士燮伝 (刺史の歩隲に従うまで)
『三国志集解』を見つつ、士燮伝をやります。
劉陶に師事して『左伝』に注釈する
士燮は、あざなを威彥という。蒼梧の廣信の人だ。
士燮の祖先は、もとは魯國の汶陽の人だった。
王莽の乱のとき、交州に避けてきた。
小嶋茂稔氏の指摘をひく。天子や皇帝、王を自称していないが、荊州の南部から交趾は、自立を保った。鄧譲は、列伝7・岑彭伝にくわしい。
岑彭伝はこちら:『後漢書』列伝7・方面司令官たる馮異、延岑、賈復伝
小嶋氏にもどる。交趾牧、江南太守以下の地方官の動きは不明。自立できたのは、郡県制的な統治機構を、確実に掌握した。交趾太守の錫光は、列伝66・循吏伝の任延伝に、民夷を教導したとある。統治機構に依拠して、在地社会の末端まで、適格に掌握していたと見なせる。
さらに小嶋氏はいう。張歩が瑯邪で自立したとき、更始政権から瑯邪太守に任じられた王閎(王莽の叔父・王譚の子)も、錫光に似ている。「ひとり東郡30余万戸を全うし、更始にくだる」とある。東郡太守として、秩序を維持した。
ぼくは補う。こういう交州に、士燮の祖先が流れてきた。
6世代のち、士燮の父・士賜は、桓帝のとき日南太守となった。
そして、蒼梧の人・士賜を日南太守の任じた桓帝。出身郡の太守にはなれないが、近隣ならなれる。州内で太守の人事をたらい回したのって、なぜだろう。あんまり交州に行きたがる人がいなかったのかな。他の地域と比べてみなくちゃ。パッと思いついたなかで、陳留太守の張邈とかが、出身州の太守になってる。(断片的すぎる例示)
列伝には書いてないが、この6代のうちに、家学を充実させたんだろうなあ。後漢に累代さかえた家って、たいてい何かやってる。士燮の学識が、突然変異というわけじゃあるまい。地方では情報が集まらないだろうに。どうやったのか。中央との文通だろうねえ。辺境であればあるほど、中央とのパイプが太くなりそう。あとで出てくる荀彧の手紙だって、後漢でずっと使ってたパイプがあるから可能になった。後漢末の乱世になって、新たに作る、なんてムリだろうから。
士燮は、わかくして京師に遊学した。頴川の劉子奇につかえた。
ぼくは思う。劉陶は、曹操と一緒に上奏したとか、しないとか、『資治通鑑』でモメていた人だ。「だから曹操と士燮は面識がある」とは、よー言わんが、、せまい世界だなあ。曹操に着目して眺めるから「奇縁」に見えちゃうけど、みんなゆるく、つながっていたのだろう。
士燮は『左氏春秋』をおさめた。
董卓に叛いて、司徒府から交趾にくだる
孝廉に察され、尚書郎に補された。公事で免官された。
父の士賜の喪があけた。
茂才にあげられ、巫令に除された。
交阯太守にうつった。
ぼくは思う。巫県は交州じゃないものの、やたら南だ。なんで南なんだろう。「南方の人なら、南方の統治がうまい」と、カンタンに言えるものでもなさそう。劉陶の人脈、『左伝』の研究成果に照らせば、中央官とか、中原の地方官になっても、おかしくないはずだ。みずから望んだのか。南方出身で、南方ばかりで勤務した人を、ほかに探さねば。東西北でも、同じか。チェックしないとなー。
ぼくがこだわるのは、なぜ士氏が交州を保ったかを知りたいから。
弟の士壱は、はじめ蒼梧郡の督郵になった。交趾刺史の丁宮は、京都にもどる。士壱がていねいに見送ると、丁宮が感動して言った。「もし私が三公になれば、士壱を辟そう」と。
丁宮は、「魏志」董卓伝にひく『献帝起居注』にある。ぼくは補う。石井仁『曹操』で、丁氏と曹操の、補完関係が書かれてた。士燮と曹操は、1人をはさんで縁がある。史料に残らないレベルで、士燮と曹操には、交流があったと断言できる。
(こういうことを書くから、このサイトは叩かれるのだ。笑)
丁宮のほかに、交趾刺史になった人をピックアップしなきゃ。「交趾刺史になるなんて、左遷かよ」と思うが、ちゃんと丁宮は、九卿から三公になっている。後漢の交趾刺史のポストに対するイメージって、どんなだったんだろう。使い物にならない辺境だよ、って思われてたら、交趾に生まれた時点で、士大夫社会に入り込めなさそうだ。しかし士氏は、ちゃんと入り込んだ。距離が離れているが、ちゃんと「国内」という認識があったのだろう。前漢の武帝のときに従えたから、漢室の領土になって、時間が長い。
