いつか書きたい『三国志』
三国志キャラ伝
登場人物の素顔を憶測します
『晋書』と『後漢書』口語訳
他サイトに翻訳がない列伝に挑戦
三国志旅行記
史跡や観光地などの訪問エッセイ
三国志雑感
正史や小説から、想像を膨らます
三国志を考察する
正史や論文から、仮説を試みる
自作資料おきば
三国志の情報を図や表にしました
企画もの、卒論、小説
『通俗三国志』の卒業論文など
春秋戦国の手習い
英雄たちが範とした歴史を学ぶ
掲示板
足あとや感想をお待ちしています
トップへ戻る

(C)2007-2009 ひろお
All rights reserved. since 070331
『晋書』列32、劉琨伝の翻訳 5)脂汚れの兄、劉輿
劉琨の子、劉群です。

劉群
群字公度,少拜廣武侯世子。隨父在晉陽,遭逢寇亂,數領偏軍征討。性清慎,有裁斷,得士類歡心。及琨為匹磾所害,琨從事中郎盧諶等率餘眾奉群依末波。溫嶠前後表稱:「姨弟劉群,內弟崔悅、盧諶等,皆在末波中,翹首南望。愚謂此等並有文思,於人之中少可湣惜。如蒙錄召,繼絕興亡,則陛下更生之恩,望古無二。」咸康二年,成帝詔征群等,為末波兄弟愛其才,托以道險不遣。

劉群は、あざなを公度という。若くして廣武侯の世子となった。
父に随って晉陽にいて、寇亂にあった。しばしば偏軍を率いて、征討に出た。性は清慎で、裁斷があり、士類の歡心を得た。
父の劉琨が匹磾に殺害荒れると、劉琨の從事中郎である盧諶らは、余軍を率いて劉群を奉戴し、末波に帰順した。
〈訳注〉末波は、匹磾の従弟で、匹磾と主導権争いをした人。敵の敵は味方という論法だ。
かつては匹磾と劉琨が同盟していた。末波は劉群を捕らえて、劉琨の協力を取り付けようとしたが、失敗した。劉琨が「劉群を切り捨ててでも、匹磾との信義を守るのだ」と言ったからだ。
だが劉琨は、匹磾に殺されてしまった。皮肉な結末だ。

温嶠は前後して上表した。
「劉群、崔悅、盧諶らは、みな鮮卑の末波に仕えて、南(東晋)を羨ましく見ています。彼らには文思(中華文明の人としてのハート?)があるから、少しは湣惜してやるべきです。未開の地に行った人を朝廷に召してやり、繼絶や興亡の運命を変えてやるのは、陛下の更生之恩です。古典を見ても、前例のないことです」
咸康二年、成帝は詔して劉群らに官位を与えた。だが、劉群らが末波の兄弟に才能を愛されているし、(東晋からの幽州への)道が険しいことを理由に、劉群への勅使は派遣されなかった。

石季龍滅遼西,群及諶、悅同沒胡中,季龍皆優禮之,以群為中書令。至冉閔敗後,群遇害。時勒及季龍得公卿人士多殺之,其見擢用,終至大官者,唯有河東裴憲,渤海石璞,滎陽鄭系,潁川荀綽,北地傅暢及群、悅、諶等十餘人而已。

石季龍が遼西を滅すと、劉群および盧諶や崔悅は、一同に胡族に捕らえられた。石季龍はみな優遇し、劉群を中書令とした。冉閔が敗れると、劉群は殺害された。
石勒と石季龍は、公卿や人士を多く捕らえて殺した。石氏に採用され、高官に到った人は、ただ河東の裴憲、渤海の石璞、滎陽の鄭系、潁川の荀綽、北地の傅暢、および劉群、崔悅、盧諶ら10余人だけだった。 〈訳注〉五胡十六国時代の漢人の悲劇です。

劉琨の兄、劉輿です。順序がちょっと変ですが。

劉輿
輿字慶孫。雋朗有才局,與琨並尚書郭奕之甥,名著當時。京都為之語曰:「洛中奕奕,慶孫,越石。」辟宰府尚書郎。兄弟素侮孫秀,及趙王倫輔政,孫秀執權,並免其官。妹適倫世子荂,荂與秀不協,複以輿為散騎侍郎。齊王冏輔政,以輿為中書侍郎。東海王越、范陽王虓之舉兵也,以輿為潁川太守。

劉輿は、あざなを慶孫という。雋朗で才局があり、劉琨と同じく尚書の郭奕の甥だ。
〈訳注〉兄弟だから、当たり前である。
劉琨と劉輿は、名は時世に知れ渡った。京都の人は、劉輿と劉琨について語った。
「洛中に奕奕たり、慶孫と越石なり」
〈訳注〉「奕奕」とは、重なること、順序良く並んで美しいこと。郭奕の甥である兄弟が、どちらも優れていたから、シャレにしたのだ。
慶孫は劉輿(兄)のあざなで、越石は劉琨(弟)のあざなだ。

劉輿は、宰府の尚書郎に辟召された。兄弟は素より孫秀を侮っていた。趙王倫が輔政すると、孫秀が執權したから、兄弟で辞職した。妹の劉氏が、司馬倫の世子である司馬荂に嫁いだ。司馬荂と孫秀は仲が悪かったから、司馬荂は劉輿をふたたび召して散騎侍郎にした。
〈訳注〉敵の敵は味方。いつもこれだ。。
齊王冏が輔政すると、劉輿は中書侍郎となった。
東海王越と、范陽王虓が挙兵すると、劉輿は潁川太守となった。

