
| |
孔明の転職活動
|
第03章 新野の孤雲 /2節
|
孔明は州平と話したかったから、隆中の自宅を出て、水鏡の私塾に出かけた。州平は、最後列で講釈を聞いていた。孔明は州平の隣に座り、話しかけるきっかけを探った。
「勉強中に失礼いたします」
学棟の門の外で、声を張り上げた人があった。学徒たちは、一斉に声のした方に首を向けた。
「誰だろうか。皆、少し待て」 水鏡は古典を書いた絹布をたたみ、おもむろに立って外に出た。しばらくして、色の黒い痩せた男を連れて、戻ってきた。入ってきた男は、教室の全員を見渡すと、ゆっくりと切り出した。
「私は孫乾と申します。新野に駐屯している、劉備将軍の臣です。突然の訪問で失礼致しますが、劉備将軍より言伝を持って参りました。明日の夕刻、若き俊才を招いて、酒宴の席を張ります。どなたか、来て下さらぬか」
孔明は、眉をぴくりと動かした。劉備という名を、知らぬではなかった。汝南で黄巾を率いていたから、徐庶が万民の仇と見定めた男だ。曹仁の軍隊に、なす術もなく敗れ去った男だ。
(生きていやがったのか)
これが孔明の、真っ先の感想だった。 汝南で曹仁に攻められて、劉備は主従がばらばらとなった。だが一命を取りとめ、荊州に逃げ込み、牧の劉表に客将として迎えられていた。劉備の動向は、別に秘されていたわけではないが、孔明は荊州の世事に興味がないため、知らずにいたのだ。
(誰が、劉備の出した飯など食うものか)
孔明は、高を括っていた。 だが、私は行こう、と手を挙げた人があった。すぐ横を向くと、州平が立ち上がり、闖入者の孫乾に礼をしていた。孫乾が名を問うたので、彼は「州平です」と答えた。途端に、教室中で含み笑いが聞こえた。
「お前は、崔氏だろう」
誰かが囃した。州平が孤立していた理由を、孔明はやっと理解した。 若者というのは、清く正しいことを必要以上に重視する。まして、美麗な故事の暗記ばかりに血道を上げている人が、ここに集っているのだ。父親が金銭で官位を買った州平は、恰好のいじめの対象となった。
孫乾は全く動じない表情で、
「では州平殿、お待ちしております。他に、いらっしゃる方はいませんか。劉備将軍は、皆さんの教えを乞いたいと願っておいでです」
と声を張り上げた。 一同は、しんとした。皆が中央での栄達を念じて、学問をやっているのだ。劉備など、吹けば飛ぶような兵長である。さすがに孫乾を面と向かって小馬鹿にする人はいなかったが、ひそひそと冷笑している。空気の流れが大して読めない孔明の目にも、明白だ。 だが孫乾は、涼しい顔を保っている。弱小な劉備の臣として、外交で危険な橋ばかり渡ってきた孫乾である。口ばしの黄色い学生たちに何を思われようと、まるで気にならないらしい。
「他にはいらっしゃいませんね」
孫乾が確認をした。
「では彼も、諸葛孔明も参ります」
州平が、孔明を指差して、言った。孔明は、何事が起こったのかと混乱した。孫乾の眼差しが、孔明を捉えた。灰色に濁った瞳だった。孔明は、底の見えない眼だな、と思った。
「そちらは、孔明殿ですか。あなたも、劉備将軍の招きに、応じて下さるのですか。感謝いたします」
孫乾が一方的に頭を下げた。
招きに応じるという響きに、孔明はひどい嫌悪を覚えた。まるで劉備に仕官でもするみたいな、言い方じゃないか。勝手にそんな風に決め付けないでほしい。自分の将来の価値を、一瞬にして大暴落させられたような気分だった。
「いや、私は――」
孔明が断ろうとすると、州平が手を伸ばして遮った。孫乾は満足そうに頷き、突然の訪問を再び詫びた。彼は、濁った眼で、州平と孔明を念を押すように見つめ、帰っていった。
後で孔明は州平に、恨み言をぶつけた。州平は謝った。
「勝手なことをやって申し訳ない。だが、ちょっと話をするだけの席だ。もし劉備が気に入らなければ、すぐに去ればよい」
