表紙 > 和訳 > 『後漢紀』献帝紀を抄訳;興平年間

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興平元年の春夏

2月、王氏を皇后とし、馬騰が李傕に叛く

春正月辛酉,大赦天下。甲子,帝加元服。
二月戊寅,有司奏立長秋〔宮〕〔一〕。詔曰:「皇妣宅兆未卜,三年之戚,禮不言吉。朕雖不能終身思慕,其何忍言後宮之選乎?」於是太尉朱雋、司徒淳于嘉、司空張喜奏曰:「春秋之義,母以子貴,宜改葬皇妣,追上尊號,比穆宗、〔敬〕(恭)宗故事〔二〕。」
〔一〕據范書補。 〔二〕「比」字蔣本闕,黄本作「日」,全後漢文作「如」,而范書皇后紀作「比」。比、日形近而訛,故據范書補。又和帝葬宋貴人于西陵,儀比敬園,上尊謚曰恭懷皇后。順帝葬母李氏,上尊謚曰恭愍皇后,葬恭北陵。獻帝改葬王氏亦同此禮。和帝尊號曰穆宗,順帝尊號曰敬宗,此作恭宗,誤,亦正之。

春正月辛酉、天下を大赦した。正月甲子、天子は元服を加えた。
2月戊寅、有司は「長秋宮を立てよ」と奏した。天子が反対した。太尉の朱雋、司徒の淳于嘉、司空の張喜が奏した。「『春秋』公羊伝では、母は子を以て貴い。母の王氏を改葬して、尊號をつけよ。穆宗と敬宗(和帝と順帝)の前例にしたがえ」と。

和帝の母・宋貴人は皇后がおくられた。順帝の母・李氏も皇后がおくられた。献帝の母も、和帝と順帝とおなじく生前は皇后でないが、皇后を追諡せよと三公がいう。


甲申,改葬皇妣王氏,號曰靈懷皇后〔一〕。 后,邯鄲人。祖苞治尚書,為五官中郎〔將〕〔二〕。父章襲苞業,居貧不仕。有子二人,男曰斌,女曰榮。榮則后也。后以選入掖庭,為貴人,有寵妊身。怖畏何后,服藥欲除胎,胎安不動,又夢負日而行,遂生帝。何后惡之,鴆殺后。靈帝大怒,欲廢何后,諸黄門請,僅而得止。靈帝憫上早孤,追思王后,乃作令儀頌。
初,上詔求斌。斌將妻子詣長安,賜第宅田業,遷執金吾,封都亭侯〔三〕。 〔一〕范書獻帝紀曰:「二月壬午,追尊謚皇妣王氏為靈懷皇后。甲申,改葬于文昭陵。」 〔二〕據范書皇后紀補。 〔三〕范書皇后紀「田業」下有「拜奉車都尉」五字。下文既云「 遷」,袁紀恐脫之。

2月甲申、王氏を改葬して、靈懷皇后とした。

『後漢書』獻帝紀では、2月壬午、靈懷皇后と追諡して、甲申に文昭陵へ改葬したとある。『後漢紀』では、2つの日付がくっついている。

王氏は邯鄲の人。祖父の王苞は尚書を治め、五官中郎將となる。父の王章は、祖父の事業をつぐ。貧しいが仕えない。2子ある。男子は王斌で、女子は王榮である。これが王皇后である。王栄は妊娠したとき、何皇后をおそれて、薬で中絶しようとした。何皇后に鴆殺された。霊帝は何皇后を廃したいが、黄門がとめた。霊帝は王栄をあわれみ、儀頌をつくらせた。
はじめ霊帝は、王栄の兄・王斌をもとめた。王斌は妻子をひきいて、長安にゆく。王斌は、執金吾、都亭侯となる。

『後漢書』皇后紀には、王斌が奉車都尉になったとある。袁宏が省略したのか。


丁亥,車駕耕于藉田。
是時李傕等專亂,馬騰等私求不獲,騰怒,以益州牧劉焉宗室大臣,遣使招引,欲共誅傕等。焉遣子範將兵就騰。岐州刺史种邵〔一〕,太常种拂之子。拂為傕所害,中郎將杜廩與賈詡有隙,並與騰合,報其讎隙。於是傕、騰攜貳,上遣使者和之,不從。〔韓〕(稟)遂率衆來〔二〕,欲和傕、騰,既而復與騰合。
〔一〕按三國志董卓傳,時种邵任諫議大夫,又漢無「岐州」。范書董卓傳作「前敘州刺史种劭」,袁紀誤。 〔二〕「稟」,黄本作「轉」,韓、轉形近而訛,故正之。

2月丁亥、車駕は籍田の耕地にゆく。
このとき李傕らが專亂する。馬騰は天子を救いたい。馬騰は、益州牧の劉焉をまねき、李傕を誅したい。劉焉は、子の劉範を馬騰におくる。涼州刺史の种邵は、太常の种拂の子である。父の种拂が李傕に殺された。中郎將の杜廩と賈詡は、仲が悪い。杜廩も馬騰とむすぶ。ここにおいて、李傕と馬騰はぶつかった。韓遂は兵をひきいて、李傕と馬騰を和解させたいが、馬騰にあわさった。

ぼくは思う。种邵や杜廩が当事者だと、知らなかった。


3月、馬騰と韓遂の反乱が尻すぼむ

任申〔一〕,騰、遂勒兵屯平樂觀〔二〕,將圖長安。傕使樊稠、郭汜及兄子李利擊騰、遂,破之,邵、範等皆死。遂西走,稠追之,遂謂稠曰:「天地反覆未可知。本所爭者非私怨,王家事耳。與足下州里〔人〕〔三〕,雖小有違,要當大同,欲相與善語,而不意後不可復。」乃交馬共語,良久別去。庚申〔四〕,赦騰。
〔一〕此三月事,疑袁紀有脫文。又壬申乃第二十五日,在庚申後,疑有訛。 〔二〕范書作「長平觀」,三國志亦然,袁紀恐誤。 〔三〕據三國志董卓傳注引九州春秋及通鑑補。 〔四〕三月戊申朔,庚申乃第十三日。

3月任申、馬騰と韓遂は、長平観(平樂觀)に屯する。

袁宏が月を書かないが、これは3月25日である。庚申が後にあるのは誤りである。

馬騰らは長安を囲もうとする。李傕は、樊稠と郭汜、兄子の李利に反撃させ、馬騰と韓遂をやぶる。种邵と劉範は死んだ。韓遂は西ににげ、樊稠が追っていう。「私と韓遂は同郷だ。語ろうよ」と。韓遂と樊稠は交馬語して去る。
3月庚申、李傕の朝廷は、馬騰を赦した。

3月は戊申がついたちなので、これは3月15日である。上に3月25日の記事があるので、おかしい。


4月、曹操が陶謙を、呂布が曹操を攻める

夏四月,以馬騰為安狄將軍,遂為安羌將軍〔一〕。
〔一〕通鑑與黄本均作「安降將軍」。胡三省曰:「二將軍號,一時暫置耳,後世不復置。」

夏4月、馬騰を安狄將軍とする。韓遂を安羌將軍とする。

『通鑑』では韓遂を「安降將軍」とする。胡三省はいう。2つの将軍号は、このときだけ置かれた。後世には置かれない。


徐州牧陶謙、北海相孔融謀迎天子還洛陽,會曹操襲曹州〔一〕而止。 〔一〕東漢無曹州。時曹操為父報仇,復征陶謙,所襲者徐州也。袁紀乃涉上文「曹操」而誤。

徐州牧の陶謙、北海相の孔融が、天子を洛陽に迎えようと謀った。たまたま曹操が徐州を襲ったので、この計画は中止された。

ぼくは思う。因果関係の判定はむずかしいが、「曹操が天子の東帰をジャマしようとして、陶謙を攻撃した」可能性もある。この袁宏の書き方は、わざと臭わせる。曹操の徐州攻撃の1度目は、曹操の父が死ぬ前だっけ。曹操が攻撃をがんばり過ぎるのは、天子の妨害だと思うと、あたらしい議論がひろがるなあ!


陳留太守張邈反,呂布為兗州牧,郡縣皆應之,唯甄城、范(陽)〔一〕、東阿三縣不從。邈使人告荀彧曰:「呂布將軍來助曹使君擊陶謙,宜給其食。」衆皆疑,彧知邈為亂,即勒兵設備。時操軍攻謙,留守少,而(布)督將大吏多與邈〔通〕謀〔二〕。其夜,彧誅謀叛者數十人,衆乃定。
豫州刺史郭貢率衆數萬人來至城下。或言與呂布同謀,衆甚懼。貢求見彧,彧將往,或曰:「君一州鎮也,往必危,不可!」彧曰:「貢、邈分非素結,今來速,計必未定;及其未定說之,縱不為用,可使中立。若先疑之,彼將怒而成計。」貢見彧無懼意,謂甄城未易攻也,遂引兵去。 操引軍還攻呂布。
〔一〕據三國志、范書刪。郡國志東郡有范縣,無范陽,「陽」系衍文。 〔二〕據三國志荀彧傳刪補。

陳留太守の張邈がそむき、呂布を兗州牧とする。郡県はみな曹操にそむく。張邈は荀彧に「呂布がきて、曹操の陶謙討伐をたすける。食糧を呂布にくれ」と依頼した。荀彧は張邈をうたがい、防備した。ときに曹操の留守は少ない。督将や大吏が、曹操から呂布につくので、夜に荀彧が数十人を斬って、鄄城を鎮定した。

呂布って、『三国志』でも兗州牧だっけ。そして、曹操の居城のなかですら、呂布に呼応しまくったんだっけ。基本的な記述なのに、けっこう忘れてる。いかんなあ。

豫州刺史の郭貢が城下にきたが、荀彧がつっぱねた。郭貢は、荀彧のまもる鄄城の守備が堅そうなので、兵をひいいた。

ぼくは思う。張邈の反乱は、「天子を妨害した曹操を懲らしめる」ものだとしたら。張邈もまた、天子を東帰させるために動いていることになる。呂布はよく分からんが、李傕から天子を奪回するという動きは一致する。呂布は、袁紹が長続きしないが、これは袁紹が天子を重んじないからだ。
ぼくは思う。袁術ー張邈が天子を呼びもどすため、兗州を攻めた。陶謙と孔融は、袁術と張邈とライバル関係にあるが、どちらも天子を洛陽に予防とする点で意見が一致する。なんだか、新しい後漢末が見えてきたなあ。『三国志』武帝紀を読むと、曹操の英雄譚を盛り上げる試練に見えるが、全然ちがう。天子を洛陽に戻すための、一枚岩の動きのなかに、曹操がいるだけだ。
ぼくは思う。馬騰と劉焉の反乱も、陶謙と孔融の動きも、張邈と袁術の連携も、すべて長安から天子をひっぱりだすため。李傕が長安の政権をにぎった時期に、一斉に取り合いを始めた。天子に執着しない、袁紹と曹操だけが、純粋に「国盗り」を楽しんでいる。官渡の戦いに収斂する袁曹の動きを「主語」にするから、見誤るのだ。


