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- 第9回 呉志の三嗣主をイフのため折りたたむ
今回のイフ物語により、呉では何が起こるか。
大筋は、三嗣主伝にもとづく。だが、孫権の死後に曹丕が荊州を手に入れるというイフを採用して、歴史が変わってくる。諸葛恪が暗殺を免れ、孫亮が洛陽に出向くという展開を考えたとき、三嗣主伝は、時間を前後させながら、呉主を入れ替えながら展開する。
1年半前に、三嗣主伝を抄訳した。これを引用しながら組み立てる。
『呉書』巻3・三嗣主伝の抄訳;孫亮、孫休、孫晧
イフに分岐するまでの孫亮伝
孫亮は、あざなを子明。孫権の少子である。孫権は高齢で、孫亮が最年少なので、気に入られた。姉の全公主が、かつて太子の孫和の母をそしり、全公主は不安である。孫権が孫亮を気に入るので、全公主は、孫亮と結ぼうと思った。しばしば全尚の娘をほめ、孫権に全尚の娘をすすめ、孫亮の妻にさせた。赤烏13年(250)、孫和が太子を廃され、孫亮がたつ。全尚の娘は、太子妃となる。
史実どおりでOK。全公主、全尚らは、また後日やる。
◆252年
太元元年(251)の夏、孫亮の母・潘氏が皇后となった。同年冬に孫権が寢疾した。大將軍の諸葛恪を徴して、太子太傅とした。會稽太守の滕胤を太常とした。諸葛恪と滕胤に詔し、孫亮を輔けさす。明年4月、孫権が薨じた。孫亮が尊号し、大赦と改元した。この歳は、曹魏の嘉平4年(252)である。
史実どおりでOK。閏月、諸葛恪が太傅となる。滕胤が衞將軍となり尚書事を領する。上大將軍の呂岱を大司馬とする。文官と武官の在職者は、みな爵と賞をもらう。他の官人も等級をあげてもらう。
史実どおりでOK。
冬10月、諸葛恪が軍をひきい、巢湖をふさぎ、東興に築城する。將軍の全端に、東興の西城を守らせる。都尉の留略に、東興の東城を守らせる。
12月ついたち丙申、大風と雷電あり。曹魏は、諸葛誕と胡遵らに歩騎7千をつけ、東興をかこむ。將軍の王昶が南郡をかこむ。毌丘儉が武昌にむかう。12月甲寅、諸葛恪は敵にむかう。12月戊午、東興で交戦して、おおいに諸葛恪が魏軍をやぶる。將軍の韓綜や桓嘉らを殺した。
史実どおりでOK。
この東興の戦役は、『魏志』斉王紀の嘉平4年、そこにひく『漢晋春秋』、『呉志』諸葛恪伝にある。韓綜のことは、呉主伝の黄武6年と、『呉志』韓当伝にある。この月、雷雨があり、落雷により、武昌の端門が火災した。端門を改築した。内殿も落雷で火災した。
裴松之は考える。孫権の赤烏10年、武昌の材瓦をうつして、建康宮を繕治した。だが端門と内殿だけは残っていたのだ。『呉録』はいう。諸葛恪は武昌に遷都したかったから、武昌宮を再建した。いま火災したのは、孫権が残した建材でなく、諸葛恪が新築したものだ。
史実どおりでOK。
◆253年
建興2年(253)、春正月丙寅、全氏を皇后に立てた。大赦した。正月庚午、王昶ら曹魏の全軍が撤退した。2月、呉軍は東興に撤退して、おおいに封賞する。
3月、諸葛恪は軍をひきいて、曹魏を伐つ。夏4月、合肥新城をかこむ。大疫して、兵卒の死者は大半である。秋8月、諸葛恪は軍をひいて還る。
このとき朱績が荊州=江陵を離れる。魏軍は、まんまと江陵を陥落させる。というのが、このイフ物語です。なるべく史実に準拠しながら、歴史が変わり始める。
第7回 孫権の死、諸葛恪による廃帝を参照
冬10月、大饗した。武衞將軍の孫峻が、兵を伏せて殿堂で諸葛恪を殺した。大赦した。孫峻が丞相となり、富春侯となる。
諸葛恪が死なない。諸葛恪は、孫峻を斬り、孫峻に共謀した孫亮をしばりあげ、檻車をつかって寿春に向かわせた。曹魏への降伏の使者である。長沙に幽閉された孫和を呼び出し、かりに建業の主とした。孫和は大いに感謝して、ひきつづき諸葛恪に全権を委ねた。上記 第7回より。
曹丕は、孫亮を帰命侯に封じた。洛陽にひきとめ、厚遇した。また曹丕は、孫和を呉王に封じた。魏の使者が到着するころ、孫和が病没した(253年の死は史実なみ)。諸葛恪は、孫和の長子である12歳の孫晧を立てた。曹丕は追って、孫晧を呉王とした。儀礼や書式は王爵に基づいたが、孫晧の立ち居振る舞いは皇帝のようであり、孫権のときと何も変わることがなかった。
以後、孫亮伝における孫亮(呉主)の役割は、孫晧が果たす。孫亮伝の抄訳を引用しながら、孫亮が主語のところは、呉主=孫晧と読み換える。11月、大鳥が5羽いて、春申に現れた。翌年、改元した。
年末に孫和が死に、すぐに孫晧が踰年改元した。このように、イフ設定への読み換えを、注釈として、ぼくが挿入していきます。
孫晧が呉主になりかわった孫亮伝
◆254年
五鳳元年(254)、夏に大水あり。
趙一清はいう。『晋書』五行志はいう。夏に大水があった。孫亮は即位4年目に、孫権の廟を立てた。孫呉を通じて、祖宗の号をつかわず、厳父の礼を修めなかった。孫呉の儀礼は不備である。孫亮、孫休、孫晧は、南北の二郊を廃した。宗廟と祭祀をやらないから、陰陽がみだれて、孫峻が専政したのだ。
イフの孫晧には、この時点で、孫権と孫和の廟を立ててもらおう。秋、呉侯の孫英が、
孫峻を謀殺しようとした。発覚して、孫英が自殺した。このイフ物語では、諸葛恪を謀殺しようとする。孫峻・孫綝らの権臣は、原則として諸葛恪に読み換えていきます。諸葛恪は、わりに最後まで生き残ってもらう予定。
孫英は、孫登の次子。呉侯に封じられた。司馬の桓慮が、孫峻を謀殺して、孫英を立てようとした。発覚して殺された。孫登伝にひく『呉歴』にある。
@AkaNisin さんはいう。「魏」と「漢中」がなくて「呉侯」がある理由としては、「呉」だけが県単位の地名でもあるからだろうと思います。
このイフ物語では、孫晧が呉王です。「呉」の郡・県レベルの称号の取り合いは、おもしろそう。「呉の四姓」が郡か県か紛らわしいことも含め、「呉」は多重な意味と、分裂の可能性をもつ。冬11月、星茀が、斗や牛にある。
『江表伝』はいう。この歳、交趾で稗草が稻に変化した。史実どおりでOK。
◆255年
五鳳2年(255) 春正月、曹魏の鎮東大将軍の毌丘儉、前將軍の文欽が、淮南の兵をつれ、西に入る。樂嘉で呉軍と戦った。255年、毋丘倹と文欽が寿春で挙兵した。このイフ物語でも、史実なみに司馬師の専横に怒る、という、きわめて順当な理由で挙兵する。 このイフでは、司馬師が洛陽でクーデターを起こして、曹丕を幽閉したところ。司馬師は、曹丕の幽閉を解除せざるを得ず、洛陽をはなれて、寿春に向かう。そして寿春を平定したが、眼病で死ぬ。文欽たちは逃げこむ。すべて史実なみ。 第4回 司馬懿の晩年、師と昭の行方より閏月壬辰、
孫峻(諸葛恪)と、驃騎將軍の呂據、左將軍の留贊が、兵をひきいて寿春をおそう。孫峻(諸葛恪)らが東興にきて、文欽らが呉軍に敗れたと聞いた。壬寅、孫峻(諸葛恪)は橐皋にすすむ。文欽が孫峻(諸葛恪)にくだる。(文欽が孫呉に降ってしまったので、残された魏軍の)淮南の餘衆たる數萬口は、来奔した。諸葛誕が壽春に入ると、孫峻(諸葛恪)は軍を還した。
諸葛恪と諸葛誕は、今後、ながい付き合いをする。往復書簡があってもいいかも知れない。すでに3年前と2年前、戦っている関係だが、いまは友好関係である。
「寿春は私が守るから、諸葛恪は持ち場(建業)に戻られよ」という、諸葛誕からの、命令もしくはアドバイスが、諸葛恪に送られるのだろう。諸葛恪は、
「諸葛誕はナニサマのつもりだ」
と思いながら、曹魏に逆らえないので、長江を南に渡る。「いつか寿春に入城してやろう」と、ひそかに心に誓いながら。
このとき曹丕は、表面上、孫晧を従えている。曹丕を思って挙兵した文欽たちが、孫晧を頼るのは矛盾がない。司馬師が死に、許昌で司馬氏の軍権を曹丕が取りあげる(史実では司馬昭が継承する)。文欽は、孫晧を「支援」するという目的で、孫呉に留まっても良い。いつでも魏国に帰れるような気がするが、史実に揃えるために、孫呉に残ってもらおう。史実では、司馬氏と敵対し、帰るに帰れなかったんだけど。
2月、孫峻(諸葛恪)は、曹魏の將軍・曹珍と、高亭で遭遇して交戰した。曹珍は敗績した。留贊は、諸葛誕の別將・蔣班と戦い、菰陂で敗れた。留賛と、將軍の孫楞や蔣脩らは、みな魏軍に殺害された。
3月、鎭南將軍の朱異に、安豐を襲わせた。勝たず。
イフ物語でも、寿春を去るときに、小競り合いがあっても良いかも知れない。孫晧は、曹丕に屈したとは言え、将軍クラスでは、いまだに納得がいってない。孫呉を独立国として扱いたがり、寿春を欲しがる連中がいるのかも。諸葛恪の葛藤が、そのまま軍令の混乱となり、魏呉が戦ってしまったと。
孫晧からの詫び状がいるなあ!詫び状では、頭を下げながらも、呉帝として天下に君臨することを、まったく諦めていない孫晧。この鬱屈は、いいキャラになる。屈服しつつ抗戦するのは、史実の孫権と同じ。孫権ほどの老獪さがないから、葛藤が表に出てしまう。いいキャラだ。
秋7月、將軍の孫儀、張怡、林恂らが、孫峻(諸葛恪)を謀殺しようとしたが、発覚して死んだ。陽羨の離里山で、大石が自立した。
趙一清はいう。『宋書』五行志にひく『京房易伝』はいう。庶士が天子になる前兆である。山で石が立てば、いまの天子と同姓者が天子となる。平地で石が立てば、異姓者が天子となる。衞尉の馮朝が、廣陵で築城した。
馮朝の子は、馮純である。妃嬪伝の何姫伝にひく『江表伝』にある。胡三省はいう。曹魏の広陵は、郡治が淮陰である。漢代の広陵は、廃されて使えない。 趙一清はいう。孫峻伝はいう。孫峻は広陵に築城したいが、朝臣はムリだと思う。だが朝臣は反対できない。ただ滕胤が孫峻を諫めた。以後、また広陵の場所の話。上海古籍2986頁。將軍の吳穰が廣陵太守となる。留略が東海太守となる。
この歳、大旱あり。12月、太廟をつくる。
『通鑑』はいう。はじめ孫権の太廟をつくらない。孫堅が長沙太守だったから、臨湘に立廟しただけ。長沙太守に孫堅を祭らせた。冬12月、太廟を建業につくった。呉大帝の孫権を、太祖という。胡三省はいう。孫権は父の孫堅を武烈皇帝とした。長沙の郡治は臨湘県である。馮朝を監軍使者として、督徐州諸軍事させる。
諸葛誕は、孫呉が名目上の属国なので、防備を「共同して」やるということで黙認せざるを得ない。曹丕の基本方針は、寛容すぎる懐柔である。諸葛誕が曹丕に、「孫呉が調子に乗って、徐州に進出してますが」と言わせよう。ボケた曹丕は、「許してやれよ」という。諸葛誕は「将来の禍根になる」と予想し、策を練る。後述。民が飢えて、軍士は怨畔した。
◆256年
太平元年(256)春、 2月ついたち、建業で出火した。
孫峻(諸葛誕)は、征北大將軍の文欽の計略をもちい、曹魏を征めようとした。8月、さきに文欽、驃騎将軍の呂據、車騎将軍の劉纂、鎭南将軍の朱異、前將軍の唐咨を、江都から淮泗に入らせる。文欽は諸葛誕と仲が悪いので、孫呉の兵力をつかって、諸葛誕の寿春を奪おうとする。孫晧は、じつは曹魏に従いたくないので、文欽の計略に乗ってやる。という話になる。史実でも、文欽は「曹魏のため」に起兵して司馬師に敗れ、魏将の諸葛誕を攻める。この行動は、史実なみだから、そのまま生かしましょう。
9月丁亥、孫峻が卒した。從弟の偏將軍・孫綝が、侍中、武衞將軍となり、中外諸軍事を領した。呂拠らを召し還した。(呂拠は)孫綝が孫峻に代わったと聞いて、大怒した。
諸葛恪に生き続けてもらうために、この記述はカット。孫峻から孫綝へのバトンタッチはなく、ずっと諸葛恪が失政する。しかし呂拠の怒りは採用したいので、呂拠伝を読んで、このタイミングで怒らせるネタを考えよう。諸葛恪が大病になって、すぐに回復しても良いかも。9月己丑、大司馬の呂岱が卒した。壬辰、太白が南斗を犯した。
呂拠、文欽、唐咨らは「衛将軍の滕胤を丞相とせよ」と推薦した。孫綝(諸葛恪)は聴さず。9月癸卯、「滕胤を大司馬として、呂拠の代わりに武昌に駐屯させよ」と推薦した。呂拠は兵を建業に還して、孫綝(諸葛恪)を討ちたい。孫綝(諸葛恪)は詔書により、「文欽と唐咨は、呂拠を捕らえよ」と命じた。
