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| 『史記』より、尭舜禹の禅譲劇 | 3)割を食わされた帝禹 |  
| ◆あぶれ者の悪意 虞舜は、祭祀や政治を整え、全国を5年ごとに巡幸した。
 老いた帝尭は、後見しながら見張っている。『史記』にはないが、いまだに虞舜の越度を探しているようでもある。
 虞舜のやり方が天意にかなうかを見極める、お試し期間だ。
 
 「帝尭の子供たちを、登用したらどうか」
 重臣たちが、余計なことを言い出した。
 人材は貴重である。帝尭が悪政をしたんじゃないから、帝尭の子たちに追放される理由はない。むしろ仕事の適性が判明しているのだから、在野に埋もれさせたら、王朝の損失である。
 帝尭が反対したが、登用が始まった。
 いちど天子の候補として名前が上がった共工。彼に仕事を任せたら、でたらめだった。
 治水のスペシャリストとして、鯀が呼ばれた。9年間で何も成功しなかった彼だが、今回もダメで、むしろ政治を混乱させた。
 虞舜は、
 「帝尭の後継者候補だった人は、辺境に流せ」
 と命じて、禅譲を確固たるものにした。
 
 帝尭から虞舜に移った今、もともと即位の権利があった、帝尭の親族がウジャウジャいる。それを押しのけて、虞舜が即位したんだから、旧皇族の扱いが難しい。
 今回の禅譲の理由を求めるならば、帝尭のワガママである。帝尭は、永遠に天子でいるつもりで、死ぬまで影響力を持っていたい。もし血縁者を後継に定めたら、跡継ぎの資質に関わらず、成り行きで天子の位を渡さねばならない。
 それでは帝尭が、嬉しくない。
 そこで理不尽にハードルを上げて、自分の一族を落選させておけば、誰にも天子の位を脅かされない。
 「身内はバカばっかだ。異姓で優れた人を連れてこい」
 と言う。異姓の人なら、いくらでも難癖をつけて追い返せる。すなわち帝尭は、永遠に退位する必要がない。
 老害である。
 この老害を取り除いたのは、天才的に試練に耐えた、虞舜。
 彼は、万人の予測を飛び越えて天子になってしまった。天子になったからには、帝尭の当初の思惑とはズレても、尭の親族に厳しく当たらねばならん。
 
 ◆31年目の禅譲
 帝尭は、即位してから70年で、虞舜を見つけた。
 3年の見習い期間を設け、20年間は一緒に政事をやり、次の8年は帝尭は引退して虞舜を見守った。
 天子になって98年、虞舜と出会ってから31年して、帝尭は死んだ。
 帝尭は、死ぬときに、
 「私の子の丹朱は、器量が小さい。もし彼を天子にしても、丹朱1人がメリットを得て、万民はデメリットを被る。私はシミュレーションとして、虞舜に政治を代行させてみた。虞舜が天子なら、万民はメリットを得る。後継は、虞舜である」
 と言い残した。
 すごい長生きだが、それは突っ込むまい。
 それよりも、虞舜に31年も働かせておいて、まだ迷ったようは発言をしている、尭帝の執着心にびっくりだ。一族を納得させるための方便・・・とは思えない。死に際には本音が出るって、曹操が言っていた。
 
 帝尭の3年の喪が終わった。
 虞舜は、帝尭の子、丹朱に天子の位を譲ろうと、田舎に引っ込んだ。だが、群臣は虞舜のところにホウレン草に来たから、虞舜は腹を括った。
 「天なるかな」
 こうして、虞舜は天子となった。帝舜である。
 
 ◆舜から禹への禅譲
 帝舜は、20歳で親孝行の評判が高まった。30歳で帝尭に見出され、50歳で政事を代行し、58歳のとき帝尭が死に、61歳で正式な天子となった。
 帝舜は善政を布き、全土に初めて帝王の徳が行き渡った。職分をうまく割り振ったから、帝舜は「無為」で治世に成功した。
 帝位についてから39年、すなわち100歳のとき、江南で死んだ。葬られた場所が、零陵と名づけられた。
 
 帝舜の子は不肖だった。帝舜は、帝尭に仕えていた人の中から、禹に目をつけていた。
 禹は、治水にしくじった鯀の子である。帝尭、帝禹の時代から、父と同じく治水の担当者にカテゴライズされていた人材。
 禹は、
帝舜の死後に天子となった。禹は、
帝舜がやったように、前任の天子の子に遠慮するというポーズを経て、正式に即位した。
 即位の10年後、禹は会稽で崩じた。
 
 ◆美談のウソ
 三国ファンが信じていた「禅譲」には、少なくとも2つのウソがあった。
 
 まず「赤の他人に、位を譲る」というウソ。
 『史記』を丹念に読むと、系図が書ける。
 尭・舜・禹は、5代ほど前の祖先(黄帝)を共有する親戚である。帝尭のとき、九族が仕事の得意分野を諒解しあって、政事を分業していた。つまり、尭・舜・禹がバトンタッチをしたのは、
 「嫡流の凡人を差し置き、傍流の適任者が即位した」
 という程度のドラマである。
 後漢で、
 「質帝が死んじゃったから、遠縁の劉志(桓帝)を連れてきたよ」
 なんてことをやるが、あれと同じである。日本史を引くなんて、全くスマートじゃないが、徳川吉宗とか徳川慶喜と同じ構図である。
 決して、
 「質帝が死んじゃったから、外戚の梁冀が即位しちゃおう」
 「豊臣秀頼が冴えないから、徳川家康が将軍になろう」
 という、政権交代が行なわれているのではない。
 
 次は「主体的な意思を持ち、有徳者を後継に指名する」というウソ。
 帝尭のやり口を詳しく見たが、かなり醜かった。帝尭がズルズルと天子にしがみ付いたせいで、選択肢が狭まり、やむを得ず帝舜を指名したカタチだ。苦肉の結果であり、望まぬ偶然でしかない。
 帝舜がやった禅譲は、ただ元の候補者のところに、主導権を返しただけだ。穏やかなものだ。
 
 もっと計画的に、
 「どこの誰でもいい。来たれ若者!天子を譲るぞ」
 と、壮年で寿命を余らせた君主が、フェアに公募をしていたら、テンポよくバトンが渡っただろう。
 帝尭が98年も天子をして、帝禹が10年しか天子を出来なかった。禹の治世が短かったのは、明らかに帝尭が粘ったゆえのツケである。
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 | このコンテンツの目次 『史記』より、尭舜禹の禅譲劇
1)性格の悪い、帝尭
 2)虞舜に死んでほしい
 3)割を食わされた帝禹
 4)マジシャンの王莽
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