5月

五月,即拜揚武將軍郭汜為後將軍,更封美陽侯。安集將軍樊稠為右將軍,開府如三公〔一〕。 〔一〕按通鑑與此同,然前初平三年紀文已言汜為後將軍、稠為右將軍,皆封侯,此又重出恐誤。或當作「加後將軍郭汜、右將軍樊稠開府如三公」。

5月、揚武將軍の郭汜が後將軍となり、美陽侯に更封された。安集將軍の樊稠が右將軍となり、三公のように開府した。

『資治通鑑』もおなじ。だが、2年前の初平3年、すでに郭汜は後将軍で、樊稠は右将軍で、侯爵に封じられている。記事が重複する。「後将軍の郭汜と、右将軍の樊稠に、三公のように開府を加えた」とすべきか。


6月

六月丙子,分河西〔四〕郡為雍州〔一〕。 丁丑,京師地震。戊寅,又震。 乙酉晦〔二〕,日有蝕之。避正殿,寢兵不聽事五日。
〔一〕據范書補。 〔二〕范書及續漢志均作「乙巳晦」。按是月丙子朔,乙酉乃第十日,非晦日,作「乙巳」是。

6月丙子、河西4郡をわけて、雍州とする。
6月丁丑、京師で地震あり。6月戊寅にも、地震あり。 6月乙酉みそか、日食あり。正殿をさけ、兵を寝かせ、5日間は朝政しない。

『後漢書』と『続漢書』では、「乙巳みそか」とする。6月は丙子がついたちだから、袁宏が書いた「乙酉」は10日である。みそかでない。「乙巳」が正しい。

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興平元年の秋冬

7月、長安で食いあい、天子が配給する

秋七月壬子,太尉朱雋以災異策罷。戊午,太常楊彪為太尉,錄尚書事。 甲子,即拜鎮南將軍楊定為安西將軍,開府如三公。 自四月不雨,至于七月。詔使侍御史侯汶洗囚徒,原輕繫。上避正殿。

秋7月壬子、太尉の朱雋を災異によって策罷した。7月戊午、太常の楊彪を太尉として、錄尚書事させる。7月甲子、鎮南將軍の楊定が安西將軍となり、三公のように開府する。
4月から7月まで雨が降らない。侍御史の侯汶に、囚徒を調査させ、軽罪の者をゆるした。天子は正殿を避けた。

ぼくは思う。「雨が降らない原因は冤罪」という思考回路。


於是穀貴,大豆一斛至二十萬。長安中人相食,餓死甚衆。帝遣侍御史候汶出太倉米豆,為貧人作糜,米豆各半,大小各有差。餓死者甚衆,帝疑廩賦不實,敕侍中劉艾取米豆各五升,燃火於御前,作糜得二盆〔一〕。於是艾出問尚書:「米豆五升,得糜二盆,而民委頓,何也?朕甚愍之!民不能自濟,故部使者出米豆,冀有益焉。御史不加隱卹,乃如是乎?」尚書以下詣省閤謝,奏收侯汶考實。詔曰:「未忍致於理,可杖五十!」亟遣上親所廩人名,於是悉得全濟。 〔一〕范書獻帝紀注引袁紀作「得滿三盂」,下同。

穀物や大豆の価格が高騰した。長安で人が食いあう。天子は、侍御史の候汶に、太倉の米豆を出させ、めぐませた。米と豆を半分ずつ配る。餓死者がおおいので、天子は廩賦が正しくないと考えた。侍中の劉艾に、米とを5升ずつ計量させ、天子の前で燃やして2盆ぶんを焼いた。劉艾は尚書に「米豆の5升は、2盆ぶんとなる。きちんと2盆ぶんを、民に配給したか」と確認した。尚書より以下が「分量を減らしていた」と謝った。天子は「道理どおりに罰するのも忍びない。杖刑50だけにしろ」という。米と豆を受けとった者の名前を管理して、配給を行き渡らせた。

ぼくは思う。分量を減らしていたのは、朝廷も財政が苦しいからだろう。だから献帝は、減らした者を厳しく罰しなかったんだと思う。ちがうかなあ。


8月、9月

八月,馮翊羌寇屬縣。後將軍郭汜、右將軍樊稠等率衆破之,斬首數萬級。 九月,曹操還甄城。呂布屯山陽。

8月、馮翊で羌族が屬縣を寇した。後將軍の郭汜、右將軍の樊稠らが羌族をやぶり、数万を斬首した。9月、曹操が鄄城にもどり、呂布は山陽に屯する。

12月、趙温が司徒となる

冬十二月,司徒淳于嘉久病罷。衛尉趙溫為司徒,錄尚書事〔一〕。 〔一〕按范書獻帝紀,嘉罷作「九月」,溫為司徒系於「十月」。

冬12月、司徒の淳于嘉が長らく病気なので、罷めた。衛尉の趙溫を司徒として、錄尚書事させた。121202

『後漢書』献帝紀で、淳于嘉は9月にやめる。趙温が司徒になる記事は10月につながる。ぼくは思う。『後漢書』に従うと、冬の記事がなくなる。なんか年末に、長らく病気でやめる三公って多いなあ。袁宏が誤って、同じパタンに加工しちゃったか。

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興平二年の春夏

正月、李傕が天子を、郭汜が公卿を人質に

春正月癸酉〔一〕,大赦天下。
〔一〕按范書獻帝紀作「正月癸丑」。正月癸卯朔,無癸酉,袁紀誤。

春正月癸丑(癸酉)、天下を大赦した。

即拜袁紹為後將軍〔一〕,使持節冀州牧,封邧鄉侯。
沮授說紹曰:「公累世輔弼,世濟忠義。今朝廷播越,宗廟毀壞。觀諸州郡,外託義兵,內懷相擒,君有存主卹民者也。今且州域粗定,宜迎大駕,安宮鄴都,挾天子而令諸侯,畜士馬以討不庭,誰能禦之?」紹說,將從之。郭圖、淳于瓊曰:「漢室陵遲,為日久矣,今欲興之,不亦難乎?且英雄據有州郡,動衆萬計,所謂秦失其鹿,先得者王〔二〕。今迎天子以自近,動輒表聞,從之則權輕,違之則拒命,非計之善也。」授曰:「今迎朝廷,至義也,又於時宜大計也。若不早圖,必有先之者。權不失機,功在速捷,其孰圖之。」紹不能從〔三〕。
〔一〕范書袁紹傳作「拜紹右將軍」。 〔二〕史記淮陰侯列傳:「蒯通曰:『秦失其鹿,天下共逐之,於是高材疾足者先得焉。』」 〔三〕袁紀此段取自三國志袁紹傳注引獻帝傳。而本傳作「初,天子之立非紹意,及在河東,紹遣潁川郭圖使焉。圖還說紹迎天子都鄴,紹不從」。范書從袁紀。

袁紹が後将軍を拝した。使持節、冀州牧、邧郷侯。

『後漢書』袁紹伝では、右将軍である。
ぼくは思う。これで袁紹が後将軍もしくは右将軍として、天子と李傕と結んでくれれば、天下は平定されたことになる。しかし戦いは終わらない。なぜだ。袁紹が公孫瓚と戦い続けるのは「天子のための戦い」とも読めるから問題なし。曹操が兗州で呂布と戦っているので、曹操が戦いを辞めてくれれば、戦乱は終わりか。つぎの沮授の発言を聞いてみましょう。

沮授は袁紹にいう。「鄴県に天子を迎えよ」と。袁紹は沮授に従おうとした。郭図と淳于瓊が「漢室は滅びるから、中原に鹿を終え。天子が近ければ、袁紹の権威が軽くなる」と。袁紹は郭図と淳于瓊に従った。

『史記』韓信伝で、蒯通が鹿の話をする。
袁宏『後漢紀』の段取は、『三国志』袁紹伝にひく『献帝紀』と同じ。だが袁紹伝の本文は「はじめ袁紹は天子を立てたくない。河東にあり、袁紹は頴川の郭図を天子への使者にした。郭図は天子を鄴県に迎えよという。袁紹は従わず」と。
ぼくは思う。『三国志』袁紹伝のように、郭図が勧めたにせよ。『献帝紀』とこの『後漢紀』のように沮授が勧めたにせよ袁紹は、後将軍をもらっておきながら、天子を鄴県に迎えるのを辞めた。「天子を長安から救い出す」が、袁紹のほか全員に共有されているなか、袁紹だけは天子を無視した。やっぱり、ぼくが初平のとき解釈した「袁紹と曹操は、鎮圧されるべき、後漢にとって最後の反乱分子」という図式は、あたっている。 袁紹が官位を受けちゃったから、図式が崩壊したかと、日曜の朝からマジで驚いた。
ぼくは思う。袁紹に官位を発行した、興平二年は、李傕だけでなく天子にとっても、「戦乱の終息おめでとう」の予定だった。興平二年のつぎは、建安年間にはいる。ここで時代が区切れるのだ。残念なほうに。


是時以年不豐,民食不足,詔賣廄馬百餘匹,御府大司農出雜繒二萬匹,與馬值,賜公卿已下及貧民不能自存者。李傕曰:「我邸閣儲跱少〔一〕。」乃不承詔,悉載置其營。賈詡曰:「此乃上意,不可拒也。」不從。李傕、郭汜、樊稠各自以有功,爭權欲鬥者數矣。賈詡每以大體責之,雖內不能善,外相含容。
〔一〕跱,三國志作「偫」,古通用。李賢曰:「跱,具也。」按說文曰:「偫,待也。」段注:「謂儲物以待用也。」或作崎、庤。 初,樊稠擊馬騰等,李利戰不甚用力,稠叱之曰:「人欲截汝父頭,何敢如此!我不能斬卿邪?」利等怒,共譖之於傕。傕見稠勇而得衆心,亦忌之。

この歳は不作である。民は食糧がない。天子の軍用馬と、大司農の絹織物を売却し、公卿から貧民までに施した。李傕はいう。「私には備蓄がないから、売却に協力しない」と。賈詡が「天子に従って、施しに協力しろ」というが、李傕は従わない。

周天游(『後漢紀』の青字の注釈者)はいう。はじめ樊稠が馬騰らを撃ったとき、李傕の兄子の李利は、役に立たない。樊稠が李利を「みな李傕の頭を斬りたい。私が李利を斬れないとでも思うか」と叱った。李利らは怒って、李傕にむけて樊稠をそしった。李傕は、樊稠に勇力と人望があるので、樊稠を忌んだ。

