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孔明の転職活動 第04章 隆中の懐思 /2節
徐庶の馬は、鼻息を荒し、汗を噴き出していた。力の限り、駆けて来たのだろう。徐庶は、転がるように下馬すると孔明の畑に入ってきて、額を土に擦り付けた。
「孔明、すまない。本当にすまない。もし君が俺を斬ろうというのなら、俺は拒まない。君は、俺を斬る権利がある」
徐庶は腰の剣を外すと、孔明に差し出した。
「何だか知らないが、やめてくれないか」
孔明は促して、徐庶に顔を上げさせた。徐庶は血走った眼から、涙を落としていた。
「俺は、友を売るようなことをしたのかも知れない」
「待て。わけが分からない」
孔明は、徐庶のただならぬ雰囲気に気おされた。人生の転機が、すぐそばに迫っているような予感があった。徐庶は絶え絶えに言った。
「俺は劉備殿の臣として、新野で過ごしている。俺にとって劉備殿は、とてもよい親方だ。俺は新参なのに、寝食を共にさせてもらっている」
徐庶は、唾を飲んだ。
「やがて俺は、劉備殿が孔明のことを、とても気にかけていると知った。戸籍の整備を教えた君のことを、忘れられないそうだ。俺は劉備殿に心が寄り添っていて、何とかお助けしたいと思っていた。昨夜、酒をしこたま飲まされたとき、うっかり喋ってしまった。孔明は隆中にいることを。孔明こそが臥龍であることを。劉備殿は、君を絶対に欲しい」
「なんてこと――」
孔明は叫んだ。水鏡に付けてもらった評価が、あろうことか劉備の心を、縛り付けてしまうとは。臥龍という名は、曹操に売り込むための、取って置きだったのだ。新野で会ったとき、劉備は臥龍と鳳雛に相当に執着していたようだから、これは逃げられない。
「俺は劉備殿が好きだし、孔明には活躍の場を得てほしいと思っている。その気持ちばかりが先行して、喋ってしまった。良かれと思ってやったことだが、素面になって思い返してみれば、君を売ったにも等しい。本当にすまない。申し訳ない。俺を斬って、逃げてくれ」
徐庶は、昔から性急な男だ。反対に孔明は理屈っぽくて、優柔不断であるから、徐庶に急を告げられても、畑から立ち上がることが出来ない。どうすべきか、迷っていた。運命が変わるときなのに、足が動かない。いや、運命が変わるときだからこそ、足が動かない。
徐庶は畳み掛けた。
「いまに劉備殿が、関羽と張飛を伴って、ここに来る。鄭重に辞退したとしても、いや少しでも逡巡を見せれば、君は殺されるだろう。裏切りは、仁義に悖る最低の行為だからだ。劉備殿の中では、君は仲間として勘定に入っている」
勝手なものである。男伊達を気取る世界では、そういう流儀なのかも知れない。だが孔明は、侠者ではないのだ。そんな道理ならぬ道理は、さっぱり理解できなかった。だが、首は1つである。劉備の言い分で斬りおとされた首は、孔明の言い分で繋ぎ直せるわけではない。一度斬られてしまったら、死あるのみだ。
徐庶は涙を拭って、姿勢を正した。
「孔明。俺が言うべきは、全て言った。だが、もうひとつ言わせてくれ。俺は、孔明が曹操に仕えたいことを、よく知っている。それでも俺は、孔明に劉備殿を輔けてもらいたい」
徐庶は剣を孔明に預けると、いつでも俺を斬っていいからな、と繰り返して、馬で去った。徐庶が去ったのとは逆の竹林から、鳥が一斉に飛び立った。劉備が、隆中の草盧に、孔明を訪ねてきた――。
「徐庶よ、私を祭りの生贄にしたな」
孔明は、うめいた。

徐庶の忠告を受けたとて、すぐにどこかに立ち去れるほど、孔明の腰は軽くない。急転した自分の運命に、頭がくらくらし、畑の中で土に汚れた自分の手を見つめ続けた。
(逃げたとて、逃げ切れるものか。凶者はすぐそこだ。それ以前に、私は馬を持たないのだ)
ほどなく竹林から3騎の影が現れて、孔明を追い詰めるように、じわじわと大きくなった。1人は見覚えがある。常人の2倍の広さがある、つやのある顔面だ。劉備である。 もう1人は、赤ら顔に長い髯。きっと音に聞く関羽だ。最後の1人は、虎髭で肥大した体躯。張飛だろう。
