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孔明の転職活動
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第04章 隆中の懐思 /3節
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孔明は、州平を自室に通した。 粗末な部屋で、灯り取りの窓と、書物を置く机と、横になるための固い台があるだけだ。飾り気はない。むしろ、意図して飾りを削ってある。孔明は、ここを一生の住処とするつもりはないから、わざと少し住みづらくしてある。 孔明は、窓の外を見て、うろうろした。
「州平、聞いてほしいことがある」
「劉備だな」
「――なぜ知っているのだ」
「ちょうどそこで、擦れ違ったんだよ」
「そうだったか」
「私は劉備に、国はどうあるべきかと聞かれた」
州平は、こともなげに報告した。
「君はなんと答えたのだ」
「歴史を俯瞰せよと教えてやったよ。乱世があり、治世がある。いや、乱世があるから治世がある。その逆も然りだ。人の一代一代などは、ほんの一瞬の光芒であって、執着するほどのことではない」
州平は、孔明が出した湯をすすった。
「劉備は、私の話が気に召さなかったんだろうな。お前は俺が探している人ではない、と鄭重に断って去ったよ」
州平は、確信犯の笑みを漏らした。州平は、世を拗ねている。父が金を払って宰相になったことが理由だと言われるが、恐らく違う。父の経歴のせいで、友人の中で孤独な思いをして、そのときに初めて心が歪んだんだろう。
「この国はどうあるべきか、か」
孔明は、劉備が自分に聞いたことを反芻した。孔明は、劉備が誰にでも国の話をすることに、落胆を覚えた。落胆というよりは、嫉妬だった。しかし孔明も幼児ではないから、すぐに嫉妬を収めた。劉備は20年以上も戦ってきた。彼がいつも考えていたのは、国のことなのだろう。だから、人に会うと、すぐに国のことを訊くに違いない。
「州平よ、私も劉備と国の話をした。自分でもよく分からないが、心の琴線に何かが触れてきた。劉備は、見所があるかも知れない。何十年も戦い、どれだけ負けても、国のことを思い続けられる男は珍しい。天下にとって、価値がある」
書物をかじっただけの若造が、偉そうな口を聞いているが、青年とはそんなものだ。大人を品定めして、甲論乙駁して、何を生産するわけでもないのに、大量に飯を食うし、夜になれば徹して油を燈す。
孔明は、狭い部屋の中をうろついた。劉備の美点を、言葉をいろいろ入れ替えて、州平に説明した。そして、窓の外を覗いたり、積み重ねた書物を繰ったりした。州平は、劉備を孔明に勧めた人だから、孔明は心配なく劉備を語れるのだ。だが、語尾が泳ぐ。
「孔明、君が考えていることを当ててやろうか」
「なんだ」
「君は、なおも曹操に仕えたいのだろう」
孔明は、正鵠を射抜かれた。二君に心を寄せているとは、まだどこにも仕官する前から、早くも不忠である。いや不忠である前に、友への体面として見っともないと、孔明は思っていた。だから認めたくなかったが、州平の言うとおりだった。
君主が自ら出かけて、賢者を招く。歴史の勝者の、典型的な行動様式である。釣り好きな人を勧誘し、天下を取ったのは周公である。人材が訪れたと聞けば、食べているものを吐き出したという。劉備が家に来たのだから、孔明には名誉である。だが一方で、君主がわざわざ人材を求めるとは、それだけ組織が小さくて脆弱であることを暗示する。君主の人格が前面に出ているとは、すなわちそれ以上の魅力が組織にないということだ。
(人柄は繕って得られるものではないが、天下は人柄が良ければ得られるものでもない)
孔明は、天下は法によって治まると、今も思っている。それを思ったとき、やはり曹操だった。君主の人柄だけが長所ならば、君主が死んだら、組織は崩壊する。それどころか、老いて君主が変心したら瓦解する。劉備は五十前だから、それほど先はない。
