼくが読んだ限り、そういうことだ。

曹操は儒教的名教を無視するようなことをした。郭嘉をもちい、建安十五年「廉潔の士でなくてよい」と言った。儒教でない唯才。建安十八年、九錫を受けてから、新王朝の意図があらわれる。

儒教の軽視は、曹操に受禅の意思がないこと。儒教の重視は、受禅の意思のあらわれ。そういう理解だ。

曹操は、中央も地方も人材をあつめた。魏王国ができるまで、後漢の中央官に任じることもした。建安十三年、劉琮を降したら、韓嵩、蒯越、劉先、鄧羲を中央官にした(劉表伝)。
魏王国をつくり、曹魏の官をあたえた。建安二四年、夏侯惇だけが漢官だった。
史渙のように、漢官を受けても曹操に臣従した人がある。河北四州の「知名の士」は、次第に曹操の省事・掾属になった(曹操は掾属に杖刑をした)。地方官や武官の出身でも、魏王国の中央官になった。
曹操は法家だが、韓非でなく、情誼もあった。袁渙の死を悲しんだ。蒋幹に誘われた周瑜が「骨肉の恩」の情誼により、断るような風潮。

建安一七年、曹操が九錫を受けた。受禅にはっきり進んだ。陳蕃や孔融は、後漢の終わりを予期しなかった。荀彧以外は、曹操の受禅を認めて、士人としての主体性を放棄した。荀彧があげた人や荀攸も、九錫を支持した。
曹操や曹丕の高官は、地方豪強、「豪族」として、地方の利害を代表する者として、地位にあったのでない。温恢は郷村の尊敬を受け、張遼は純然の武人だった。みな曹氏の臣下としての功績・才幹によって、個人の資格によって、地位にのぼった。
曹操は郷村社会の動向に顧慮せず、中央官界の官人を把握した。中央官界の秩序は、郷村社会の名望の序列とくいちがう。曹操の庇護で、中央にて生きてゆけた。
ただし、
「豪族」の無視は不可能。地域により、敵につく可能性がある。ここからも曹操の軍事と経済は、郷村社会でなく、兵戸と屯田を基盤にしたと分かる。だが土断までは着手しない。

南朝は盛んに土断する。それと比べることで、曹操が「手控えた」ことが言えるのだろう。漢魏だけ見ていると、言えないことだ。

曹操は、私従を、直接あるいは間接に把握した。塢壁をつくった許褚を得て、その配下を都尉や校尉とした。 曹操が許褚を、元部下から切りはなし、直接把握した。李乾は、私従や賓客を故郷にのこし、死後は子の李正に継がせた。李乾の家族を鄴に住まわせ、私従を間接把握した。
曹操は郷村の声望をもとに、官人を用いて治安維持した。丞相東曹掾の何夔に「郷村の評価を考慮せよ」といい、何夔は魏国の尚書僕射となった。魯粛は孫権に「曹操は郷村社会の輿論から、私を用いるだろう」と言った。曹操も、郷村を完全無視はしなかった。

ぼくは思う。許褚は、袁術の支配から免れるため、塢壁をつかった。何夔も袁術に反発した。魯粛も袁術に反発した。いま「曹操が無視しなかった郷村の評価」という事例に出てきた人は、みな袁術を拒んだことがある。関係あるのかなー。ないのかなー。

唯才の枠内で、郷村社会とのつながりを問題にしている。何夔へのセリフから分かるのは、支配者(曹操)が人事権をにぎる前提で、人材を判定する手段として、郷村社会の評判を聞けと言った。

司馬懿よりのち、支配者よりも、郷村社会の評判が優先されるようになっていく。その伏線として、これが書いてあるのだろう。漢魏だけ見た場合、「支配者に人事権があるのは当然だ。何を今さら」と感じてしまう。ちがうのだ。南朝には「だれが天子でも、高官を輩出しつづける家」が出てくる。伏線としては重要!

曹叡は太子舎人の張茂の諫言にたいし、「郷里の声望に頼り、そんなことを言うのだ」と言った。

受禅するには、正当性がいる。曹操の軍事力、屯田耕作者だけでは、理論に欠ける。天命を受けるのは儒教的な理論。輿論にもとづき、人材を登用せねばならない。
建安十五年「野望がない」と公式意見を発表。建安二十一年、魏王となる。『魏略』で孫権は曹操の天命をほめた。『魏氏春秋』で夏侯惇と曹操が天命を語る。曹操は死亡した。
法家を後退させ、輿論に応えたのが、曹丕の九品官人法。