及河間王顒檄劉喬討虓於許昌,矯詔曰:「潁川太守劉輿迫協范王虓,距逆詔命,多樹私黨,擅劫郡縣,合聚兵眾。輿兄弟昔因趙王婚親,擅弄權勢,凶狡無道,久應誅夷,以遇赦令,得全首領。小人不忌,為惡日滋,輒用苟晞為兗州,斷截王命。鎮南大將軍弘,平南將軍、彭城王釋,征東大將軍准,各勒所領,徑會許昌,與喬並力。今遣右將這張方為大都督,督建威將軍呂朗、陽平太守刁默,率步騎十萬,同會許昌,以除輿兄弟。敢有舉兵距違王命,誅及五族。能殺輿兄弟送首者,封三千戶縣侯,賜絹五千匹。」虓之敗,輿與之俱奔河北。虓既鎮鄴,以輿為征虜將軍、魏郡太守。

河間王顒が劉喬に檄を送り、許昌にいる司馬虓を討とうと呼びかけた。司馬顒は、詔を偽作した。
「潁川太守の劉輿は、むりに范王の司馬虓に協力させ、詔命に逆らって防御を固めた。私党を多いに形成し、郡縣から搾取し、人を集めて軍隊を組織した。劉輿(と劉琨)の兄弟は、むかし趙王の司馬倫と婚親で、權勢を擅弄し、凶狡無道を働いた。司馬倫が滅びた後、大赦されたのをいいことに、司馬倫の残党のトップに座った。
〈訳注〉弟の劉琨が、司馬倫側の将軍として戦ったのは事実だ。しかしとっくに司馬冏に許されているんだから、とっくに時効だ。司馬顒は、劉輿の落ち度をでっち上げたのだ。
劉輿の兄弟は、小人を忌まずに(重職に取立てて)、悪事は日増しにひどい。すなわち苟晞(のような小人)を兗州刺史にして、王命を斷截した。鎮南大將軍の劉弘、平南將軍で彭城王の司馬釋、征東大將軍の准は、それぞれ自領の統治を人に任せて、許昌に行き、劉喬に協力せよ。
〈訳注〉征東大將軍の准って誰だろう。姓が分からん。
いま右將這の張方を大都督として派遣するから、建威將軍の呂朗と、陽平太守の刁默を督し、歩騎10万を率いよ。兵力を許昌に集め、劉輿の兄弟を除け。もしこの王命に逆らって挙兵するなら、五族まで誅すぞ。もし劉輿の兄弟を殺して首を送った人は、三千戸の縣侯に封じ、絹五千匹を賜るだろう」
司馬虓が敗れると、劉輿は司馬虓とともに、河北に逃げた。司馬虓が鄴に拠点を構えると、劉輿を征虜將軍、魏郡太守とした。

虓薨,東海王越將召之,或曰:「輿猶膩也,近則汙人。」及至,越疑而禦之。輿密視天下兵簿及倉庫、牛馬、器械、水陸之形,皆默識之。是時軍國多事,每會議,自潘滔以下,莫知所對。輿既見越,應機辯畫,越傾膝酬接,即以為左長史。越既總錄,以輿為上佐,賓客滿筵,文案盈機,遠近書記日有數千,終日不倦,或以夜繼之,皆人人歡暢,莫不悅附。命議如流,酬對款備,時人服其能,比之陳遵。時稱越府有三才:潘滔大才,劉輿長才,裴邈清才。

司馬虓が薨ずると、東海王の司馬越は、劉輿を招こうとした。ある人が言った。
「劉輿は膩みたいな奴です。近づけば、人を汚します」
〈訳注〉「膩」とは、ねっとりとしたネバついた脂肪。一滴垂らせば、食器が「キュッキュッ」と鳴る洗剤がない晋代には、たいそうな脅威だ!
劉輿が到着したが、司馬越は劉輿の人格を疑って、拒んだ。
劉輿はひそかに、天下の兵簿や倉庫を見てきた。牛馬、器械、水陸の形を、みな暗記していた。このとき戦役が多くて、いつも軍事をテーマにして議論が行なわれるたび、潘滔以下、データに基づいて答えられる人がいなかった。
〈訳注〉潘滔は人名。司馬越が用いた賢人のようだ。
劉輿は司馬越に会って、タイミングよく辯畫(論述したり図示したり)した。司馬越はひざを傾けて劉輿と受け答えをした。司馬越は、劉輿を左長史とした。司馬越は、劉輿の知識を全部書き起こすと、劉輿を上佐とした。劉輿の書物を見に来る賓客は満席で、文案(デスク)もいっぱいだった。遠近から書き写しにくる人は、毎日數千人いた。劉輿は終日イヤな顔をせず、日に夜を接いで知識を分け与えた。劉輿を慕って近づいてこない人はいなかった。
劉輿が天命について語れば流れるがごとくで、返答するときは款備していた。ときの人は劉輿の能力に敬服して、陳遵と並び賞した。
〈訳注〉陳遵って誰?歴史上の暗記の天才か?
ときの人は、司馬越の政府には3人の天才がいると称えた。
「潘滔は大才、劉輿は長才、裴邈は清才だ」と。
〈訳注〉潘滔の再登場。そして裴邈という人も、ぼくは知らない、、
前頁 表紙 次頁
このコンテンツの目次
>『晋書』列伝34、武帝と元帝の子
1)恵帝の兄弟
2)愍帝の父親は最劣
3)元帝は孫権の二の舞?
4)東海国と瑯邪国