なぜこだわっているかと言うと、三国がそれぞれ、交趾にどんな眼差しを送っていたか、考えるときに参考にしたいなーと思ってる。「ほしくもない僻地」ではなさそうだ。
のちに丁宮は司徒となり、士壱を辟した。洛陽につくと、丁宮はすでに免じられた。かわりに黄琬が司徒になった。黄琬は士壱を礼遇した。
ぼくは思う。士燮1人が、学問により立身出世した!という話なら、弟までも中央で礼遇されない。蒼梧の士氏というのは、後漢の名族といっても良さそうだ。列伝でわかるのは、劉陶、丁宮、黄琬とのつながり。いずれも、立派!士氏の交趾支配は、後漢の名族ゆえ、という色が強いかも知れない。みずから三公になった袁氏には及ばなくても、曹操、劉備、孫権らと比べると、かなりの由緒ただしい血。二千石の家。
党錮との関連が、列伝に言及されていない。党錮の期間中も、高官についた家柄との関係がふかいなあ。党錮、名士、権道、魏晋貴族の関係は、諸説あるけど、、論じるときは士燮も忘れちゃいかんなあ。
董卓が乱をなすと、士壱は郷里ににげた。
『呉書』はいう。黄琬と董卓が対立した。
ぼくは補う。「相ひ害す」とは、殺し合ったんじゃないんだねー。董卓と、霊帝時代からの高官との争いは、また考えてみたいテーマ。今日は、ちょっと焦点が合わないけれど。
士壱は、黄琬に心をつくして、たたえられた。董卓は士壱をにくみ、「司徒掾の士壱を、用いてはいかん」と命じた。ゆえに数年、士壱は官位を遷れなかった。
董卓に反対する人って、みんな司徒なんだけど、関係あるのかなあ。同時期のほかの三公は、荀爽、种払、趙謙、馬日磾、淳于嘉、皇甫嵩あたりで、無害なイメージの人たち。皇甫嵩は骨ヌキだから、無害です。司徒府にうずまく、反董卓のエナジー!みたいな。司徒府には、ずっと留任している士壱もいます。
董卓が関中に入るとき、士壱はにげた。
袁術-(義兄弟)-楊彪-(反董卓の三公)-黄琬-(属官として重用)-士壱というわけで、袁術ともご縁がある。洛陽から交趾ににげるとき、袁術と話しているに違いない。何をしゃべったのだろう。袁術「現実逃避せず、中央でガンバレよ」、士壱「ムリだから交趾にいく」、袁術「地方に割拠というのも、アリかもなあ」なんてね。
ぼくは思う。董卓が遷都するとき、洛陽が焼かれ、おおくの人が移動から脱落したと史書にある。士壱のように、都落ちする高官も多かったのだろう。わざわざ董卓にしたがい、長安まで行った人の、えらいことよ。いや、献帝が長安にゆくのだから、「随行して当然」なのか。ということは、献帝から去った士壱は、「後漢はもうダメ」と思っていたか。後漢への支持を去らせたという点で、董卓は後漢の罪人だなあ。
さいきん読んだ本で、(まったく話が違うけど)、日本の室町時代に、故郷の土佐におちた関白・一条教房の話があった。中央が腐ると、故郷にゆくのだ。
刺史の朱符を見きり、兄弟で太守となる
交州刺史の朱符が、夷賊に殺された。
ぼくは思う。朱符は、朱儁の子。会稽の身内をつれてきて、おそらく朱儁の属官も活用して(これは史料にない)、州府の統治機構をつかったけれど、土地の百姓に殺された。殺されたんだよ、殺された!強調しても、しすぎることはないなー。
州郡はみだれた。士燮は上表して、士壱を合浦太守とした。
次弟の徐聞令する士ヰを九真太守とした。
弟の士武を、南海太守とした。
ぼくは思う。こまかい年代は書いてないが、董卓の死後、李傕が官位を配りまくっているときだろう。董卓が死ぬ192年前後から、関西VS関東という構図がくずれて、ぐちゃぐちゃになった。例えるなら、麻雀の牌を両手で抑えていたけれど、緊張がとけて、グチャ!とバラけたような感じ。左右から押さえる力(董卓VS袁紹)があるうちは、均衡していた。支えがなくなって、カオスが到来した。朱符が殺されたのも、この文脈で捉えたい。
李傕が州牧の官位を配るのは、このカオスを克服するため。もともと士氏は、日南太守の家だった。士燮の兄弟は、士燮が交趾太守、士壱が司徒掾で、その弟が県令だった。ここで一気に、交州の太守を占めまくった。
兄弟で地方官といえば、袁紹と袁術とか、劉岱と劉繇とか、?
