
| |
孔明の転職活動
|
第05章 樊城の新鋭 /2節
|
旅立ちの日が来た。
孔明は、家の柱に紐を結び付け、全体重をかけて引いた。もともと丁寧に建てたわけではない家は、みしみしと鳴って傾いた。過半数の柱を引っ張り終えると、ついに屋根が落ちた。孔明の躊躇いの住処は、土埃を巻き上げて、倒れた。 柱や壁の断片を拾い集め、火にくべた。どの断片にも思い出が含まれていて、もし聞きたいという人が通りかかれば、1つ1つ木片を拾い上げて、いくらでも思い出話が出来そうな気がした。
畑は、近所の住人に二束三文で売った。
孔明は、涙を落とした。
「ここの暮らしも、ついに終わりか。臥龍は、さらなる雌伏を選んだが、後悔はしていない。いつか昇竜になって、ここに凱旋する。そうしたら、またここに小さな家を建てて、あの竹林を抜けて、当たり前のように毎日帰ってくるのだ」
世間から見れば、ろくでもない書生暮らしではあったが、孔明は隆中での生活が好きだった。悩む以外のことは、ほとんど何もしていなかったのだが、その苦悶が生涯の宝になると思えた。いつか精魂が尽きたとき、最期に思い返すのは、隆中の四季に違いない。
隆中の小径を、歩いてみた。飽きるほど見てきたから、知らぬところはないと思っていたが、注意深く見てみると、草の生え方や土の傾斜の仕方や、小川や岩や切り株の色に、発見が多かった。 ろくな人付き合いをしてこなかった孔明だが、顔見知りの農夫が幾人かはいた。孔明が隆中に流れてきたとき、作物の種を分けてもらった人たちだ。彼らが畑に出る時間を細かく知っていたから、それを見計らって出かけて、別れを伝えた。
「お世話になりました。私は隆中を去ることになりました」
もっと語りたいことがあった気がしたが、みな明るく門出を祝ってくれただけで、すぐ農事に戻った。彼らは孔明を引き止める立場にはないし、孔明の将来は孔明が拓くものだから、それでいいのだろう。だが一抹の淋しさだけが、よぎった。きっとまた来ます、と孔明は約束した。
何もかも、失うと知って初めて、惜しい。
諸葛均は、1人で隆中に残る理由がなかったので、孔明の副官として劉備に仕えることになった。簡単な事務仕事でもやって、最低限の食い扶持だけは確保して生きるのだそうだ。
前夜には州平が来てくれて、祝いを述べていった。切なさに走る孔明を、州平は慰めてくれた。ただし帰り際に、
「あまり奇策を弄するなよ。下手をすると命取りだ」 と言い残した。孔明は秘め事を見抜かれたかと思って、脂汗を噴き出した。しかし州平はそれ以上は言わなかったから、人情に不得手な孔明は、真意を読み取ることができなかった。あまり執拗に探りを入れると、逆に怪しまれるかも知れない。 孔明はよっぽど、隠者になりたそうなこの親友にだけは、 「実は天下三分ノ計は、劉備を勝たせるための策ではないのだ」
と打ち明けてしまいたかった。だが、怖くて黙っていた。そして、口に出すことすら怖い立ち回りを、私はやろうとしているのだな、と思った。孔明は、腹の中に氷が浮かんでいるような、気色の悪さを覚えた。
孔明は、樊城の門をくぐった。
劉備のところの宴席は、予想以上に下品だった。劉備は面白くない冗談を飛ばして周囲を辟易させたし、関羽は威張り散らして手が付けられないし、張飛は暴力を振るって怪我人をたくさん出した。安くて不味い酒を、三日三晩も飲み続けなければならなかった。
名目は孔明の歓迎だったから、はじめは孔明に話しかけてくる人があったが、すぐに無視された。孔明の仕官を口実にして、騒ぎたかっただけだろう。孔明はその方が気が楽だったから、疎外感に耐えることは容易だった。 しかし、何回説明しても、同じ武官から「君は誰だね」と質問を受けるのは、うんざりだった。邪険に応対すると逆上されるから、いちいち丁寧に素性を説明せねばならなかった。
この武官と生涯を添い遂げることなどないし、もしかしたら明日の劉備軍の戦で、この武官は討ち死にするかも知れない。そんなことは頭で分かっているのに、絡み酒が不快だと、劉備に仕官したことを後悔してしまいそうだった。隆中が恋しくなり、灰をかき集めて家を建て直したくなった。孔明はそんな心の兆候に気づくと、慌てて自らの胸に禁じた。