九品官人法の制定とその目的

延康元年(220)、魏王国内で九品官人法がはじまった。のちに全国へ。郡中正にあわせ、国中正をもうけた。魏国の尚書・陳羣がもうけた。
 1) 士人の官僚としての能力を知る;徳より能
 2) 官界に任侠的関係をもちこまない (辟吏と故吏、察挙の吏)  3) 郷論をとるという意思 2つめについて。曹操は、旧来の選挙制度(故吏と任侠的に結合)を肯定して、勢力を拡大した。曹操は、「故吏を他に送りこんで権力をにぎる」なんて、回りくどいことをしない。「門生を養成し、自分の部下にする」もしない。必要な人物は、直接の部下にすればよい。曹操を支えるのは、曹操の官人、魏国の吏だけ。五井直弘いわく、曹操政権の人物は、司空や丞相のとき掾属になった人を中核にしたと。
旧来の選挙制度は、曹操にジャマ。他者の故吏がまじる。他者との任侠的関係を否定しにくい。袁譚のために哭した者をゆるした。九品官人では、この関係を断ち切るべき。天子の支配権力を強めるべき。
3つめについて。『晋書』衛瓘の上書で、郡中正が郷論をもちいるという理解をする。曹操が天下の輿論を用いるなら、不可避。しかし、郷村での孝行が、官人としての能力と対応しない。ジレンマ。
曹氏が天子となったとき、晋南朝の貴族の祖先が高官にいる。だが曹氏のとき、貴族制が出現したとは言えない。萌芽があるのみ。

同意見です。曹氏の段階から、どちらに転ぶかは未知数だ。


曹魏の受禅は、儒教の倫理を打ち出したが、じつは権力闘争の勝利。曹氏は法家をのこした。鍾毓は、君主や父親の死後、臣子が理謗するのを許す制度をはじめた。これは儒教から離れたもの。??
西晋の劉毅いわく、陳羣の九品官人は「仮のもの」だ。郷里の選挙制度を、いまいち踏まえない。曹魏が、漢魏を交替させるために、一時的に置いたものと理解する。受禅してしまえば、九品官人は要らない。そう理解された。西晋の劉毅、衛瓘、李重は、周の郷挙里選から見ても、漢魏の選挙はちがうという。

九品官人は、反魏の分子をのぞくための資格審査。受禅は宮川尚志にくわしい。魏国の人事官が、後漢の官人を支配して、資格審査するのはおかしい。禅譲の意義にそむく。矢野主税は、魏国の官僚を充実させておき、後漢と絶縁して登用されたという。 反魏をあぶるのは主目的でない。後漢の有能な官人は、ほとんどすべて魏国に用いた。

九品官人法制定の実効_083

九品官人は成果をあげた。官人の能力を察知できた。「郷論にしたがう」は標榜のみで、けっきょく能力にもとづいた。中央の官人勢力や、地方「豪族」勢力に左右されず、曹操が支配した。曹丕は個人の好みで、能力のあやしい賈詡を太尉とした。曹氏と関係のうすい地方士人は、つづけて関係がうすいまま。
このころ地方「豪族」は、郡単位で士人集団をつくった。単寒な人を仲間からはずした。「軽財好施」も名声を高める手段。ほんとうに極貧なら相手にしない。「豪族」は郡中正と対立する。だから郡中正は、形式だけは「豪族」の意向をくんだ。
ただし、郡中正の文句は「徳があるが能なし」と。郷村社会の徳行と、切りはなされている。郡中正は、単家寒微でも中央の高官につけた。

任侠の持ち込み禁止について。
「郡太守が資格者をえらび、司徒府にうつし、認められたら尚書省が郡中正に発令する」という形式をつくった。尚書省では、供御から路売りまで、中正に差叙した。
郡中正が「状」「輩」をあげる。司徒府が認めると、尚書省の吏部尚書が官職を与える。中央の流外官をあたえるのだろう。初任は中正の系統になる。

州大中正の話が混ざって、よく分かってないが。「就職されてありがとう」という気持ちが起きにくいように、すぐ直属の部下にしなかったってことかな。
例えば企業の採用で、「営業1課長のA氏に採ってもらった、だから私は営業1課にゆきます」だと、任侠的に結合する。しかし、顔の見えない人事課の人が採用を行い、そのあと配属で、たまたま営業1課に行ったとしても、任侠的には結合しない。

魏代、長官が誅死して、故吏が免官されたのは、曹爽だけ。司馬懿が反対者をのぞくため、わざと後漢の古礼に基づき、連坐させた。だが魏代に故吏をセットで罰するのは、一般的でない。西晋の楊駿、東晋の王敦は、連坐がない。

中正があたえた、状や郷品と、任侠の関係。中正の人物評定は、3年に1回。中正が誅殺されても、郷品を受けた人が、免官や除名されない。ぎゃくの場合でも、郷品を与えた人は免官や除名されない。任侠関係は生じない。