@sweets_street さんはいう。兄弟で豫州刺史・九江太守・丹陽太守だった会稽周氏、陳留太守・広陵太守の東平張氏あたりでしょうか。
ぼくは補う。周氏は複雑だから、はぶく。後者は、張邈と張超。どういう傾向が指摘できるだろう。袁氏はデカすぎるとしても、ほかは、故郷の州の近辺かなー。「出身郡の太守はダメ」といいつつ、出身州内の太守になると、統治がうまくいきやすい(と期待される)。出身地のチカラって、すごいな!その代表例が士氏なのだ。
ところで、士氏の本拠地である、蒼梧の太守ってダレ? 唯一、士氏が太守を送り込めない場所だ。制度化された、避けられぬドーナツ現象。
@sweets_street さんはいう。蒼梧太守は、呉巨の前任者は史璜という人ですが、就任時期はわかりません。
@tmitsuda3594 先生はいう。呉巨でしょうかね。
ぼくは思う。、、というわけで、呉巨をとことん調べることになりました。
士燮は、體器が寬厚で、謙虛で士にくだる。中國の士人は、百数が士燮のところに避難した。
ぼくは思う。1つの短い注釈に、魏呉蜀がそろうなんて、すごいなあ!みんな、交州が好きだったことがわかる。そして、許靖、袁徽、薛綜を交州に追いやったのは、いずれも袁術であることが、おかしい。許靖を追いやった孫策は、袁術のために劉繇を討伐した。袁渙は袁術と交流があるが、陳王の劉寵を殺したのは袁術である。袁術は曹操と、陳国で戦った。沛郡の薛綜は直接でないかも知れないが、曹操、劉備、袁術が、あのあたりで抗争した。
後漢を救うと銘打った連中が、いちばん後漢の治安を乱している。どこかで見そうな構図だなあ。これだけの原因をつくったのだから、袁術の迷惑は大きいことだ。影響力がデカいだけに、転んだら、多くを巻き添えにする。ふざけるなら、「袁術が曹操に勝っていれば、三国を迎えるまでもなく、一瞬で片づいた」のである。笑
士燮は『春秋』を耽玩し、注解をつけた。
「群雄割拠」というゲーム的世界を思い浮かべると、「自領が治まったら、隣国を取れよ」となる。しかし、隣国を治めるのは、仕事じゃない。そして、士燮のように出身州を治めている場合、生産だって安定する。隣国に出てゆく理由が、1ミリもない。「余裕があるくせに静観した」というと、無能な感じがするが、そうでない。というわけで、劉璋は偉大である。孫権だって、「何を考えているか分からないヤツ」とは、言えないなー。
陳國の袁徽は、尚書令の荀彧に文書をおくった。
「交趾の士燮は、学問も政治もよい。大乱のなか、1郡を保全した。20年もよく治まっている。
士燮をほめるポイントが、1郡の統治というところに着目。1州でない。そして、20年って、いつから起算するんだろう。列伝の叙述が、ある程度は時系列だと信じれば、丁宮が三公になる前である。170年代後半だろうか。そこから、190年代後半まで、士燮は交趾太守でファイン・プレイしている。おちおち荀彧に手紙を送り、それが残っていることから、曹操が許県に移った後だろう。だいたい一致する。
ってことは、交趾刺史の朱符が、暴政?してコケるのを、配下の士燮は黙殺した。刺史の支配が腐っていても、郡レベルで固めていたのだ。州牧として一括して権力を持つよりも、兄弟たちを太守に送り込むほうが、手堅いのだろうか。交州出身の士氏は、刺史や州牧になれないから、苦肉の策として、太守を立てまくったのだろうか。
竇融が河西を治めたのも、ここまでうまくなかった。
『春秋』、古今の『尚書』にくわしい。私・袁徽は、荀彧さんに、士燮がつけた『春秋』『尚書』の注釈を送ります」と。このように、士燮は、政治も学問もできた。
士燮の兄弟は、のきなみ太守となり、1州を仕切った。威尊は、ならぶものなし。異民族も威儀になびいた。尉他をも上回った。
ぼくは思う。この段落が、士氏のすごさを端的に表している。士氏のすごさを論証したければ、この概括めいた文章を引用すれば、お腹がいっぱいになるのだ。州府をつかっていないことに、注意は必要だと思うが。
尉佗は、『史記』南越伝にある。秦代の群雄。
士武は、さきに病没した。
葛洪『神仙傳』はいう。仙人の董奉が、病死した士燮を、丸薬で蘇生させた。董奉は、あざなを君異。侯官の人である。
曹操の州牧&董督と、劉表の刺史&太守が対立
朱符の死後、後漢は、張津を交州刺史におくった。
