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孔明の転職活動 第02章 汝南の剣客 /1節
孔明は許都を去った。8月だからすでに秋の盛りであり、過ごしやすい日が続いた。
孔明は、汝南に立ち寄ることにした。諸葛均を待たしている荊州に帰るためには、少々遠回りになる。だが、迂回してでも見ておきたい土地だった。汝南では、曹操に敵対する賊が暴れている。
汝南は、許都のすぐ裏手だから、ここを陥落されると、曹操は官渡からの撤退を迫られる。この不利な二面作戦を、寡兵の曹操がどのように乗り切るのか。
「あなたが曹操軍の参謀だったら、どうしますか」
荀彧の問いに答えられなかった自分の不勉強を愧じ、孔明は、少しでも見聞を広げて帰ろうと思っていた。
さて、汝南の賊とは、黄巾の残党の領袖と、
――劉備、
である。 孔明は劉備のことを、よく知らなかった。節操のない戦歴の持ち主だ、という認識だけはある。
劉備ははじめ、公孫氏の手兵のようなことをやっていた。やがて徐州に急援を求められ、公孫氏を裏切って徐州に居座った。だが、客将として迎えた呂布に徐州を奪われ、曹操に保護を求めた。
しかし、せっかくの曹操の恩義に応えることなく、裏切って徐州で独立した。曹操は徐州に攻め込み、劉備を追い落とした。劉備は河北の袁紹を頼った。いまは袁紹の爪牙として黄河を南下して、汝南で暴れている。翩翻きわまりない人物だ。
「きっと、人を人とも思わない梟のような奴だ」
孔明は、見たこともない劉備の風貌を思い浮かべた。猜疑心が強くて、腹の中にやましさが詰め込まれているから、挙動不審であるに違いない。もしくは、人望を勝ち取って利を貪るため、大親分の気風を、面の皮に刺青しているに違いない。

孔明が汝南郡に入ると、決闘に遭遇した。
遠くの路上で、黄色い頭巾を巻いた5人が、1人の粗末な衣の男を取り囲んでいる。黄色の頭巾は、太平道の信者を表す目印である。彼らは、腐敗した現体制への批判者であるが、実態は暴徒と変わりない。
「死に晒せ」
黄巾たちが互い違いに掛け声をあげ、切りかかった。
囲まれた単衣の男は、胸板を斜に逸らし、先鋒の手首に、剣を叩き付けた。骨の砕ける音がして、黄巾は刀を取り落とした。次鋒は咽喉に向けて突きを繰り出したが、剣で小さく弾かれて正中線を奪われ、体勢が崩れた隙に、わき腹を切り払われた。
その後は、3人が同時に撃ちかかっての乱戦となったが、単衣の男は、こともなげに裁いた。
孔明は、後ろに数歩下がりながら、だが視線を外すことができず、戦闘を遠望していた。黄巾5人を倒した単衣の男は、呼吸を整えて周囲を見渡し、孔明を見つけた。
「高みの見物とは、卑怯な。お前が頭目か!」
男は、血の付いた剣を剥き出しにしたまま、孔明に向かって疾走してきた。孔明は逃げようと思ったが、足がすくんで動けない。男はたちまち孔明の前に立ち、静止した。剣の射程距離に、孔明は入った。
「奴らの盗みは、お前の差し金か」
孔明は、下あごが痙攣し、言葉をうまく作れないほどに動揺したが、違うと言った。
「私は旅人だ。黄巾とは関係がない」
単衣の男は、剣を納めず、孔明の顔面を睨み付けた。
護身用の短刀は、許都城外で失ってしまった。その事実が、かえって孔明を奮い立たせた。孔明は咳払いをして、長い背筋を伸ばし、威儀を正して言った。
「我が名は諸葛亮。もし私を黄巾の一味と決め付けて、斬り殺してみろ。君の行いは、そこら辺の賊と変わらないぞ」
孔明は、毅然と宣言した。
