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孔明の転職活動
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第06章 襄陽の城壁/1節
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劉備は、建安13年より、郡臣を集めて会議を持つようにした。 これまでは会議という場は設けられず、酒席でそれとなく情報交換する程度であったが、孔明はそれではいけないと説いた。劉備軍は今後、公的な性格を持った組織に変わらねばならない。そのために、定期に話し合いをするべきだ。議題にすべきことがなければ、議題がないと共有するだけでも有意義だ。 孔明は、それを法とした。ただ深いところでは、孔明が野卑な酒席に毎回出席するのを嫌い、会議を設定したという側面もある。
郡臣が、樊城の広間に集った。 会議は、劉備を中心として、彼の左右に一列ずつ臣下が座る。徐庶と孔明は、劉備のすぐそばで対照に座っている。新参ではあるが、劉備の頭脳として、上座を与えられた。いや、孔明がそのように取り決めた。
「6月、曹操が三公を廃して、丞相に就きました」
諜報を担当する人が、言った。孔明は感動して、身震いした。いよいよか、すごいことだ、と賞賛の声を上げてしまいそうだった。
これまで漢では、人臣の頂点に三公がいた。大尉と司空と司徒だ。彼らは担当領域が違うが、根っこでは牽制しあい、皇帝を助けてきた。だが曹操は、その三公を取りやめて、権限を丞相という位に集中した。官制改革である。そして独裁する宰相の地位に、自らが座った。
(曹操は、伝説の宰相になるための足場を固めた)
孔明は、曹操の志に拍手を贈りたいと思った。1日も早く曹操が主催する朝廷の人事担当に諮問を受けたいが、それは出来ない。いま新しい曹操の本拠地・鄴に出かけても、また門前払いだろう。
(私も丞相になりたい)
孔明は、羽扇で顔を隠した。羽扇は、孔明の神算の象徴として、劉備の幕下に印象付けられている。真実は、嘘が下手な孔明が、企みを隠蔽するための小道具である。
曹操の話題については、発言する人が誰もなく、流れた。孔明は拍子抜けである。この報告に食いつかなくて、どうして天下を伺えようか、と嘆かわしく思う。すなわち、劉備の下の人材は、その程度なのだ。
劉備は面倒くさそうに、「話を次へ」と言った。
情報担当の文官が、竹簡を取り替えて読み上げた。
「襄陽からの報告。劉表様の病が篤いそうです」
座がざわついた。劉備を客将としている劉表が、ついに死ぬらしい。劉表が死ねば、蔡氏の子で次男の劉琮が、荊州を継ぐ。蔡氏は劉備を敵視しているから、劉備は居場所を失う。
徐庶が口を開いた。
「劉備殿、これは好機です。襄陽に参りましょう」
「行ってどうするんだ。見舞いか」
「とんでもない。襄陽の城をもらうのです」
「そんな不義はできない」
古くからの劉備の臣たちは、劉備が徐庶の言を却下すると、そうだそうだと一斉に頷いた。 徐庶は顔を紅くして、泣き叫ぶように反論した。
「いけません、劉備殿。天下を狙えるかどうかの正念場ですぞ。劉表様が危篤だというのは、あるいは虚報かも知れません。故意に死が隠されているのかも知れない。そうでなくても、使者が襄陽と樊城を往復しているうちに、死んだかも知れない」
劉備は徐庶を睨みつけたまま、何も言わない。
「劉備殿には、上中下の3つの道がございます。上案は、次子・劉琮が後継者として荊州牧を自称する前に、襄陽を取ること。劉表様は、折に触れて劉備殿に、荊州を頼むと仰っていました。たとえそれが戯れであろうと、劉表様が死んでしまえば、真意は不明となります。次の荊州牧が公表される前ならば、衆論が納得するかたちで、劉備殿は荊州を継ぐことができます」
劉備は、表情を消している。徐庶が用意した全てを発言するまで、感想を示さないつもりだろう。こういうところが、劉備の度量の大きさだと、孔明は感心している。
「中案は、劉琮が地位を確立した後に、力攻めすること。これは正当性に疑問が残りますし、兵力を損耗します。襄陽は大きな城ですから、我らには落とせないかも知れません。また、曹操に背後を突かれたり、孫権に横槍を入れられる可能性があります」