李傕、郭汜、樊稠は、功績を争った。賈詡が争いを咎めた。3人は内心では仲が悪いが、外面では仲直りした。

2月

二月,李傕殺右將軍樊稠、撫軍中郎將李〔蒙〕(象)〔〇〕。由是諸將皆有疑心。 傕數設酒請汜,或留汜止宿。汜妻懼傕與汜婢妾而奪己愛〔一〕,思有以離間之。會傕送饋,汜妻乃以豉為藥〔二〕。汜將食,妻曰:「食從外來,儻或有故。」遂摘藥示之曰:「一棲無兩雄〔三〕,我固疑將軍〔之〕信李公也〔四〕。」他日傕復請汜,大醉,汜疑傕藥之,絞糞汁飲之乃解。於是遂相〔猜〕疑〔五〕,治兵相攻矣。上使侍中、尚書和傕、汜,不從。乃謀迎天子幸其營,夜有亡者,告傕。
〔〇〕據范書董卓傳注引袁紀改。范書亦作「蒙」。 〔一〕袁紀此句與三國志董卓傳注引典略同。然范書董卓傳注引袁紀作「汜妻懼傕婢妾私而奪己愛」,御覽卷八五六引袁紀「傕」上有「與」字,餘同范書注。疑今本「傕與汜」當是「汜與傕」之誤,又「妾」下脫「私」字。又范書注亦脫「與」字。 〔二〕據御覽卷八五六引袁紀補。 〔三〕胡三省曰:「以雞為喻也。一棲而兩雄,必鬥。」 〔四〕據御覽卷八五六引袁紀補。三國志、范書均有「之」字。 〔五〕亦據御覽引文補。

2月、李傕は右將軍の樊稠、撫軍中郎將の李蒙を殺した。これにより諸将は、李傕に疑心をもつ。
しばしば李傕は、郭汜を泊める。郭汜の妻は、李傕と郭汜の婢妾が、じぶんの愛を奪いあうことを懼れ、李傕と郭汜を離間させたい。

袁宏と『三国志』董卓伝にひく『典略』は、ほぼ同じ。だが『後漢書』董卓伝にひく袁宏『後漢紀』では、「郭汜の妻は、李傕の婢妾に、郭汜の愛を奪われるのを懼れて」とある。『御覧』はまた違う。
ぼくは思う。郭汜が李傕の家に泊まるので、郭汜がそこにいる婢妾にハマるのを、郭汜の妻が懼れたと理解すれば良いかなー。字句の異同はいろいろあるけど、郭汜の妻の胸中なんて、わかるものか。史家の文体は、色恋を描くのが下手なのか。

郭汜の妻は、李傕にもらった饋に毒を入れた。郭汜が食べる前に取りあげ、「李傕に毒を盛られた」と示した。後日、郭汜は李傕にふるまわれた酒で酔ったので、毒薬を飲んだと疑い、糞汁を飲んで吐き出した。李傕と郭汜は、治兵して攻めあう。
天子は侍中と尚書をつかわし、李傕と郭汜を和解させたいが、和解せず。両者は天子を自陣に迎えたい。夜に逃げる者があり、これを李傕に告げた。

3月

三月丙寅〔一〕,傕使兄子李暹將數千兵圍宮,以車三乘迎天子。太尉楊彪曰:「自古帝王無在人〔臣〕家者〔二〕,舉事當合天心,諸君作此非是也。」暹曰:「將軍計定矣。」於是天子一乘,貴人伏氏一乘,黄門侍郎賈詡、左靈一乘,其餘諸臣皆步〔從〕〔三〕。司徒趙溫、司空張喜聞有急,自其府出隨。乘輿既出,兵入殿中掠宮人、御物。
〔一〕三月壬寅朔,無丙寅。疑有訛。 〔二〕據三國志董卓傳注引獻帝起居注補。 〔三〕據獻帝起居注補。

3月(丙寅)、李傕は、兄子の李暹に数千をひきいさせ、天子の宮をかこむ。

3月は壬寅がついたちなので、丙寅はない。誤りか。

天子を車に乗せようとした。太尉の楊彪はいう。「天子は臣下の家にはいかない。天子を李傕の陣に連れだすな」と。李暹は「李傕の指示だから」といい、天子を1車、伏貴人を1車、黄門次郎の賈詡と左霊を1車にのせた。この3車のほか、諸臣は歩いて従う。

ぼくは思う。賈詡って、長安の朝廷でかなりの重要人物だなあ!わざわざ名前が出てくる。三公レベルの登場回数だ。賈詡に着目して読むとおもしろいかも。
二袁を見て、曹操の献帝奉戴をみとめた、献帝の重臣・賈詡伝
いちどやったが、もう1回やりたい。

司徒の趙溫、司空の張喜は、これを知って、あわてて自府から出て、天子に随行する。天子が乘輿して出ると、兵が殿中で宮人や御物をかすめた。

是日天子幸傕營。又徙御府金帛、乘輿、器服置其營,遂放火燒宮殿、官府、民居悉盡〔一〕。 天子復使公卿和傕、汜。汜又留太尉楊彪、司空張喜、尚書王隆、光祿勳劉淵、衛尉士孫瑞、太僕韓融、廷尉宣璠、大鴻臚榮郃、大司農朱雋、將作大匠梁〔邵〕(邰)〔二〕、屯騎校尉姜宣等。
〔一〕「官府」原誤作「宮府」,「民居」誤作「居民」。前者據范書、後者據通鑑逕正。 〔二〕據黄本及通鑑改。

この日、天子は李傕の軍営にゆく。御府の金帛、乘輿、器服が、李傕の軍営に置かれる。宮殿は放火して焼かれ、官府や民居がなくなった。

「官府」は「宮府」に、「民居」は「居民」に改めるべきか。『後漢書』は前者だが、『通鑑』で後者に改められる。ぼくは補う。官僚の居場所と、人民の居場所。長安城のなかの建物が焼けちゃったんだろう。

天子は公卿を使者にして、李傕と郭汜を和解させたい。郭汜は、以下の公卿を自陣にとどめた。太尉の楊彪、司空の張喜、尚書の王隆、光祿勳の劉淵、衛尉の士孫瑞、太僕の韓融、廷尉の宣璠、大鴻臚の榮郃、大司農の朱雋、將作大匠の梁邵、屯騎校尉の姜宣らである。

4月、賈詡が羌族を返し、李傕と郭汜が和解

夏四月,郭汜饗公卿,議攻李傕。楊彪曰:「群臣共鬥,一人劫天子,一人質公卿,此可行乎!」汜怒,欲刃之。中郎〔將〕楊密說汜〔一〕,乃止。朱雋素剛直,遂發病死。 〔一〕據黄本補。

夏4月、郭汜は公卿を饗して、李傕への攻撃を議した。楊彪はいう。「李傕と郭汜が戦い、1人は天子を、1人は公卿を人質にする。やって良いわけがない」と。郭汜は怒り、楊彪に刃をむける。中郎將の楊密が郭汜を説得したので、郭汜は楊彪に、刃をむけるのを止めた。

ぼくは思う。楊密と楊彪は、同姓だけど、なにか関係があるのだろうか。それにしても郭汜は、1人しかいない天子を李傕に奪われたあと、公卿を奪うという機転を利かせた。すごいと思う。楊彪が「あり得ない」と怒るほど、斬新な発想だと思う。

朱雋は剛直なので、郭汜に脅されると、発病して死んだ。

◆朱儁伝

雋字公偉,會稽上虞人。少好學,為郡功曹。太守徐珪為州所誣奏,郡吏謀賂宦官,雋曰:「明府為州所枉,不思奮命,而欲行賂,以穢清政,是有君無臣也。今州自有贓汙,而求郡纖介,抱罪誣人。雋具知之,請詣京都,無以賂為也。」珪曰:「卿之智情,我所知也,今州奏已去,恐無及也。」雋曰:「操所作章,疾馬兼追,足以先州。且尋郵推之,州書可得矣。」珪曰:「善!」雋即夜發輕騎數十人,分伺州書,果得而鈔絕之。雋得獨至京師,上書告刺史罪,章即下,乃徵刺史,珪事得解。刺史家聞,使刺客分遮道,欲殺雋。雋知,乃從洛陽尉司馬珍,自匿變服而去。珪大悅,雋由是顯名〔一〕。舉孝廉,為尚書郎,遷蘭陵令。 光和初,交阯賊梁龍等攻郡縣,以雋治蘭陵有名,即拜交阯刺史。雋上書求過本郡募兵,天子許之,得以便宜從事。將家兵二千人,并郡所調合五千人,分兩道至州界。斬蒼梧太守陳紹,遣使喻以利害,降者數萬人〔二〕。乃勒兵擊斬龍,旬月盡定。封都亭侯,賜黄金五十斤。
〔一〕范書朱雋傳曰:「熹平二年,端坐討賊許昭失利,為州所奏,罪應棄市。雋乃羸服間行,輕齎數百金到京師,賂主章吏,遂得刊定州奏,故端得輸作左校。端喜於降免,而不知所由,雋亦終無所言。後太守徐珪舉雋孝廉。」與此異。 〔二〕范書朱雋傳此五字在「斬龍」句之後。

朱儁伝がある。はぶく。

甲午,立皇后伏氏。后,琅邪東武人也。父完,深沉有大度。舉孝廉,稍遷五官中郎將、侍中,以選尚陽安長公主。主,桓帝女也,生五男一女:長男德,次雅,次后,次均,次尊,次朗。后以選入掖庭,為貴人。完遷執金吾。
於是李傕召羌、胡數千人,先以御物、繒綵與之,許以宮人婦女,欲令攻郭汜。羌、胡知非正,不為盡力。郭汜與傕中郎將張苞、張寵等謀攻傕〔一〕。丙申,兵交及帝殿前,又貫傕左耳。楊奉於外距汜,汜兵退,張苞、張寵因以所領兵詣汜。
〔一〕范書董卓傳注引獻帝紀「張寵」作「張龍」。

4月甲午、伏貴人を皇后にした。皇后は、琅邪の東武の人。父の伏完は、孝廉にあげられ、五官中郎將、侍中をやる。桓帝の娘・陽安長公主をめとる。5男1女をもうけた。長男は伏徳。長女が貴人となると、伏完は執金吾にうつった。

ぼくは思う。伏皇后は、桓帝の孫なんだ!霊帝の子と、桓帝の孫が結婚する。きれいに世代がそろう。めでたい!

ここにおいて李傕は、羌胡の数千人を召し、天子から奪った御物や繒綵をあたえ、羌胡に宮人や婦女を与えた。李傕は羌胡に郭汜を攻撃させたいが、羌胡は李傕からの贈物が、本来は李傕のものでないと知り、李傕のために尽力せず。

ぼくは思う。おもしろい『贈与論』の世界!