諸葛恪が強すぎて、呂拠・文欽・唐咨にとって目障りなので、滕胤を推す話がでてきた、というイフのための置き換えで良いでしょう。イフの諸葛恪は、史実の孫綝なみに、政敵を倒す。
諸葛恪は孫晧と蜜月という設定にすれば、諸葛恪の強権は根拠づけられる。臣下から見て、諸葛恪の横暴に見えるところは、じつは孫晧の横暴だった、諸葛恪のおかげで孫晧の強引さが見えにくくなっていた、という話だろうか。諸葛恪と孫晧の関係は、ていねいに描きたい。冬10月丁未、
孫綝(諸葛恪)の命令により、孫憲、丁奉、施寬らが水軍をひきい、江都で呂拠を迎撃する。將軍の劉丞は步騎を督して、滕胤を攻めた。滕胤は敗れ、夷滅された。10月己酉、大赦と改元した。
10月辛亥、呂拠を新州(京口の西の近く)で捕らえた。
11月、孫綝(諸葛恪)が大將軍となり、假節、永康侯に封じられた。諸葛恪は、すでに節も侯爵も持っている。封邑を増やされ、さらに九錫とか、ものすごい特権をもらってしまおうか。孫憲と王惇は、
孫綝(諸葛恪)を殺そうとしたが、発覚して死んだ。12月、五官中郎將の刁玄が、蜀漢に乱を告げにゆく。刁玄は、孫晧伝の建衡3年にある。
ぼくは思う。刁玄が伝えたのは「諸葛恪が呂拠と滕胤を殺した。諸葛恪に味方して、呂拠を殺した孫憲までもが、諸葛恪に叛いた。だから孫憲を殺した」となるか。史実よりは単純になる。
◆257年
太平2年春2月甲寅、大雨と震電あり。2月乙卯、雪がふり大寒あり。
侯康はいう。『晋書』五行志は、この異常気象を、孫綝が孫亮を廃する前兆とする。孫亮は前兆に気づけなかった。これは春秋期の魯陰公と同じである。
このイフ物語では、諸葛恪は、まだ孫晧と仲がよい。
長沙東部都尉を湘東郡として、長沙西部都尉を衡陽郡として、會稽東部都尉を臨海郡として、豫章東部都尉を臨川郡とした。
夏4月、孫亮(孫晧)が正殿にのぞむ。大赦して親政を始めた。孫綝(諸葛恪)の表奏に、孫亮(孫晧)がきつい質問をした。兵の子弟を試験して、15歳から18歳の3千余人を集めた。大將の子弟のうち、年少だが勇力ある者を、將帥とした。孫亮(孫晧)はいう。「私はこの軍を新設した。私とともに成長する」と。苑中で演習した。
孫晧は16歳である。史実の孫亮は15歳で正殿に立ち、イフの孫晧は16歳で立つ。やっぱり15歳という年齢が重要だろうから、この孫亮伝の記事は、イフ物語の孫晧の事績として、前年に繰り上げてもよいかも。
孫晧が厳しい質問をしても、諸葛恪はそれを上回る弁舌で返答した。史実の孫綝のように、「呉主がうざい」と、イライラすることはないだろう。君臣は、いっそう信頼を固めるはずだ。
5月、征東大將軍の諸葛誕が、淮南の衆をつれて、寿春にこもる。將軍の朱成を使わし、孫呉に稱臣して上疏する。子の諸葛靚、長史の吳綱、牙門諸将の子弟を、人質にだす。イフ物語では、司馬昭が史実よりも前倒しして、平蜀を達成するタイミングである。
ぼくが思うに、イフの諸葛誕は、曹丕の寛大さに見切りを付けたのだろう。曹丕は、文化事業に熱中した。司馬師のクーデターがあっても懲りない。孫呉を屈服させると言いながら、孫晧を呉王に封じて、安穏としている。孫晧が国境で不穏な動きをしても、曹丕は攻撃を許可しない。本来であれば、失脚させるべき司馬昭に、長安という活躍の場を与えた。司馬昭が平蜀すると、あろうことか晋公に封じた。
「王者としての寛大さをマネているつもりが、実際は、同姓に厳しすぎ、異姓に優しすぎ、ちっとも天下が統一する気配がない。曹操から最大の勢力を引き継ぎ、呉蜀の混乱という時運にも恵まれた。天下を統一できるだけの状況にありながら、分裂をいたずらに引き延ばす。これなら、孫晧に賭けたほうが、まだマシだ」と。だから孫呉に称臣した。
6月、孫呉は、文欽、唐咨、全端らに歩騎3万をつけ、諸葛誕を救わせる。朱異は虎林から衆をひきい、夏口を襲う。夏口督の孫壹は、曹魏に奔る。
史実では、司馬昭が諸葛誕の平定にくる。史実の副将未満を、イフ物語において、諸葛誕の討伐に向かわせよう。そして、司馬昭がいないから、諸葛誕は防衛に成功する。秋7月、
孫綝(諸葛恪)は衆をひきいて寿春をすくう。鑊里にくる。朱異が夏口からくる。孫綝は、朱異を前部督として、丁奉らと5万をひきいて、寿春の包囲を解かせる。
8月、會稽南部がそむき、会稽南部都尉を殺した。鄱陽と新都で、民が反乱。廷尉の丁密、步兵校尉の鄭冑、將軍の鍾離牧が、軍をひきいて討った。
朱異は軍糧がないから(夏口から)還った。孫綝(諸葛恪)は朱異に大怒した。9月ついたち己巳、朱異を鑊里で殺した。9月辛未、孫綝(諸葛恪)は鑊里から建業に還る。
9月甲申、大赦した。
11月、全緒の子たる全禕と全儀は、母を以て曹魏に奔った。
諸葛誕がそむいて、司馬昭が長安で独立しても、なおも曹魏の徳をしたう人たちがいる。史実なみでも、いいじゃないか。12月、全端と全懌らは、寿春城から
司馬昭に詣でた。曹魏に近い全氏。ぜひとも史実とつじつまを合わせて、諸葛誕の魏からの独立に、リアリティと二面性を与えたい。
◆258年
太元3年春正月、諸葛誕が文欽を殺した。司馬昭は寿春をつぶす。諸葛誕とその左右は戦死した。將吏はすでに司馬昭にくだる。
諸葛誕が、呉の援軍(もとは魏の降将)である文欽を殺すのは、史実なみで良いと思う。しかし司馬昭は、イフでは長安にいるので、諸葛誕が守りきるのだ。魏側の包囲軍の大半が、諸葛誕に降る。秋7月、もと齊王の孫奮を、章安侯に封じた。
州郡に詔して、宮殿の材木を伐らせた。8月から40余日も雨ふらず。孫亮は、孫綝が専恣するから、太常の全尚、將軍の劉丞とともに、孫綝を謀殺しようとした。
孫晧と諸葛恪は、仲がよいという設定。全尚と劉丞だけが、「孫晧に親政をさせろ」と言って、諸葛恪に立ち向かい、敗れるのだろう。9月戊午、
孫綝(諸葛恪)の兵が、全尚をとらえた。孫綝の弟の孫恩が、劉丞を蒼龍門の外で殺した。孫綝は、大臣を宮門に召し、孫亮を会稽王に黜した。孫亮は16歳だった。
このタイミングで、イフ物語では、廃帝が起きない。史実のほうが、読者を置き去りにして、複雑に権力が移り変わりすぎるのだ。史実に文句いっても仕方ないけど。
史実から2年遅くする孫休伝
このイフ物語では、260年(史実で曹髦が殺された年)に、司馬昭が洛陽を攻め、曹丕が鄴県に逃げこむ。これに合わせて、孫晧が諸葛誕の誘いに乗って、寿春に乗りこみ、呉帝を称する。
建業に残された人々は、曹丕を支持する者(魏の封国としての呉を維持したい者)と、曹丕を見限る者(独立した呉を孫晧とともに再び建国したい者)に分裂するでしょう。
建業は、曹丕を支持する者が維持し、孫休を呉王に立てて、曹丕に承認してもらう。史実では、孫休は258年に、孫亮のあとをうけて呉帝となる。イフ物語では、260年に、寿春に行った孫晧を見限る形で、孫休が魏の呉王となる。
きっと孫休を立てたのは、揚州の在地勢力がメインだろう。
というわけで、史書の孫休伝に基づきつつも、孫休を魏の呉王として、史実とは2年遅れで、同じ出来事が起こったことにする。あくまで史書からの変更を最小限にしたいので、基本的には、同じ事件が起こります。
なお孫休が死んだら、史実では孫晧が立つ。イフ物語で、すでに孫晧は外に出ちゃった。だから孫休の望みどおり、太子の孫湾が次の呉王となります。呉王は、有名無実だから、賢明な君主は必要ないのです。
というか、史実なみに孫休が君位にいれば、「曹丕80歳」の266年を迎えてしまう。孫呉は、学問好きの無害な仲間たちを残して、勢力争いとは関係なくなりました、、という結末か。それじゃあ、つまらないので、孫晧に建業を征圧してもらおう。孫休・孫湾の呉国は、どこかのタイミングで、寿春の孫晧に征圧される。まるで、寿春にいる袁術の手先として、孫策が長江以南を平定したように。
ただし、孫策と同じように、揚州の豪族は、イフの孫晧に帰服するわけじゃない。曹魏が南下してこれば、いつでも孫晧を裏切る、潜在的な敵として、息を潜めているに過ぎない。孫晧が瓦解すれば、建業は自然と帰服する。
という設定のもと、孫休伝を読みます。
見極めるポイントは、イフにおいて、臣下のうち、だれが寿春に移り、だれが建業に残るかです。
呉主が孫晧と孫休に分裂した、孫休伝
孫休は、あざなを子烈。孫権の第6子。孫休は13歳のとき、從中書郎の射慈、郎中の盛沖から学問を受けた。
太元二年(252)正月、琅邪王に封じられ、虎林にいる。同年4月、孫権が薨じた。弟の孫亮が皇帝となり、諸葛恪が秉政した。諸王を、長江ぞいの兵馬之地に置きたくないから、孫休は丹楊郡に徙された。丹陽太守の李衡に干渉されたので、孫休は「他郡に移りたい」と上書し、会稽に移る。数年して夢を見た。龍に乗るが、振り返ると尾がなくて驚く夢だ。
孫休が史実どおりでよい。
◆イフ物語の260年
(258年) 孫亮が廃された。9月己未、孫綝は、宗正の孫楷と中書郎の董朝に孫休を迎えさせた。孫休が疑い、孫楷が孫綝の意図を説明した。1日2夜とどまり、ついに会稽を出発した。
これが史実よりも2年遅れて、260年の出来事になる。
イフ物語では、諸葛恪と孫晧が、寿春に移ってしまったので、万彧が孫休を迎えるという話だろう。史実で、孫晧がアホな北伐を計画したとき、万彧が備えた。10月戊寅、曲阿にゆく。老公が叩頭して「天下に変事が起きる。孫休は速くゆけ」という。同日に孫休は布塞亭にゆく。武衞將軍の孫恩は、丞相事を行し、百僚をひきい、乘輿と法駕をもち、永昌亭に孫休を迎える。築宮し武帳を以て便殿とし、御座を設ける。
万彧らは、孫晧が北伐したので、会稽から孫休を迎えて、魏の呉王とする。なんの予約もなく、いきなり孫休を建業に呼び出すのだから、そのときの孫休の混乱は、史実のとおりで良いでしょう。10月己卯、孫休は望便殿にきて留まる。孫楷はさきに孫恩にあう。孫楷が還ると、孫休は輦に乗ってすすむ。羣臣は再拜して、孫休に対して稱臣する。孫休は便殿にのぼり、謙遜して御座につかず、東廂でとまる。戶曹尚書が、御座につけと勧めた。丞相は、璽符を奉る。孫休は三譲し、群臣は三請した。孫休は群臣の要請をうけて、乗輿した。百官は陪位した。
年月の調節は必要だが、260年の出来事として、同じことが起きれば良い。
史実なみに孫峻は死んでいるので、「宗室の権力奪回」のために、孫綝が(万彧と協力して)孫休を迎えたという設定でも良いだろう。建業に残った人たちを、孫綝がいきなり仕切りはじめて、史実なみに反感を買う、という話になる。孫綝は、兵1千を半野におき、道のよこで孫休と会った。孫休は下車して、孫綝に答拜した。同日に孫休は正殿にゆき、大赦と改元をした。 この歳、
曹魏の甘露3年(蜀漢の景耀元年)である。
永安元年、冬10月壬午、孫休は詔した。「德を褒め、功を賞すのは、古今の通義である。大將軍の孫綝を、丞相、荊州牧とし、食邑5県をふやす。
孫綝の現官は、史実と異なって大将軍ではない。しかし、孫綝が孫休を立てた功績を誇って、丞相につくのは、ありかもしれない。孫綝がのし上がるためには、(史実で孫峻が諸葛恪を殺したように)建業に残った、諸葛恪の派閥の人物を、このタイミングで殺す必要があるかも。だれかな。滕胤の扱いを調節しようか。武衞將軍の孫恩を、御史大夫、衞將軍、中軍督とし、県侯に封じる。 威遠將軍の孫拠を、右將軍、県侯とする。偏將軍の孫幹を、雜號將軍、亭侯とする。 長水校尉の張布は、私を輔導したので、輔義將軍、永康侯とする。 董朝は私を迎えてくれたので、郷侯とする」と。
また詔した。「丹陽太守の李衡は、かつて私と対立したから、みずから有司に拘束されたが、斉桓公のバックルを射た管仲の前例もあるのだから、帰郷してよい」と。
10月己丑、孫晧を烏程侯に封じた。孫晧の弟の孫德を錢唐侯に、孫謙を永安侯に封じた。
孫晧は、呉帝になるために寿春に入ったから、このタイミングでは封じられない。孫晧の弟も、きっと寿春に従軍しただろう。寿春で、史実なみの侯爵をもらおう。『江表伝』はいう。群臣は「皇后と太子を立てろ」と上奏するが、孫休は「私は寡徳のくせに、洪業をついだ。即位して日が浅く、私は恩沢をしかない。いそいで皇后と嗣子をおく資格がない」という。有司はきつく勧めたが、孫休は辞した。