わかりやすい。宮城谷『三国志』で、後漢の故吏たちが、恩人のために死体をとむらい、称賛される。『後漢書』を読めば、そのとおり書いてある。だがこれは後漢までの特別な事情である。袁紹が権力を持てたのは、後漢だからだ。曹魏末に、袁紹のような人物が出てくることはできない。
「曹氏は袁氏の再発生をふせいだ」というと、小説的に結びつけすぎるが、結果としてはそういうこと。

『袁子』はいう。曹魏は吏部尚書をおき、百官を選ばせた。しかし中正がはさまるので、吏部尚書と選ばれた人が、任侠的に結合することはない。人事の「責任者」を漠然とさせ、任侠的結合をふせいだ。

例える。企業の配属担当は、採用担当がひろってきた人材を並べるだけ。自分で採用したんじゃないから、愛着がそれほど湧かない。採用担当は、「こいつ可愛いから、自分の下に置く」ができない。うまく人間関係を薄める仕組みだと思うなあ。
しかし「責任者が漠然とした」は、言い過ぎだろう。そんなこと言えば、今日の大企業は、みんな責任があいまいに人材採用していることになる。いや、それでいいのか。笑


ただし任侠的結合を、完全に否定できない。人間関係が複雑になると、恩を感じる「上官」が増える。天子の存在がかすむ。六朝の交代劇へとつながる。なお貴族だけが任侠的結合をするのでない。ゆえに任侠的習俗は、貴族制にマイナスに作用する。??

中央士人層の出現とその実態_090

『通典』選挙で沈約がいう。「漢代に士庶の別はなかった。仕官しなければ京師に行かない。公卿や牧守になっても、引退したら郷里に帰った。学問により中央に行けるから、流動的だった」と。士庶の別は、世襲でなかったと。

すばらしき、家産国家の図式。

魏晋に郡「豪族」が集団をつくり、士人層となった。もともとは「単家」でも学問があれば官人になれた。単家の呉質など。呉質は郷里と連帯しないので、士名がなかった。同郷の董昭に侮られた。曹丕に認められても、それだけじゃダメ。
『三国志』王粛伝にある。天水の単家・薛夏は博学だが、天水の四姓にあなどられた。曹氏の序列と、地方の序列は別物。『魏略』に単家の張既がある。『魏略』で馮翊の著姓・徐英が、張既をムチうった。張既は雍州刺史となるのに、著姓からの評価は低かった。

単家の高官の子孫は、曹魏に認められたら、名声を保つのが可能だった。馮翊の単家・尚書左僕射の李義、その子の李豊は、鄴で「清白」とほめられた。孫呉まで名声がおよんだ。李豊は尚書僕射となる。
郡中正は、郷論(本郡の名声)でなく、中央の官人層=士人層の評価が高そうな人を、察したのだ。郡中正は、京師の官人をかねた。西晋の中正が10日に1回あつまったように、魏代の中正もあつまり、情報交換しただろう。浮華な鄧颺も、京師で名を売った。郡中正が鄧颺をおもんじたのは、京師の輿論を反映したものだ。
夏侯玄、諸葛誕、鄧颺らは、中央の士人層である。『世語』にある、劉放の子、孫資の子、衛シンの子らは、父のおかげで名声をえた。中央の名声である。明帝に免官されたけれど。
明帝のとき、荀顗らが胡昭をすすめたとき、郷里よりも中央の意見を優先した。中央の士人層が、こうして形成された。

明帝のときまで。つまり司馬懿が強まるまでは、地方よりも中央だった。豪族よりも曹氏だった。州大中正の影響が、いかにデカいか。司馬氏の役割が、いかにデカいか。それが分かってくる。関係ない(そこまでは言えない)けど、司馬氏が大馬鹿をやっても、東晋が長らく維持されるのは、貴族制を司馬氏がつくったからだなあ。


単家の王経は、許允とともに名士とされ、尚書として誅された。浮華の李豊や夏侯玄と親しかった。王経は虚名があったのだろう。単家も中央にゆき、浮華と交わって士人となれた。

ぼくは思う。「浮華」というのは、司馬氏から見た評価。かってに意味を膨らますと「郷論に基づかず、中央に浮いた名声をもとに、華やかな官歴がありやがる」という意味だろうか。法家よりの曹叡が「浮華」を悪んだものの、曹氏に連なる中央士人が「浮華」なのだ。曹叡は、自分の右腕で、自分の左腕をもぐようなことをしたなあ。

『傅子』はいう。李豊は内実がないけど高官。郭沖は内実があり、杜畿に認められたが、州里にほめられず。 つまりウワベ(中央とのパイプ?)がないと、郡中正があげてくれない。

ただし郷村社会の名教も、確実に重要になってゆく。州大中正によって。097ページ以降の3章「西晋政権と西晋貴族制」につづく。また後日、やるのかなあ。120123