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『晋書』列32、劉琨伝の翻訳 6)五胡十六国で一家離散
劉輿伝の続きです。

越誅繆播、王延等,皆輿謀也。延愛妾荊氏有音伎,延尚未殮,輿便娉之。未及迎,又為太傅從事中郎王俊所爭奪。禦史中取丞傅宣劾奏,越不問輿,而免俊官。輿乃說越,遣琨鎮並州,為越北面之重。洛陽未敗,病指疽卒,時年四十七。追贈驃騎將軍。先有功封定襄侯,諡曰貞。子演嗣。


司馬越が、繆播や王延らを誅するとき、いつも劉輿に相談をした。
王延には、荊氏という愛妾がいて、音伎だった。王延の殮が済む前に、劉輿は未亡人となった愛妾と婚約した。劉輿が愛妾を自家に迎える前に、太傅從事中郎の王俊が、これを奪ってしまった。禦史中取丞の傅宣は、劉輿と王俊を弾劾して奏上した。
〈訳注〉王俊は横取りしたが、劉輿のやったことも横取りに等しい。
司馬越は劉輿を不問として、王俊をクビにした。
〈訳注〉「王延を上手に誅したら、未亡人をもらっていいよ」と、司馬越は劉輿に約束していたのか。
劉輿は司馬越に説いて、弟の劉琨を并州に赴任させ、司馬越の北側の守りを厚くした。
〈訳注〉劉琨がキャラ立ちして列伝まで立てられたのは、并州刺史だったから。そのタネは兄が撒いたのだ。
洛陽が陥落するより前に、劉輿は病んで指疽となり、死んだ。47歳だった。驃騎將軍を追贈された。生前の功績により、定襄侯に封じられ、「貞」とおくり名された。子の劉演が嗣いだ。
劉琨の兄の子、劉演以下の兄弟です。

劉演
演字始仁。初辟太尉掾,除尚書郎,以父憂去職。服闋,襲爵,太傅、東海王越引為主簿。遷太子中庶子,出為陽平太守。自洛奔琨,琨以為輔國將軍、魏郡太守。琨將討石勒,以演領勇士千人,行北中郎將、兗州刺史,鎮廩丘。演斬王桑,走趙固,得眾七千人。為石勒所攻,演距戰,勒退。元帝拜為都督、後將軍,假節。後為石季龍所圍,求救于邵續、段鴦,鴦騎救之,季龍走,隨鴦屯厭次,被害。


劉演は、あざなを始仁という。
はじめ太尉掾に辟召され、尚書郎になった。父が病気になったので、職を去った。服喪のあと、爵位を継承した。太傅で東海王の司馬越に招かれて、主簿となった。太子中庶子に移り、中央から出て陽平太守となった。
〈訳注〉陽平郡は益州?成漢が興りつつあっただろうに。
洛陽から叔父の劉琨が逃げた。劉琨は劉演を、輔國將軍、魏郡太守にした。劉琨が石勒を討伐しようとしたとき、劉演は勇士1000人を率いて、北中郎將と兗州刺史を行ね、廩丘を鎮守した。
〈訳注〉本来の官位より上の役職を兼ねることを「行」という。その逆は「領」です。このサイトでは、勝手に送り仮名をつけて「かね」と読ませてます。
劉演は王桑を斬り、趙固を敗走させ、七千人の捕虜を得た。劉演は石勒に攻められ、防戦して石勒を撤退させた。
元帝は劉演を、都督、後將軍とし、假節を与えた。のちに石季龍に包囲されたから、邵續、段鴦に救いを求めた。
〈訳注〉段鴦は鮮卑族か。
段鴦の騎馬隊が劉演を救ったから、石季龍は逃げた。劉演は、段鴦に従って行動したが、殺された。
〈訳注〉一時は手を結んだ鮮卑族に、殺される。劉琨と同じパタンだ。鮮卑の動きは、漢民族側の「信義」に照らせば、反覆極まりなく見えてしまい、信用できない。西晋末の将の苦悶が分かる。ぼくみたいな東夷の末裔が言うのもナンですが(笑)

劉胤・劉挹・劉啟・劉述
弟胤為琨引兵,路逢烏桓賊,戰沒。胤弟挹初為太傅、東海王越掾,與琨俱被害。挹弟啟,啟弟述,與琨子群俱在末波中,後併入石季龍。啟為季龍尚書僕射,後歸國,穆帝拜為前將軍,加給事中。永和九年,隨中軍將軍殷浩北伐,為姚襄所敗,啟戰沒。述為季龍侍中,隨啟歸國,拜驍騎將軍。

弟の劉胤は、劉琨の兵を率いていたが、路で烏桓賊に逢って戰沒した。
胤の弟である劉挹は、はじめ太傅・東海王・司馬越の掾だったが、劉琨とともに殺された。
劉挹の弟である劉啟と、その弟の劉述は、ともに劉群(劉琨の子)とともに末波に仕えた。のちに石季龍に併合された。
劉啟は、石季龍の王朝で尚書僕射となり、のちに東晋に歸國した。穆帝は、劉啟を前將軍として、給事中を加えた。永和九年、中軍將軍の殷浩に随って北伐したが、姚襄に敗れて劉啟は戰沒した。
劉述は、石季龍の侍中となり、劉啟に従って歸國した。東晋で、驍騎將軍となった。
〈訳注〉東晋に帰国できた人もいたわけだ。


西晋末期にしぶとく并州を保った劉琨たちですが、頑張りすぎたゆえに、五胡十六国による大陸分断を、一族の中にモロに食らってしまった。きっと東晋では、優遇(というより珍重)されたのでしょう。090427
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このコンテンツの目次
『晋書』列32、劉琨伝の翻訳
1)賈謐の友、趙王倫の姻
2)劉聡と石勒との戦い
3)鮮卑族と義兄弟
4)晋に殉じても無視
5)脂汚れの兄、劉輿
6)五胡十六国で一家離散