胡三省はいう。賈琮より前は、みな「交趾刺史」という。「交州牧」はいない。
侯康はいう。『晋書』地理志下にある。建安八年(203)、張津が交趾刺史となった。士燮は交趾太守だった。張津と士燮がともに上表し、「州」をたてた。張津は「交州牧」を拝した。
『芸文類集』巻六は、苗恭『交広記』をひく。建安二年(197)、南陽の張津は、交趾太守となった (ぼくの注:士燮は交趾太守を追われてしまった)。 士燮が上表して言った。「ほかの12州は、州なのに、どうして交趾だけが州でないか。張津を州牧として、中州の方伯と同ランクにしてくれ」と。これより張津が、交州牧になった。
盧弼はいう。『晋書』『交広記』は、同じことをいう。交州牧が、張津から始まったと。しかし、年代が違う。建安八年なのか(沈約も建安八年とする)、建安二年なのか。孫策伝にひく王範『交広春秋』は、建安六年に、すでに張津を「交州牧」とよぶ。建安二年(197) が正しい。士燮伝は、朱符を交「州」刺史と記すが、これは遡及させた表記だ。朱符のときは、まだ交州でない。
ただし班固は、南の6郡を「交州」とよぶ。九真郡だけを交州に含めないが、モレだろう。元始二年の版籍には、交州という呼び方があった。あちこちに「交州」の用例がある。建安二年に始まったものじゃない。と。
ぼくは思う。このページでも、ゴチャゴチャに書いてきてしまった。だって、本文に「交州」とあるから。諸書が異なることは分かったから、公約数っぽくに読むと、どうなるか。朱符が死んだのち、士燮は張津に協力して、張津に何らかの権威づけをしようとした。『三国志』にも『三国志集解』にも書いてないが、刺史から州牧への格上げを言ったのかも知れない。とか。
もしくは、苗恭『交広記』にあるように、士燮の後任として張津が、交趾太守に派遣された。士燮は20年も交趾太守なのだから、そろそろ交替でもよい。交趾太守に留まりたい士燮は、張津を州牧に祭りあげて、自分の留任を図ったとか。思うに、朱符が殺されたように、交州の統治は、いまいち有効でない。南方の広域を、州として一括支配しようというのが、ややムリなのだ。士燮は、太守としての「実」をとり、張津に州牧という「虚」を取らせて、地盤を固めようとした。とか。
えー、そもそも朱符が死んだのは、いつなんだっけ。
ぼくは上で、朱符が殺されたのは、董卓の死後ぐらいだと書いた。しかし、張津の赴任が建安二年(197) だとすると、5年くらい合わない。交趾刺史は、しばらく空位のまま放置されたのか。献帝が長安から洛陽にもどるまで、交趾の任命どころじゃなかった、というのは、説得力をもつような気がするけれど。わかんないなー。
197年、曹操のもとで、献帝が一息ついた。だから張津を任命したと。曹操のもとにいる荀彧は、士燮の学問を尊敬している。士燮と敵対する人物を、交州に送るとは考えにくい。張津を刺史にすることで、士燮をバックアップしようとした。とか。
『三国志集解』がひく史料もバラバラだから、よくわからない。
張津は、部将の区景に殺された。
ぼくは思う。交州牧、まったく機能してないよ!
「呉志」孫策伝にひく『江表伝』はいう。孫策は「張津が漢室のルールを無視って、くだらない俗信にしたがったので、南夷に殺された。于吉を信じるやつらも同じだ」と。
周寿昌はいう。兵乱で道が閉ざされたので、張津が誰に殺されたのか、バラバラに伝聞された。部将の区景とか、南夷とか。
ぼくは思う。孫策が張津の死に様を口にしているところから、張津の赴任が建安八年(203) というのは、考えにくいなあ。まあ『江表伝』だけどな。
あと、区景と区星って、関係あるのかなー。笑
荊州牧の劉表は、零陵の賴恭を、張津のかわりに送った。
盧弼はいう。頼恭は、先主伝、甘后伝、楊儀『季漢輔臣賛』の王元泰の注釈にある。
ぼくは思う。張津は南陽の人だった。州牧の権限をもっても、役に立たなかった。劉表がおくった零陵の頼恭は、地元がちかい。中原はともかく、交州のような辺境では、在地勢力との関係が、ものをいうのかなあ。
『風俗通』は誤りだろうね。交趾太守は、まだ士燮なのだ。
このとき、蒼梧太守の史璜が死んだ。劉表は、かわりに吳巨をおくる。頼恭と呉巨が、セットで着任した。
ぼくは思う。劉表の息のかかった人が、セットで着任した!
