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孔明の転職活動
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第02章 汝南の剣客 /2節
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孔明は、徐庶を叱り付けた。
「待て。早計だ、徐庶殿」
「待てぬ。官渡の曹操は、袁紹の大軍に威圧されている。黄巾と劉備を討つのは、早いほうがいい。明日の夜明け前でどうか」
「敵の兵数は調べてあるのか」
「知らぬ。だが、せいぜい数万だろう。数万と言っても、烏合の衆だろう。だから、俺が勝つ」
孔明は武芸については素人だが、徐庶が撃剣のかなりの名手であることは見抜いている。たった1人で、黄巾を5名を倒したのだから、十人並みではない。だが、大きな戦局が、たった1人の壮士によって動くことは稀だと思っている。 歴史に照らしたとき、君主や宰相に権力が集中している時期には、主催者を狙い撃ちすることに、意味がある。例えば春秋時代の魯は、斉の桓公に匕首を突きつけて、無血で邑を取り戻した。 だが今は、混沌とした乱世だ。黄巾の首領や劉備のともがらの1人や2人を討ったところで、どれほどの意味があるか。頭を切り落とした蛇は、今度は尾が頭となり、血の滴る首から再び頭が生える。
「劉備など、天下の塵芥だ。たかが劉備がごとき、無名の傭兵長を倒すことに、命をかけるなど馬鹿げている」
孔明は、決め付けた。
「徐庶殿。私はただ、君が惜しい」
徐庶は早足で店を出て、通り沿いの厩で馬を2頭盗むと、孔明に1頭を与えた。
「ついて来い。今から駆ければ、夜明け前に、劉備の宿営に辿り着ける計算だ。俺は、奴らと刺し違える覚悟だ」
徐庶は、鞍に足を架けた。
「俺の志を聞き、俺の闘いを検分し、その後の天下がどのように変わるか、見届けてくれる人間が必要だと思っていた。流れ者の俺に、友はない。汝南の民は、誰もが及び腰で、駄目だった。だが孔明は、世を諦めていない。そう見込んだから、この役を頼むのだ」
孔明は、迷惑な顔をした。
「徐庶殿は、間違っていよう。この乱世は単純ではない。数百年もかけて、漢帝国は根腐りを起こしてきた。それを正そうとするのが、曹操の覇業だと思う。徐庶殿の中の曹操は、たった1人の暴挙に期待して戦を組み立てるほど、器の浅い人間なのか」
荀彧にうんざりされた孔明だが、思想と呼べそうな持論は、若い胸の中で形成されつつある。だが会話に不馴れで不器用なため、気負った言葉を並べてしまいがちだ。いま目の前の徐庶は、いざ死地に赴かんとしている。その緊迫が、孔明の理知をすらすらと口から導いた。
「では孔明、君はどのようにして曹操を輔けるつもりか」
徐庶が馬上で眼を剥いた。
「法だ。曹操は法家を重く用いると聞く。法は良い。曹操と言えども、永遠の生命はなかろうが、彼の死後も不変に国を保たせるのが、法だ。だから私は、法家を学ぶ。そして曹操に、私の学識を認めさせる」
「兵事は要らんのか」
「いや、要る。だが二の次だ。曹操は孫子に詳しいが、戦に勝つことは、政治の手段に過ぎない。人の心を掴み、軍団を自在に動かし、勝利という目的を遂げられる指揮官は、法治においても力を発揮する。戦は、国家に有用な人材を発掘するための、試金石だ」
「孔明よ、よく分かった。だが俺は、劉備を斬らねばならん」
徐庶は馬上の人となり、暗闇に消えた。孔明は馬に飛び乗り、徐庶の後を追った。
夜通し駆けた。まず徐庶が疾駆し、孔明が丹念に馬蹄の音をなぞった。草を掻き分けて、小高い丘に登った。全くの闇だった空が、ほんのり青く染まり、地平線が見えてきた。
徐庶は馬を止めた。