「州平が劉備を見たいなら、君ひとりで好きなだけ見てこれば良かろう。一体なぜ、私を巻き込むのか」
「俺は孔明が、劉備の下で、宰相になれると思う。これはな、宰相の子の直感だ」
州平は自虐的な笑みを浮かべた。孔明はどうやら、州平に友情を抱かれてしまったようである。とおり一遍の迷惑だという感情はあるが、銅くさい宰相の子の、暗い胸の底に興味はあった。
人は自分が喋っていると、頭の中に自分の声だけが響く。しかし黙っていると、たくさんの人の話が聞こえてくる。いつも孤立して黙っている州平は、人を見る目を磨いたのかも知れない。孔明は、州平の見立てに付き合ってやるのも悪くないと諦めた。
孔明は劉備のことを軽く見ているから、だんだん新野行きが面倒になった。だが、約束してしまった手前、無視は良くないと思った。事前に断りを入れれば失礼には当たらなかろうが、わざわざ断るのも面倒である。 徐庶を誘って、劉備の居城・新野に行った。
新野は小さな街だった。城壁は低く、ところどころ崩れている。門をくぐったが、民家は手入れが行き届いていない。店はあるが、商売をしている人がいない。眼ばかりが鋭い人が、働きもせず、棚や地面にぞろぞろ座っている図だ。街の大きさのわりに人口が多いせいで、家に入りきらなかった人たちが、路上に溢れているのか。
「なあ徐庶よ、こんな小さな街すら、満足に治められないのか、劉備は」
「その程度の野郎だよ」
徐庶は、この同行を固く拒んだ。それもそのはずで、この孔明の親友は、一度は劉備を殺そうとしていたのだ。劉備は、ろくに信念の描けない荊州の長官・劉表の懐に飛び込んで、居候を決め込んでいる。
「孔明、この荒廃はなんだ。この新野は、荊州でも北辺に近い。もし曹操が南征したら、最前線となる。住民の生産力に余剰があるなら、城壁の修繕でもさせればいい」
徐庶は兵法もひと通りは修めたから、軍師みたいなことを言うようになった。孔明は、それがおかしかった。
「新野には、劉表からの援助がないのかな」
「きっとそうだ。劉表は、劉備を捨てたに等しい。無言のうちに客将を捨てるとは、劉表もひどいな」
「まあ、価値のないものを捨てるのは、合理だがな」
徐庶と孔明は、高笑いをした。
劉備は、漢の皇帝の末裔を自称している。曹操が築く新時代に乗り遅れた人が、古臭いが安心のできる旗印の下に群れて、温めあっているのだろう。彼らは、彼らを救ってくれる何かを、何もせずに待っている。 劉備自身は、僥倖に頼って無節操をしてきた人だ。劉備を慕うのも同種の人たちなのだろう。
孔明は、今日は何とか早く帰れないものか、と思った。
劉備の屋敷の門を叩いた。
孔明と徐庶は、小さな部屋に通された。建材が湿ったような作りだ。州平は、先に来ていた。州平以外にも、10名ほどの若者が来ていた。それぞれが口を真一文字に結び、矜持の高さを煙らせていた。
(こんな連中と同格だと思われたら、厭だな)
孔明はそう思った。
孫乾が現れて、来訪者への謝辞を述べた。
「本日は劉備将軍が、諸君と本音で語り合いたいと申しています。綺麗なところではありませんが、心行くまでお楽しみ下さい」
謙遜の決まり文句を孫乾が吐いたが、ここでは事実だった。 料理と酒が運ばれてきた。質素というよりも粗末で、孔明は箸をつけなかった。州平は、姿勢を正したまま機械的に口に運んでいた。
廊下を、ぎしりぎしりと鳴らして、劉備が登場した。孔明は一驚した。
(天がどのように間違えれば、こんな人間が出来るのか)
異相であると表現すれば、まるで英雄でも描写しているようであるが、それどころではない。
| |
|
|
このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反
|
|