史実なみで可。
11月甲午、旋風が4轉5復した。蒙霧が連日である。孫綝は1門から5侯をだし、禁兵を典する。孫休は変事をおそれ、しばしば孫綝の兄弟に賞賜を加える。11月丙申、詔した。「大将軍の孫綝は、霍光より功績がおおきい。私の即位を手伝った者のリストをあげよ。爵位を加えるべき者に、爵位を加えよう」と。
孫綝の誅殺は、史実なみに、孫休の即位直後にやっても良い。もしくは、孫峻-孫綝というラインが、執政するという話を、まるまる欠落させても良い。曹丕80歳のシナリオには、あまり影響しない。いや、揚州の在地勢力は、「孫氏の皇族による権力争いにうんざりした」という、曹魏に降伏する伏線になるから、省くのは惜しいか。イフ物語でも、孫綝に死んでもらおう。戊戌、孫休は詔した。「大將軍の孫綝は、中外諸軍事を掌握して、仕事がおおい。衞將軍、御史大夫の孫恩に、侍中を加える。孫綝と孫恩で、仕事を分担せよ」と。
壬子、詔した。「官吏の家では、兄弟が5人いれば、3人が公務にある。父と兄が中央で、子と弟が郡県で、役務をやる。家事の運営に支障がある。5人兄弟のうち3人が公務にあれば、米税を減らし、軍務を免じる」と。
詔「私の即位に同行し、永昌亭にきた将吏は、爵位1級をくわえる」孫休による、豪族を休ませる政策は、史実なみで。
孫休は、孫綝が逆謀すると聞く。ひそかに張布と、孫綝をのぞく計画をした。12月戊辰、臘=祭祀のとき、孫綝を縛り、同日に誅した。12月己巳、左將軍の張布が姦臣を討ったので、中軍督を加えた。張布の弟・張惇を都亭侯とし、兵3百人をたまう。張惇の弟・張恂を校尉とする。
張布は、建業の降伏まで、重臣でいてもらう。詔した。「古代より建国したら、まず教育を優先した。孫亮が即位した建興より、教育がなおざりだ。学官をおき、五経博士をおく。将吏の子弟のうち学びたい者は、教育を受けろ。1年で試験をしてランクをつけ、官位や賞賜をあげる」と。
晩年の文化皇帝・曹丕と、とても相性がよさそうな性格。孫休は、「洛陽の蔵書が見たいから、洛陽にいこう。韋昭も、劉歆なみの校訂をするには、材料が不足すると行っていたし」とか言って、建業を投げ出すだろう。これは、寿春で寿春が「最終決戦」に敗れた後、臣下に身の振り方を聞かれたときの話。
重臣が、「孫晧が寿春で敗れた今、孫休が呉帝となって、ふたたび建業で独立すれば良いじゃないか」と死んで諫める。しかし孫休は、天下の平和と、自分の学問のために、いそいそと洛陽に出かける。
◆イフ物語の261年
永安2年(259)春正月、震電あり。3月、九卿の官を整備した。詔した。 「武事より文事をやろう。農桑を重んじて、飢餓をふせごう。州郡の吏民、軍営の兵が、本来の職務でないのに、長江に船をうかべて商売をやる。良田はすたれ、穀物はへる。租税が重くて、農民は利益が少ない。いま田地をひらき、賦税をかるくし、耕地の等級ごとに課税しよう。群僚は正しく勤務せよ。前漢の文帝の時代にならぶだろう。最優先は農桑だからね」と。
前漢の文帝を理想とする、曹丕と呼応し始めた。
◆イフ物語の262年
永安3年春3月、西陵から「赤烏がいた」と報告あり。
荊州が曹魏のものだけど、西陵から報告ってくるのかな。これは曹丕のもとに、運ばれるべき報告か。秋、都尉の厳密の議論をもちい、浦里塘をつくる。
会稽郡で謠言があった。「会稽王の孫亮が、天子にもどる」と。孫休が、皇帝にもどるため祈祷するともいう。有司は、孫亮を候官侯にした。赴任させる途中、孫亮は自殺した。 孫亮を護衛する者は、自殺を止められなかったので、罪に伏した。
このイフ物語では、曹丕が洛陽で孫亮を飼っている。曹丕が、わけの分からぬホトケゴコロを発揮して、孫亮を里帰りさせよう。曹丕の寛大さのせいで、建業が混乱するんだよと。
孫亮の使い道は、イフ物語では、もうひと工夫ほしい。宿題。
會稽南部都尉を、建安郡とした。宜都郡をわけて、建平郡をおく。
『呉歴』はいう。この歳、j大鼎が建徳県で得られた。
鼎は天子のしるし。『易』に書いてあった。
◆イフ物語の263年
永安4年(261)夏5月、大雨があり、水泉があふれた。天候に関する記事は、イフ物語でも、2年ずらしたらダメである。ちゃんとイフの261年に、この記事をもどそう。秋8月、光祿大夫の周奕と石偉に詔した。風俗を巡行させ、將吏の清濁を調査させ、民を疾苦させる将吏を黜陟した。
9月、鬱林の郡治たる布山で、白龍がいたと報告あり。この歳、安吳県の民・陳焦が死んだが、埋めて6日で蘇生して、出てきた。
蘇生の話も、史実なみに261年に戻すべきだな。
◆イフ物語の264年
永安5年(262)春2月、白虎門(城の西門)の北樓が災えた。秋7月、始新で「黃龍がいた」と報告あり。
8月壬午、大雨と震電あり。水泉があふれた。8月乙酉、皇后に朱氏を立てる。8月戊子、孫湾を太子とする。大赦した。
冬10月、衞將軍の濮陽興を丞相とする。廷尉の丁密、光祿勳の孟宗を、左右の御史大夫とする。孫休は、丞相の濮陽興、左將軍の張布とは、舊恩があるから政治を委任した。張布は宮省を典した。濮陽興は軍國を関した。
濮陽興は史実なみに丞相となり、張布とともに、建業が降伏するときの重要なメンバーになる。史実では孫晧を迎えることから、降伏のときの身の振り方に、アレンジが必要かも。
孫休は、典籍に銳意である。百家之言を読破したい。
孫休は、博士祭酒の韋曜、博士の盛沖と議論をした。中略。
孫休が王のとき、張布は左右將督であり、信愛された。孫休が皇帝即位すると、国政をかたむけ、無礼がおおい。韋曜や盛沖から、自分の無礼がモレるのを嫌った。孫休は張布の態度をよろこばないが、張布との摩擦をさけ、盛沖と韋曜を遠ざけた。
孫休は、史実なみか、史実以上に、学問をやってもらおう。史実では独立した呉帝だが、イフ物語では、曹丕が封じた呉王である。版図には荊州がない。史実よりも気楽である。この歳、察戦を交趾にゆかせ、孔爵と大豬を調達させた。
◆イフ物語の265年
永安6年(263)夏4月、零陵の治所・泉陵から黃龍がいたと報告あり。
5月、交阯の郡吏・呂興らが反乱する。交趾太守の孫諝を殺す。
これより先に孫諝は、郡内の技術者1千余人を、建業におくった。いま察戦が中央からきて、また技術者が徴発されると思い、呂興は夷族をまねいて反乱した。
冬10月、曹魏が蜀漢を伐つと報告あり。10月癸未、建業の石頭小城で火があり、西南180丈が燃えた。イフ物語では、史実の7年前(だったっけ)に司馬昭が蜀漢を下しているから、この事件はない。というか、イフ物語の7年前の孫呉に、このあたりの反応を置くべきだな。10月甲申、大將軍の丁奉が、諸軍を督して、寿春にむかう。將軍の留平は、わかれて南郡の施績を詣でる。將軍の丁封と孫異は、沔中にゆき、どちらも蜀漢を救いにゆく。進軍の方向を議論した。
劉禅が曹魏に降ったので、進軍をやめる。
イフ物語では、荊州がすでに曹魏のものなので、孫呉による亡蜀への反応は、もっと小さくなる。また考える。
交趾の反乱者の呂興は、交趾太守の孫諝を殺して、曹魏に使者をだして、太守の赴任と援兵を要請する。
丞相の濮陽興は、屯田の1萬人を取りたて、孫呉の中央兵にすることを提案した。武陵を分けて、天門郡をつくれと提案した。
『呉歴』はいう。この歳、青龍が長沙にいた。白燕が慈胡にいた。赤雀が豫章にいた。
◆イフ物語の266年
イフ物語においても曹丕が死ぬ年。史実の孫休は、264年に死ぬ。蜀漢が滅びた重圧で死期を早めたのだろうか。イフ物語では、孫休が洛陽に出かけて、楽しく学問をして終わり、というハッピーエンドとしたい。永安7年(264)春正月、大赦した。2月、鎭軍将軍の陸抗、撫軍将軍の步協、征西將軍の留平、建平太守の盛曼は、蜀漢の巴東守將・羅憲をかこむ。
羅憲には、べつの活躍の場を設定する予定。夏4月、魏將の新附督の王稚が、海路から句章に入り、長吏の賞林と男女2百餘口をうばう。 將軍の孫越は、王稚と戦い、1船と30人を奪回する。
こういう事件は、いちいちイフで取りあげない。秋7月、海賊が海鹽県をやぶり、司塩校尉の駱秀を殺す。中書郎の劉川に、廬陵から兵を徴発させる。豫章の民・張節らが反乱して、1万余人にふくらむ。曹魏は、將軍の胡烈に歩騎2万をつけ、西陵に侵攻させ、羅憲をすくう。陸抗らは軍をひく。
羅憲、陸抗、あたりは荊州で活躍する話をつくろう。交州を分けて、広州をおく。 7月壬午、大赦した。
7月癸未、孫休が薨じた。30歳。景皇帝と諡された。
孫休の死は、イフ物語には出てこない。2代皇帝の曹髦と、楽しい学問の生活をしました、というオチでいいと思う。『江表伝』はいう。孫休は口が聞けないので、手書で丞相の濮陽興をよぶ。濮陽興の手をとり、太子の孫湾を指ささせ、孫湾を託した。
葛洪『抱朴子』はいう。孫呉の景帝のとき、広陵で墓を掘ったら、玉や黄金によって、死後も身体が腐らない人々がでてきた。
孫晧伝については、次で書き換えをしよう。140607閉じる
- 第10回 孫晧伝を書き換え、寿春で称帝させる
第9回につづき、孫呉の話をつくります。
孫晧伝に基づきます。
即位するまで
孫晧は、あざなを元宗という。孫権の孫、孫和の子。1名を彭祖、あざなを晧宗。
孫休が立つと、烏程侯となり、烏程にゆく。西湖の民・景養が「孫晧の人相が貴い」といい、孫晧は喜んでも他言しない。
烏程では、万彧と出会わせねばならない。「孫亮が立つと」に書き換え、万彧が烏程に着任するのも史実より前倒しさせよう。
孫休が死に、蜀漢が滅び、呂興が交趾で叛くから、国内は震懼して、年長の君主を期待する。左典軍の萬彧は、むかし烏程令のとき、孫晧と知りあい、孫策と同類だと思った。万彧は、丞相の濮陽興、左將軍の張布に、孫晧を薦めた。濮陽興と張布は、朱太后の許可をとり、孫晧を迎えた。孫晧が立つとき、
23歳である。改元、大赦した。これは曹魏の咸熙元年である。史実では、264年7月に孫休が死に、孫晧が迎えられる。このイフ物語では、253年に12歳の孫晧を立てる。
孫和が死んで、次の呉主をどうしよう?と迷ったとき、万彧が孫晧を薦め、イフの諸葛恪の気持ちとも一致したので、孫晧が「孫策の再来」を期待して迎えられたと。
ここで、「孫和何姫伝」を参照しておく。ぼくの抄訳がないので、原文を見ながら。
◆孫和何姫伝より
孫和何姬、丹楊句容人也。父遂、本騎士。孫權嘗游幸諸營、而姬觀於道中、權望見異之、命宦者召入、以賜子和。生男、權喜、名之曰彭祖、卽晧也。太子和既廢、後爲南陽王、居長沙。孫亮卽位、孫峻輔政。峻素媚事全主、全主與和母有隙、遂勸峻徙和居新都、遣使賜死。嫡妃張氏、亦自殺。何姬曰「若皆從死、誰當養孤」遂、拊育晧及其三弟。晧卽位、尊和爲昭獻皇帝。孫晧が生まれると、孫権は喜んで「彭祖」と名づけた。父の孫和が廃され、のちに南陽王となり長沙にいた。孫亮が即位すると、孫峻が輔政した。孫峻は、全公主に媚事しており、全公主と孫和母は仲がわるい。ついに孫峻に勧めて、孫和を新都に居らしめて死を賜った。孫和の嫡妃の張氏も自殺した。何姫は、「もしみな死に従えば、誰が孫晧を養育するか」といい、孫晧と3人の弟を養育した。
イフ物語では、足かけ2年(実質1年)で、孫亮・孫峻の時代を終わらせる。しかし、全公主への怨みは、物語の原動力になるので、この期間に達成してもらおう。
吳錄曰。晧初尊和爲昭獻皇帝、俄改曰文皇帝。『呉録』はいう。孫晧は孫和を「昭献皇帝」と追諡しようとしたが、にわかに「文皇帝」と改めた。
ぼくは思う。曹丕が生きているから、「魏文帝」はいない。彼らが最も近くに知る「文皇帝」は、漢文帝だろう。孫晧が曹丕と交渉をもち、曹丕が漢文帝を理想にしていることを知る。孫晧は、「曹丕を父とも思う」という気持ちを表すために、実父の孫和を「文皇帝」にした。とか、どうだろうw
昭献皇帝って、昭烈皇帝の劉備に似てて、ダサい。