郭汜と、李傕の中郎將である張苞、張寵らは、李傕の命をねらう。4月丙申、天子の殿前で、李傕の左耳をつらぬいた。楊奉がそとで郭汜を防ぐので、郭汜は撤退した。張苞、張寵は、李傕を去って郭汜をたよる。

是日,傕復移乘輿幸北塢,門內外隔絕〔一〕,諸侍臣皆有餓色。帝求米五斛,牛骨五具,以賜左右。傕曰:「御脯上飯,何用米為!」乃與腐牛骨,皆臭不可食。帝大怒,欲責詰之。侍中楊琦上封事曰:「傕,邊鄙之人,習於夷風,今又自知所犯悖逆,常有怏怏之色,欲轉車駕幸黄白城〔二〕,以舒其憤。臣願陛下宜恕忍之,未可顯其罪也。」上納之。
〔一〕三國志董卓傳注引獻帝起居注「門」上有「使校尉監塢」五字,疑袁紀脫。 〔二〕三國志董卓傳注引獻帝起居注「轉」作「輔」,下文張溫與傕書之「轉」亦同。通鑑從袁紀,是。

この日、李傕は天子の乘輿を、北塢に移して、門の内外を隔絕させた。

『三国志』董卓伝にひく『献帝起居注』では、「李傕が校尉に塢を監させ」がある。袁宏が脱落させたか。ぼくは思う。袁宏は、これを言わなくても意味が通るので、省略したのだろう。気持ちは、すごくよく分かる。

侍臣たちは飢餓である。天子は「米5斛と牛骨5具をくれ。左右の侍臣に配りたい」という。李傕は「贅沢だ」と言い、腐った牛骨を与えたが、臭くて食べられない。天子は怒り、李傕を詰問したい。侍中の楊琦が上封する。「李傕は辺境の者なので、自分がどんな無礼をしたか理解していない。もし李傕が自分の罪を知れば、(李傕は立場の悪化を警戒して) 李傕の居城である黄白城に、天子を連れこむだろう。李傕の罪を顕らかにするな」と。天子は納れた。

初,傕屯黄白城,故謀欲徙。傕以司徒趙溫不與己同,乃內溫塢中。溫聞傕欲移乘輿黄白城,與傕書曰:「公前託為董公報仇,然實屠陷王城,殺戮大臣,天下不可,家見而戶喻也。今爭睚眥之隙,以成千〔鈞〕(金)之讎〔一〕,民在塗炭,各不聊生,曾不改悟,遂成禍亂。朝廷仍下明詔,欲令和解,詔令不行,恩澤日損,而復欲轉乘輿黄白城,此老夫所不解也。於易,『一過,再為涉,三而弗改,滅其頂,凶』〔二〕。不如早共和解,引軍還屯,上安萬乘,下全生民,豈不幸甚。」傕大怒,欲遣人害之。其弟應〔三〕,溫故吏也,諫之數日乃止。帝聞溫與傕書,問侍中當洽曰〔四〕:「傕不知臧否,溫言大切,可為寒心。」洽曰:「李應以解之矣。」上乃悅。 〔一〕據裴注改。 〔二〕此語出于易大過,其文曰:「過,涉,滅頂,凶。」溫推而衍之。裴注引獻帝起居注「一過」下尚有「為過」二字。 〔三〕應,傕之從弟,見獻帝起居注。 〔四〕獻帝起居作「常洽」。

はじめ李傕は、黄白城に屯して、天子を黄白城に移したい。李傕は、反対者である司徒の趙溫を、塢中におく。趙温は李傕に文書を送る。「董卓の報仇ならまだしも、王城を焼き、大臣を殺した。天下は李傕を支持しない。はやく郭汜と和解して、天子を解放せよ」と。李傕は怒り、趙温を殺したい。李傕の弟・李応は、趙温の故吏である。李応が「趙温を殺すな」と諫めた。李傕は殺害をやめた。

ぼくは思う。持つべきものは故吏だなあ!

天子は趙温の文書を知り、侍中の當洽(常洽)にいう。「李傕は趙温を殺すんじゃないか」と。常洽は「李応が李傕の怒りを解く」という。天子は悦んだ。

傕信鬼神,晝夜祭祀。為董卓設坐,三牲祠之。祠畢,過問帝起居,因求入見。傕帶三刀,執一刀。侍中見傕〔一〕,亦帶刀入侍。值傕數汜之罪,上面答之,傕出,喜曰:「陛下,賢主也。」傕曰:「侍中皆持刀,欲圖我乎?」侍中曰:「軍中自爾,國家之故事也。」傕乃安。
〔一〕三國志董卓傳注引獻帝起居注「見傕」下有「帶杖」二字,袁紀恐脫。

李傕は鬼神を信じるので、昼夜ずっと祭祀する。

ぼくは思う。李傕は曲がりなりにも執政者だからね。執政者であれば、祭祀をやらねば。べつに「迷信に狂った愚者」ではないよ。

董卓に3牲をささげる。董卓への祭祀が終わると、天子の起居を問い、天子に会うという。李傕は3刀を帯びるが、1刀を手にとる。
侍中は、李傕が刀をもって天子に会うのを見て、侍中も刀を帯びた。李傕が天子に「郭汜に罪がある」というと、天子が同意した。李傕は「陛下は賢主だ」という。 李傕は「みな侍中が刀を持つ。私を殺すつもりか」と聞く。侍中は「軍中で帯刀するのは、国家の故事だから」と答えた。李傕は安心した。

ぼくは思う。天子は、李傕に斬られるのを懼れて、無理に同意されられた。そして、侍中の答弁によって安心した李傕は「アホ」と書かれているんだ。


閏月

閏月己卯,遣謁者僕射皇甫麗和傕、汜〔一〕。麗先詣汜,汜從命。又詣傕,傕不聽,曰:「我有誅呂布之功,輔助四年,三輔清凈,國家所知也。郭多,盜馬虜耳,何敢欲與吾等邪?必誅之。君觀吾方略士衆,足辨郭多不〔二〕?多又劫質公卿,所為如是,而君欲左右之邪〔三〕?」汜一名多。
麗曰:「昔有窮后羿恃其善射,不思患難,以至於斃〔四〕。近者董公強,將軍所知也。內有三公以為主,外有縱橫以為黨〔五〕,呂布受恩而反圖之,斯須之間,身首異處,此有勇而無謀也。今將軍身為上將,抱鉞持節,子孫親族,荷國寵榮。今汜質公卿,而將軍脅〔主〕(之),〔六〕,誰輕重乎?張濟與郭多、楊定有謀,又為冠帶所附。楊奉,白波帥耳,猶知將軍所為非是,將軍雖寵之,猶不輸力也。」傕不從,訶遣麗。麗曰:「傕不從詔,亂語不順。」侍中胡邈,傕所薦也,謂麗曰:「李將軍於卿非常也,又皇甫公為太尉,將軍力也。是言何謂乎?」麗曰:「吾累世受恩,又常在帷幄,君辱臣死,就為李傕所殺,志無顧也。」上懼傕聞麗言,敕麗令去。傕遣虎賁王昌呼麗,欲殺之。昌諷麗令去,還曰:「臣追之不及。」
辛巳,車騎將軍李傕為大司馬。
〔一〕袁紀「麗」前作「邐」。范書及通鑑作均「酈」。 〔二〕不,否也。 〔三〕胡三省曰:「左右,助也。」 〔四〕襄公四年左傳載魏絳語晉侯曰:「有窮氏之后羿,因夏民以代夏政,恃其射也,不脩民事,而淫于原獸。棄武羅、伯因、熊髡、尨圉,而用寒浞。浞行媚于內,而施賂于外,愚弄其民,而虞羿于田,樹之詐慝,以取其國家,外內咸服。羿猶不悛,將歸自田,家衆殺而亨之。」 〔五〕三國志董卓傳注引獻帝起居注作「外有董旻、承、璜以為鯁毒」。 〔六〕據范書董卓傳改。

閏月己卯、謁者僕射の皇甫麗をつかわし、李傕と郭汜を和解させる。

皇甫麗は、『後漢書』『通鑑』では「皇甫酈」である。

皇甫酈はさきに郭汜にゆくが、郭汜は従わず。つぎに李傕も従わず。李傕は皇甫酈にいう。「私は呂布を誅した功績があり、輔政を4年してきた。だが郭汜は盗賊まがいである。なぜ郭汜と和解せねばならんか。私の軍勢は、郭汜を倒すのに充分だ。郭汜は公卿を人質にするが、郭汜のような者に、天子を補佐させたいか」と。
皇甫酈はいう。「強者でも、警戒を怠れば殺される。近年の董卓のように。董卓は内に三公をおき、外に董旻ら親族をおき、呂布に恩を与えた。だが呂布に殺された。いま李傕は繁栄する。いま郭汜は公卿を人質にして、軍をひきいて天子をおどす。李傕と郭汜の強さに差異があろうか。張済、郭汜、楊定らは有謀である。楊奉は、たかが白波の帥だが、李傕の非行を知る。李傕は楊奉を寵するが、楊奉も李傕のために働くとは限らない」と。

ぼくは思う。李傕は「オレがいちばんの功臣であり、郭汜たちはゴミ同然」という。だが皇甫酈は「それは李傕さんのオゴリであり、警戒が足りないよ。董卓みたいに殺されるよ。せめて郭汜と和解して、少しでも政権を長持ちさせる努力をしなさい。李傕さんのためだよ」と言っているのだ。

李傕は皇甫酈に従わず、皇甫酈をしかった。皇甫酈は「李傕は詔に従わない。言葉を乱して順ならず」という。侍中の胡邈は李傕に推薦されて侍中になった者である。胡邈は皇甫酈にいう。「李傕は皇甫酈よりもずっと優れる。また皇甫嵩が太尉となったのも、李傕のおかげだ。なぜ李傕が順ならずと言うのか」と。皇甫酈はいう。「私は累世にわたり恩を受けた。天子が辱められたら、臣下は死ぬものだ。私は李傕に殺されても本望だ」と。天子は皇甫酈の発言を聞き、皇甫酈が李傕に殺されるのを懼れて、皇甫酈を去らせた。李傕は虎賁の王昌を使い、皇甫酈を呼んで殺そうとした。だが王昌は「皇甫酈はもう去った」とウソをつき、皇甫酈を逃がした。
閏月辛巳、車騎將軍の李傕が大司馬となる。