「ああ、どうしようか」
孔明は、州平に泣き付いた。州平は、それぐらい自分で考えろ、と言った。州平にとって、どうもこうもない話だ。
何とも煮え切らないが、これが孔明だ。彼は慎重だが、思い込みは激しい。対立する性質のようであるが、矛盾なく同居している。「私のような賢い人間が、劉備のような小勢力に仕えるべきではない」という脅迫的な命題が、孔明に二の足を踏ませている。これを、自意識過剰だと切って捨てるのは、孔明にとっては酷である。
次に劉備が来たのは、雪の深い日だった。 劉備がなかなか来ないから、孔明は心細さを感じ、しかし同時に安堵もしていた。隆中の居心地の悪い部屋に、ずっと留まる。自分に対する裏切りがないではないが、安逸は捨てがたい。間違っても、自ら新野を訪問し、劉備軍の実力を計量するような性格ではない。
劉備は予告もなく訪れて、外で大声を出した。孔明は法家の書物を読んでいた。読みながら、もし曹操に政策を提案するならば、何が良いかと考えていた。だから、今日の孔明は、劉備より曹操に寄っている。諸葛均が顔を出し、劉備将軍が来ていますが、と孔明に言った。
「すまない、私は留守だと言ってくれ」
諸葛均は、兄の頼みを聞いて、眼を丸くした。
「いいんですか。もし、いつ帰るかと聞かれたら、どうしますか」
「いつ帰るか分からんと言えばいい」
この引きこもりの兄が、どうして期日を定めない旅などに出ようかと思ったが、諸葛均は孔明の怯えた瞳にただならぬ事情を感じ、承諾した。
表でのやりとりは、孔明の部屋に聞こえる。
「それは残念だ。ここで待たせてもらう。俺は、孔明殿と話がしてえ」
劉備が粘った。
「困ります。兄はいつ帰るとも知れないのです」
孔明は、諸葛均に声なき声援を送った。
「分かった。仕方ねえから、今日は臥龍殿の家の前で喋っていこう。臥龍の弟殿、伝言願う」
劉備がそんなことを言った途端に、落雷があった。いや、劉備に反論をした人があった。天災のような声量である。張飛だろうか。孔明は自室で、肝を潰した。
「なあ長兄、どこの馬の骨とも分からん餓鬼に、そこまでなさる事ぁねえ。くそ寒いのに、俺たちは、わざわざ来たんだぜ。それを留守とは、ふざけやがって。俺はこのあばら家に火をつけてやる。暖を取ってから帰ろう」
「火はいかん」
「じゃあ、柱を掴んで押っ倒す。いや、握りつぶす」
孔明は固く目を閉じた。 数万の軍勢に敵するというのが、張飛だ。壁を破って掴み出されたら、どんな目に遭うだろうか。居留守がばれて折檻されるくらいなら、焼け死んだ方がましだと思った。火が回っても、動かないでいようと思った。
打撃の音がした。張飛が殴られたのかも知れない。張飛は停止し、代わりに
劉備の声が再開した。
「孔明殿、俺はお前をずっと待っていたんだぞ」
孔明は壁に背をもたれて丸くなっていたが、弾かれたように顔を上げた。劉備の独白は続いた。
「俺は、曹操に言われた。天下の英雄は、わしとお前だけだと。曹操の腹ん中は分からねえが、確かにそう言った。場には、曹操と俺の2人しかいなかったから、他の奴は知らねえ話だが、誓って嘘じゃねえ」
無音になった。諸葛均が、書き留めている時間だろう。
「俺は曹操に肩を並べる英雄らしいが、軍勢はさっぱりだ。だから、俺を英雄にしてくれる軍師が欲しい。曹操は国のために働いているつもりらしいが、どうも好かん。何かが違う。民を平気で殺戮できる男が、漢室を再建するというのは、どっか良くねえ気がする」
劉備は、それだけ言い残して、雪の中に消えた。孔明は窓を薄く開けて、来客が帰ったのを確かめた。家の前の雪は、大地ごと掘り返したように荒れていた。
私は何をしているんだ、と孔明は呟いた。もう30歳が近い。いつまでも、人生を出し惜しみしているわけにもいかないのだ。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反
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