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孔明の転職活動 第01章 許都の冷笑 /3節
孔明は、なぜ私の名前を知っているのか、と驚いた。
「あなたは役所の門前で、荀彧殿に食ってかかっていた。あれを私は見ていたのです。とても良かった。そう、とてもね」
「では、あなたは尚書の役人ですか」
「違います。私は、諸葛孔明さんと同じです。荀彧殿によって、望まない境遇に陥ってしまった人間です」
「そうか、あなたも官途に就き損ねた――」
「いいえ、その逆です。私は望みもしないのに、曹操の配下に加えられてしまった。正確には漢の臣ですから、曹操に直に仕えるわけではありませんが」
孔明は、後頭部を叩かれたような気がした。目の前にいる同年輩のこの男は、何を言っているんだ。ひどく贅沢で不遜な人物じゃないか。孔明は、こめかみの血管を膨らませ、著しく呆れた。
だがすぐに、別の頭が働き出した。孔明は、自己認識こそ甘いものの、頭は悪くない。むしろ、図抜けて優れている。
――漢帝国で世に出るとき、人脈が全てだ。
目の前にいる男は、意思に反して、曹操に取り立てられたという。つまり彼は、由緒ある名門の出身ではないのか。
彼の見下したような物言いは好きになれないが、向こうから声をかけてきたのだ。知己となってくれる可能性がある。交流を温めて、損はない。志が再燃した。
孔明は、わざとらしく惚けた。こういう演技が下手であることを、当人は充分に自覚していない。
「はっはっは。世に出るのが物憂いとは、面白いことをおっしゃる。私などには思いも付かない心境です。どうでしょうか、もしあなたが位を得たら、私を末席に推挙してくれませんか」
同じような年齢の男に頭を下げるのは、自尊心に障ることだ。しかし、そんなことに拘っている場合ではなかった。
「構いませんよ」
青年は、小銭でも手渡すような気安い口調で、孔明に約束した。
続けて青年は、
「それどころか、もし私が人臣として登り詰め、やがてその地位に飽いたら、あなたと代わってあげましょう」
とも言った。
若者とは、おかしな生き物である。望んだことを瞬時に、それも無欠で完璧な姿にまで飛躍させ、夢として語り合う。これは、経験が浅い者の特権である。長い道のりを想像するための知識が備わっていないから、思い描いたことは胸の中でたちまち実現する。
孔明は最良の将来像を想像した。宰相の位を、譲り受けている図を思ったのである。頬が緩みそうになり、それを隠すためにさらに惚けた。利に飛び掛ろうとしているときの人の顔は、とても醜い。そういう自覚があるから、慌てて隠した。
「いやいや、そんな畏れ多いこと――」
「心にもない謙遜はやめて下さい。私はあなたに関心がある。あなたは、ただ荀彧殿に袖にされただけで死のう思った。その多感な一途さを持った人間が活躍の場を得たら、何をなすだろうか」
向き合っている青年が、顕臣になれるだなんて保障は、どこにもない。しかし孔明は話を聞いているうちに、恍惚の心地になった。
青年は、その気になりさえすれば、成功できることを疑っていない。固くて折れやすい孔明には、青年の自信の理由が分からないが、決して妄言だとは思われなかった。彼は腹の奥に、孔明には持ち得ない何かを持っているのだと想定した。

志の手がかりを放したくない。孔明は、拱手して言った。
「私はまだ、あなたの名を知りません。聞かせてもらえませんか。改めて名乗りますと、私は諸葛亮、あざなは孔明といいます。漢の司隷校尉だった、諸葛豊の後裔です。あなたは――」
青年は手を打った。
「奇遇です。実は、私も復姓を授かった人間です。2人とも復姓とは、珍しい組み合わせです」
青年は切れ長の目を見開いた。彼が珍しがった復姓というのは、2文字の姓のことを指す。この時代、特殊な姓である。孔明が生まれた諸葛氏は、復姓だ。
「私は、とある復姓の家の次男です。父は私たち8人の息子に、あまねく『達』の字を名乗らせたいらしい。すらすらと物事が進み、円滑に理解を得て、滞らずに出世を遂げるという意味の文字です。これに次男を表す『仲』を乗せて、私のあざなは『仲達』だそうです。なんとも自由度が低いことです。あざなくらい、自分で決めたかった。 強権を振う父の意向により、来年から私は、どこぞの郡で上計掾をさせられます。今からでも辞退できないかと、画策しているところでしたが――」
仲達はぺらぺらと喋っているが、孔明は途中から上の空である。潤沢な知識に検索をかけて、復姓で権門の家を思い浮かべた。その家とつながりを持てれば、将来に向けた躍進だ。
孔明は、有頂天だった。しかし、ふと思考を中断して前を見ると、ただの雑踏がそこにあった。仲達は、孔明の短刀とともに消えていた。

孔明は、まんまと、からかわれたのではないかと後悔した。仲達は、大いに胸襟を開いて意気投合したかのように見せ、ついに素性を明かさなかった。孔明だけが、己をさらけ出し、功名心を揺さぶられた。
仲達は、自分が生まれた家を嫌っていた。厳密には、父を嫌っていた。だから姓を口にせず、あざなだけ言った。これが、孔明に大きな謎を残すことなど、当人は関知しない。あざなだけを手がかりに、曹操の下にいる百官から彼を探し出すことは、無官の孔明でなくとも無謀だ。
――復姓の仲達、か。
日の傾いた許都城外で、孔明は再び1人だった。
孔明は、仲達の言葉を聴くたびに、いちいち自分がどんな顔をしていたかを思い出し、恥じ入った。きっと己は、目の前の獲物に飛びかかろうとする禽獣のような目をしていただろう。
とにかく孔明は、この場で死ぬことは思いとどまった。女を埋葬し終えると、衣の土を払った。心に平静が戻って初めて、荊州に残してきた、弟の諸葛均のことを思い出した。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反