「ああ、孔明か。やっと来てくれた」
この席には、懐かしい再会があった。徐庶である。
徐庶は、孔明を壁際に引っ張った。ごろつきだか武官だか分からない連中は、2人を相手にせず、歌ったり踊ったりしている。徐庶は小声で言った。
「劉備殿から聞いた。君は、天下三分ノ計を上程したそうだな。劉備殿は一様に、すげえすげえと宣伝するのみで、中身を詳しく話してくれない。もしかしたら、詳細は忘却したのかも知れない。君を臣下に加えれば、わざわざ自ら覚えなくても良いと、割り切っているのだろう。あの人は、そういう人だからな。いま君の口から教えてくれないか」
「いいよ」
孔明は、劉備が荊州と益州を得て、中原に攻めあがるべきだと説明した。一錐の地も持たない劉備に、天下を揺るがせる大任を与えようというのだから、雲をも掴む話だ。だが徐庶は賛同した。
「孔明、妙案だ。是非やろう。俺は劉備軍に加わって、指揮の面白さを知った。それで、思うようになった。大地を覆うような大軍を操ってみたい。劉備軍に大きくなってもらって、それを実現したい」
「目標があるのは、いいことだ。じゃあ君には、来るべき日に、荊州方面から北伐する軍師を任せようか。洛陽や許都を直撃する大軍を君が動かせ。都を陥落させた人として、青史に名前を残すのだ」
徐庶は、孔明を見つめて、ゆっくり頷いた。徐庶は、ずっと孔明とともに働きたいと思っていたから、喜びが全身から溢れた。彼は孔明の頭脳を、とても心強く思っている。
徐庶は、周囲に話を聞いている人がいないことを確認すると、さらに声の調子を落として、孔明に言った。
「君の天下三分の第一段階が、早くも動き出しそうだ」
「荊州に変事か」
「そうだ。荊州牧の劉表は老いていて、先はない。彼には、2人の子がある。長男は劉琦で、次男は劉琮。後を継ぐのが次男だというのは、荊州の臣の暗黙の諒解だ」
長幼の序を乱して、わざわざ次男を立てることは、禍いの元である。近くでは、袁紹が三男を溺愛して、長男を排斥した。結果、袁紹の死後に派閥が真っ二つに裂けて、長男と三男が争った。曹操はその隙間に鑿を突っ込んで、袁家を滅ぼした。
「次男が後を継ぐのは、その母が在地の有力者・蔡氏だからだ。劉表の権力基盤は弱くて、蔡氏に支えられているに等しい。劉表が20年前に荊州に来たとき、土地の豪族が強すぎて、身ひとつで入国せざるを得ず、門すら潜れない有様だった。だが蔡氏らの協力を得て、反発する豪族を50名ほど宴席に招き、皆殺しにした」
「遺恨の残る、まずいやり方だな」
「ああ。劉表は、辛うじて荊州牧の地位は確保したが、蔡氏らの傀儡になったのだ。蔡氏らは、地元の既得権にしか目が行かない」
劉表は10万の兵を持ちながら、荊州を守って外に出なかった。官渡で袁紹と曹操が向かい合ったとき、明らかに天下に雄飛する好機だったのに、静観した。劉備が、曹操が北伐して空けた許都を攻めたいと言ったときも、採らなかった。蔡氏らは、天下に関心はない。劉表の10万の兵の実態は、豪族からの借り物である。劉表その人には天下への志があったかも知れないが、後ろから匕首を突きつけられていたから、身動きが取れなかったのだ。
徐庶は興奮を帯びてきた。
「声が高いぞ、徐庶。つまり、劉表政権の脆弱性や、利に聡い在地勢力のいがみ合いに漬け込み、荊州を獲るのだな」
「そのとおり。蔡氏は劉表に協力するという体裁で、都合よく他の豪族を潰し、実権を握った。だが同じことを考える豪族が、ひとり蔡氏のみということはない」
「その口ぶりだと、すでに話が付いている豪族があるのか」
徐庶は、頷いた。
「人望は、劉備殿の唯一無二の武器よ」
徐庶は豪快に笑い捨てると、泥酔の振りをして、孔明の横を立ち上がった。民謡をがなって、踊りの輪に加わっていった。
| |
|
|
このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反
|
|