孔明は一度、自殺を試みた。死ぬ気になれば怖いものはない。死を考えた人間は、精神の強靭さを手に入れる。一般にはそう思われがちだが、それは正しくない。自殺願望は、そんな強さとは別物の、心の脆さに起因する。だから、いま予期せぬ命の危険にあって、直ちに動揺を抑えられたことは、許都城外で希死したにも関わらず、孔明が実は強く生に執着していることを示す。
孔明は、まばたきをせずに睨んだ。
「俺は、徐庶という。失礼した」
たちまち剣客は殺気を鎮め、毛の黒々した胸の前に手を組み、孔明の礼をした。何を根拠に、孔明が黄巾の一味ではないことを信じたのか、孔明には分からない。言葉など、取り繕えるものだ。きっと、命の遣り取りをする連中には、人の眼底にあるものを瞬時に見分ける、呼吸のようなものがあるのだろう。
孔明も拱手し、徐庶が剣の血を草で拭うのを黙って監視した。徐庶は丁寧に納刀し、孔明の肩をつかみ、酒屋に誘った。

人斬りだから、磊落な性格かと思ったが、徐庶はそうではなかった。酒屋で徐庶は、最奥の席を選んだ。外の陽射しが入らないから、夜のように暗い。徐庶の眼光だけが、光った。
「ここなら、人に話を聞かれる心配はない」
徐庶は酒が届くと、店の者を追い払った。孔明が盃を手にする前から、徐庶は押し込むように酒を注いだ。次に、徐庶は自分の盃を酒で満たした。少しでも早く話をしたいから、酒につきものの段取りを早く済ましてしまいたいのだ。
徐庶は用意が済むと、酒に手を付けず、話し始めた。
「孔明殿、曹操をどう思うか」
返り血をろくに拭っていない徐庶が、曹操のことを聞いた。予想外の展開に、孔明は戸惑った。白兵戦と政治談義は、孔明の感覚としては融け合わない。
――いや、そうではない。
孔明は認識を改めた。曹操が覇者として躍進するとき、つねに戦があった。顔や衣に血を被った男こそ、曹操を語るに相応しいのかも知れない。剣の間合いを詰めることが急な男は、思想を語り合うことも急なのだ。孔明は、無理やりにでも、徐庶を理解した。
「私は、曹操は英雄だと思う」
「そうか、俺もそう思う」
徐庶は、視線を孔明から外さぬまま、盃に手を伸ばした。一瞬で飲み干したが、その間もずっと眼差しは孔明にあった。
――偽りを申せば、殺す。
そういう気迫を、孔明は感じた。
孔明と徐庶は、乱世についての所見を交換した。徐庶は、仇討ちを代行して役人に咎められ、出奔せざるを得なかったという。孔明は、政争に巻き込まれた叔父の話などをした。
日が落ちた。2人は、互いに友としての確信を得た。半月が輝いて、それが傾いても、孔明達は語り合った。ふと、徐庶が言った。
「俺がさっき斬った5人は、黄巾の残党だ。軍資の調達と称して、掠奪を働いた。奴らは、曹操の治世がこの国に行き渡ることを倦んでいる。国に秩序が再構築されては、奴らには居場所がなくなるからだ」
「なるほど」
「曹操の敵は、袁紹だ。袁紹には、天下を総攬する力はない。すなわち、乱世は混迷を極める。乱世は、賊を富ます。だから、奴らは袁紹の味方をする。天下の障りだ。そうは思わないか」
徐庶は、また自分の盃に酒を入れ、孔明を見据えたまま飲んだ。それを、黙々と3回繰り返した。今度は、少しでも早く酔ってしまいたいのだろう。徐庶にとって酒は、酔うことが目的で、飲む動作は面倒なだけの手続きに過ぎないようだ。
「この汝南を荒しているのは、黄巾の残党と、前徐州牧の劉備。俺は、劉備に奇襲をかけるつもりだ。そして、必ず劉備を殺す」
徐庶は席を立った。高い音を鳴らして、木製の椅子が床を跳ねた。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反