いつか書きたい『三国志』
三国志キャラ伝
登場人物の素顔を憶測します
『晋書』と『後漢書』和訳
他サイトに翻訳がない列伝に挑戦
三国志旅行記
史跡や観光地などの訪問エッセイ
三国志雑感
正史や小説から、想像を膨らます
三国志を考察する
正史や論文から、仮説を試みる
自作資料おきば
三国志の情報を図や表にしました
企画もの、卒論、小説
『通俗三国志』の卒業論文など
春秋戦国の手習い
英雄たちが範とした歴史を学ぶ
掲示板
足あとや感想をお待ちしています
トップへ戻る

(C)2007-2009 ひろお
All rights reserved. since 070331
『漢書』元后伝で、王莽を知る 4)伝国璽を投げた心境
◆哀帝の相手
成帝は、即位して20余年で、世継ぎを作らずに死んだ。
次の皇帝は、
王鳳が帰国させた、定陶共王――
は、すでに死んでいたので、その子である。哀帝という。
王氏は、外戚ではなくなった。

哀帝は王氏を遠ざけ、自分の母方を重んじた。今までさんざん王氏が強かったから、当然の処置だ。
哀帝の母に尊号を贈ることにつき、哀帝と王氏が衝突した。
王氏をかばった人がいた。 かばったのは諌大夫という役職の官吏だ。同じ人ではないが、以前にこのポジションにいた人は、王鳳を非難した。
「いまの政治は、なっとらん」
って与党を批判して、野党を庇う。主義主張とか、損得利害とか、そういうことではなく、ただ現体制の逆を言う。現代日本の居酒屋にいけば、諌大夫に就きたがりそうなオヤジは、百人単位で供給できる(笑)
諌大夫曰く、
「元后さまは、もう70歳。王氏が弱っていくのを、悲しんでいます。道行く人ですら、元后さまのために涙を流しております。元后は先帝の母なんですから、敬わねばいけません」
日食があった。
「あの日食は、王莽のせいじゃない。彼は無実だ」
擁護してくれるのは嬉しいが・・・世論は勝手なものです。

◆かわいい甥の王莽
哀帝が死んだ。皇子なし。
元后は、王莽を大司馬に任命して、平帝を即位させた。一族のホープとして、王莽を選んだのは、他の誰でもない元后だ。
王氏は、政権に返り咲いた。

王莽は、元后や宮中の女官が退屈しているので、パッケージツアーを企画して、女たちの歓心を買った。元后は嬉しくなって、
「私は、はじめて元帝と会ったときのことを覚えているわ。もう60年も前になるかしら。懐かしいわあ」
と王莽に漏らした。王莽は心得たもので、
「思い出の場所は、すぐ近いですよ。ご遊覧なさいませ」
ともてなした。
「なんと素敵な甥でしょう」
元后の周りには、彼女が可愛がるための子供がいた。『漢書』には「弄児」と書いてある。「もてあそぶ」って字が使われているから、淋しい年寄りが気を紛らわすために、ネコを飼うような感覚か。
その「弄児」が病気になったら、王莽は見舞いをした。元后に気に入れられるための演出で、見え見えすぎて『漢書』に本音を暴露されているが、王莽の心遣いが優秀であることは確かだ。
サービスが人気のホテルが、
「金銭の奴隷め。そんなに宿泊料金が欲しいのか」
と軽蔑されることはない。サービスの質は、きちんと評価される。同じように、王莽も賞賛されていいと思う。

◆甥はもうダメです
平帝が死に、王莽は孺子嬰を立てて「摂皇帝」となった。元后は王莽のやり口を苦々しく思ったが、止める手段がなかった。
「王莽を除け!」
を号令に、皇室の劉氏が叛乱した。
元后は、
「人が考えることは、似たようなものです。私は婦人ですが、王莽が自ら敵を作っていることは分かります。いま1人の皇族が背きましたが、そのうち全員が背くでしょうね。もう王莽はダメです」
と嘆いた。
王莽に権力を担当させたのは、元后だ。王莽の接待に、目じりを下げていたのも、元后だ。元后は、王莽が可愛いのだろう。だが王莽は、元后に巧みにへりくだりながら、果実を刈り取ってしまった。伯父の王鳳と同じやり方だ。
王莽が「欺く」のに最もパワーを費やした相手は、元后だろう。敵は、天下万民でもなければ、百官百卿でもなかった。