あちこちから徐庶に向けて、野次が飛んだ。そんなこと出来るか、という内容だ。徐庶を罵倒する声もあった。 彼らは野戦の猛者で、身内だけが分かる呼吸だけを手がかりに、劉備の舵取りに従ってきた。だから、外来の徐庶が述べることが、感覚的に気に食わない。これが劉備軍の結束の強さを生んだし、同時に組織としての成長を止めてきた。 野次がいよいよ大きくなったとき、劉備が叱った。
「お前たち、静かにしねえか。今は徐庶が喋ってるじゃねえか。まず聞こうぜ。さあ徐庶、すまなかった。下案とは何だってんだ」
徐庶は姿勢を正して、再開した。
「下案は、劉琮から樊城を明け渡せと言われて、路頭に迷うこと。そのときは、劉備軍は解散するしかないでしょう。決断が遅ければ遅い分だけ、未来が閉ざされます」
座がしんとした。ろくな考えもなく徐庶に反論をすれば、劉備に叱られるからだ。 静寂を破ったのは、孫乾だった。水鏡のところに迎えに使者として来て、州平と孔明を新野に招いた人だ。
「徐庶殿は、劉琦殿をお忘れではないか。江夏郡におられるはずだ。劉表様のご長子を差し置いて、劉備様が荊州を治めるというのは、どうなのかね」
孫乾は濁りのある眼差しを、徐庶に向けた。徐庶はちらっと孔明に目線を合わせた。
――劉琦がいるのは死地です。孫権にそのうち殺されるでしょう。だから数に入れる必要はありません。
と言ってしまっては、まずいだろう。かと言って、
――そうでございました。失礼しました。次子・劉琮を排除したら、劉琦殿を襄陽にお迎えすれば宜しいですね。
と孫乾に同意してしまえば、劉備の天下取りは遠のく。劉琦はまだ若い。彼に変事が起こることを待っていては、劉備が先に老いに追いつかれてしまう。
徐庶の舌は重くなって、下あごに圧し掛かった。徐庶は、劉備の臣たちを納得させながら、天下に最短で行ける計画を引くことの難しさを感じた。天下を取るだけでも難しいのに、それ以外の難題が多すぎる。
孔明が徐庶を救った。
「孫乾殿は、勘違いをなさっています。私は以前に劉備様に申し上げたことがございますが、州牧の地位は世襲ではありません。中央が任じるものです。漢の先例を見ても、父子で続けて同じ位に就いたことなど、ありません。劉琦殿が継ぐべきだという発想こそ、乱世の産物です。私たちが目指すのは治世。劉表様の亡き後は、適格者である劉備様が荊州を治めるべきです。徐庶の言は、法を踏み外してはいません」
孔明が劉備に荊州を取らせたいのは、劉備が適格者だからである。劉備は7年も荊州にいて、在地豪族と協調してきたから、州牧になる価値がある人材だと、孔明は見ている。対する徐庶は、劉備が自分の主君だからという理由で、荊州を取らせたい。結論は同じだが、主となる理由が違うのである。 孫乾は、孔明があまりに堂々と喋ったので、威圧されて下を向いた。
孔明は続けた。
「私は、徐庶の上案がいいと思います。中案と下案では、一度は劉琮に荊州を与えることとなる。劉琮は蔡氏の言いなりだから、政治に私事を持ち込みすぎます。それが荊州の万民のためになるとは、私には思えません」
孔明の万民という言葉に、劉備は耳を動かした。
劉備は、一同を見渡してから言った。
「俺は、襄陽に劉表殿を見舞おうと思う。世話になった礼を言うんだ。もし劉表殿に万一のことがあれば、俺が荊州を守る」
劉備なりの解釈が加わったが、徐庶の上案が採用されたに等しい。徐庶は、安堵のため息を吐いた。
散会にしようとすると、急使が飛び込んだ。
「宛城に曹操軍が到来。80万だそうです」
報告が響き渡ると、郡臣がばたばたと気絶して倒れた。驚きと畏れのせいである。 宛城は、劉備のいる樊城から目と鼻の先である。劉備たちが気づかないうちに、曹操は南征を開始していて、すでに荊州に入っていた。
「これは、襄陽行きを急がなきゃなんねえな」
劉備は野性の勘を働かせ、言った。大軍の猛威は、目前である。
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このコンテンツの目次
>孔明の転職活動
第01章 許都の冷笑
第02章 汝南の剣客
第03章 新野の孤雲
第04章 隆中の懐思
第05章 樊城の新鋭
第06章 襄陽の城壁
第07章 長坂の財主
第08章 柴桑の謀反
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