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『晋書』列32、劉琨伝の翻訳 4)晋に殉じても無視
このあたりから、時系列がゆがみます。いかにも劉琨らしい話を載せていく、列伝の筆法です。
これをやるとき、「初(はじめ)」の1文字で、順序をメチャメチャにするのは、やめてほしい(笑)

初,琨之去晉陽也,慮及危亡而大恥不雪,亦知夷狄難以義伏,冀輸寫至誠,僥倖萬一。每見將佐,發言慷慨,悲其道窮,欲率部曲列於賊壘。斯謀未果,竟為匹磾所拘。自知必死,神色怡如也。為五言詩贈其別駕盧諶曰:

はじめ劉琨が晉陽を去るとき、危亡に及び、もう大恥を雪げないと思った。また劉琨は、夷狄は義に伏させるのが難しいと知っていた。異民族に至誠を抱かせられたら、万に一つの僥倖だと思った。
将軍と副将に会うたび、劉琨の發言は慷慨し、悲しみは道を窮めた。劉琨は部曲を率いて、賊壘を陥落させたいと思っていた。だが願いは叶わず、ついに鮮卑の段匹磾に捕われてしまった。
〈訳注〉劉琨が鮮卑と義兄弟となったと、さきに書いてあったが、これは劉琨の名誉を守った表現だった。実態は捕虜だったのか。これなら、義兄弟とならざるを得なかった心境が理解できる。晋の貴族として栄華した人が、おかしいと思ったのだ。彼の息子の劉群も、鮮卑に捕われて味方させられるが、父の轍を踏んだだけか(笑)
劉琨は段匹磾に捕われ、自然と死を覚悟したが、神色は怡如としていた。五言詩を作り、別駕の盧諶に送った。

  握中有懸璧,本是荊山球。惟彼太公望,昔是渭濱叟。
  鄧生何感激,千里來相求。白登幸曲逆,鴻門賴留侯。
  重耳憑五賢,小白相射鉤。能隆二伯主,安問党與仇!
  中夜撫枕歎,想與數子遊。吾衰久矣夫,何其不夢周?
  誰雲聖達節,知命故無憂。宣尼悲獲麟,西狩泣孔丘。
  功業未及建,夕陽忽西流。時哉不我與,去矣如雲浮。
  硃實隕勁風,繁英落素秋。狹路頌華蓋,駭駟摧雙輈。
  何意百煉剛,化為繞指柔。


琨詩托意非常,攄暢幽憤,遠想張陳,感鴻門、白登之事,用以激諶。諶素無奇略,以常詞酬和,殊乖琨心,重以詩贈之,乃謂琨曰:「前篇帝王大志,非人臣所言矣。」

劉琨の詩は、ただならぬ気持ちがこめられ、幽憤を暢るに攄る。遠く張陳(張良と陳平=劉邦の軍師)を思い、鴻門に感じ、白登之事は、(詩を贈られた)盧諶を激励した。
盧諶は素より奇略のない人で、いつも言葉は協調を重んじたから、劉琨とは全く気が合わなかった。だが重ねて詩をプレゼントされると、盧諶は劉琨にこう言った。
「前篇に謳われた帝王の大志は、人臣が言う内容ではない(ほど見事に帝王の心を代弁している)」と。

然琨既忠於晉室,素有重望,被拘經月,遠近憤歎。匹磾所署代郡太守辟閭嵩,與琨所署雁門太守王據、後將軍韓據連謀,密作攻具,欲以襲匹磾。而韓據女為匹磾兒妾,聞其謀而告之匹磾,於是執王據、辟閭嵩及其徒黨悉誅之。會王敦密使匹磾殺琨,匹磾又懼眾反己,遂稱有詔收琨。初,琨聞敦使到,謂其子曰:「處仲使來而不我告,是殺我也。死生有命,但恨仇恥不雪,無以下見二親耳。」因歔欷不能自勝。匹磾遂縊之,時年四十八。子侄四人俱被害。朝廷以匹磾尚強,當為國討石勒,不舉琨哀。