何姬爲昭獻皇后、稱升平宮。月餘、進爲皇太后。封弟洪、永平侯。蔣、溧陽侯。植、宣城侯。洪卒、子邈嗣、爲武陵監軍、爲晉所殺。植、官至大司徒。吳末昬亂、何氏驕僭、子弟橫放、百姓患之。故、民譌言「晧久死。立者、何氏子」云。何姫を昭献皇后として、升平宮と称する。月余、進めて皇太后となる。何氏の弟たちを封じる。何植は、官職が大司徒に至る。呉末に昬乱すると、何氏は驕僭となる。子弟が橫放し、百姓は患いた。ゆえに民は「孫晧が死んで久しい。帝位に立つ者は、何氏の子である」とウワサした。
孫晧は、何氏よりは「名君」という前提で、ウワサがある。イフ物語で、何氏がのさばるところまで、描く必要はなかろうか。つぎに裴注『江表伝』で、孫晧が死んだというウワサの話がある。べつに使おう。
◆全氏のこと
全公主(孫権の娘である孫魯班、周循の妻、全琮の妻、孫峻と密通)に連なる人物は、何姫とその子の孫晧と対立する。孫峻と諸葛恪も対立する。ゆえに、史実の孫亮期、孫呉で唯一の外戚として栄える全氏は、イフ物語では活躍の機会を得られない。
史実どおり諸葛誕が寿春で反乱を起こしたら、曹魏に寝返って、諸葛恪・孫晧政権を離脱する。という筋書きでいいだろう。
全氏は、父の全柔が中原から避難してきて、孫策に仕えた。全琮は、避難した人々を経済的に援助して、人望を厚くした。つまり、中原に帰りたい人々が全氏に集いがち。中原に帰る機会があれば、全氏を筆頭にして中原に帰ったという、史実の展開は、わりとアリだと思う。
せっかくなら、史実では外戚の筆頭となる全尚(娘が孫亮の妻)が、諸葛恪と孫晧を殺そうとして、返り討ちにあってほしい。孫峻・孫綝という、史実の宮廷闘争を、ぼくのイフ物語では欠いてしまうので、かわりに全尚が身体を張ってもらおう。史実で全尚は、孫綝を廃そうとする孫亮の計画を、妻(孫綝の従姉)に話してしまう。同じようなウッカリをやらせたい。
◆諸葛恪・孫晧政権の確立
ここで、掲示板に頂いた筋書きを参考に膨らませます。
出遅れた三国好き さんより、緑字にて引用。
魏軍の動きは、べつに考えます。とりあえず、「荊州方面を曹魏に奪われた」という大まかな設定の上に、孫呉のなかで起こることを考えます。
出遅れた三国好きさんの「その2」、「253年の淮南侵攻に乗じて魏が江陵を落とす」パターンより。
253年7月、諸葛恪が史実通り退却。同じ頃、まともな守将のいない江陵も陥落。魏が南郡一帯を制圧します。
8月、諸葛恪が建業に入り、宿衛を変更(史実通り)。さらに諸葛融や陸抗を呼び寄せます。このパターンの問題は「その1」よりも状況が切迫していませんので、魏に臣従への反対意見が強くなるでしょう。
10月、諸葛恪が孫峻を返り討ちにし、孫亮を幽閉。続いて孫和を迎え、孫峻誅殺を布告します。これに地方で全氏一族や朱績が反発、牛渚から尋陽までの江西諸軍が挙兵の兆候を見せます。朝廷では諸葛恪が「孫亮を送って魏に臣従する計画」を進めますが、孫魯班が強行手段に出て孫和暗殺を図ります。(史実でも孫魯班が孫和の死因。)
この後の大まかな筋書き。暗殺は成功しますが、諸葛恪が一旦隠蔽。一方で宮廷内で孫魯班を弑逆の罪で誅殺し、事情を知る滕胤らを焚き付けて臣従計画を強行。翌年頃に「孫和の死」「孫魯班誅殺」「魏への臣従」を公表し、弑逆の罪と魏の外援で全氏一族を脅して抑えます。また残りの江西諸軍は呂岱が抑え、ひとまず諸葛恪・孫晧体制が整います。
ぼくは思う。「孫権の死後、曹魏が荊州を得る」という展開が欲しかっただけで、252年でも253年でも良かった。リアリティの面から、253年という設定をいただきます。また、孫魯班が孫和を殺す話は、いただきます。孫魯班は、諸葛恪によって地方に飛ばされるのでしょう(年は違うが結末は史実なみ)。江西の諸軍については、考えてなかったので、おおむね頂戴しようと思います。
建業と武昌にいる期間
孫晧伝の抄訳にもどり、書き換えつつ、呉のメインストーリーを考えます。
◆イフの254年(上)
元興元年(264)8月、上大將軍の施績、大將軍の丁奉を、左右大司馬とした。張布を驃騎將軍として、侍中を加えた。旧例どおり、それぞれに位を増し、賞を班った。
朱績は、史実では荊州から巴蜀をにらむ。このタイミングで左大司馬とするには早すぎるが、活躍の機会は別につくりたい。
丁奉は、史実では陸凱による孫晧の廃位に、賛同したとも言われる。使い勝手のよい将軍なので、彼も活躍の場を別につくる。朱績と同じく、このタイミングで右大司馬とするには早すぎる。9月、
朱太后をおとしめ、景皇后とした。史実では、孫休の朱皇后(朱拠の娘、生母は孫魯育)をおとしめた。ここで貶めるなら、孫亮の皇后だろう。孫亮の皇后は、史実の253年に立てられた全尚の娘。
史実では朱氏が「我 寡婦人なり。安にか社稷の慮を知らん。苟くも呉国 宗廟を損ずること無く頼有れば、可なり」という。三嗣主伝より。これを全皇后に言わせれば良いのだろう。
史実で全皇后は、一族が曹魏に降ったので権勢を失い、「会々孫綝 亮を廢して会稽王と爲す。後に又 黜せられ候官侯と爲る。夫人 隨ひて国に之き、候官に居す。尚 家属を將ゐ、零陵に徙り、追ひて殺さる」と妃嬪伝にある。これと同じ末路を、全皇后には前倒しで歩んでもらおう。
このイフ物語で、孫亮は洛陽に送られ、帰命侯となる。全氏は、ひそかに脱出して、洛陽で孫亮と再会しても良いかも。全氏が曹魏に降る理由を、孫亮との結びつきに求めたら、史実よりも説明がわかりやすくなる。わかりやすくする必要はないのだが。孫和を文皇帝として、母を何太后とした。
孫和と実母を尊びすぎて、敵対者を増やす孫晧。これでこそ、君主権力の確立である。孫晧らしい。イフ物語では、呉王から呉帝に返り咲く必要がある。『江表伝』孫晧が即位すると、詔した。士民のために倉庫をひらき、宮女を独身者にあたえ、御苑の禽獣をにがした。名君だなあと言われた。
そのまま採用!
10月、太子の孫湾を豫章王に封じ、次子を汝南王、次子を梁王、次子を陳王に封じ、皇后に滕氏を立てた。イフ物語で孫亮は子供たちが出てくるヒマもなく、太子も立ててなかった。史実で、孫休の子たちを始末する記事は、このイフ物語では必要ない。
滕皇后について、列伝で片づけておこう!
◆皇后の滕氏(滕夫人伝の書き下しから)
孫晧の滕夫人は、故太常の(滕)胤の族女なり。胤 夷滅せられ、夫人の父たる(滕)牧、疎遠なるを以て辺郡に徙さる。
このホームページで滕夫人伝をやってないから、いま書き下す。孫休 卽位し、大赦し、還ることを得たり。牧を以て五官中郎と爲す。晧、既に烏程侯に封ぜられ、牧の女を聘し妃と為す。晧 卽位し、立てて皇后と爲し、牧を高密侯に封じ、衞將軍を拜し、錄尚書事せしむ。
滕胤は、史実で孫綝・孫峻とおおきく絡む。イフ物語では、折りたたまれてしまう。滕胤は勢力を持ったまま健在で、外戚として力を持てる。滕胤伝の読み換えは、また別途やります。呂拠も。
孫晧の即位後、皇后の父の滕牧を任用して、録尚書事させる、というのは、イフ物語でも採用したい。ただし、諸葛恪と拮抗して、黙らされるだろう。後に朝士 牧の尊戚なるを以て、頗る推し、諫爭せしむ。而るに夫人の寵 漸く衰へ、晧 滋々悅ばず。
朝臣たちが、滕牧の名を借りて押し上げ、孫晧(+諸葛恪)の君主権力に掣肘を加えようとする。しかし孫晧は、それをウザがり、滕皇后をうとむ。望みどおりの展開w晧の母の何、恆に之を左右とす。又 太史 言はく、運曆に於いて、后 易ふ可からず。晧 巫覡を信じ、故に廢することを得ず。
孫晧が「運暦」を重んじて、うとましい皇后を廃さずにいるのは、すばらしい。孫晧には、袁術ばりに緯書を信じて、光武帝や公孫述のように(時代遅れな)讖緯思想の皇帝になってもらわねば。史実でもそうだし、イフ物語では、その傾向を強めたい。
何氏にだまされている感じがあるが、それも孫晧らしさ。常に升平宮に供養す。牧、遣はせられ蒼梧郡に居す。爵位 奪はざると雖も、其の實は裔なり。遂に道路にて憂死す。
皇后の父・滕牧のような名目だけの男よりも、ぼくのイフ物語では、一族の滕胤の料理のほうが、腕前の見せ所となる。滕牧は、史実なみに遠ざけられて、静かに死んでもらおう。長秋の官僚、員を備ふるのみ。朝賀・表疏を受くること故の如し。而るに晧 内なる諸々の寵姬、皇后の璽紱を佩く者 多し。天紀四年、晧に隨ひて洛陽に遷る。
皇后なみの璽綬をバラまく、無意味なポトラッチは、とても孫晧らしくて良い。老曹丕は、寿春で後漢=袁術の後継者である孫晧を、徹底的に叩き潰すことによって、天下統一を達成する。そういう(ぼくが)胸の熱くなる展開を準備しています。
孫晧に従って、老曹丕の前に引きずり出される滕皇后。いい!江表傳に曰く。晧 又 黃門をして州郡を備行せしめ、將吏の家女を科取す。其の二千石の大臣の子女、皆 歲歲に當りて名を言ひ、年十五六なれば一に簡閱せらる。簡閱して中らざれば、乃ち出嫁することを得たり。後宮 千を數へ、而るに採擇すること無きのみ。
この横暴さも、君主権力らしくていい。寿春に移住したとしても、同じように、周囲から娘狩りをやってほしい。そして、安田二郎氏の論文よろしく、まとめて曹丕に献上する。老曹丕は、その娘たちを家に帰すんだろう。司馬炎は、「結婚戦略」によって、全国の娘を後宮に入れて、天下統一を演出した。しかし老曹丕は、身体的にも元気がないし、第一、そのような派手を好まない。
◆イフの254年(下)
孫晧が皇帝になると、おごって酒色を好んだので、みな失望して、孫晧を選んだことを悔いた。或る者が孫晧にそしったので、11月に濮陽興と張布を誅した。
滕皇后伝から、孫晧伝にもどってきた。濮陽興と張布を、さっさと殺すのは、採用したい。もしくは、張布は、上記のイフの孫休伝に必要なので(建業に残って孫休とともに孫綝を斬る)、濮陽興だけが死んでもらうか。
盧弼はいう。孫晧は張布を誅したのち、また張布の娘を美人とした。妃嬪伝の何姫伝にひく『江表伝』にある。イフでは、張布を殺せないので、孫晧が張布を退けながらも、娘を美人として、、という展開になるだろう。12月、孫休を定陵に葬る。皇后の父・滕牧を高密侯とした。舅の何洪ら3人を列侯とした。
皇后の父、母の一族を厚遇するのは、史実どおり。この歳、曹魏は交趾太守をおき、赴任させる。
『晋書』陶璜伝はいう。孫晧の時、交阯太守の孫諝 貪暴たりて、百姓の患ふ所と為る。會々察戰の鄧荀 至り、擅ままに孔雀三千頭を調し、遣りて秣陵に送る。既に遠役に苦しみ、鹹 乱を為さんと思ふ。郡吏の呂興 諝及び荀を殺し、郡を以て内附す。武帝 興をして安南將軍、交阯太守を拜せしむ。尋て其の功曹の李統の殺す所と為る。帝 更めて建甯の爨穀を以て交阯太守と為す。穀 又 死し、更めて巴西の馬融を遣はして之に代ふ。融 病卒し、南中監軍の霍弋 又 犍為の楊稷を遣はして融に代へ、將軍の毛炅、九真太守の董元、牙門の孟幹、孟通、李松、王業、爨能らと与に、蜀より交阯に出づ。吳軍を古城に破り、大都督の修則、交州刺史の劉俊を斬る。
ぼくは思う。イフで曹丕は荊州を制したので、零陵から南下して、交州に手を出す。交州でも、魏呉蜀の三国が争わねばならない。イフの250年代後半は、曹魏が派遣した交州刺史が、徐々に勢力を伸ばす時代であるべきだ。きっと蜀漢が司馬氏に滅ぼされたタイミングに、曹魏の交州刺史が押し切るのだろう。また別途。
『華陽国志』4はいう。霍弋は上表して、爨穀を交趾太守とした。泰始元年、爨穀は郡にいたり、なつけて初めて曹魏に付かせる。すぐに爨穀は卒した。西晋は、馬忠の子・馬融を、爨穀の後任とした。馬融が卒すと、犍為の楊稷が代わった。 盧弼はいう。『晋書』『華陽国志』によると、いま『呉志』孫晧伝で交趾太守をおいて郡に赴任させたというのは、爨谷である。蜀方面を経由して、交趾に入ったのだ。司馬昭は相国となる。司馬昭は曹丕は、寿春で孫呉から曹魏に降った徐紹、孫彧に文書を持たせ、孫晧に諭した。
裴注『漢晋春秋』で、司馬昭の文書を載せる。このお手紙を、曹丕が書いた内容にアレンジしたら楽しい。いま孫晧伝の裴注から引用することは避ける。長いし。
『晋書』孫楚伝にある、司馬昭から孫晧への文書と、裴注『漢晋春秋』は異なる。『晋書』孫楚伝も見るように!
