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孔明の転職活動 第03章 新野の孤雲 /3節
劉備は、背丈は人並みだが、頭がやたらと大きく、押したら倒れそうである。腕が奇妙に長い。膝まであろうかという腕の先には、常人の2倍はある掌がぶら下がっている。指は何本かが千切れ、短くなっていた。
(なるほど、彼は極寒の幽州出身であった)
孔明は、悟られないように視線を走らせている。
眼は右だけが大きく、左右で眼球の輝き方が違う。耳はふくよかに垂れ下がって、真っ赤であった。
「漢室の末孫、劉備だ。俺は馬鹿だから、難しいことは分からんが、今日は賢いお前たちの話が聞きたかった。来てくれてありがとう」
劉備はそう言って、入り口のそばに座っている書生風の客に握手を求めた。その若い客は、のけぞった後に、覚悟を決めたように息を吸い、手を差し出した。
劉備は、順番に握手をして回った。孔明の番になった。獣のような臭いがして、孔明は顔を背けたくなった。眼を合わせたら、大きな顔面が近づいてきて、茶色い息を吐いて、よろしく、と言った。
劉備は上座に腰掛けると、大声で言った。
「俺は曹操を攻めてえ」
一同が顔を見合わせた。劉備は甕ごと抱えて酒を飲み、なみなみとこぼすと、続きを喋った。
「曹操は、袁紹の馬鹿息子を追いかけて、北へ征っちまった。この隙に、曹操のねぐら、許都を獲る。どうすれば勝てるか、教えてくれ」
孔明は、白目になった。

許都は、曹操が本拠として定めた地だ。保護した漢帝も、そこにいる。官渡ノ戦のとき、荀彧が留守を守っていて、許都から官渡へ、兵糧や武器を送った。孔明が荀彧をおとなったのも、許都である。
新野から攻め上がれば、10日ほどで到着することが出来るだろう。地図だけを見れば、いかにも攻めることは出来そうであるが、現実はそうではない。守るのは、天下無双の曹操軍なのだ。
書生の1人が、劉備に質問した。
「兵数のご用意は、どれだけですか」
「三千くれえかな。訓練なんて、五年以上やってねえが」
「許都を守備する兵数は――」
「俺が知るわけねえだろう。賢いお前さんたちなら、知ってると思うから、適当にやっちゃってくれ」
「馬は何頭おりますか」
「三百だ」
背筋を伸ばして劉備と話していた書生は、口から泡を吹いて退いた。いまだに夜盗の群れと変わらない劉備が、正規軍を擁した曹操に勝てるわけがない。曹操本人は北伐して留守に違いないが、軍法は許都に健在なのだ。
代わる代わる書生が進み出て、劉備と話をした。だが、誰も有効な作戦を進言することはできなかった。書生たちが馬鹿なのではない。劉備が弱すぎるのである。途中から劉備は、雑談と愚痴を始めた。笑うと口から食べ物が飛び散った。
「荊州には、優れた才能が眠っていると聞いた。お前らは、若えくせに威厳だけは立派だ。そのくせ、中身は大したこねえなあ。見掛け倒しだ」
劉備は、酒を己の顔に浴びてから、続けた。
「襄陽の辺りにゃ、臥龍と鳳雛という逸材がいて、そのどちらかを得れば天下を獲れると聞いた。だが今日は、臥龍さんも鳳雛さんも、来てくれなかったようだ」
劉備は酔眼を泳がせて、言いたい放題だった。劉備は孔明を見つけた。孔明は色が白くて、長身なので、目立つのだ。
「そこの、のっぽの書生くん。臥龍や鳳雛じゃなくても、構わん。あんたはどう思う。俺はどうやったら、曹操の許都を取れるか。ひとつ面白いことを、言ってみてくれ」
劉備の席の横には、しなびた軍旗が、立てかけられていた。劉備はそれを引き寄せると、牛の尾で出来た飾りで、手遊びをした。

劉備の耳に届いた臥龍と鳳雛の噂は、水鏡が流したものだ。門下生の売込みである。孔明は、他ならぬ臥龍その人であるが、劉備は気づいていない。
徐庶と州平は、臥龍の正体を知っていたが、黙っていた。人生の重大事について、他者が介入すべきではないと心得ている。もし孔明が臥龍だと知れば、否が応にも、劉備は孔明を手下に加えたがるだろう。劉備は任侠の雰囲気を帯びているから、一度仲間になって、裏切った者を、殺しかねない。
徐庶と州平は、孔明の方を心配そうに見た。