後漢は、張津が死んだと聞き、士燮に璽書をあたえた。
よく「州牧のせいで、分裂が進んだ」という話がある。しかし、中央から隔絶したところには、気心の知れた「州牧」を1人置くことで、収束できることがある。できないかも知れないが、曹操は収束できると考えていた。とぼくは考える。笑
「劉表が交州をかすめる。士燮を綏南中郎將とし、7郡を董督させる。交阯太守は、もとどおり領せよ」と。
ぼくは思う。交州出身の士燮は、交州牧になれない。ほんとうは曹操は、士燮を州牧にして、さっさと混乱を収束させたかっただろう。だが、そうもいかないから、「董督」ってことにした。都督制の論文、読まなきゃなー。
ある人は『三国志集解』にいう。文書中にあるとおり、道路が断絶しているのだから、この璽書はニセモノである。
盧弼はいう。許靖伝にも「交州と駅使が断絶した」とある。しかし、この士燮伝に、士燮がお返しの使者を出したとあるから、道路は断絶していない。
ぼくは思う。修辞なんじゃないの。
王範『交広春秋』はいう。建安十五年、番禺県を治所として、詔書が7郡をまわった。趙一清はいう。このとき詔書を受けとったのは、歩隲でなくて士燮である。
のちに士燮は、吏の張旻を、許県におくった。道路が断絶したが、士燮はつけとどけを欠かさなかった。安遠將軍、龍度亭侯となる。
歩隲の刺史就任、呉巨を切り、士燮を降す
のちに呉巨と頼恭はたたかい、頼恭は零陵ににげた。
建安十五年(210)、孫権は歩隲を交州刺史とした。歩隲がくると、士燮は兄弟をひきいて、節度をうけた。呉巨が異心をいだいたので、歩隲は呉巨を切った。
赤壁以後は、孫権が曹操にそむいた。交州は、三つ巴となる。劉表の残党(呉巨)、曹操の残党(士燮)、孫権の部下(歩隲)である。劉表の遺児が曹操に降伏したから、呉巨が士燮に従っても良さそうだが、そうではない。劉琮が曹操に降伏したのは、荊州で勝手に起きたこと。呉巨は、そんなことを知らん!呉巨は、仲間の頼恭すら、零陵に追い返すやつなのだ。呉巨は、劉表の残党という属性をかなぐり捨て、独立の気概すらあったのだろう。
呉巨は蒼梧太守だから、士燮の地元を抑えている。豪族の士氏をしりぞけ、蒼梧郡の支配を維持したのだから、呉巨は強いよ。呉巨と士燮の争いは、ずっと続いたのだろう。見方によっては歩隲は、蒼梧から呉巨を消すことで、在地豪族の士燮を味方にしたのかも知れない。
これが『呉書』だから潤色があり、歩隲を褒めているのだろうが、、「上にいるものなし」の士燮が、どうして歩隲にしたがう必要があるか。蒼梧を、ガチッと抑えられたからだろう。呉巨を排除してくれたからだろう。
士燮の弱み、「故郷の太守になれない」というドーナツ状態を、歩隲はうまく利用して、恩を売った。って、そこまで言えるのか、これだけで。歩隲伝、まだ読んでないぞ、、
孫権は士燮に、左將軍をくわえた。建安末年、士燮は、子の士廞を孫権におくった。孫権は、士廞を武昌太守とした。士燮と士壱の子供たちで、南方にいる人は、みな中郎將をもらった。120112
孫権は赤壁に勝ち、曹操と交州を分断することで、士燮を従わせた。赤壁の戦果は、そんなところにも、あらわれているのです。おわり。
全体をとおして、刺史や州牧は、歩隲が就任するまでは、あんまり機能してないなー、という印象。朱符が殺され、張津が殺され、劉表のおくる頼恭がコケたのだ。士燮が強かったのは、交州の豪族としてなのか、交州の(蒼梧を除く) 太守としてなのか。おそらく、太守が強いんだな。士燮が「上なし」になったのも、呉匡がねばったのも、太守の地位があったからに見える。うーん、考えよう。