是夏,陶謙病死。 劉備在徐州。曹操欲襲之,荀彧曰:「昔高祖保關中,光武據河內,皆深根固本,以制天下,進可以勝敵,退足以堅守,雖有困敗,而終濟大業。將軍本以兗州首事,平山東之難,百姓歸心悅服。且河、濟,天下之要地也,〔今〕(人)雖殘壞〔一〕,猶易以自保,是亦將軍之關中、河內。若不先定之,根本將何寄乎?今破李封、薛簡〔二〕,若分兵東擊陳宮,宮必不敢西顧,乘其間而收熟麥,約食畜穀,一舉而布可破也。布破,然後南結揚州〔三〕,共討袁術,以臨淮泗。若捨布而東,多留兵則不足用,少留兵則民皆保城,不得樵采。布乘虛寇暴,民心益危,雖甄城、范、衛可全〔四〕,其餘非公之有,是無兗州也。若徐州不定,將軍安所歸乎?且陶謙雖死,徐州未易亡。彼懲往年之敗,將懼而結親,相為表裏。今東方皆已收麥,必堅壁清野,以待將軍。將軍攻之不拔,掠之無所獲,不出十日,則十萬之衆未戰而自困也。前討徐州,威罰實行,其子弟念父兄,必人人自守,而無降心。就能破之,尚不可有也。事故有棄此取彼者,以大易小可也,以安易危可也,權一時之勢,不患本之不固可也。今三者莫利,願將軍孰慮之。」操乃止,復定兗州。 〔一〕據三國志荀彧傳改。 〔二〕三國志荀彧傳「薛簡」作「薛蘭」。 〔三〕「揚州」,指揚州刺史劉繇也。 〔四〕胡三省曰:「衛,謂濮陽。杜預曰:濮陽古衛地。」

この夏、陶謙が病死した。
劉備は徐州にいる。曹操は徐州を襲いたい。荀彧に「高祖の関中、光武の河内のように、根拠地を定めるのが優先だ」と言われた。曹操は兗州の平定にもどった。


6月

六月,侍中楊琦、黄門侍郎丁沖、鍾繇、尚書左丞魯充、尚書郎韓斌與傕將楊奉、軍吏楊帛謀共殺傕〔一〕。會傕以他事誅帛,奉將所領歸汜。 庚午,鎮東將軍張濟自陝至,欲和傕、汜,遷乘輿幸他縣。使太官令〔孫〕(孤)篤〔二〕、綏民校尉張裁宣諭十反〔三〕。汜、傕許和,質其愛子。 〔一〕三國志董卓傳「楊帛」作「宋果等」。 〔二〕據范書董卓傳注引袁紀改。 〔三〕范書董卓傳注引袁紀「張裁」作「張式」。按「式」恐系涉下文傕之子式而誤。

6月、侍中の楊琦、黄門侍郎の丁沖と鍾繇、尚書左丞の魯充、尚書郎の韓斌と、李傕の部将の楊奉、軍吏の楊帛らは、李傕の殺害をはかった。

『三国志』董卓伝では、「楊帛」を「宋果等」とする。

たまたま李傕は、他事を以て、楊帛を誅した。楊奉は (李傕を殺害する計画がモレて、楊帛が殺されたと誤認し)、軍勢をひきいて郭汜に帰した。
6月庚午、鎮東將軍の張濟が陝県からきて、李傕と郭汜を和解させ、天子の乘輿を他県に移そうとする。太官令の孫篤、綏民校尉の張裁は、10回にわたり説得した。李傕と郭汜は和解して、愛する子を人質として交換した。

綏民校尉の張裁は、『後漢書』董卓伝にひく『後漢紀』では「張式」とされる。だがこれは、李傕の子の名前と混同したのだろう。


傕妻愛式,和計未定,而羌、胡數來闕省問曰:「天子在此中邪?李將軍許我宮人美女,今皆何所在?」帝患之,使侍中劉艾謂宣義將軍賈詡曰:「卿前奉職公忠,故仍升榮寵。今羌、胡滿路,宜思方略。」詡乃召大帥飲食之,許以封賞,羌、胡乃引去。傕由此單弱。於是尚書王復言和解之意,計以士衆轉少,從之,不以男,各女為質,封為君,食邑。復以汜從弟、濟從子繡、傕從弟桓為質〔一〕。
〔一〕汜從弟脫名。

李傕の妻は、子の李式を愛する。
李傕と郭汜が和解する前に、羌胡がしばしば李傕のところにきて、「天子はこの中にいるか。李傕は宮人や美女を与えると言ったが、ここにもいないか」という。天子は羌胡を患い、侍中の劉艾は、宣義將軍の賈詡にいう。「なんか方策はないか」と。賈詡は、羌胡の大帥を飲食させ、封賞を与えた。羌胡は去った。

ぼくは思う。羌胡は、広義の「経済活動」としておもしろい。宮女も飲食も同じ。何かをくれるなら、その形態は問わないのね。

羌胡が去り、李傕の軍は弱くなった。ここにおいて、尚書の王復が「郭汜と和解せよ」というから、李傕は従った。李傕たちは、男子でなく女子を人質にして、君に封じて食邑をつけた。女子とはべつに、郭汜の從弟、張済の從子の張繍、李傕の從弟の李桓を人質とした。

周天游はいう。郭汜の従弟の名を書いてない。

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興平二年の秋冬

7月、曹操が張超を殺す

秋七月甲子〔一〕,車駕出宣平門。汜兵數百人前曰:「此天子非也?」左右皆將戟欲交,侍中劉艾前曰:「是天子也。」使參乘高舉帷,〔帝言〕諸兵:「何敢逼至尊邪?」〔二〕汜兵乃卻,士衆皆稱萬歲。夜到霸陵,從者皆饑,張濟賦給各有差。傕出屯河陽〔三〕。
〔一〕七月庚午朔,無甲子。疑有訛。 〔二〕據陳、范兩書注引獻帝起居注補。 〔三〕范書董卓傳作「出屯曹陽」,通鑑作「出屯池陽」。按續漢郡國志,河陽屬河南尹,曹陽乃弘農所屬之曹陽亭,皆在華陰之東,均誤。當以通鑑為是。

秋7月(甲子)、天子の車駕は宣平門を出る。

7月は庚午がついたちなので、甲子がない。誤りか。

郭汜の兵が数百人でて「これは本物の天子か」という。左右は戟で交戦しかけるが、侍中の劉艾が前にでて「いかにも天子だ」という。郭汜の兵がひいた。士衆は万歳をとなえる。夜に霸陵につく。従者が飢えたので、張濟が配給した。
李傕は天子から離れ、池陽(河陽)に屯する。

『後漢書』董卓伝で、李傕は曹陽に屯する。『通鑑』は池陽に屯する。『続漢書』郡国志によると、河陽は河南尹であり、曹陽は弘農である。みな華陰の東であり、みな誤りである。『通鑑』のように池陽が正しい。


丙寅,以張濟為驃騎將軍,封平陽侯,假節,開府如三公。郭汜為騎車將軍,假節〔〇〕。楊定為後將軍,封列侯。董承為安集將軍。追號乳母呂貴為平氏君。
郭汜欲令車駕幸高陵,公卿及濟以為宜幸弘農,大會議之,不決。詔尚書郭浦喻汜〔一〕,曰:「朕遭艱難,越在西都,感惟宗廟靈爽,何日不歎!天下未定,厥心不革。武夫宣威,儒德合謀,今得東移,望遠若近,視險如夷。弘農近郊廟,勿有疑也。」汜不從。上曰:「祖宗皆在洛陽,靈懷皇后宅兆立,未遑謁也,夢想東轅,日夜以冀,臨河誰謂其廣,望宋不謂其遠〔二〕,而汜復欲西乎?」遂終日不食。浦曰:「可且幸近縣。」〔三〕。
〔〇〕范書獻帝紀言汜「自為車騎將軍」。 〔一〕范書董卓傳注引帝王紀作「尚書郎郭溥」。 〔二〕詩河廣曰:「誰謂河廣?一葦杭之。誰謂宋遠?跂予望之。」 〔三〕通鑑「浦曰」作「汜聞之曰」,是。

7月丙寅、張濟を驃騎將軍、平陽侯、假節とし、三公のように開府させる。郭汜を騎車將軍、假節とする。

『後漢書』献帝紀で、郭汜は車騎将軍となる。ぼくは思う。騎車ってなんだよ。

楊定を後將軍、列侯とする。董承を安集將軍とする。天子の乳母の呂貴に、平氏君と追号する。
郭汜は、車駕を高陵にゆかせたい。公卿および張済は、車駕を弘農にゆかせたい。大會して議したが、車駕の場所が決まらない。尚書の郭浦に詔を持たせて、郭汜を説得した。

『後漢書』董卓伝にひく『帝王紀』では、尚書郎の郭溥である。

詔にいう。「弘農は郊廟に近いから、ぜったい弘農がいい」と。郭汜は従わず。天子はいう。「後漢の天子の祖宗が、みな洛陽にある。靈懷皇后の廟を立てたが、まだ祭っていない。はやく東に帰りたい。なぜ郭汜は、西にこだわるか」と。天子はハンガーストライキをする。郭浦は天子に「近県にゆきなさい」という。

ぼくは思う。郭浦は天子に「少しでも東に行き、食事を再開せよ」と言ったのだろう。天子は董卓に立ててもらった。董卓に、どのような感情を持つのか、複雑だと思う。しかし、長安に移されたことだけは、恨みに思っていそう。
ぼくは思う。郭汜が東帰したがらないのは、関東の刺史や太守と、天子を奉戴する争いを始めねばならないからだ。具体的には、袁術と戦わねばならないからだ。「涼州から兵を供給するため」という要請は、少なそうだ。李傕は羌胡を手放したし。いまや李傕や郭汜を支えるのは、涼州の強兵とでなく、後漢の官位の高さだ。ゆえに、袁術とのライバル関係を避けたい。


8月、9月

八月甲辰,車駕幸新豐。張濟諷尚書徵河西太守劉玄,欲以所親人代之。上曰:「玄在郡連年,若有治理,迨遷之;若無異效,當有召罰,何緣無故徵乎?」尚書皆謝罪。上既罪濟所諷也,詔曰:「濟有拔車駕之功,何故無有表而私請邪?一切勿問。」濟聞之,免冠徒跣謝。後將軍楊定請侍中尹忠為長史,詔曰:「侍中近侍,就非其宜,必為關東所笑。前在長安,李傕專政。今朕秉萬機,豈可復亂官爵邪?」時上年十五,每事出於胸懷,皆此類也。
丙子〔一〕,郭汜等令車駕幸郿。侍中种輯、城門校尉衆在汜營,密告後將軍楊定、安集將軍董承、興義將軍楊奉,令會新豐。定等欲將乘輿還洛陽,郭汜自知謀泄,乃棄軍入南山。 〔一〕八月己亥朔,無丙子。疑上脫「九月」二字。

8月甲辰、車駕は新豐にゆく。
張濟は、尚書の命令をいつわり、河西太守の劉玄を徴した。張済は、自分に親しい者を、河西太守に交代させたい。天子はいう。「劉玄の統治はうまい。なぜ理由なく、劉玄を徴したか」と。みな尚書は謝罪した。天子は張済をとがめた。「張済は、私を新豊に連れだす功績があるのに、なぜ河西太守をかってに代えるのか。今回は見のがす」と。張済は冠と沓をぬいで謝った。
後將軍の楊定は、侍中の尹忠をじぶんの長史にした。詔した。「侍中は天子に近侍する。適切な人材をおかねば、関東から笑われる。さきに長安で、李傕が専政した。いま私が親政する。なぜ楊定は、ふたたび官爵の任免を乱すのか」と。