孔明は、劉備を無視して、あごを引いて座っていた。劉備のような態度の悪い男に、何も進言してやる必要はない。
「がはは、のっぽも、やはり駄目か。気取って小難しいことばかり言うのが、君たちの関の山だな。曹操に相手にされない二流の人物が、荊州に避難してきた、と。そういうわけだな」
孔明のこめかみに青筋が立った。劉備が述べたのは一般論だし、他の誰でもない劉備こそ、曹操に太刀打ちできずに平和な荊州に逃げてきた人だ。だが孔明には、そうは聞こえなかった。5年前に荀彧に門前払いをされた日の無念が、戻ってきた。死体を埋めていて、自殺しようと思った衝動が、帰ってきた。
(許都でろくに自説を陳べられなかった。あれから5年経つが、私はどれほど成長したであろうか。学者のように、経典には詳しくなったが、それだけではないか)
孔明は自分を責めやすい性格だから、瞬く間に思いつめた。孔明は右手を前に伸ばすと、いや、しばらく、と声を上げた。よく通る声だった。劉備が、酒を吹きこぼした。
「何だ、のっぽ。何か思いついたか」
「思いついたのでは、ありません。今から言うのは、私は5年前にすでに知っていたことです。ただ、劉備将軍が当たり前のことを知らないので、述べようと思うだけです」
孔明は、咳払いをした。
「いま将軍は、曹操を攻めようと考えているのに、旗飾りを捻っているだけです。そんな心構えでは、曹操に勝てない」
劉備は、盃を床に叩き付けた。
「黙っとれ。お前らが無策だから、気を紛らわしていただけだ。世を知らぬ書生風情が、大人に向かって何を言いやがるか」
孔明は怯まない。
「劉備将軍に聞きます。曹操とあなたとでは、どちらが上ですか」
「俺だ。何かすごい秘策がありゃ、一気に逆転してやる。曹操のような貧弱なちびに、俺が劣るはずはない」
孔明は答えを聞き流して、新しい質問をした。
「あなたを保護しているのは、荊州牧の劉表様です。劉表様とあなたを比べたとき、どちらが上ですか」
「劉表殿だ」
劉備は、大人しく答えた。野獣のような男だが、こうして話を聞けるのが、劉備の美点である。また劉備は、劉表の世話になっているのであるから、本心では劉表より自分が上だと思っていも、それを言えない立場だ。孔明は、それを知っていて、わざと聞いた。
「では、曹操と劉表様を比べたとき、どちらが優れているでしょうか」
「そりゃ、曹操だわな」
「ということは、あなたは曹操に遠く及ばない」
三段論法である。劉備は、自分が曹操に劣ることを認めたがらない。感情的に眼を閉ざして、この20年を戦ってきた男なのだ。もし曹操が上だと認めてしまえば、敗戦の後にしぶとく逃げ延びることを、やめてしまっただろう。
だが実態として、劉備は曹操に遥かに劣るのだし、それを認めないことには、劉備は前に進めない。
孔明に喝破された劉備ははじめ、「あぁ?」と吼えた。同座している一同は、肝を冷やした。だが、卓の上を指でしばらくなぞると、悔しそうに頷いた。
「のっぽの言い分は、間違っちゃいねえ。それで、俺はどうしたら、曹操に勝てるのか」
「荊州は広いのに、戸籍にはあまり人が載っていない。まずは、きちんと調査をすべきです。徴兵は、戸籍に基づいて行うものです。戸籍が充実すれば、兵は嫌でも増えます。もし戸籍を改訂せず、すでに載っている家からだけ兵を集めれば、不公平だから、不満ばかりが増大し、良民が逃亡します」
孔明は表情が固い。
「さらに言えば、この新野には、あなたを慕って人が集っている。彼らをうまく繰り込んでこそ、劉備軍の補強は成るでしょう」
孔明は、劉備のために喋っているのではない。5年前の自分のために、喋っているのである。あのとき、こうして荀彧に具体的な施策を説くことが出来ていれば、人生はどうなったであろうか。そういう感傷と葛藤しながら、喋っている。
劉備は膝を打ち、涙を流し、ありがとう、と言った。
「さっそく努めるとしよう。お前の名は」
「諸葛亮、あざなを孔明」
「そうか、孔明か。臥龍と鳳雛以外にも、すげえ若者はいたのだな」
劉備の大満足のうちに、宴席は終了した。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反