「眼下に、劉備が黄巾と群れて、雑魚寝しているはずだ」
孔明は、黙って頷いた。
「孔明、もう俺を止めないのか」
「私が止めても、君は単騎で、今にも奇襲をかけるのでしょう。決意が固いなら、尊重したい」
徐庶が目礼を返した。
そのとき地響きが起こり、2人が立っている丘を突き上げた。乗馬が嘶いたので、孔明は慌てて手綱を引き絞った。徐庶が目を凝らすと、地下から軍隊が沸き上がるのが見えた。軍旗が立てられており、
――曹仁、
と読めた。孔明は、旗の字を声に出して読んだ。曹操の将の名前である。徐庶は、剣の柄に手をかけて、眼下の隊列を見守っている。日が顔を出し、曹仁軍の甲冑が朝陽を照り返した。孔明は目を細めた。
鎮まっていた劉備の陣から、奇襲だ、という大声が聞こえた。曹仁軍は魚燐の形に陣を変え、間を与えず突入し、劉備の野営地に吸い込まれた。劉備軍は2つに断ち割られた。曹仁軍が反転し、再び矛先を向けると、ちりぢりに劉備軍は壊走を始めた。
徐庶は奥歯を鳴らしながら、丘の下の一部始終を見ていた。
「おい、孔明」
「なんだ」
「お前は、法の話をしたな。軍団を組織的に動かしているのは、お前が言った法なのか」
「そうだと思う」
「寡兵であるはずの曹操が、ここに一軍を寄越した。兵を割くことは、敵に背を見せる愚行だ。だが、軍法で縛り、計画どおりに手駒を操っているなら、袁紹が付け入る隙はなくなるのか」
「分からない。だが、もし今官渡で、袁紹が曹操を攻めていなければ、曹操の計算が当たったことになる。やがて風説が、袁紹の動きを伝える。答えを教えてくれるだろう」
徐庶は唸って、剣を地に捨てた。
「俺は、劉備を討てなかった。いや、俺が討つまでもなかった」
孔明は慰めるように言った。
「徐庶殿、荊州に行かないか。荊州には、文人が集っていると聞く。法について学べるだろう。いま荊州を治めているのは劉表だが、曹操との関係は悪くない。曹操への仕官の機会を、探ろうではないか」
諸葛亮は、弟が待つ荊州へと徐庶を誘った。
孔明と徐庶は、西に馬首を向けた。
10月、曹操は官渡にて、袁紹に勝利した。大軍の弱点である兵糧庫を、焼き討ちにしたのだ。もともと求心力の弱かった袁紹の幕僚たちは、醜く分解した。 孔明達は、曹操の勝報に触れて、曹操の正体を分析した。馬を並走させて議論した。いくらでも仮説を挙げることは出来るが、どれも違うような気がした。 言葉を並べてみて、どこにも矛盾が生じないように気を配れば、それはひとつの論として完結した。完結した論は、第三者の反駁を封じることが出来る。だが、自分自身を納得させることは出来ない。
論理とは、答えを裏付けることは出来るが、答えを生み出すことは出来ないものらしい。
「曹操は、天性の宰相なのだ」
孔明はそう断言した。論理が導いた答えではない。一度そう思いつくと、感覚が、全ての異論を拒絶した。 宰相とは君主の傍らにあり、異なる思惑を胸に抱いた諸侯を、和合させる人だ。独立して回るおびただしい歯車の周期が、ぴたりと一致する時節がある。その時節を見極め、噛み合わせ、国体の推進力に変換させられる人が、宰相だ。
曹操の性質は、宰相だ。なぜ宰相かと言われても、とにかく宰相だと思った。事例を挙げよと言われれば、いくらでも挙げられたが、蛇足に思えた。曹操が袁紹を破った理由は、天与の宰相としての才能だ。そう思うだけで、頭がすっきり晴れた。
実は、孔明の心の中には、いにしえの名宰相が常にいた。管仲と楽毅である。孔明は、曹操に管仲・楽毅の面影を求めた。さらに、成長した自分の延長線上にも、管仲・楽毅を置いていた。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反
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