ぼくは思う。後将軍のくせに、天子のそばの侍中を、かってに引き抜いてるんじゃねえよ!という、天子のお怒りである。李傕の専政もまた、天子の意に適わない官爵の任免だったのね、とわかる。そして天子は、関東の諸侯の目を意識している。これはおもしろい!献帝が主人公の小説を読みたくなる。

ときに天子は15歳だが、考えを述べるたび、このように的確だった。
9月丙子、郭汜らは車駕を郿県にうつしたい。侍中の种輯、城門校尉の衆は、郭汜の軍営にいる。ひそかに後將軍の楊定、安集將軍の董承、興義將軍の楊奉に、郭汜の意図をつげた。新豊にいる楊定らは、天子を郿県にもどすのでなく、洛陽に移したい。郭汜は「天子を郿県に」という計画がバレたので、計画を棄てて南山に進軍する。

◆曹操が張超を殺し、袁紹が臧洪を殺す

是月,曹操圍張超於雍丘,超曰:「救我者唯臧洪乎?」衆曰:「袁、曹方穆,而洪為紹所用,必不敗好招禍,遠來赴此。」超曰:「子源天下義士〔一〕,必不背本也。但恐見禁制,不相及耳。」逮洪聞之,果徒跣號泣,並勒所領,又從袁紹請兵,欲救超,而紹終不聽。超遂族滅。 洪由是怒紹,絕不與通,紹興兵圍之,不能下。紹使洪邑人陳琳以書喻洪,洪答曰 (中略)。

この9月、曹操は雍丘で張超をかこむ。
張超は「私を救うのは臧洪だけか」という。衆は「袁紹と曹操は同調者だ。臧洪は袁紹に用いられた。臧洪は来ないのでは」という。張超はいう。「臧洪は天下の義士である。ただし、曹操による包囲の情報が、臧洪に届かないことを恐れる」と。臧洪は、張超の危機を知った。臧洪から袁紹に「張超を助けるから、兵を貸せ」というが、袁紹が許さず。ついに張超は、曹操に族滅された。

ぼくは思う。張超も臧洪も、天子を支持する。かつて袁紹も、董卓と戦ったときは、天子を支持した。だから、臧洪と袁紹は仲が良かった。いま袁紹が「天子を支持しない」に転換した。だから袁紹は、臧洪に兵を貸さなかった。もともとの心情をつらぬく臧洪は、袁紹の転換を読み切れなかった。

臧洪は袁紹に怒り、交通を絶やした。袁紹は臧洪を囲んだが、臧洪をくだせず。袁紹は、臧洪の同邑である陳琳に、説得の文書を書かせた。臧洪が陳琳に返書した。はぶく。

紹見洪書,知無降意,增兵急攻之。城中穀盡,外無強救,洪自度必不免,呼吏士謂曰:「袁氏無道,所圖不軌,且不救洪郡將,義不得不死。念諸君無事,空與此禍,可先城未敗,將妻子出。」吏士皆垂泣曰:「明府與袁氏本無怨隙,今一朝為郡將之故,自致殘困,吏民何忍當舍明府去也?」男女七八千人相枕而死,莫有離叛。
城陷,紹生執洪。紹素親洪,施帷幔,大會諸將,見洪謂曰:「 臧洪,何相負若此,今日服未?」洪據地瞋目曰:「諸袁事漢,四世五公,可謂受恩。今王室衰弱,無輔翊之急,欲因際會,希冀非望,多殺忠良,以立姦威。洪親見呼張陳留為兄〔一〕,則洪府君亦宜為弟,同共戮力,為國除害,何有擁衆而觀人屠滅!惜力不能推刃為天下報讎,何謂服乎!」紹本愛洪,意欲服而原之,見洪辭切,終不為用,乃殺之。 〔一〕張邈,張超之兄,原為陳留太守,故呼之為「張陳留」。

袁紹は臧洪の返書を見て、降伏の意志がないと知った。

ぼくは思う。降伏するとは、袁紹の新王朝を支持することと、ほぼ同義である。そりゃ臧洪の文書は、気合いが入るよなあ。ここでは省いちゃったけど。袁紹による革命を、最前線で批判する旧友。臧洪伝を、ちゃんと読み直したい。以前やったのが、あまりに昔すぎる。

袁紹は兵を増やした。臧洪は陥落を覚悟して、吏士にいう。「袁氏の無道は、道を踏みはずす。この城が陥落する前に、妻子をつれて出よ」と。吏士は垂泣していう。「臧洪と袁紹は、もとは仲が良かった。臧洪が太守となったため、ひどく袁紹に攻められる。私たち吏民は臧洪に殉じる」と。城内の男女7,8千人が臧洪のために死んだ。1人も臧洪を裏切らない。

ぼくは思う。漢室の城が、新王朝を名のる賊軍に滅ぼされた。「賊の王朝に従うくらいなら、漢王朝に殉じよう」と。吏民は直接はこれを言わないし、ただの群雄の争いのようにも見えるが、構図としては「漢室への殉死」じゃないかな。

袁紹は臧洪を生け捕った。袁紹は「臧洪は私に服したか」という。

ぼくは思う。董卓と皇甫嵩と同じじゃないか。袁紹は、世代や立場や領土はちがうが、董卓と同じなんだなあ。宮廷で何進の政権を牛耳っていた。もし董卓が天子を捕らえなければ、袁紹が同型のことをやっていたに違いない。

臧洪は目を瞋らせた。「諸袁は漢室に仕え、四世で五公をだし、漢室の恩を受けたと言うべきだ。いま漢室が衰弱したら、袁紹は忠良な者を殺した。私は、陳留太守の張邈を兄として、冀州牧の袁紹を弟として、漢室の害を除きたかった。なぜ袁紹は同志を滅ぼすのか。私は袁紹を殺して、報仇したい。袁紹に服すものか」と。袁紹は臧洪を殺した。

ぼくは思う。漢魏革命、魏晋革命でも、同じことがあったのだろう。曹氏や司馬氏に対して、「ともに現王朝を助けたいと思ったのに、あなたは同志を殺して、新王朝をつくるという。バカを言うなよ」と。『三国志』『晋書』で隠蔽されるような悪口も、いま袁紹と臧洪という、魏晋の正統性と関係ない2人を登場させることで、聞くことができる。
ぼくは思う。袁紹の手先である曹操は、「漢室の忠臣」を殺す手伝いをしている。魏晋革命における、鍾会のような役回りだ。鍾会は、司馬氏の参謀であったが、最後は成都で司馬昭にそむいた。曹操は、袁紹の参謀であったが、官渡で袁紹にそむいた。
まさか、張邈や張超を殺すような曹操が、天子を奉戴するとは、まったく思いもつかないなあ!袁術もノーマークになるさ。


10月

冬十月戊戌,汜黨夏育、高碩等欲共為亂,脅乘輿西行〔一〕。侍中劉艾見火起不止,曰:「可出幸一營,以避火難。」楊定、董承將兵迎天子幸楊奉營,上將出,夏育等勒兵欲止乘輿,楊定、楊奉力戰破之,斬首五千級。壬寅,行幸華陰。 〔一〕范書獻帝紀作「汜使其將伍習夜燒所幸學舍,逼脅乘輿」。通鑑從袁紀。

冬10月戊戌、郭汜の党与である、夏育と高碩らが乱を起こして、天子を西に奪回にきた。

『後漢書』献帝紀では、郭汜は部将の伍習に、天子が泊まる学舎を焼いて、天子を奪いにきたとある。『通鑑』は袁宏を採用する。

侍中の劉艾は、火を見て「にげよう」と判断した。楊定、董承は、天子を楊奉の軍営につれてゆく。郭汜の党与である夏育らに見つかった。楊定と楊奉が力戦して、郭汜軍の5千級を斬首した。
10月壬寅、天子は華陰にきた。

寧輯將軍段猥具服御及公卿已下資儲,欲上幸其營。猥與楊定有隙,迎乘輿,不敢下馬,〔揖馬上〕〔一〕。侍中种輯素與定親,乃言段煨欲反。上曰:「煨屬來迎,何謂反?」對曰:「迎不至界,拜不下馬,其色變也,必有異心。」於是太尉楊彪、司徒趙溫、侍中劉艾、尚書梁紹等曰:「段煨不反,臣等敢以死保,車駕可幸其營。」董承、楊定言曰:「郭汜來在煨營。」詔曰:「何以知?」文禎、左靈曰:「弘農督郵知之。」因脅督郵曰:「今郭汜將七百騎來入煨營。」天子信之,遂路次於道南。 〔一〕據范書董卓傳注引袁紀補。

寧輯將軍の段猥は、天子の服御を準備して、天子を自営に置きたい。段猥は楊定と仲が悪くなった。段猥は天子の乗輿を迎えたが、下馬しない。侍中の种輯は、楊定と親しいので「段猥が謀反する」という。天子は「段猥は私を迎えてくれたのに、なぜ謀反というか」ときく。种輯は「段猥は下馬しない。天子に対して異心がある」という。
ここにおいて、太尉の楊彪、司徒の趙溫、侍中の劉艾、尚書の梁紹らがいう。「段猥は謀反しない。もし段猥が謀反しても、私たちが死んでも守る。段猥を頼れ」と。
董承と楊定はいう。「郭汜が段猥の軍営にきたらしい」と。天子が「どうやって知った」と聞くと、文禎と左靈は「弘農の督郵に聞いた」という。督郵をおどすと「郭汜が7百をひきい、段猥の軍営に入った」と白状した。天子はこれを信じて、段猥の軍営を頼らず、南にゆく。

ぼくは思う。情報戦!おもしろい。段猥は、天子や公卿が必要な物資を用意して、天子を釣り出した。しかしその背後には、天子を連れ戻そうとする、郭汜の動きがあった。太尉の楊彪ですら、郭汜のワナに引っかかりそうになった。


丁未,楊奉、董承、楊定將攻煨,使种輯、左靈請帝為詔。上曰:「王者攻伐,當上參天意,下合民心。司寇行刑,君為之不舉,而欲令朕有詔邪?」不聽。輯固請,至夜半猶弗聽。奉乃輒攻煨營。 是夜,有赤氣貫紫宮。

10月丁未、楊奉、董承、楊定は段猥を攻めた。种輯と左靈は、天子に「段猥を討伐せよと詔を出して」という。天子はいう。「王者の攻伐は、上は天意にもとづき、下は民心とあわさる。司寇は刑罰をおこなう。なぜ詔が必要なんだ」と。
种輯がねばったが、夜半になっても、天子は詔を出さない。楊奉は詔を待たずに、段猥の軍営を攻めた。

ぼくは思う。天子が賢いというか、信念を持っているから、個別最適の戦いができない。しかし天子は、全体最適を心がけていれば良い、ような気がする。天子が段猥に敗れて、段猥の言いなりになっては、元も子もないが。

この夜、赤氣が紫宮をつらぬく。

定等攻煨營十餘日不下,煨供給御膳、百官,無有二意。司隸校尉管命以為不宜攻煨,急應解圍,速至洛陽。定等患之,使楊奉請為己副,欲殺之。帝知其謀,不聽。詔使侍中、尚書告喻之,定等奉詔還營。
李傕、郭汜悔令車駕東,聞定攻段煨,相招共救之,因欲追乘輿。楊定聞傕、汜至,欲還藍田,為汜所遮,單騎亡走。 是時張濟復與催、汜合謀,欲留乘輿於弘農。

楊定が段猥を10余日も攻めるが、下せない。段猥は、天子と百官に必要な物資を揃えただけで、謀反の意思はない。司隸校尉の管命は「段猥を攻めるな。包囲を解け。それより速く洛陽にゆけ」という。

ぼくは思う。管命ってだれ?人名か?切り方が違う?

