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孔明の転職活動
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第05章 樊城の新鋭 /3節
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孔明が劉備に仕えて、ひと月が経ったころだ。窮鳥が予告もなく、孔明の懐に飛び込んできた。
――劉琦、
である。荊州牧・劉表の長男で、蔡氏にとっては邪魔な存在だから、いつ消されてもおかしくなかった。劉琦は孔明に内密の使者をよこし、私が助かる策を授けて下さい、と言った。孔明は、徐庶と相談したかったから、体よく断った。
「家のことに、他人である私が介入するのは、良くありません」
とか何とか、それらしいことを言って使者を返した。 劉備の臣となった自分と、劉琦との間に交流があるのは、宜しくない。蔡氏らに、劉備を討つための口実を与えてしまう。徐庶は先に劉備の下に入って、荊州を奪う作戦を練ってきた。後から来た孔明が、それを壊してはいけない。
孔明は徐庶を訪ねた。2人とも樊城の中に屋敷を持っているから、往来は容易で頻繁だ。
「劉琦が私を頼ってきたのだが、どうしてやるか。どこで私の話を聞いたのか分からないが、諸葛亮は神算鬼謀だという噂話ばかりが、先走っているようなのだ。迷惑だ」
孔明の頭脳は、万人のためのものではない。使いどころを、かなり我がままに選ぶのである。徐庶は手を打った。
「おお、なんということだ、孔明。私が何をやっても解決できなかった難問を、君は何もせずに解決してしまった」
「どういう意味か」
「長男の劉琦を葬る方法だけが、俺には分からなかったんだ。父の劉表は、ほおっておけば死ぬ。次子の劉琮は、蔡氏らとまとめて討てばよい。次男のくせに家督を狙うとは非道だ、という理由でもつけて殺ろうと思う。だが俺の策では、長男に手が出せなかった」
徐庶は饒舌である。悩みのつっかえが取れたのだ。その様子から、よほど劉琦のことで苦しんでいたと見える。
「長男には、正統性がある。いくら劉備殿でも、長男を討てば、不義の誹りを受けよう。これから大義を旗印にしようとする人が、覇業の開始直後に脛へと疵を受けるのは、望ましくなかった。だがその心配もなくなった」
「なんだ、そういうことか」
「そういうことだ」
孔明と徐庶は、それきり劉琦の話はしなかった。劉備軍の人の話とか、学問の話などをして、昔のように時間を忘れた。
数日して、また劉琦の使者が来た。孔明は、わざと勿体ぶった上で、しぶしぶ願いを聞いてやったのだという印象を与えながら、承諾した。孔明は、劉琦の裏庭に呼ばれた。
劉琦は、背ばかりは高いが、胸も肩もあごも薄く、自信のなさそうな青年だった。動作の端々に、痙攣でもするような仕草が出ている。
「孔明殿、私はあなたを師と仰ぎたい」
劉琦は言った。孔明は、今日も羽扇を持参している。劉琦の小動物のような口元を一瞥すると、鷹揚に頷いてやった。
「学問の手ほどきをすることは、やぶさかではありません。しかし、予めお断りしておきますが、家の事情に口を挟むことは、遠慮させて頂きますよ」
劉琦は、何か言いたそうな顔を向けて、黙りこくってしまった。劉琦が相談したいのは、後継問題のことである。それ以外のことで、この自我の薄そうな青年に、どんな話題があろうか。
「孔明殿、この庭は私が作らせたものですよ。一緒に回遊してもらえないか。老師に見せたいのです」
「ええ、それなら構いません」
孔明は、いつ劉琦が身の振り方の話をしてくるか、内心では期待しながら、後を付いて歩いた。池だとか川だとか木だとかが作りつけられているが、わざとらしくて小さくてせこい庭だった。 敷地の輪郭に沿って曲がると、2階建ての高殿が見えた。外に梯子がかけられ、そこから登るようだ。
「老師、あそこで休憩して行きましょう」
「休憩なら、その辺りに座ってすれば良いでしょう」
「いいえ。老師がお見えになる日のために、珍味を用意したのです。是非ともご賞味を頂きたい」
荊州は久しく兵を出していないから、貯蓄だけはあるだろう。また、南方の交易と接点を持っているから、珍味が手に入るだろう。だが、何ゆえに不安定な高殿で食さねばならないか。答えは明白である。劉琦は、隔離された高殿の上で、秘密の相談をしたいのである。
孔明は、ほくそ笑んだ。もちろんそんな顔は、劉琦に見せられない。羽扇で、さっと隠した。孔明は、慈母のような顔を作ると、劉琦に向かって頭を下げた。