劉琨は晉室に対して忠心があり、いつも晋室の復活を望んだ。だが西晋が滅びて月日が経つと、遠近の人は憤歎した。
鮮卑の匹磾の配下で代郡太守の辟閭嵩と、劉琨の配下で雁門太守の王據と、後將軍の韓據は、連携して謀略をねり、ひそかに兵器を製造し、匹磾を襲撃しようと計画した。
だが、韓據の娘が匹磾の子の妾だった。娘はその作戦を聞いて、匹磾にリークした。王據は捕らえられ、辟閭嵩およびその徒党は皆殺しにされた。
王敦の密使が匹磾に「劉琨を殺せ」と吹き込んだ。匹磾は軍が自分に叛乱することを懼れたから、ついに「詔があったから」とウソをついて、劉琨を捕縛した。はじめ劉琨は、王敦の使者が到着したと聞いて、わが子に言った。
「使者が来たのに、私に連絡がないのは、私を殺せというメッセージを持ってきたからだ。死生は命あり。ただ仇敵に恥を雪げなかったことが恨めしい。死んだ両親に合わせる顔がない」
〈訳注〉劉琨は、晋陽が堕ちたときに、劉聡に父母を殺されている。
歔欷して、自ら勝つ能はず。匹磾は、ついに劉琨を縊り殺した。劉琨は48歳だった。子は5人とも殺害された。
朝廷は、匹磾が強いから、石勒と戦わせようと思った。(匹磾の機嫌を損ねないように)劉琨の死を、国として哀悼しなかった。

三年,琨故從事中郎盧諶、崔悅等上表理琨曰:(以下略)
太子中庶子溫嶠又上疏理之,帝乃下詔曰:「故太尉、廣武侯劉琨忠亮開濟,乃誠王家,不幸遭難,志節不遂,朕甚悼之。往以戎事,未加弔祭。其下幽州,便依舊弔祭。」贈侍中、太尉,諡曰湣。


元帝の三年、劉琨のもと從事中郎だった盧諶と崔悅らが、上表して劉琨の葬儀をやるように申し出た。(劉琨の功績を称えて、その死を無視るのはダメだと訴える内容)
〈訳注〉劉琨と盧諶はそりが合わなかった。だが盧諶は、詩によって劉琨のファンになった。死後の扱いについて訴える伏線だったわけだ。
太子中庶子の温嶠も上疏して、盧諶を支持した。
元帝は詔を下した。
「もと太尉で廣武侯の劉琨は、忠亮で開濟し、王家に誠を尽くした。不幸にも遭難し、志節は遂げられなかった。朕は甚だこれを悼む。匹磾と石勒を戦わせるため、劉琨に弔祭を加えてなかった。だが(劉琨の故郷かつ任地の)幽州は、追って弔祭をするように
劉琨に、侍中と太尉を追贈し、「湣」とおくり名された。

琨少負志氣,有縱橫之才,善交勝己,而頗浮誇。與范陽祖逖為友,聞逖被用,與親故書曰:「吾枕戈待旦,志梟逆虜,常恐祖生先吾著鞭。」其意氣相期如此。在晉陽,常為胡騎所圍數重,城中窘迫無計,琨乃乘月登樓清嘯,賊聞之,皆淒然長歎。中夜奏胡笳,賊又流涕歔欷,有懷土之切。向曉複吹之,賊並棄圍而走。子群嗣。

劉琨は幼くして志氣を負い、縱橫之才があり、善く交わり勝己し、とても浮誇だった。
〈訳注〉「浮誇」とは、軽佻浮薄でいつも自慢気だったということ?
范陽の祖逖と友となった。祖逖が役人に採用されたと聞いて、親展で手紙を送った。
「私は戈を枕にして、夜明けを待っている。逆虜を梟さん(異民族をしばこう)と志し、常に祖逖くんが私より先に手柄を立ててしまうことを恐れている」
劉琨の意氣は、この言葉に表れている。
〈訳注〉幽州の人だから、匈奴や鮮卑と身近だった。就職する前から、対異民族戦線で活躍することを、ライフワークに定めていたのだね。
晉陽で劉琨は、胡騎に幾重にも包囲された。城中は窘迫して、計略もなかった。劉琨は月登樓(展望台)に乗り、清らかな声で歌った。賊はこれを聞き、みな淒然と長歎した。中夜に劉琨は、胡笳を奏でた。賊はまた流涕して歔欷した。故郷を懐かしむ切ないメロディだった。夜明けが近づくと、また演奏した。賊は包囲をやめて逃げて行った。
〈訳注〉「逆四面楚歌」作戦を、3つの時間帯で畳み掛けた。
子の劉群が、後を継いだ。
次回は劉琨の親族です。
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このコンテンツの目次
『晋書』列32、劉琨伝の翻訳
1)賈謐の友、趙王倫の姻
2)劉聡と石勒との戦い
3)鮮卑族と義兄弟
4)晋に殉じても無視
5)脂汚れの兄、劉輿
6)五胡十六国で一家離散