楊定は、段猥を攻め切りたいので、楊奉をじぶんの副官にして、司隷校尉を殺そうとした。天子は、楊定と楊奉に、司隷校尉の殺害を許さない。侍中と尚書をおくり、楊定らを天子のもとに戻れと命じた。
李傕と郭汜は、天子の車駕を東に逃がしたことを悔いた。李傕らは、段猥が天子に攻められると聞いた。段猥を味方にして、天子を奪回しようと考えた。楊定は、李傕と郭汜がきたと聞き、藍田に戻りたいが、郭汜に遮られ、単騎で亡走した。

ぼくは思う。段猥をめぐる判断は難しい。『後漢紀』編者の視点からは、「段猥を素直に頼っておけば、充分な物資をともない、段猥が天子を洛陽に連れていってくれたのに」だろう。だが段猥のもとに、郭汜からの交渉があると、余りにも早く察知したため、先走って段猥を攻めてしまった。段猥と郭汜は、必ずしも同調してなかったのにね。結果、段猥は天子の敵になってしまった。太尉の楊彪の判断が、結果論的には正しかったのだ。まあ、言っても仕方がない。

このとき、ふたたび張済は、李傕や郭汜と合謀した。天子を洛陽に行かせず、弘農に留めたい。

11月

十二月〔一〕,行幸弘農。濟、汜、傕追乘輿,衛將軍楊奉、射聲校尉沮雋力戰,乘輿僅得免。雋被創墜馬,傕謂左右曰:「尚可活否?」雋罵之曰:「汝等凶逆,逼劫天子使公卿被害,宮人流離,亂臣賊子,未有此也。」傕乃殺之。雋時年二十五,其督戰訾置負其尸而瘞之〔二〕。濟等抄掠乘輿物及秘書典籍,公卿已下、婦女死者不可勝數。 〔一〕范書獻帝紀作「十一月」。按十二月丁酉朔,無壬申。袁紀下文有壬申,則當以范書為是。 〔二〕范書董卓傳注引袁山松書作「督戰訾寶」。

11月(12月)、天子は弘農にゆく。

『後漢書』献帝紀は11月とする。12月ついたちは丁酉なので、壬申はない。『後漢紀』はこの下に壬申の記事がある。おそらく『後漢書』が正しい。まだ11月である。

張済、郭汜、李傕は、天子を追った。衛將軍の楊奉、射聲校尉の沮雋が力戰したので、ぎりぎりで天子は逃げられた。沮雋は傷ついて落馬した。李傕は左右に「沮雋を生かすべきか」ときく。沮雋は李傕を罵った。「天子や公卿を傷つけた李傕め。お前のような亂臣賊子は、前例がない」という。李傕は沮雋を殺した。沮雋は25歳である。沮雋は、天子の財宝を守って戦い、死んだら財宝のそばに死体を埋めさせた。張済は天子の財宝を奪った。公卿や婦女が、数多く死んだ。

壬申,行幸曹陽。傕、汜、濟并力來追。董承、楊奉間使至河東,招故白波帥李樂、韓暹、胡才及匈奴右賢王去卑牽其衆來,與傕等戰,大破之,斬首數千級。
詔使侍中史恃、太僕韓融告張濟曰:「朕惟宗廟之重,社稷之靈,乃心東都,日夜以冀。洛陽丘墟,靡所庇蔭,欲幸弘農,以漸還舊。諸軍不止其競,遂成禍亂,今不為〔定〕(足)〔一〕,民在塗炭。濟宿有忠亮,乃心王室,前者受命,來和傕、汜,元功既建,豈不惜乎?濟其給百官,遂究前勳。昔晉文公為踐土之會,垂勳周室,可不勉哉!」於是董承等以新破傕等,可復東引,詔曰:「傕、汜自知罪重,將遂唐突,為吏民害。可復待韓融還,乃議進退。」承等固執宜進。 〔一〕據全後漢文改。

11月壬申、天子は曹陽にゆく。李傕、郭汜、張済が、力をあわせて追う。董承と楊奉は、河東に使者をだし、もと白波帥の李樂と韓暹と胡才、匈奴右賢王の去卑をよんだ。李傕を大破し、数千級を斬首した。
侍中の史恃、太僕の韓融を使者にして、張済に詔した。「私は宗廟と社稷を祭るため、洛陽にゆきたい。洛陽は廃墟なので、まず弘農にいて、ゆっくり洛陽にかえる。李傕、郭汜、張済は、争わずに私を助けろ」と。
ここにおいて、新たに李傕を破った董承らは、また東に出発しようと言う。天子は詔した。「韓融が張済のもとから帰るのを待ち、東に行くかを決めろ」と。だが董承らは、少しでも東に行こうとこだわった。

12月

庚申〔一〕,車駕發東,董承、李樂衛乘輿,胡才、楊奉、韓暹、匈奴右賢王於後為距。傕等來追,王師敗績,殺光祿勳鄧淵,廷尉宣璠、少府田芬、御史鄧聘、大司農張義〔二〕。 〔一〕范書獻帝紀作「庚辰」,通鑑同袁紀。疑其上脫「十二月」三字。 〔二〕范書獻帝紀「鄧淵」作「鄧泉」,避唐諱故也。「宣璠」作「宣播」,按范書注引獻帝春秋亦作「璠」,袁紀是。又此二人范書曰與沮雋同時遇難,系此事於十一月,與袁紀異。另外「田芬」,續漢五行志作「田邠」,亦與袁紀異。

12月庚申、天子の車駕は東に発する。

『後漢書』献帝紀では、庚辰とする。『通鑑』は袁宏と同じ。12月の記事。

董承と李樂が、天子を護衛して同乗する。胡才、楊奉、韓暹、匈奴の右賢王が、後ろで護衛する。李傕らが追いつき、天子の軍は敗績した。光祿勳の鄧淵、廷尉の宣璠、少府の田芬、御史の鄧聘、大司農の張義が殺された。

『後漢書』献帝紀では、「鄧淵」を「鄧泉」とする。唐代の李淵をさけた。「宣璠」を「宣播」とする。『後漢書』にひく『献帝春秋』もまた「宣璠」とする。袁宏が正しい。『後漢書』によるとこの2人は、沮雋と同時に殺され、11月の記述につづく。12月に殺す袁宏『後漢紀』と異なる。「田芬」は『続漢書』五行志では「田邠」とされ、袁宏と異なる。
ぼくは思う。この天子の敗績が、とても重要。なぜなら袁術が、天子即位を検討するから。これまで一貫して、後漢の天子を支援してきた袁術だから、反動で絶望したんだろうなあ。じっさいに、九卿が死にまくっているから、無惨な戦いだったはず。


是時司徒趙溫、太常王絳、衛尉周忠、司隸校尉管郃為傕所遮,欲殺之。賈詡曰:「此皆大臣,卿奈何害之也?」傕乃止。 李樂曰:「事急矣,陛下宜御馬!」上曰:「不可!舍百官而去,此何辜哉!」弗聽。
是時虎賁羽林行者不滿百人,傕等〔繞〕(統)營叫喚〔一〕,吏士失色,各有分散之意。李樂懼,欲令車駕御船過砥柱,出孟津。詔曰:「千金之子,坐不垂堂。孔子慎馮河之危〔二〕,豈所謂安居之道乎?」太尉楊彪曰:「臣弘農人也,自此東有三十六灘,非萬乘所〔當〕登也〔三〕。」宗正劉艾曰〔四〕:「臣前為陝令,知其險。舊故有河師,猶有傾危,況今無師。太尉所慮是也。」董承等以為宜,令劉太陽使李樂夜渡具船,舉火為應。
〔一〕據范書董卓傳注引袁紀改。 〔二〕論語述而篇曰:「子曰:『暴虎馮河,死而無悔者,吾不與也。』爾雅釋訓曰:「馮河,徒涉也。」 〔三〕據范書董卓傳注引袁紀補。 〔四〕范書「宗正」作「侍中」。

このとき、司徒の趙溫、太常の王絳、衛尉の周忠、司隸校尉の管郃は、李傕にさえぎられ、殺されそう。賈詡は「大臣を殺しちゃいかん」というから、李傕は殺さず。

ぼくは思う。李傕と郭汜の政権は、実態は「賈詡の政権」だよなあ。けっきょく賈詡は誤らず、李傕に呂布を破らせ、張繍に曹操を破らせ、曹丕に禅譲を成功させる。状況がころころ変わるので、「すべての局面で正解する」と、裴松之に怒られるように、変節者となる。

李楽はいう。「急ぐから、天子も馬にのれ」と。天子はいう。「馬にのらない。百官を捨てて逃げてどうする」と。

ぼくは思う。天子の意思決定は、つねに「短期的には失敗」であり、「長期的には成否が不明」である。しかしまあ、長期的かつ全体的な判断をするのが、天子の役割なんだろうなあ。少なくとも『後漢紀』の編纂方針においては。天子の活躍ぶりは、『三国志』や『後漢書』よりもハデに感じる。

このとき、天子の虎賁や羽林は、1百人に満たない。李傕は天子をかこんで叫ぶ。李楽は懼れて、天子の車駕を船に乗せ、孟津にゆきたい。天子は「孔子は暴虎馮河を慎んだ。水路なんて危ういから行かない」と。太尉の楊彪はいう。「私は弘農の出身で、地形を知る。ここより東に36の灘があり、天子は渡れない」と。宗正の劉艾はいう。「私はかつて陝県の県令となり、険しい地形を知る。水軍がいても危ないのに、水軍もなく渡れば、自殺行為だ。楊彪の言うとおりだ」と。

