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(C)2007-2009 ひろお
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ユニット名は「涼西の三明」 2)降伏は金で買えますか
皇甫嵩は世を隠れ、『詩経』『易経』の先生になった。門徒は300余人を形成した。
そのまま14年が経った。
計吏に飽きて、すぐに戦場を欲した人が、14年も古典を教えていたんだから、死ぬ思いで耐えたんだろう。
なぜ14年かというと、梁冀が新しい桓帝に殺されるまでに要した期間だ。一度の「対策」すなわち諮問への回答で、14年を棒に振ってしまったというのは、運命の恐ろしさです。
逆の見方をすれば、13年も逼塞している人でも、まだ人生をやり直せるという先例か。皇甫規の戦績は、青年時代に安定郡で1回戦ったことと、馬賢が敗れると見抜いたことだけ。
「あの羌の動きは、見せ掛けの撤退だ」
その閃きだけをアイデンティティとし、14年を過ごした。すごい自意識の高さであるなあ(笑)

159年、梁冀が誅された。旬月(10日と30日)の間に、5回も仕官の誘いがあったが、皇甫規は応じなかった。
「復活ライブは、是非とも派手に」
そう思っていたかどうか知らん。朝廷の人は、噂しただろう。
「かつての硬骨は、もう朽ちたようだ」
ときに泰山郡の賊・叔孫無忌が郡県を侵した。中郎将の宗資が討伐にいったが、勝てない。けっこう深刻な叛乱だったようで、桓帝は泰山郡に特例で都尉を置くほど。
「皇甫規を、泰山太守に任ず」
巡ってきた活躍の舞台に、皇甫規は家を飛び出した。広く方略を設けて、寇賊をことごとく平定した。

161年秋、反羌の零吾らが、先零の別種族とともに関中で暴れまわった。護羌校尉の段熲が征討を任された。のちに先零の諸族が調子づき、後漢の砦を落とした。
泰山にいた皇甫規は、敗報を聞いてむずむずした。
(私は羌のエキスパートだ。よし、また自己推薦しよう)
皇甫規は上疏した。
「愚か者の私は、泰山太守にしてもらいました。兗州刺史の牽コウは、清潔で勇猛な人です。中郎将の宗資は(賊に負けてましたが)信義の人です。この2人が指示をくれたおかげで、私は泰山をほぼ平定することが出来ました」
コウの文字は[景頁]です。
皇甫規が人を持ち上げているとは、異例だ。
だがこれは、泰山を辞去するための口実だ。私より適任の立派な方がいるから、もうたくさんでしょうと。皇甫規は、羌を討ちたい。自己顕示に他人を利用する筆法は、そんなに変わっていない。
「私は時間を無駄にして生き、もう59歳です。むかし郡吏のとき、羌に勝ちました。馬賢が騙されて負けるのを、見抜きました」
懲りずに皇甫規は、昔話を持ち出した。
順帝のときは、この話をしても通用しなかった。だが当時とは違うのだ。皇甫規には武器がある。「老い」という武器が!
「私は持病があります。皇帝の大恩に報いることなく、死んでしまうことを恐れます。退屈でショボい官位でいいので、私にお与え下さい。ひとたび関中にお使いに行くや、地形と兵勢を見抜いて、諸軍を助けてみせましょう。国の威沢を宣揚しまっせ」
青年のときと、言っていることが同じだ(笑)しかし、老いを口実にして同情を買うという作戦が使えるようになった。若くて文句があるか、と凄むよりは、よほど世間受けが良い。
「私は孤独で、(梁冀に)命を狙われて貧乏生活をしました。じっと引きこもり、全国の郡国の将軍の働きぶりを数十年、見てきました
馬賢を論評した人は、時間を持て余してヤジウマに磨きをかけていました。生来の軍人・皇甫規には、古典の教師は退屈だった。それを自白してくれた。
「鳥鼠(西の果て)から東岱(東の果て)まで、戦争が起きる病根は1つです。すなわち、猛将を求めるより、清平であることが優れている。兵法を習うよりも、治安を良くする法制度を学ぶ方が良い。これが答えです」
戦術が大好きなはずの皇甫規は、学者先生みたいな答えを導き出した。14年間も経典の講義をやってると、考えはそちらにシフトしていくようです。
「羌の叛乱は、まだまだ続くでしょう。私はそれが心配でなりません。ですから、泰山太守という職権を越えて、ひたむきな気持ちを申し上げたのです」
皇甫規は、タブーを犯していることを、最後に開き直る特徴があるようだ。長い上疏を読むことが目的化し、うっかり見落としがちだが、ワナに嵌ってはいけない。皇甫規はとんでもない越権行為をしている。東の太守が西の外寇に口を出すなよ。韓非子に出てくる王になら、斬られても文句が言えない。梁冀すら甘く思えてくる。
そして、「戦って勝つより、戦わない方が上だ」と、呉起・孫武の名前を引き合いに出して語った皇甫規ではあるが、やっぱり自分で戦いたい!という結論は揺るがないらしい。