盧弼はいう。孫楚伝で、将軍の石苞が、孫楚に文書を孫晧あての文書を作らせた。これは石苞が依頼者であり、司馬昭の代筆でない。『文選』にも同文がのる。潘眉は誤りである。
盧弼はいう。『晋書』荀勗伝によると、ときに司馬昭は孫晧への文書を、荀勗に書かせた。司馬昭は荀勗に「きみの文書は、孫晧の心を解かした。10万の軍に勝る」という。代筆者は荀勗であり、潘眉は誤りである。司馬昭が荀勗に書かせた文書はおだやかで、石苞が孫楚に書かせた文書は憤激する。前者が届き、後者が届かなかったのは、内容のタッチによるか。
ぼくは思う。イフ物語で、強大な曹丕が残っているとき、晋呉の関係がどうなるか。これは宿題だな。
◆イフの255年
甘露元年(265)、3月、孫晧は、徐紹と万彧を曹魏にゆかせ、司馬昭曹丕に返書した。「連絡が通じて嬉しい。光祿大夫の紀陟、五官中郎將の弘璆をつかわし、私の意思を伝える」と。裴注『江表伝』、『呉録』ははぶく。『呉録』は紀陟伝なので。
曹丕と孫晧の文通は、ねっとり描きたい。徐紹は、濡須で召し還され、殺された。家族は建安に徙された。「徐紹が曹魏を称美する」いう者があるからだ。
裴注『呉録』はいう。孫晧は諸父のうち、孫和の関係者を東冶にうつす。ただ紀陟だけは密旨があり、とくに子の紀浮を都亭侯に封じた。紀浮の弟は、紀瞻といい、西晋で驃騎将軍となる。弘璆は曲阿の人、弘咨の孫で、孫権の外甥(正しくは外孫)である。弘璆は中書令、太子少傅となる。
諸葛瑾伝はいう。弘咨は孫権の姉婿である。趙一清はいう。弘璆がもし孫権の外甥なら、弘璆は弘咨の子であるはずだ。盧弼はいう。「外孫」が正しいね。
ぼくは思う。やがて中原で官職を得る、紀氏と弘氏は、曹丕に感化されて、やがて曹魏に帰順するという設定でいいと思う。干宝『晋紀』はいう。紀陟と弘璆が、曹魏にゆく。発言を諱むべき字と、風俗をきく。寿春の守将・王布 が騎射を見せて、「孫呉の人もできるか」という。紀陟は「君子は騎射などしない」と、やりこめる。
『周礼』地官の保氏はいう。騎射は六芸に含まれる。『礼記』射義もある。盧弼はいう。騎射も儒教のりっぱな科目なのに、紀陟は騎射を野蛮な武人のスキルだと思った。紀陟は、”礼”を分かっていない。
魏帝の曹奐が「孫晧はどんなふうか」という。紀陟は「軒に臨んで、百官と交流してる」という。
司馬昭が、孫呉の使者を饗応して、「あれが安楽公の劉禅、あれが匈奴の単于」と説明した。紀陟「劉禅を礼遇する、曹魏はすごいなあ」と。司馬昭「孫呉の防備は」、紀陟「西陵から江都まで5700里」、司馬昭「長距離を守れないのでは」、紀陟「守るべき要所は4つに過ぎない。8尺の人体でも、風邪の侵入を防ぐには4箇所だけ守ればよい」と。司馬昭は礼を厚くした。
劉禅の降伏は、このイフ物語で、もうちょっと後。「あれが安楽公、あれが阿多多羅山」は名場面なので、イフ物語でも、年数をズラして挿入したい。
夏4月、孫権の蔣陵に、甘露が降ると報告あり。改年、大赦した。 秋7月、孫晧は景后の朱氏に迫って殺した。朱皇后は正殿で死なず、葬礼が苑中の小屋で行われた。朱皇后が孫晧に殺されたと感知し、みな痛切した。孫休の4子を、呉郡の小城におき、年長2子を殺した。9月、西陵督の步闡から上表があり、武昌に遷都する。御史大夫の丁固、右將軍の諸葛靚が、建業に鎮する。
西陵督が歩闡なのか(イフ物語で荊州を誰に守らせるか)は、また別に考える。諸葛誕の乱は、史実なみにイフの257年に起こさせるので、まだ諸葛靚は孫呉にいない。など人物には置き換えが必要だが、武昌の遷都は、イフでも孫晧にやらせたい。
諸葛靚は、諸葛誕の小子である。『魏志』諸葛誕伝にある。注引『晋紀』にある。 ぼくは思う。史実の諸葛恪も、建業より武昌に遷都したがった。武昌は、孫権が皇帝即位した場所。呉という国号だから、いちおう建業にいるが、王朝の権威を高めたければ、武昌にゆくのが宜しい。また地理的にも、武昌は領域の中心にちかい。
このイフでは、孫晧が呉主で、諸葛恪も健在なので、余裕で武昌に移る。
紀陟と徐璆が洛陽につくと、
たまたま司馬昭が崩じた。11月、紀陟らが還った。孫晧は武昌にきて、大赦した。零陵南部都尉を、 始安郡とした。桂陽南部都尉を始興郡とした。12月、西晋が受禅した。
荊州南部に郡をつくるなど、細かい話はいらん。
◆イフの256年(→イフの260年)
宝鼎元年(266)正月、大鴻臚の張儼、五官中郎將の丁忠をやり、晉文帝を弔祭させる。洛陽から還る途中で、張𠑊は病死した。丁忠は孫晧にいう。「西晋は防備があまい。弋陽を襲えばとれる」と。
イフでは司馬昭が死なないのだが。曹魏の皇族をこのタイミングで殺し、「弔問」に行かせ、丁忠にこのセリフを言わせたい。鎭西大將軍の陸凱はいう。「三国が鼎立して、1年も戦役がない歳がない。いま
西晋曹魏が使者を交換するのは(防備があまくなって)孫呉に救援を求めるからでない。手を出すな」と。陸凱は、イフでも孫晧のそばにいて、しっかり諫めてもらう。車騎將軍の劉纂はいう。「手段は使い尽くせばよい。とにかく
西晋曹魏の防備を探ってみては」と。孫晧は探りたいが、西晋は蜀漢を併合して強くなったことは分かっており、西晋を探らないで終わった。
イフで、曹丕が鄴県に撤退するイフの260年に、この応酬を入れるか!史実では魏晋革命により、中原が揺らいだのでは?と、孫晧が探りを入れた。イフでは、魏晋が洛陽で戦ったことにより、中原が揺らいだのでは?と、孫晧が期待をする。
◆イフの256年
8月、大鼎がでたと報告があるので、改年と大赦した。陸凱を左丞相、常侍の萬彧を右丞相とした。瑞祥は、もっとほしい!施但は、孫晧の庶弟・永安侯の孫謙をおどして、烏程にゆかせる。孫謙の父・孫和の陵上にある、鼓吹と曲蓋をうばう。孫謙をつれた施但が、建業にきたとき、1万余人となる。丁固と諸葛靚は、牛屯で迎撃した。施但は敗走して、孫謙は自殺した。
孫晧が武昌にいるあいだに、建業がお留守になって、衝突する。という逸話が、かるく挿入されても良いかも。イフ物語で、だれに建業を守らせるか、というのがカギになる。てきとうに人選せねば。
この事件は、『呉志』孫和伝にひく『呉歴』にある。
『漢晋春秋』はいう。望気者は、荊州の王気が、揚州を征圧するという。孫晧が、施但と庶弟の孫謙を征圧したことにあり、望気者の言うとおりになった。孫晧は喜んだ。盧弼はいう。孫晧の喜びは、児戯じゃ。ぼくは思う。孫晧の喜びこそキャラ立ちじゃ。
12月、孫晧は建業に還都する。衞將軍の滕牧が、武昌を留鎮する。
ぼくは思う。イフの256年でも12月に還都しよう。
◆イフの257年
宝鼎2年(267)春、大赦した。右丞相の萬彧が、長江をのぼって巴丘に鎮する。夏6月、顯明宮を新築した。冬12月、孫晧は顕明宮にうつる。
『太康三年地記』はいう。孫呉には、孫権がつくった太初宮、四方3百丈があった。いま孫晧がつくった昭明宮は、四方5百丈あった。司馬昭を諱んで、顕明宮という。『呉歴』はいう。顕明宮は、太初宮の東にあった。
『江表伝』はいう。孫晧の新築のため、二千石より以下、みな入山して、材木の伐採を監督した。工事と費用が膨大なので、陸凱が諫めたが、孫晧は従わず。華覈も上疏した。『呉志』華覈伝にある。
ぼくは思う。この宮殿造営は、是非ともイフでもやってもらおう!
◆イフの258年
宝鼎3年(268)春2月、左御史大夫の丁固を司徒、右御史大夫の孟仁を司空とした。呉末の人事は、また今度。主要な臣下の列伝を書き換えねばならん。秋9月、孫晧は東関にでる。
ぼくは思う。史実の258年正月、諸葛誕は寿春に籠城しており、2月に寿春が陥落する。しかしイフでは、孫晧の「北伐」と、諸葛誕の起兵を結びつけ、諸葛誕に勝たせる。諸葛誕は、イフの260年、孫晧を寿春に迎え入れる。諸葛恪と諸葛誕が、寿春の城内で合流する。諸葛誕の子・諸葛靚が呉臣になるくらいだから、老曹丕を嫌った諸葛誕が、孫呉と結合することもあり得るだろう。
イフの孫晧は、昭明宮を建業につくりながら、諸葛誕の起兵を聞いたら、「中原に進出するチャンス!」と考え、諸葛恪とともに北伐するのだ。
丁奉は合肥にいたる。
『晋書』武帝紀はいう。泰始4年11月、丁奉が芍陂にでる。安東将軍の司馬駿と、司馬望が丁奉を撃って走らせた。『晋書校文』はいう。晋軍は芍陂を救えなかったが、丁奉は退いた。『晋書』司馬望伝にある。司馬駿の戦勝はウソである。
盧弼はいう。『呉志』丁奉伝では、丁奉は、晋将の石苞に文書を与えた。石苞は中央に召還された。ぼくは思う。『通鑑』でも、石苞が孫呉との内通を疑われて、任地を離れる話があった。
イフ物語では、孫晧と諸葛誕が寿春に入るいっぽうで、丁奉が芍陂にでる。史実で、丁奉が司馬駿を倒し、かつ石苞を前線から外すことに成功している。孫呉が勝ち進んでもいいだろう。
この歳、交州刺史の劉俊、前部督の脩則らは、交趾に入って撃つ。晋将の毛炅らに破られて死んだ。呉兵は散って、合浦に還る。
趙一清はいう。『晋書』武帝紀では、呉将の顧容が鬱林を寇して、西晋の鬱林太守の毛炅が顧容をやぶる。毛炅は、交州刺史の劉俊、将軍の脩則を斬る。『晋書』顧和伝はいう。顧和の祖父の顧容は、孫呉の荊州刺史だった。 『読史挙正』はいう。『晋書』陶璜伝によると、交趾太守の楊稷、将軍の毛炅らは、交趾にでて、孫呉の古城を破り、劉俊と脩則を斬る。『通鑑』もおなじ。劉俊、脩則、顧容の3人は、交趾を攻めた。楊稷が3人を防いで破る。鬱林、九真も楊稷につく。楊稷は、毛炅と董元に合浦を攻めさせ、古城で戦い、脩則を殺す。楊稷は上表して、毛炅を鬱林太守とする。董元を九真太守とする。脩則が死んだのは、合浦であり鬱林でない。顧容が鬱林を攻めたのは、このときでない。毛炅はまだ太守でない。
ぼくは思う。イフにおいて、交州を曹魏が抑えて、南方の交易ルートを確保する。文化狂いの皇帝・曹丕としては、交州に注力した結果だと。
盧弼はいう。『晋書』武帝紀はいう。泰始4年冬10月、呉将の施績が江夏に入り、万彧は襄陽を寇した。太尉の司馬望が龍陂に屯し、荊州刺史の胡烈が万彧をやぶった。『呉志』に載らない!
