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孔明の転職活動
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第03章 新野の孤雲 /1節
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孔明は荊州の襄陽で、水鏡という先生に師事した。
水鏡というのは本名ではなく、号である。この先生は、それほど学問が深いわけではない。だが、言葉の才があった。
「諸葛くんは、臥龍であるな」
と言った。 臥したる龍というのは、雲さえ得られればいつでも天に昇ることが出来る、雌伏した逸材を指す。龍が天駆けるためには、時間を要さない。機会を得れば、瞬時に昇竜となる。気負ったところのある孔明は、水鏡が与えた触れ込みが、気に入った。もし「幼龍」などと言われたら、「いつ成龍になれるのか」と悩んでしまうに違いない。
先生が名乗っている水鏡という号は、彼自身が付けたものだろう。水面に顔を映すように、人物の評価をぴたりと言い当てる。水であるから、固い銅鏡とは異なり、つねに柔軟な対流を秘めている。 私塾を開く人は、門徒を集めて家計を成すために、宣伝が必要だった。だから水鏡は、号を工夫して知名度を高めた。孔明の師は、それほどに言葉が上手かった。
孔明は、徐庶に打ち明けた。
「学問は、一人でできる。世間の耳目に触れるような人物評をもらうことが、師事の目的だった。臥龍という語を得たから、もう充分だ」
孔明は、学友たちと協調することなく、いつも一人でいた。
「連中は、何を学んだらいいか分からないから、古典の細部を掘っているだけだ。付き合う必要はない。私には曹操に仕え、願わくは曹操を継ぐ目標がある。だから、古典は大略をつかめば充分だ」
孔明は曹操の子ではないから、家を継ぐと言ったのではない。宰相の後継者となるのだ。 孔明が荊州で学問をしているとき、曹操は北伐し、袁紹の遺子を攻めた。中原で、曹操の主導権は完成しつつある。
一方の徐庶は、はじめは孔明とともに水鏡へ通ったが、すぐに違う学者の門下へと移った。学問の経験がない徐庶は、水鏡の教授に馴染めなかった。徐庶は新たな先生に付き、謙虚な姿勢でいちから古典を読んだ。剣しか知らなかった男は、教養を得た。
「水鏡の下では、学問は成らないな。世評の独り歩きだ」
孔明と徐庶は、声を上げて笑った。
孔明は25歳になった。
水鏡の門下に、孔明が気になっている男がいた。彼も友人を作らず、静かに読書をして、決まった時間に来て、決まった時間に帰った。孔明が名を尋ねると、
「私は州平だ」
と言った。州氏という姓を、あまり聞いたことがなかったが、孔明は詮索しなかった。
あるとき水鏡の門下たちが、将来について語り合った。10名くらいで車座になって、議論を戦わせた。孔明はそれを見つけ、割り込もうとした。だが当事者たちは、額を寄せ合って意見を交わしており、孔明が肩を叩いても無視をした。孔明に友情を感じている人は、いないのだ。 見回すと、輪に州平が混じっていたから、孔明は彼に声をかけた。州平は白熱をしておらず、また孔明への悪意が薄く、呼びかけに応じてくれた。州平は座る位置をずれて、孔明を加えた。
皆が、聞きかじった故事を披瀝しながら、青臭い志を語った。熱病のように口角泡を飛ばすと、一同が拍手をする場面もあった。そのうち、拍手をすることが半ば義務のようになった。孔明はうんざりした。 孔明は、口を手で覆って、頷かずに聞いていた。発言が一周したとき、
「孔明はどうなんだ」
と水を向けてきた人がいた。孔明は適当にお茶を濁して、言明を辞退した。君たちに話したところで、何になるのか。それが本音だった。 ここで志を語り、もしも馬鹿から批判を受けたらつまらない。まず自尊心が許さないし、繊細な自分が揺らいでしまうのが怖くもあった。ここでは、皆が大したことを言えないと確認できただけで、孔明は充分だった。もう帰りたいと思っていた。