冬になり、羌が合流して雪だるま式に大軍になった(冬だけに)。
三公は額を突き合わせ、ついに決めた。
「皇甫規を中郎将とする。節を持たせるから、関中の兵を率いよ」
皇甫規は、零吾らを破った。800級の首を獲った。
先零の諸種の羌は、皇甫規の威信を慕って、10余万人が降ってきた。「威信」というのは、つまり皇甫規が自信たっぷりで、一度云ったことを、オトナの事情で変えないということだ(笑)
翌年、皇甫規は羌から編入した騎馬隊を率いて、ともに隴西郡を討った。しかし道路が隔絶して、ちりぢりになった。ずっと敵だった羌族と共同作戦というのは、画期的だ。だが、隴西郡は皇甫規の地元じゃないから、土地勘が働かなかったようで。
軍中に疫病が流行り、3、4割が死んだ。皇甫規は自ら兵舎を見回ったので、将士は感動して悦んだ。
「私に降伏しないか」
皇甫嵩は、東羌に使者をやって説得した。涼州への街道が、元どおり通れるようになった。

これより先、安定太守の孫儁は、賄賂を受け取っていた。
属国都尉(帰属した少数民族を管理する)の李キュウと、督軍御史の張ヒンは、多くの降伏した羌族を殺した。
涼州刺史の郭閎、漢陽太守の趙熹は、老若でろくに仕事ができないのに、権貴によりそって、法度に従わなかった。
皇甫規は州の境界に到ると、ことごとく彼らの罪を箇条書きにし、罷免または誅殺した。
羌人は皇甫規の行いを知り、皇甫規の善行を慕った。他にも、沈氐の大豪族のテン昌、飢恬ら10余万人が、皇甫規に降伏してきた。
当たり前のことを当たり前にするだけで、西方の異民族は降伏してくる。「降る」というのが、後漢側から見た記述だとしても、少なくとも戦闘は停止する。後漢の宮廷で行われている阿諛いによる馴れ合いが、いかに外に通用しないかが分かる。皇甫規が、それを暴露した。

皇甫規は、出仕すること数年して大功を立てた。郷里の安定郡を督した。個人的に仲が良いから甘いということはなく、部下の落ち度を中央にチクることが多かった。宦官を憎んで関係を絶ち、文書のやりとりをしなかった。
「皇甫規は、賄賂を使って羌族を降したんだぞ。報告書の上では降伏を受けたことになっているが、真心が伴っていない。羌族に金を与え、しばらく大人しくしてもらう契約なのだ」
マイペースを堅持する皇甫規は憎まれ、あらぬ讒言を受けた。
桓帝からは、わざわざ玉璽を捺した書状が、何回も届いた。
「皇甫規のバカ、恥を知れ」
「偽りの報告をするとは、何事か」
「朕と宦官の目は欺けんぞ。覚悟しておけ」
皇甫規は、びっくりした。
(この皇帝は何も見えていない)
皇甫規は免官されることを恐れて、弁明をした。せっかく手に入れた活躍の場なのに、事実無根の理由でクビになっては、たまらん。長年の雌伏が無駄となる。
「161年秋、異民族はごそごそ蠢き、西側から安定郡を侵しました。長安は動揺し、洛陽も西側が不安になってキョロキョロ顧みたことでしょう。駑馬みたいな私は、セッセと戦争をやり、陛下のご威光のおかげで、やっと鎮まりました。私は接収したヒトやモノを正確に報告し、戦費は1億銭以上も浮きました。微功を自慢する気はありませんが、ワケの分からん誹りで、罪を受けるのはイヤです」
けっこう、もっともである(笑)
「私が糾弾したが孫儁ら5人は、任国の半数が一味与党でした。100余人の子分がくっ付いています。彼らが私に復讐しようと、権力者に付け届けをし、ウソを流したのです。私が賄賂を使ったという話ですが、貧乏な私にそんな手は使えません。帳簿を調べれば分かることです」
仮に犯人を断定していても、弁明の中で名指しにするのは、あまり得策ではないと思う。後ろめたさのない意見書なのに、私闘の色を帯びてくるじゃないか。
皇甫規の弁明はまだ続きます。彼は軍事に生きた人だと思っていたが、それ以上に文章を書く人なんですね。
『三国志』では、武将の列伝は面白くない。どんな合戦をやったかなんて、あまり列伝の中に残らないからだ。しかし皇甫規の列伝は、きちんと面白い。良かった。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
ユニット名は「涼西の三明」
皇甫規
1)敗北を見抜いた若者
2)降伏は金で買えますか
3)私を党錮に処しちゃって
張奐
4)金離れの超人
5)外戚恐怖症の過ち
6)故郷の土になりたい
段熲
7)囚人から并州刺史へ
8)東西羌のホロコースト
9)段熲が貴んだ宦官