『後漢書』で劉艾は、宗正でなく侍中である。

董承らは同意した。劉太に命じ、夜に、李楽に船を調達させた。おとりとなり、火をあげて、居場所を示した。

上與公卿步出營,臨河欲濟。岸高十餘丈,不得下。議欲續馬轡繫帝腰。時后兄伏德扶后,一手挾絹十〔匹〕(四)〔一〕。董承使〔符節〕(荷)令孫儼從人間斫后〔二〕,左靈曰:「〔卿〕(御)是何等人也!」〔三〕以刀扞之,殺旁侍者,血濺后衣。伏德以馬轡不可親腰,以絹為輦下。校尉向弘居前負帝下,至河邊。餘人皆匍匐下,或有從岸上自投,冠幘皆壞。
〔一〕據三國志董卓傳注引獻帝紀改。范書亦作「匹」,袁紀乃形近而訛。 〔二〕據范書皇后紀改補,又「孫儼」作「孫徽」,未知孰是。 〔三〕據陳璞校記改。

天子と公卿は、歩いて軍営をでた。黄河を渡ろうとする。岸高が10余丈あり、黄河の水面に降りられない。馬のクツワのひもを天子の腰にむすぶ。皇后の兄の伏徳が、絹10匹をもつ。董承は、符節令の孫儼に、皇后を斬らせたい。左霊が「何すんねん」という。左霊が刀を以て、従者を斬った。皇后の衣服に血がついた。
伏徳は、天子の腰にクツワのひもは良くないので、絹をむすんで黄河に降ろした。校尉の向弘が、天子を背負って水面に降りた。岸上から水面に飛び降りた者は、冠幘が壊れた

既至河邊,士卒爭赴舟,董承、李樂以戈擊破之。帝乃御船,同舟渡者皇后、貴人、郭趙二宮人、太尉楊彪、宗正劉艾、執金吾伏完、侍中种輯、羅邵、尚書文禎、郭浦、中丞楊衆、侍郎趙泳、尚書郎馮碩、中官僕射伏德、侍郎王稠、羽林郎侯折〔〇〕、衛將軍董承、南郡太守左靈,府史數十人。餘大官及吏民不得渡甚衆,婦女皆為兵所掠奪,凍溺死者不可勝數。衛尉士孫瑞為傕所殺。 傕見河北有火,遣騎候之,適見上渡河,呼曰:「汝等將天子去邪?」董承懼射之,以被為幔〔一〕。既渡,幸李樂營。河東太守王邑來貢獻,勞百〔官〕(姓)〔二〕。
〔〇〕范書董卓傳注引袁紀作「議郎侯祈」。 〔一〕御覽卷七00引袁紀「幔」上有「帳」字。 〔二〕據黄本改。又范書言河內太守張楊先遣數千人負米貢餉,帝乃御牛車,因都安邑。

黄河の水面で、士卒は争って舟に群がる。董承と李楽は、士卒を撃った。

ぼくは思う。董承は、皇后を斬ろうとしたり(ぼくの誤読だったら良いのだが)水面で舟に群がる士卒を撃ったりする。苛酷に、優先順位を付けられる人。この董承が、最後は、劉備とともに曹操を殺そうとするのね。

天子と同乗したのは、皇后と貴人、郭氏と趙氏の2宮人、太尉の楊彪、宗正の劉艾、執金吾の伏完、侍中の种輯と羅邵、尚書の文禎と郭浦、中丞の楊衆、侍郎の趙泳、尚書郎の馮碩、中官僕射の伏德、侍郎の王稠、羽林郎の侯折、衛將軍の董承、南郡太守の左靈らと、府史が數十人だった。

『後漢書』董卓伝にひく『後漢紀』では「議郎侯祈」と記される。
ぼくは思う。衛将軍の董承は、ちゃっかり自分は同乗している。

のこりの高官や吏民で、黄河を渡れない者はおおかった。婦女は兵士に掠奪され、溺死した者は数おおい。衛尉の士孫瑞は李傕に殺された。
李傕は、黄河の北に火を見つけて、「天子か」と呼びかける。董承は、矢を射られるのを懼れ、幔幕をかぶった。黄河を渡ると、李楽の軍営にゆく。河東太守の王邑がきて、天子に貢献した。百官をねぎらう。

『後漢書』では、河内太守の楊先が数千人をひきいて、米を供給した。天子は牛車をもらい、その牛車で安邑に都した。
ぼくは思う。王邑よりも楊先がさきなのに、『後漢紀』で省略されている。楊先って、あんまり名前出てこないけど、なにがショボかったのだろう。河内がただの通過点だったから、のちのち天子の争奪に参加しないのか。


丁亥,幸安邑〔一〕。王邑賦公卿以下綿絹各有差。封邑為列侯〔二〕。
庚子,拜胡才為征北將軍,領并州牧;李樂為征西將軍,領敘州牧;韓暹為征東將軍,領幽州牧,皆假節,開府如三公〔三〕。遣太僕韓融至弘農,與傕、汜連和,還所掠宮人、公卿、百官及乘輿、車駕數乘。 〔一〕范書獻帝紀作「乙亥」。按十二月丁酉朔,無丁亥,也無乙亥。疑乃己亥之誤。范書系形近而訛,而袁紀則失之遠矣。 〔二〕李賢曰:「邑字文都,北地涇陽人,鎮北將軍,見同歲名。」惠棟曰:「劉寬碑陰門生名有『離石長北地泥陽王邑文都』;則邑當為泥陽人。案獻帝起居注,邑封安陽亭侯。」 〔三〕三國志董卓傳胡才作「征西將軍」,李樂作「征東將軍」。范書及通鑑胡才作「征東將軍」。諸書俱無拜韓暹事。其時政亂,封拜倉卒,傳聞遂異,不足深究。

12月(丁亥)、天子が安邑にゆく。

『後漢書』献帝紀では、12月乙亥とする。12月は丁酉がついたちなので、丁亥がない。乙亥もない。どちらも違う。『後漢書』がミスって、『後漢紀』はさらにミスったのか。

王邑は、公卿らに綿絹を支給した。王邑を列侯に封じる。

李賢はいう。王邑は、あざなを文都。北地の涇陽の人である。鎮北將軍である。同年に名があると。惠棟はいう。『劉寬碑陰』にある門生の名に「離石長する北地の泥陽の王邑文都」とある。王邑は泥陽人である。『献帝起居注』によると、王邑は安陽亭侯に封じられた。

12月庚子、胡才を征北將軍、并州牧とする。李樂を征西將軍、涼州牧とする。韓暹を征東將軍、幽州牧とする。胡才らは、みな假節、三公のように開府できる。

『三国志』董卓伝では、胡才を征西将軍、李楽を征東将軍とする。『後漢書』と『通鑑』は胡才を征東将軍とする。諸書には、韓暹の記述がない。政治が乱れたので、正しく記録されない。
ぼくは思う。この四征将軍と州牧の任命ほど「小者感」たっぷりの顔ぶれはない!

太僕の韓融を弘農にゆかせ、李傕と郭汜と、天子を連和させた。李傕らが掠った、宮人や公卿や百官と、乘輿や車駕を返してもらった。

ぼくは思う。李傕と郭汜は、天子が黄河を渡ってしまえば、手を出せなくなる。天子その人も黄河に苦しんだが、これでひと段落です。曹陽の敗北とは、平たく言えば「天子が、黄河を渡れるか否かの勝負」でした。黄河がきびしい試練であるから、天子の周囲で死にまくったが、同時に李傕を防いでもくれましたと。


是時蝗蟲大起,歲旱無穀。後宮食煮棗菜,諸將不相能率,上下亂,糧食盡。於是安東將軍楊奉、衛將軍董承、征東將軍韓暹謀以乘輿還洛陽。 乙卯,建義將軍張陽自野王來〔一〕,與董承謀迎乘輿還洛陽。〔拜〕安國將軍〔二〕,封晉陽侯,假節,開府如三公。
〔一〕三國志、范書「張陽」均作「張楊」,袁紀恐誤。 〔二〕據文意補。其封拜之時,通鑑系于庚子日。

このときイナゴが大起する。日照もあり、穀物がない。安東將軍の楊奉、衛將軍の董承、征東將軍の韓暹は、天子の乗輿を洛陽にうつしたい。
12月乙卯、建義將軍の張楊が野王からきた。

『後漢紀』にある張陽とは、張楊のミスである。

張楊は董承とともに、天子を洛陽に移したい。張楊は安國將軍を拝して、晉陽侯に封じられ、仮節、三公のように開府できる。

『通鑑』では張楊が晋陽侯に封じられる記事は、庚子につなげて記される。


◆袁術が天子即位を検討

袁術自依據江、淮,帶甲數萬,加累世公侯,天下豪傑無非故吏,以為袁氏出陳,舜之後,以黄乘赤,得運之次〔一〕。時沛相陳珪,故太尉球之子也〔二〕。術與珪俱公族子孫,少交遊,書與珪曰:「昔秦失其政,天下群雄爭而取之,兼智勇者卒受其福。今世紛擾,復有瓦解之勢,誠英雄有為之時也〔三〕。與足下舊交,豈肯左右之乎?若集大事,子為吾心膂。」珪答書曰:「昔秦末世,肆暴恣情,虐流天下,毒被生民,民不堪命,故遂土崩。今雖季世,未有秦苛暴之亂也。曹將軍神武應期,興復典刑,埽平兇慝,清定海內,〔信〕有徵矣〔四〕。足下當戮力同心,匡翼漢室,而陰謀不軌,以身試禍,豈不痛哉!若迷而知反,尚可以免。吾備舊知,請陳至情,雖逆於耳,骨肉之恩也。」
〔一〕李賢曰:「陳大夫轅濤塗,袁氏其後也。五行火生土,故云以黄代赤。」 〔二〕三國志袁術傳、范書陳球傳均作「球弟子也。」 〔三〕「雄」,黄本作「人」。按三國志袁術傳作「乂」,黄本作「人」乃形近而訛,蔣本改作「雄」,失之遠矣。 〔四〕據三國志袁術傳補。

袁術は、沛相の陳珪にふられた。

このあたりは、ぼくには「いつもの話」なので飛ばす。


天子之敗於曹陽,術會其衆謀曰:「劉氏微弱,海內鼎沸。吾家四世公輔,百姓所歸,欲應天順民,於諸君意何如?」衆莫敢對。主簿閻象進曰:「昔周自后稷,〔至于〕文王〔一〕,積德累功,三分天下,猶服事殷〔二〕。明公雖奕世克昌,未有若周之盛;漢室雖微,未有殷紂之暴。」術默然不悅。遂造符命,置百官焉。 〔一〕據三國志、范書補。 〔二〕范書與袁紀同,而三國志作「三分天下有其二」。按論語泰伯子曰:「三分天下有其二,以服事殷,周之德可謂至德也已矣。」則當以三國志為是。

天子が曹陽で敗れると、袁術は天子即位を検討したが、主簿の閻象に反対された。袁術は黙然として、悦ばず。符命をつくり、百官をおく。121203

ぼくは思う。『後漢紀』で百官をおくのは、興平2年なのか!袁術が天子即位するのは、建安2年なのだが、百官が先んじて置かれたと読める。そうなのか?そういうことなのか?『三国志』と『後漢書』じゃ、この年代を読みとれなかったはず。

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