「劉琦様がそこまで仰るならば」
孔明は、腰帯に羽扇を釣り、梯子を上った。宙に浮いた部屋は、わりに洒落た造形だった。孔明は梁の彫刻を丹念に見た。 (今から、ここの主人を殺す算段をするが、悪くない舞台だ)
劉琦は料理を運ばせると、待ちきれずに本題を切り出した。
「さあ老師よ、私に策を授けて下さい。私は弟の母・蔡氏に殺されそうです。どうしたら良いですか」
「そういう話は、しない約束です」
孔明は席を立とうとした。決して心理戦には強くない孔明だが、敵がこのように弱々しいと、余裕を持って駆け引きを楽しむことが出来る。押しては引き、引いては押すという遊戯に興じた。
「老師、あなたはここから出られません。下僕に命じて、梯子を取り外させました。ささやかな私の計略でございます」
「ああ、やられましたね」
孔明は無感動に言った。
「老師は、四知という言葉をご存知ですね。漢ノ宰相、楊震の話です。彼に取り入ろうと、賄賂を差し出した人がありました。誰も見ていませんから、お受け取り下さい、と詰め寄った。しかし楊震は、四知を諭して断りました。天知る、地知る、汝知る、私知る。どうして内密であろうかと」
「そうでしたね」
話に脈絡がなさそうなので、孔明は、劉琦の気が触れたのかと訝った。
「いま老師と私は、屋内にいます。すなわち天は、私たちの話すことを知りません。また地からは隔たっています。地の耳にも届きません。老師がどんな助言を下さっても、知るのは私のみです」
「ほお」
孔明は、梯子の計略などには微塵も感心していないが、四知をもじった修辞は上手いと思った。孔明はこういう機転の利いた話が好きだし、宰相の先例として、硬骨な楊震が好きだった。 (劉琦は、微かな扶持でも与えて、心労のない生活でもさせてやれば、あるいは良い文人になるかも知れない)
劉琦にとっての死神は、そう思った。 死神、いや諸葛孔明は、膝を折って劉琦に向き直った。
「そう言えば、江夏太守の席が空いていましたね」
孔明は劉琦に、江夏郡に行けと仄めかしたのだ。
江夏郡とは、荊州の東の端である。揚州の孫権の侵攻をつねに受ける、要衝である。ここを守っていたのは黄祖という老将で、孫権の父を殺した人だ。孫権の度重なる猛攻を受けて、先年ついに敗死した。江夏郡まで行けば、襄陽からは距離が開くから、蔡氏の手は届かない。
劉琦は意味を悟ったが、再び怯えだした。
「江夏郡まで行けば、確かに蔡氏から逃げられる。しかし孫権の兵に脅かされます。助かったことになりません。どうか、他の策を――」
「それは短慮というものですよ、劉琦様」
孔明は太陽のように微笑むと、故事の話をした。晋ノ文公の話だ。 この名君は、管仲が助けた斉ノ桓公の次に、覇者となった人である。若いころ、継母に疎まれて命の危険に晒されたため、国外に逃亡した。おかげで後年に帰国し、君主となれた。対照的に、国内に留まった文公の兄は、危害を加えられた。
「亡命して継母の難を逃れ、明君として返り咲く。これより上の策が、あろうはずがない。劉琦様は、江夏に行って生きるか、襄陽に残って蔡氏に縊り殺されるか、どちらかしかないのです」
無理やりに単純化した2択は、人を誤らせる。だが、自ら作り出した閉塞空間で、劉琦は孔明に圧倒されて、心理的な逃げ場を失った。劉琦の額から、汗が落ちた。
「私はまだ死にたくない。江夏への赴任を、父に願い出る」
「良かった。いまあなたは、寿命を40年延ばしました」
劉琦が戸を開け、梯子を持て、と命じた。身のこなしの軽い男が、陰から梯子を担いで駆けてきた。劉琦と孔明は降りて、外の空気を吸った。
「さあ劉琦様、善は急がれるべきです。あなたの首が胴から離れる前に、一刻も早くです」
孔明が急かすと、劉琦は顔を青くして早足で去った。
「借刀ノ計、とでも言うかな」
孔明は羽扇で口許を隠して、言った。遠ざかる劉琦の背中に、その言葉を贈った。 劉琦は、孫権が殺してくれるだろう。江夏郡は、黄祖のような将軍だったから、20年も保てたのである。劉琦に守れるわけがない。まして孫権は、黄祖を追い落として、江夏を攻めた経験を得た。地の利は、孫権にあると言ってよい。
劉備は手を汚さずに、劉表の嫡男を排除できた――と、少なくとも徐庶と孔明はこのとき疑っていなかった。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反
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