「孔明、お前は俺たちの話を笑っていただろう。無礼な奴だ。俺たちのことを見下しているのだろう」
ひとりが怒鳴って、立ち上がった。ずかずかと床を踏んで来て、孔明の胸倉を掴んだ。孔明は長身だから、掴みかかった方が奇妙な気分になるのだが、それでも怯まずに、何か言ってみろ、と彼は凄んだ。
孔明は、はい見下しています、と言ってしまいそうだったが、さすがにそれは控えた。 水鏡の利は、学生を集めることにある。もし孔明が学生を追っ払ってしまったら、「臥龍」という二つ名を取り上げられてしまうかも知れない。孔明は「臥龍」を気に入っていたから、それは避けたかった。 だが、充血した目で睨みつける学友を、それほど貴いとは思えない。孔明は手を払いのけて、言った。
「君たちが仕官すれば、刺史や太守にはなれるでしょうね」
猛っていた学徒は、唖然として、どうもありがとう、と言った。
座が掃けると、州平が孔明の背中をつついた。州平は言った。
「君は、恐ろしい人間だな」
孔明は、にやりとすると、
「分かったのか」
と応じた。州平は、孔明が言葉に込めた皮肉を、嗅ぎ取ったらしい。
――君たちは、せいぜい地方官にでもなって、満足すれば宜しい。私は君たちの志など、眼中にないよ。 そういう孔明の真意が、州平には漏れ聞こえたようだ。
州平は孔明に、「では君は何になるのだ」と聞いた。孔明は笑うのみで答えなかった。州平が催促したから、孔明は、
「私は宰相になる」
と早口で囁いた。ほとんど息を吐いただけで、その上に微かな声音を乗せたような言い方だった。孔明が告げるや否や、州平の右頬は引きつった。州平は「ああそうか、頑張ればいいじゃないか」と言い捨てて、部屋を出て行ってしまった。 私の志の大きさに臆したのか、と最初に孔明は思った。だが州平の表情は、そんな単純ではなかった。
後日孔明は、州平という人について何か知らないかと、徐庶に尋ねた。
「ああ、崔州平のことだな」
と徐庶が言った。孔明と違って、人付き合いを怠らない徐庶は、事情に通じている。州平は州氏ではなく、崔氏だったか、と孔明は思った。そして、なぜ姓を言わなかったのかと、疑問に思った。 初対面であざなだけ言うのは、不自然である。姓名を名乗るべきだ。孔明は仲達を思い出したが、すぐに思考から叩き出した。彼もあざなだけ名乗った。様子がおかしかった。
「崔州平は、崔烈の子だ」
「ああ、なるほど」
州平の父というのは、大尉すなわち宰相を経験した人物だ。それだけ聞けば、いかにも名誉な血筋であるが、そうではない。崔烈は、宰相の位を銅銭で買ったのだ。だから、銅臭がすると陰口を叩かれた。
州平は、その父を愧じているのだろう。
30年ほど前のことだ。ときの霊帝は若いとき貧乏だったから、即位してから金儲けに走った。後宮内に模擬店を作って、女たちと商人ごっこをした。末世である。 優れた商人は、高価で稀少なものを、安く仕入れ、安く保管し、安く運び、人手をかけずに、高い値段で、独占的に、何回も売りたいと思っている。商売の理屈に照らせば、皇帝だけが生産できる官位は、利益率が高い最良の商材と言える。霊帝の着眼は良い。皇帝ではなく、豪商でもやっていれば良かったのだ。
ついでに言えば、曹操の父の曹嵩も、宰相の位を金で買った。
「徐庶よ、私は州平の気に障ることを言ったのだな」
宰相という言葉は、崔州平が封じていた後ろめたさを、刺したのだ。ある言葉が目耳に触れると、身体が反射的に拒絶する。こういう類いの心の傷は、実在するのである。人間とは、脆いものだ。孔明は自分に照らして、州平の心理を推測した。
「私は明日、州平に謝ろうと思う」
「下手なことを言って、油を注ぐなよ。孔明は、気が利かないからな」
徐庶は苦笑した。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反
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