ぼくは思う。イフの荊州の戦いは、また後日書きます。
◆イフの259年
建衡元年(269)春正月、孫瑾を太子に立てる。ほかの子を、淮陽王と東平王に封じる。冬10月、建衡と改年し、大赦した。11月、左丞相の陸凱が卒した。
陸凱は、孫晧が称帝を希望して、それに文字通り死ぬほど反対して、史実以上に、悲壮な死に方をしてもらおう。監軍の虞汜、威南將軍の薛珝、蒼梧太守の陶璜を、荊州にゆかせる。監軍の李勖、督軍の徐存を、建安から海路にゆかせる。2路から合浦にゆき、晋軍のいる交趾を撃つ。
孫晧が交州を曹魏から奪おうとするが、とことん裏目にでて兵力を失う、、という大きな傾向だけ描ければ充分。固有名詞は、イフ物語を繁雑にする。
◆イフの260年
建衡2年(270)春、趙一清はいう。『歴代帝紀』によると、孫呉の建衡2年、神人が白鹿に載って、神人山(武昌県)から出てきた。ぼくは思う。イフでも、瑞祥が起きてもらおう。でも、史実では曹魏が滅びたので、つぎの金徳(白色)を意識しているが、ここは黄鹿であるべきだな。
『晋書』武帝紀はいう。泰始6年春正月、呉将の丁奉が渦口に入る。揚州刺史の牽宏がやぶる。『晋書校文』はいう。丁奉が攻めたのは、この歳でない。孫晧伝にも記述がない。ただ丁奉は、前年に西晋の穀陽を攻めた。
盧弼はいう。『通鑑考異』はいう。『呉志』丁奉伝では、建興元年に、西晋の穀陽を攻める。『晋書』本紀に載らない。丁奉伝では渦口に入ると書かない。分からない。
ぼくは思う。イフ物語では、丁奉は寿春の外で、暴れてもらおう。孫呉の揚州方面から食い込む戦いは、みんな丁奉の功績として単純化しよう。
萬彧は、巴丘から建業に還る。李勖は、建安からの海路で交趾に行けないので、道案内する馮斐を殺して還る。
3月、天火により、1万余家が焼け、7百人が死んだ。
夏4月、左大司馬の施績が卒した。
陸抗伝はいう。施績が卒すと、陸抗は、信陵、西陵、夷道、楽郷、公安の諸軍事を都督した。
ぼくは思う。朱績は、イフのタイムテーブルに乗って移動し、史実よりも10年早く死んでもらいたい。荊州を失陥した責任を、ねちねち孫晧に責められて、死期を速めるとか。陸抗は、イフの260年に着任してもらう。
ぼくの構想では、夷陵=西陵には、蜀漢の残滓である羅憲がいて、江陵では羊祜が魏将として留まり(晋につかず)、何らかの運命のいたずらにより、陸抗が羊祜の副将として統治する、、という場面を描きたい。もしくは、陸抗に武昌を任せて、史実どおりの「隣国の名将同士」を演じてもらうか。ともあれ、荊州で三国鼎立させたい。
魏将として江陵に着任したものの、曹丕が鄴県に撤退したので、劉表のように半自立した羊祜。それでも魏将としての節度を守る。呉将として武昌にいるものの、やがて孫晧が寿春で暴走して、建業の孫休と並立して孫呉が混乱するので、その混乱が荊州に流入しないように、抑えとなる陸抗。長安の司馬昭から、揺さぶられて、、北方から晋軍が入り、羅憲・羅尚は晋になびきつつ、、とかいう話をまた後日考えます。荊州・交州篇で、1回分やらねば。
殿中の列將・何定はいう。「少府の李勖は、交趾を攻めるべきを、馮斐を枉殺して帰還した」と。李勖と徐存の家属は、みな伏誅した。
交州に執着する孫晧は、ざっくり因数分解をして、単純化すれば充分だろう。秋9月、何定は将兵5千をひきい、夏口にさかのぼり、校猟をする。都督の孫秀が、西晋に奔った。
孫秀は、孫権の弟・孫匡の孫である。孫匡伝にある。
ぼくは思う。孫秀がくだる相手は、荊州の魏軍・羊祜になるだろう。
諸葛誕に誘われ寿春で称帝する
◆イフの261年
建衡3年(271)春正月つごもり、孫晧は大衆をあげて、華里にでる。イフでは、寿春の入城をもって、適当に改元して、曹魏の呉王から、呉帝に復帰する。いっぽうで建業にのこった慎重派たちは、会稽から孫休を迎える。このページの上部の第9回の「イフ物語の260年」孫休伝が並行する。
史実258年=イフ258年魏軍を退けた諸葛誕が、孫晧をかつぐ。
胡三省はいう。華里は、建業の西である。 『晋書』武帝紀はいう。泰始7年3月、孫晧は寿陽にゆく。大司馬の司馬望は、淮北で孫晧をふせぐ。3月、孫秀の部将・何崇が、5千をひきいて来降する。孫晧の母も妃妾も、みな同行する。東觀令の華覈が、かたく諫めたので
還る。『通鑑』では、華覈が諫めたけれど、孫晧は還ってくれない。華覈伝をみて、答弁を膨らませながら、孫晧が還らないという結末にする。『江表伝』はいう。はじめ丹陽の刁玄は、蜀漢に使者する。
刁玄が蜀漢にいったのは、孫亮伝の太平2(253)年。刁玄は『呉志』孫登伝にある。ぼくは思う。イフでも、史実と同じく、253年に刁玄をお使いさせよう。むしろ、イフ物語の最重要な伏線だから、きちんと253年にこの問答を収録すべきだ。刁玄は、司馬徽と劉廙と、運命と曆數のことを議論できた。刁玄はこのときの議論を持ち帰り、「荊揚の君が天下をとる」という。、「寿春の城下で、孫呉の天子がのぼると童謡がある」という。孫晧は「天命だ」と喜び、後宮の数千をつれて、牛渚から陸路で西する。「洛陽にわたしの青蓋が入る」という。大雪で進めない。
呉兵が「もし晋軍に遭遇したら、わたしは呉軍を攻める」といい、孫晧に叛きそうなので、建業に還った。
孫晧が一流の演説をやり、また諸葛誕からの迎えもあり、堂々と寿春に入城するのだ。この歳、虞汜と陶璜らは、
西晋の交趾をやぶる。西晋の守将をとらえる。九真、日南は、どちらも孫呉に属した。
呉軍が交趾を破ったものの、孫晧が北に目を向けてしまい、また曹丕が交易ルートに熱心なことから、呉軍による占領は長続きしない。というイフ物語でよいと思う。右大司馬の丁奉が卒した。司空の孟仁が卒した。西苑から「鳳凰がつどう」と報告あり。翌年、鳳凰と改元する。史実なみなら、丁奉はあと10年生きられる。イフ物語の最後まで、生き残ってもらおう。もしくは寿春の最終決戦で死んでもらおう。
◆イフの262年
鳳皇元年(272)、イフでは、寿春で踰年改元したのだ。秋8月、西陵督の步闡を徴した。歩闡を応じず、西陵の城ごと西晋にくだる。楽郷都督の陸抗が、歩闡をくだす。歩闡と数十人は、夷三族された。孫晧は、大赦した。
イフでは、江陵が曹魏に奪われているので、繰り下げて、歩闡・陸抗の任地を東寄りに設定しなければならない。ともあれ、史実よりは10年早めて、歩闡が曹魏にくだり、陸抗が切り捨てるという話しがほしい。
楽郷について。『晋書』杜預伝はいう。太康元年、杜預は奇兵8百で、楽郷を夜襲した。旗幟をたて、巴山に火をたく。孫呉の楽郷督の孫歆は、江陵督の任延に文書を与えた。晋軍がきたから長江をすぐに渡れと。
あとで孫晧伝にひく『晋紀』で、陸抗が勝つと、孫晧は天下統一を占わせる。この歳、右丞相の萬彧が、譴責され憂死した。その子弟は、廬陵に徙された。
万彧は、イフの262年に死ねば良いだろう。官職は、もうちょい低めに設定すべきだが。万彧は、寿春に従軍したんだろう。『江表伝』孫晧が華里にゆくと、万彧、丁奉、留平は密謀した。「この北行は、緊急性がない。もし孫晧が、華里より先に進むなら、社稷のために(孫晧をかってに北行させて)私たちは、建業に帰ろう」と。孫晧は、万彧と留平に飲ませた。2人とも毒殺を免れたが、自殺した。
万彧と留平が、寿春ゆきに反対する。これはイフでも使える。そしてイフでは、寿春ゆきが成就するのだから、万彧と留平は死んでもらわねば。
趙一清はいう。陸凱伝にひく『呉録』で、留平と丁奉は仲が悪い。いっしょに密謀しない。『江表伝』はウソである。
盧弼はいう。陸凱伝にひく『呉録』がいうのは、宝鼎元年(266)、孫晧が謁廟したときだ。孫晧伝にひく『江表伝』がいうのは、いま建衡3年(271)、孫晧が華里にときだ。前者は陸凱が首謀で、後者は万彧が首謀で、丁奉と留平が共謀だ。『通鑑考異』はいう。陸凱は忠臣だから、前者のように孫晧を裏切らない。まして孫晧は残酷で猜疑し、留平は庸人である。留平が陸凱の謀略を聞いたら、漏洩させてしまう。ただ陸凱の家属を建安に徙し、万彧の子弟を廬陵に徙したというのは、似ている。前者と後者が、混同されたか。
何定は、姦穢がバレて、伏誅した。孫晧は、何定の悪事が、張布の悪事と似ているので「何布」と追って改名させた。
外戚の腐敗。いかにも後漢なみの皇帝権力!『江表伝』はいう。何定は汝南の人。もとは孫権の給使で、のちに出て吏となる。君主に媚びる。孫晧は何定を樓下都尉として、酒食の購買をした。何定の子に、少府の李勖の娘を嫁がせたいが、李勖が許さないので、孫晧に李勖を殺させ、死体を焼いた。
イヌを買いつけ、価格が高騰した。イヌ1匹を、兵1人がみた。イヌのエサのため、ウサギが乱獲された。経済の混乱は、みな何定が原因と思われた。だが孫晧は、何定を列侯とした。
『呉志』陸凱伝で、陸凱が何定をとがめる。賀邵伝で、賀邵も何定をとがめる。
◆イフの263年
鳳凰2年(273)春3月、陸抗を大司馬とした。司徒の丁固が卒した。。『晋書』武帝紀はいう。泰始9年7月、呉将の魯淑が、弋陽を囲んだ。征虜将軍の王渾が、魯淑を撃破した。この勝利は王渾伝にもある。秋9月、淮陽王を魯王に、東平王を齊王に、改封した。また、陳留王、章陵王ら9王を封じて、全部で11王とする。王には兵3千を給う。大赦した。
孫晧の愛妾が、人をつかい、市場で百姓の財物を奪わせた。司市中郎將の陳声が、愛妾を取り締まったので、孫晧が怒って、陳声の首級を焼鋸できり、身体を四望山にバラした。このあたりから、史実の孫晧を圧縮して、孫晧らしいエピソードを詰めこまねば。イフの265年に、孫呉は寿春で決戦して、滅亡するので。鳳凰3年(274)、會稽で妖言がある。「章安侯の孫奮が、天子になる」という。
太平3年、もと斉王の孫奮を、章安侯とした。孫亮伝にある。章安は、『呉志』孫権伝の黄武4年にある。孫奮は、孫権の第5子である。ぼくは思う。孫晧のおじ。秋7月、使者25人をつかわし、州郡にゆき、亡叛する者に刑罰を科した。大司馬の陸抗が、卒した。改元してから今年まで、大疫がつづく。
陸抗は、イフの263年に死んでもらい、荊州のバランスを崩そう。はじめ孫晧は、曹魏の藩王となり、江陵を曹魏に奪われつつも、武昌で強めに魏軍を押し返していた。しかし陸抗がいなくなり、曹魏との信頼関係やバランスが解除された。
◆イフの264年
天冊元年(275)、呉郡で銀が掘り出され、年月などが刻まれる。天冊元年と改元した。