畑から、孔明が住んでいる庵の門が見える。3騎は、門前で颯爽と下馬すると、庵の中に向かって「臥龍殿はいるか」と叫んだ。戦場で一騎打ちでもするような、大声である。孔明は姿を隠すではなく、その様子を畑の中から見ていた。何も知らない諸葛均が出てきて、豪傑の3人と鉢合わせし、腰を抜かすのが見えた。
「私こそは、漢ノ左将軍、宜城亭侯、豫州牧ヲ領ネ、新野ニ居ス、中山靖王ガ劉勝ノ末孫、劉備、字ヲ玄徳である。孔明殿はこちらか」
遠くまでよく通る、長い名乗りである。やはり心構えとしては、彼らは一騎打ちでもやりに来たように見えた。
(なんという、野蛮な勇ましさよ)
孔明は、恐怖と軽蔑がない混ぜになった。諸葛均は、兄の所在を問い詰められているのだろう。どうしたものかと迷う素振りを見せながら、畑にいる孔明を指差した。劉備と関羽と張飛は、一斉に孔明を見つけた。
「そこにおられたか、臥龍殿!」
劉備が、手招きをした。孔明は間抜けな顔をして、背の低い作物の中で突っ立ったままだ。彼は、死刑を宣告されたように観念して、しずしずと畑から出た。
「一度の訪問で会えるとは、思わなかった。こういうときは大抵、待望の天才軍師殿は、もったいぶって留守であるものだ」
劉備は、がはがはと笑った。
(私も、留守でありたかった)
孔明は心の中で恨み言を放った。だが恐怖が大きすぎて、そんなことは口から出ない。劉備の両側に侍している、関羽と張飛――彼らが指で弾くだけで、自分の首はぽきりと折れそうだと思った。

「臥龍殿、この国はどうあるべきか」
劉備が、早速に問うた。立ち話でも気にならないらしい。関羽と張飛は直立したまま、一言も喋らない。よくしつけられた猛獣である。
「漢室が復興されるべきでしょう」
孔明は、平板な声で言った。漢室の復興とは、ありふれにありふれた一般論である。こんなこと、そこら辺の童子で口にするし、盗賊ですら、言うに事欠いて標語にように使っている。
「なるほど。詳しく教えてくれ」
劉備は、微塵もつまらなそうな顔をせず、孔明の話に食いついた。孔明は怖じた。劉備の、謙虚で真剣な眼差しに打たれたのだ。微かに感動した自分の、心の在り処が分からなかった。劉備は、野性を隠さない人だ。だが、それだけではない。新野で孔明が戸籍の話をしたとき、孔明は内に向かって喋っていたから、劉備を見なかった。だが徐庶は、劉備を見ていた。だから、劉備に仕えた。
国がどうあるべきか。当たり前すぎるような質問であるので、もし昨日の同じ時間に同じことを問われたとしたら、よどみなく答えられた気がする。でもいま真摯に突き詰めると、意外に分からない。孔明は、つっかえながら、劉備に回答した。
「人には誰でも、身の丈があります。身の丈にあった課題に取り組んで、それを解決することで、幸せになります。身の丈に合わないことを悩むと、もともと解決する能力を持たないのですから、挫折します。国家が安定しているとき、万民は、分相応の悩みと幸せを得ます。しかし国家が乱れると、分不相応の悩みを抱き、不幸になります」
許都で荀彧と話したときもそうであったが、孔明が緊張すると、話が分かりにくくなる。志の高さが、孔明の口から抽象度の高い議論を導くのであるが、孔明に自覚はない。
劉備は、実際のところ孔明の話が分からないのであるが、熱い眼で孔明の行論を追った。話す人にとっての至高の報酬は、聞いてもらうことである。劉備は、天性でそれを実践できた人だ。
劉備は時間をかけて孔明の言葉を咀嚼し、訊いた。
「俺の悩みは、天下万民が幸せではないことだ。これは俺にとって、身の丈に合わねえ悩みか」
孔明は、答えることが出来なかった。
孔明の狼狽を見切った劉備は、
「約束もなしに訪問して、今日は申し訳なかった。志を言ってくれて、感謝する。ありがとう」
と言い残して、去った。関羽と張飛は、深々と頭を下げると、終始無言のまま劉備に従った。嵐の過ぎ去った後に、自家の畑の前で立ち尽くす農夫のように、孔明は動けなかった。
劉備が消えた竹林から、馬でこちらに向かってくる人があった。早くも劉備が引き返してきたかと思い、喜びと戸惑いが孔明をかき混ぜたが、そうではなかった。州平だった。孔明は安心に満たされた。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反