◆真皇帝・王莽への思い
「私は、真皇帝になりたい」
王莽は元后にそう願い出て、伝国の璽を欲しがった。元后は、大いに怒って罵った。
「我ら王氏は、漢室のおかげで富貴になりました。しかし漢の皇帝が幼いことに漬け込み、国家を奪い取るとは何事ですか。人間も、ここまで汚いことをやれば、あなたの食べ残しを、イヌやブタでも食いません。もし皇帝になりたいなら、秦漢に伝わった璽を盗むのではなく、新しく作り直せば良いでしょう
元后は涙を流した。
ぼくはこの期に及んでも、元后が甥を守ろうとしているように感じる。
漢室に恩を受けながら、裏切って滅ぼせば、王莽は稀代の大悪人になってしまう。だが、漢からの独立を志向して失敗すれば、
「単なる政争の敗北者」
に留まることができる。王莽は救われる。
・・・だから元后は、伝国の璽を渡さない。

もちろん、万人が納得いくカタチで漢が滅び、王莽が新しい王朝を建てる、という選択肢もあっただろう。だが、王莽ではそれが無理だった。元后がそれを見極めたのが、先の皇族の叛乱だ。
摂皇帝、仮皇帝、真皇帝、とジワジワ呼称をのランクを上げていくやり方は、書面上は整うかも知れないが、世論の支持は得にくいだろう。
世間のが欲しいのは、極悪非道の暴君を、正義のヒーローが義侠の志で倒すという、軍事ショーなんだ。
もともと、
元后が握り締めている璽は、秦が持っていたものだ。漢の祖である劉邦は、「建国者」であると同時に、璽を奪った「大盗賊」に違いない。だが劉邦はスター性があったから、責められない。
王莽が残念であるとしたら、それは漢を滅ぼそうとしたからではなく、滅ぼし方の演出が拙かったからだ。
「すまないね、莽。私はあなたを導いてやることも、止めてやることも、できなかった・・・」
元后の心根はこんなだろう。

◆伝国の璽を捨てる
元后は、伝国の璽を投げつけた。
「私はもう年寄りだから、死んだも同然。どうなったって、いいわ。でも次代の王氏の子供たちは、ことごとく殺されるわね」
もし演劇で、元后の配役が回ってきたら、このセリフをどう言えばいいんだろう。憎まれ口よろしく、怒気を皮肉に溶かして喋るか。
ぼくが初めて『漢書』を読んだときは、
「元后は、王莽にこれ以上クドクドと脅迫をされるのがイヤで、璽を投げつけた」
と地の文に書いてあるから、元后がブチ切れたんだと思っていた。しかし、璽を投げたことが事実だったとして、投げたときの心境まで、どうして歴史家が知りえるのでしょう。元后の日記があるわけでもなし。
また、
「孫堅が洛陽で伝国の璽を見つけたとき、カドが欠けていた。元后が投げつけたからである」
という物語情報がこびりついていて、元后は渾身の力で、ピッチャーみたいに璽を石畳に叩き付けたのだと思っていた。だが、史料的根拠はない。
「ああ、もうダメだわ」
と運命を見切るように、脱力して投げたかも知れない。
前頁 表紙 次頁
このコンテンツの目次
『漢書』元后伝で、王莽を知る
1)『漢書』のいじわる
2)偶然の外戚権力
3)頼れる父性、王鳳
4)伝国璽を投げた心境
5)壊された元帝の廟
6)王莽はなぜ恩知らずか