『晋書』武帝紀はいう。咸寧元年6月、呉人が江夏を寇した。天璽元年(276)、呉郡で「臨平湖は漢末に草穢で塞がれたが、開通した」と報告あり。天下が平らぐサインである。また臨平の湖辺で「皇帝」と刻んだ小石が出てきた。改元、大赦。天璽元年と改元した。
會稽太守の車浚、湘東太守の張詠は、税額の算出が正しくないので、斬られて、首級が諸郡をまわされた。
『江表伝』はいう。車浚は、飢饉のとき民に穀物を貸した。孫晧は、車浚が私恩をたてたとして、車浚を梟首した。尚書の熊睦は、孫晧の酷虐を諫めたが、完膚なきまで、刀環で叩き殺された。
孫晧の末期をよく表すエピソード。使いたい。秋8月、京下督の孫楷が西晋にくだる。
鄱陽から「歷陽の山石に、呉楚を祝う20字がでた」と報告あり。 呉興山の陽羨山にも、祥瑞がでた。司徒の董朝、兼太常の周處は、陽羨県にゆき、國山を封襌する。明年に天紀と改元、大赦した。改元は、石に現れた文字に合わせたものだ。
史実を圧縮して、1年に3回、改元させよう。史実では1年に1回、3年連続での改元だが。思えば、後漢末の189年は、中平にもどすことを含めると、4回も改元したし、ありだろう。後漢=袁術型の極致が、イフの孫晧だから。天紀元年夏、夏口督の孫慎は、江夏と汝南に出て、居民を焼略した。
夏口は孫呉の勢力範囲。まだ中原に脅威を与えられる。この史実を、イフでは引き継ぐ。荊州のどこまで曹魏に浸食されたか、くわしく定めないと。
孫慎のことは、孫桓伝にひく『呉書』にある。『晋書』武帝紀はいう。咸寧3年夏5月、呉将の邵凱と夏祥は、7千余人をひきいて来降する。12月、呉将の孫慎が、江夏と汝南に入り、1千余家を略して去る。これだ! 『通鑑』も同じだ。
胡三省はいう。江夏郡は荊州に属する。汝南郡は豫州に属する。両者はとおい。沈約『宋書』はいう。江夏太守は汝南県を治所とする。もとは沙羨を治所としたが、西晋末に汝南の郡民が夏口にながれこみ、汝南を立てた。すなわち江夏は、まだ汝南県を郡治としない。後世の地名を、史書が反映したから、距離感がおかしくなった。
『晋書』羊祜伝はいう。呉人は、弋陽と江夏を寇して、戸口を略した。詔して「羊祜はなぜ呉軍を追撃しないか」となじる。羊祜はいう。「江夏は襄陽から8百里ある。呉軍の侵攻を知ってから動いても、間に合わない」と。
ぼくのイフ設定では、羊祜は襄陽ではなく、江陵にいる。セリフを変えないとな。孫呉の最後の悪あがきの攻勢だから、イフでも扱いたい。
◆イフの265年=滅呉の年
天紀2年秋7月、成紀王、宣威王ら、11王を立てた。王たちは兵3千を給う。 大赦した。
『通鑑』はいう。呉人は、皖城で大いに佃し、入寇をはかる。都督揚州諸軍事の王渾は、揚州刺史の應綽に皖城のもとを攻めさせ、5千級を斬り、穀物の備蓄180余万斛を焼く。稻田4千餘頃をつぶす。船6百餘艘をこわす。
ぼくは思う。イフでも、揚州の軍事は王渾に任せれば良いだろう。
『通鑑』はいう。この歳、羊祜が疾篤なので、杜預が代わった。11月辛卯、杜預を鎮南大將軍、都督荊州諸軍事とした。杜預が鎮所にくると、精鋭をえらび、孫呉の西陵督の張政をやぶった。
イフの265年に、羊祜が引退して、杜預に代わってもらおう。もしくは、杜預は司馬氏につくだろうか。杜預が、魏晋のどちらにつくかは、別途検討。羊祜が晋につくと、話が成立しなくなるので、羊祜は(司馬氏の姻族だけど)曹魏を裏切らないという設定で。天紀3年夏、郭馬が反した。以下略。
交州や広州は、話が拡散する。主役は曹丕だし。
『漢晋春秋』はいう。孫晧は「孫呉が滅びるとき、兵が南裔に起こる。孫呉を亡ぼすのは、公孫である」という。孫晧は、卒伍のように低位の者まで、公孫の姓の者を、広州に移住させた。郭馬の離叛を聞き、孫晧は「天が孫呉を亡ぼす」と言った。
8月、孫呉の軍師の張悌が丞相となる。牛渚都督の何植が司徒となる。執金吾の滕循が司空となる。
張悌は、呉末を飾るから、寿春にいてもらおう。
冬、西晋の鎭東大將軍の司馬伷は、涂中にむかう。
盧弼はいう。堂邑も涂中も、呉主伝の赤烏13年にある。司馬伷のことは、『魏志』高貴郷公紀の甘露5年にひく『漢晋春秋』にある。『晋書』司馬伷伝がある。
ぼくは思う。イフで、孫呉の最後の戦いを、魏将のだれが担当するかは、魏臣の列伝を整備してからしか決まらない。安東將軍の王渾、揚州刺史の周浚は、牛渚にむかう。
建威將軍の王戎は、武昌にむかう。平南將軍の胡奮は、夏口にむかう。鎭南將軍の杜預は、江陵にむかう。
龍驤將軍の王濬、廣武將軍の唐彬は、長江から東下する。王濬は、ぜひイフでも活躍してもらいたい。寒門だから、設定が複雑にならず、扱いやすそうだし。
王戎は『魏志』崔林伝の注釈にある。胡奮は『魏志』鍾会伝にひく『晋諸公賛』、『晋書』胡奮伝にある。杜預は『魏志』杜畿伝と注引『杜氏新書』にある。『晋書』杜畿伝がある。
梁商鉅はいう。『宋書』五行志はいう。孫晧の天紀のとき、童謡がある。「阿童よ、阿童よ。長江から上陸した虎は畏れないが、長江にひそむ龍を畏れる」という。晋武帝はこれを聞き、王濬を龍驤将軍とした。王濬が最初に秣陵を定めた。『晋書』羊祜伝で、羊祜は童謡を聞いて、王濬の名が「阿童」だから、王濬が水軍で功績をたてると思い、王濬を監益州諸軍事とした。
ぼくは思う。杜預は、荊州の魏将にしたら、おもしろくないな。羊祜に史実なみの健康寿命を与えれば、まだ羊祜は退場しなくてよい。杜預は、羊祜の後任でなく、べつのかたちで登場してもらおう。魏将たる羊祜のライバルとして、晋将として荊州に介入させてもよい。太尉の賈充は、大都督となる。賈充は要所を見きわめ、軍勢の中枢をもつ。
賈充さんの列伝の書き換えも必須。後日。呉将の陶濬は武昌にいたが、西晋の大軍がきたと聞き、広州にゆかない。
孫晧は宴会のとき、黄門郎10人に過失を監視させ、処罰した。後宮を増やした。気に入らない宮人を、宮中の川水に流した。顔面や眼球をはぐ。岑昏は九卿になり、功役で民衆を苦しめた。孫晧のために尽力する者がない。
平呉ののち、西晋曹魏の侍中・庾峻らが、孫呉の侍中・李仁にきく。庾峻「孫晧が、顔面や人足を切ったのはなぜ」と。李仁「肉刑そのものが悪事でない。堯舜も夏殷周も肉刑した。ただ敗北した君主は、『論語』に言うように、彼の刑罰が悪事にされる」と。庾峻「孫晧は視線をにくみ、視線を逸らし、睨み返す者の眼球をえぐった。なぜか」と。李仁「『礼記』曲礼篇は、下位者から上位者への視線の向けかたを定める。これに違反した者を罰した」と。庾峻らは善しとした。
これはそのままで。曹丕の前で喋らせたい。
天紀4年春、中山王、代王ら、11王を立てる。大赦した。王濬と唐彬がくると、だれにも瓦解を止められない。杜預もまた、江陵督の伍延を斬る。王渾もまた、丞相の張悌、丹楊太守の沈瑩らを斬る。西晋が戦えば、孫呉が敗れた。
『晋書』杜預伝、『晋書』王渾伝、『晋書』武帝紀を見よ。 ここから裴注で、丞相の張悌伝がはじまる。干宝『晋紀』、『襄陽記』、『呉録』、『捜神記』がある。3月丙寅、孫晧は殿中で、親近する数百人にあう。数百人は叩頭して「岑昏を殺してくれ」という。孫晧はおそれて、岑昏を殺した。
干宝『晋紀』はいう。数百人「だれも晋軍と戦わない」、孫晧「なぜだ」、数百人「岑昏のせいだ」、孫晧「岑昏を斬り、百姓にわびる」、数百人「お願いします」と。孫晧は駱驛して(相次いで人をやり)岑昏を助命しようとしたが、岑昏は斬られた。岑昏の逸話は、イフでも借りたい。
戊辰、広州の平定にむかった陶濬が、武昌から還る。孫晧「晋軍の蜀地からの水軍はどんなか」、陶濬「小さい船ばかりだから、呉軍2万と大船がいれば勝てる」と。陶濬は全軍をもらい、節鉞をさずかる。出陣の前夜、呉兵が逃走した。
王濬は長江からくだり、司馬伷と王渾も近づく。孫晧は、光祿勳の薛瑩、中書令の胡沖らの計略をもちい、王濬、司馬伷、王渾に文書を届けた。平呉の最終決戦については、また別の機会に。イフでは、孫晧が寿春で戦う。まるで袁術が、『三国演義』で、曹操・孫策・劉備・呂布を敵に回したように、ボコボコにされる。孫晧が倒れれば、建業の孫休は、おのずと洛陽に帰する。上に書いたとおりです。孫晧の降伏文書はいう。「漢末に九州が分裂したとき、江南に割拠して、曹魏と隔たった。いま大晋が龍興した。私は天命がわからず、大晋の6軍を煩わせた。私署した太常の張夔らを使者にする。印綬を提出する。降伏を受納してね」
『江表伝』は孫晧が敗北する直前、舅の何植に与えた文書を載せる。孫権は神武之略により、割拠した。私は凶兆を吉兆と思いこみ、南蛮が反乱し、鎮圧する前に晋軍がきた。丞相の張悌は還らない。陶濬によると、武昌より西は戦意がないという。城壁も軍糧もあるのに、私のせいで戦意がないらしい。私は4帝にあわす顔がない。どうしよう。奇謀=良案がないかな」
3月壬申、王濬が先に到達した。孫晧の降伏を受けた。
司馬伷が孫晧の印綬を受け、司馬伷が孫晧を洛陽におくる。孫晧は家属をあげて、西する。太康元年5月丁亥、孫晧の家属は京師につどう。4月甲申、司馬炎は詔した。「孫晧を帰命侯とする。衣服と車乘、田30頃を与える。1年ごとに、穀5千斛、錢50萬、絹5百匹、緜5百斤を与える」と。
孫晧の扱いについて、老曹丕のまわりが、またモメるんだろう。帰命侯の孫亮を、ぼくは設定してしまったし。ただし孫晧は、洛陽で魏臣をディベートでへこましてもらいたいので、生きてほしい。
『晋書』武帝紀、王濬伝では、王濬が孫晧を洛陽におくる。
『世説』排調篇はいう。晋武帝は孫晧に「なんじ」という言葉を入った歌を謳わせた。孫晧のほうが、上手だった。『晋陽秋』はいう。王濬が入手した戸籍は、4州、43郡、313県、52万3千戸、吏32千人、兵23万人、男女230万口、米穀280万石、舟船5千余艘、後宮5千余人だ。
干宝『晋紀』はいう。王濬が蜀地で造船すると、吾彦は孫晧に「建平の守兵を増やせ」という。孫晧は従わず。
陸抗が歩闡を破ると、孫晧は、尚広に天下統一を占わせた。「庚子の歳、青蓋が洛陽に入る」という。孫晧は政治をおさめず、つねに上国之志を窺った。孫呉が滅亡したのは、庚子の歳だった。
この予言は、おもしろいので採用しよう。干支は変えないと、話が合わなくなる。孫呉の滅亡を、15年も前にしたから。
太子の孫瑾は、中郎を拝した。庶子で王だった者は、郎中を拝した。太康5年、孫晧は洛陽で死んだ。
おわりに
イフ物語の孫晧の見所は、3つです。
・建業で諸葛恪との連合政権(孫峻を迎撃、孫亮の追放)
・寿春での称帝(袁術の再来、諸葛恪と諸葛誕の確執も)
・寿春の最終決戦(曹丕の天下統一の悲願、曹髦の活躍?)
主要な呉臣の列伝を更新してゆかねば。それから、陸抗伝と羊祜伝をミックスした、荊州の話のまとめ。あと、諸葛誕伝の書き換え。幹を通してから、枝を考え、葉を茂らせる。紀伝体が生成していく感じで、たのしい。140612閉じる
- 第11回 イフの孫呉の年表
第9回と第10回で、呉志の本紀にあたる、三嗣主伝の読み換えが終わりました。年表形式で、イフの孫呉をまとめます。
イフの孫呉の年表
◆252年
1月、孫休が瑯邪王に封じられ、会稽・丹陽に移ってゆく
4月、孫権が病死。呉主は孫亮。諸葛恪が太傅、滕胤が衛将軍
10月、諸葛恪が東興に東西の2城を築く。全端と劉略が守備
12月、王昶が南郡、毋丘倹が武昌、胡遵と諸葛誕が東興を攻撃
同月、東興で諸葛恪・丁奉が魏軍を破る
◆253年
1月、全氏を孫亮の皇后に立てる。王昶ら魏軍が撤退
2月、諸葛恪が東興からひき、3月に再び進軍
4月、合肥新城を囲むが、疫病で7月にひき、8月に帰還
夏、朱績が江陵を離れ、留守の諸葛融が荊州を魏軍に奪われる
10月、孫峻が諸葛恪の殺害に失敗して殺される
冬、諸葛恪は孫亮を洛陽に送り、長沙から南陽王の孫和を迎える
曹丕は孫亮を帰命侯に封じて洛陽に留め、孫和を呉王に封じる
孫魯班と全皇后が孫和を責め殺し、朱績は江西で独立の気配
諸葛恪が12歳の孫晧を推し、万彧・濮陽興・張布も賛成(全氏は不満)
諸葛恪が孫魯班と全皇后を幽閉;朱績に代えて江西は呂岱が督す
◆254年
春、孫晧が孫権と孫和のために廟を立てる
孫和を文皇帝、母を何太后に。 倉庫を開き宮女を下げ渡す
皇后に滕氏を立て、滕牧ならぬ滕胤が外戚として力を持つ
秋、呉侯の孫英が諸葛恪の謀殺に失敗して自殺
孫晧が濮陽興と張布をうとむが、諸葛恪が擁護して、2臣は維持
武昌に遷都し、滕胤が建業を留守
孫晧伝では265年、歩闡が提案し、丁固と諸葛靚が留守する。
◆255年
正月、毋丘倹・文欽が寿春で起兵し、楽嘉に侵入 【毋丘倹の乱】
閏月、諸葛恪・呂拠・留賛が寿春を襲い、文欽の降を入れる
司馬師が死に、諸葛誕が寿春に入り、諸葛恪は軍をひく
2月、留賛は、諸葛誕の別将の蒋班に斬られる
3月、朱異が安豊を襲うが勝てない
7月、孫儀らが諸葛恪の謀殺に失敗。馮朝が広陵に築城
吳穣を廣陵太守、留略を東海太守、馮朝を監軍使者・督徐州諸軍事
◆256年
4月、孫晧が正殿にのぞんで大赦・親政;年少の兵を編成
8月、文欽の計で、呂拠・朱異・唐咨が江都から淮泗に入るが引く
史実では孫峻の急死で撤兵。イフでは誕と恪とに密約させるか9月、大司馬の呂岱が死に、呂拠・文欽・唐咨が滕胤を後任に推す
同月、諸葛恪「滕胤を大司馬とする。呂拠の代わりに武昌に屯せ」
呂拠は兵を建業に返す;諸葛恪「詔により、文欽と唐咨は呂拠を討て」
10月、諸葛恪が丁奉に呂拠を迎撃させ、呂拠は自殺;滕胤は生存
ここがイフの列伝を注意ぶかく作るべきところ。11月、諸葛恪が九錫を賜わる
12月、刁彦が蜀漢に乱を告げる
孫晧は建業に還都;代わりに衞將軍の滕牧ならぬ滕胤が武昌に留鎮
◆257年
5月、諸葛誕が寿春で魏に起兵。呉臣を称して諸葛靚を送る
6月、文欽・唐咨・全端が救う;朱異が夏口を襲撃;夏口督の孫壱が魏へ
7月、諸葛恪が寿春を救い、朱異が夏口から合流;丁奉が包囲を解く
9月、諸葛恪が朱異を殺し、建業に帰って大赦
11月、全禕と全儀が魏に奔り、12月に魏軍に駆けこむ
孫晧が顕明宮を新築、諫められるが完成、12月に孫晧がうつる
◆258年
1月、諸葛誕が文欽を殺し、魏軍が寿春から撤退 【諸葛誕の乱】
7月、全尚が諸葛恪を除こうとして、9月に殺される
〈翌年に平蜀;陳祗の死で姜維が暴走したか〉
大將軍の丁奉が寿春?にむかい、留平は南郡?の朱績を詣でる
丁封と孫異は沔中にゆき、どちらも蜀漢を救いに
秋9月、孫晧は東関にでて、丁奉が合肥にいたる孫休伝の260年に丁奉は寿春に、孫晧伝の268年に合肥へ。
◆259年
正月、孫晧が孫瑾を太子とする
〈この年に平蜀、月は未定〉
鎮軍将軍の陸抗、撫軍の步協、征西の留平は、巴東で羅憲を包囲
魏は胡烈に歩騎2万をつけ、西陵に侵攻、羅憲を救い、陸抗らは軍をひく
11月、陸凱が諫め疲れて死ぬ
◆260年
4月、朱績が死んで、陸抗が荊州に着任、羊祜と睨みあう
9月、何定は夏口にさかのぼって校猟;都督の孫秀が魏に奔る
◆261年
1月、孫晧は大衆をあげて、華里にでる
孫晧の母・妃妾が同行;華覈が諫めたが帰らず、【寿春で孫晧が称帝】
魏に降った徐紹・孫彧が、曹丕から降伏を促す文書を持参
紀陟と弘璆が魏にゆき劉禅を見る;孫晧に反意を疑われる
孫晧伝の甘露元年(265)より。劉禅の降伏後でないと成立しない逸話。陸凱「三国が鼎立して戦役が続く。魏の使者がくるが防備に隙はない」
10月、孫綝・張布が、孫休を会稽から建業に移す 【呉主に孫休が立つ】
孫綝が「孫晧の廃位、諸葛恪の爵位を剥奪」を宣言
孫綝が(諸葛恪派の)滕胤を建業で殺す;孫綝が丞相・荊州牧となる
12月、孫休と張布が共謀して孫綝を殺害;五経博士を置く
曹丕は孫休を呉王に封じて、呉主の交代を追認
孫休は九卿を整備;学問と農桑を勧め、漢文帝に準拠
◆262年
秋、会稽で妖言「孫亮が洛陽から帰還」、じつは曹丕の発言が原因
8月、西陵督の步闡が魏に降り、楽郷都督の陸抗が降す
この年、孫晧のせいで万彧が憂死、何定が伏誅する
◆263年
3月、陸抗を大司馬として、7月に陸抗が死ぬ 【荊州の不均衡】
◆264年
孫晧が天冊・天璽・天紀と改元
8月、孫休が皇后に朱氏を立て、孫湾を太子として大赦
10月、孫休が丞相の濮陽興に軍国を、左将軍の張布に宮省を委ぬ
孫休が、博士祭酒の韋曜、博士の盛沖と議論;張布が喜ばず
◆265年
孫晧が寿春で敗れ、孫休が洛陽に帰する 【平呉】
おわりに
臣下の顔ぶれや官職の高低がちぐはぐになるので、難しいですが。エピソードとして、おもしろいところを取り込めれば、こまかい整合性は気にしないことにします。
ここに書いた年表で、精一杯かなあ。
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- 第12回 呉臣動静(掲示板より)
出遅れた三国好きさんの掲示板の書き込みを、初めに引用しておきます。「曹丕80歳:呉臣動静」より。後日、参考にさせて頂きながら、膨らませます。引用しているところは、緑字にしているので、今回は緑字ばかりです。
宗室(孫静系)
孫峻:諸葛恪・滕胤・呂拠と共に孫権から後事を託され、史実では諸葛恪を討って政権を掌握しますが、これが失敗したとして話を進めます。
孫綝:孫峻の従兄弟であり、諸葛恪に疎まれるでしょう。しかし地位の低くさから粛清まではいかないでしょう。そこで「魏に臣従」した後に魏へ飛ばしてしまう展開が考えられます。呉宗室の傍系ですから官僚としても起用しやすく、妙に政争に強い彼なら魏でも活躍(暗躍)出来るかもしれませんね。曹丕の寵臣(佞臣)となり、反発した重臣達が司馬昭支持に傾く原因となるのも面白そうです。
孫壱:夏口督。史実では孫峻の命令で諸葛融を討ち、孫綝時代には逆に追われて魏に亡命しています。魏の荊州侵攻や孫峻失脚などのイフ展開に巻き込まれ、結局魏に降るパターンが多そうです。呉の重臣である呂拠・滕胤とも姻戚であり、その立場から呉併合後の江南統治に関わる重要人物にもなりえます。
諸葛氏・滕氏
諸葛恪:ひろおさんの筋書き通りで良いと思いますが、意外と呉内部に対抗勢力がいますので独裁が難航する可能性もあります。
諸葛融:公安督。史実では兄の淮南侵攻(253年)の際に江陵一帯を任され、並行して沔水に出て魏を牽制しています。彼は朱績に将才で劣り、この時期が荊州侵攻の好機です。一方で諸葛恪の有力な藩屏としての役割も期待できます。例えば魏に敗れて任地を失いながらも、兄の専断で揚州の都督か禁軍に再任され、そのまま兄の補佐に徹する展開などが考えられます。
諸葛竦:諸葛恪の子で、妻が滕胤の娘。長水校尉として建業に居たようです。父を度々諌めており、諫言役候補の一人でしょう。
滕胤:諸葛恪から領尚書事や留守役を任されるなどかなり重用され、朝廷運営の要です。(しかし妻が孫静系)。行動力や積極性に欠け、諸葛恪の強行手段に引きずられる可能性もありますが、対抗出来る立場でもあります。何か内憂か外患で強引に結束させると良いでしょう。また外征反対派であり、再北伐以前に退場させた方が良さそうです。
陸氏
陸抗:妻の張氏が諸葛恪の姪で、孫和の妻の姉妹という、いかにも諸葛恪・孫和(孫晧)政権で重用されそうな要素があります。しかし諸葛恪とはウマが合わない印象があり、孫晧も正室(張氏)の子ではないので、徐々に外へ追いやられそうです。史実では257年に軍功を挙げ、259年に荊州西部を任されています。これを反映して257年に魏の蜀侵攻に加わり、259年頃に魏から荊州西部を任されるという以前に筋書きを考えました。
陸凱:陸抗より30歳近く年長。250年代から荊州東部(巴丘から武昌まで)を主な任地としてます。その官歴と剛直な性格を考慮しますと史実通りに地方に出した方が良いでしょう。
陸胤:陸凱の弟で258年まで交州刺史。彼を含む陸氏を西部に配置し、東部(中央)を諸葛氏一党が固めるという体制は史実の孫休・孫晧的で良いと思います。
地方系
鍾離牧:広州の南海太守。史実では孫峻時代に中央に戻ったようですが、そのまま広州を任せるのも良さそうです。
朱績:楽郷督として江陵近辺を担当。諸葛恪・諸葛融とは仲が悪く、互いに潰し合う展開が考えられます。史実では253年の北伐に参加させられ、退却後は尋陽近くに留められたようです。この時に諸葛融軍の潰滅と荊州(西部?)の陥落が起きた場合、呉西部軍の重鎮として諸葛恪を脅かす存在になりえます。
呂岱:大司馬。孫権崩御後も武昌にいたようですが、特に戦役や政争に関わらないまま256年に亡くなります。格が高すぎて武昌近辺に留めたままになりそうですが(敬遠)、高齢な彼が軽挙妄動するとは思えず、抑え役を期待できます。その彼の死が史実のような騒動(呂拠・滕胤らの死)などを招くかもしれませんね。
宗室(孫権系)
孫亮:孫権の七男。253年1月に妻の全氏を皇后に立ており、全氏一族を外戚としています。時に11歳、曹髦の1つ下の若さです。
孫魯班:孫和失脚に暗躍し、孫峻にも通謀した彼女は、諸葛恪・孫和(孫晧)政権とは相容れません。しかし背後に全氏一族がおり、正面衝突は大惨事になります。彼女抜きなら、全氏一族自体は魏の外援で抑えられそうです。
孫奮:孫権の五男。孫権の末に斉王となり、諸葛恪の命令で豫章の南昌に移されます。軽率・粗暴で史実では廃位となります。朱績ら西部諸軍が諸葛恪に対抗する場合は担ぎ出される可能性がありますね。
孫休:孫権の六男。孫権の末に琅邪王となり、諸葛恪の命令で丹陽に移されます。史実では258年に即位。253年は19歳。放置は難しく、そのまま丹陽に勾留、魏に飛ばす、史実通りに会稽に移す、などの対処が必要でしょう。学者肌ですから、曹丕に気に入られる展開も面白そうです。
先の文は253年に「諸葛恪の北伐」、「魏の荊州制圧」、「諸葛恪が孫峻を返り討ちにする」、「孫亮廃位」、「魏に臣従」などが起きるケースを主に想定して考えています。
文官
丁密:240年代に尚書、250年後半に廷尉に登った重臣です。また同じ頃に光禄勲の孟宗(孟仁)や執金吾の鄭冑がいます。
李衡:諸葛恪の腹心。253年の諸葛恪の新体制において(史実通りに)丹陽太守となるか、外交官として活躍してくれるでしょう。
刁玄:256年まで五官中郎将、257年から侍中。後に孫晧に北伐を煽った人物であり、似たような役目を任したくなります。
王蕃・薛瑩・賀邵・虞汜:いずれも(恐らく)250年代に尚書郎となり、258年頃に散騎中常侍に進みます。呉末期の重臣候補です。260年代に呉が滅びるとした場合、魏に旧呉の名士として登用されるのも面白そうです。(西晋の陸機のようなイメージ)
韋曜:中庶子として孫和に仕え、諸葛恪から太史令に起用された人物。官位は低めですが、孫晧朝廷の重要人物になるでしょう。史実にならって中書郎・博士祭酒・侍講あたりに任命され、朝政や呉書編纂に関わるでしょう。
武官
朱異:恐らく濡須督で250年代の対魏主力。諸葛恪や孫綝ともめた人柄であり、魏臣従に反発しそうです。史実で257年に殺害。
呂拠:妻が孫静系。253年頃は禁軍。諸葛恪に反発する可能性があり、地方に敬遠した方が良さそうです。史実で256年に自害。
丁奉・唐咨・留賛:いずれも無党派の宿将と思われ、諸葛恪でも頼りにできるでしょう。史実では留賛が戦死(255年)、唐咨が魏に降伏(258年)してます。
ありがとうございました。
ぼくなりに膨らませてゆきます。140614閉じる