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ユニット名は「涼西の三明」
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3)私を党錮に連れてって
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「前漢は、匈奴や烏孫を鎮めるために、皇帝の娘を差し出しました。ところが私は、たった1000万銭を費やすだけで、反した羌を懐かせました。良臣の才略は、兵家の貴ぶところであり、何の罪があって義に背き、理に違うのでしょうか」 皇甫規は、損得の比較表現が得意です。 「
永初年間(107-113年)から、何回も羌に出兵し、軍は5回も敗れました。鄧騭、任尚、司馬キン、馬賢、趙沖のことです。ややすれば巨億を投じてきたでしょう。軍資金として支給されたものでも、使い道は違いました。将軍が自家の蔵に仕舞い込み、賄賂に転用しました。彼らはネコババした軍資金で爵位や封地を得てきました。」
若いときも皇甫規は、同じことを指摘していた。 事実は分からないが、前任の将軍達が負けたことを憎み、皇甫規なりに表現に凝った結果、こうなったのでしょう。負けても高位にあったとは、軍資金を盗んだに等しい。きっとそういう比喩だ。
「いま私は故郷を護っています。諸郡の不正役人を取り締まり、プライベートな交わりを絶って、旧知の人ですら辱しめました。衆人にコソコソ誹謗されることは、仕方ないでしょう。とは言え、私は汚穢な人間でございますが、評判を台無しにされて、とても恥じ痛んでいます。死ぬ覚悟で、こうしてバカな弁明を奉った次第です」
その年の冬、皇甫規は洛陽に戻って、議郎とされた。
本来なら皇甫規は、羌を鎮めた功績により、封地をもらってもおかしくなかった。だが、中常侍の徐コウと左ワンは、皇甫規から銭をせびり取ってやろうと思い、敢えて不相応な議郎に任命したのだ。皇甫規のところに、しばしば賓客を送り込み、
「あなたの功績は、この書状のとおりで相違ないか」
と問わせた。皇甫規は、ウソばっかの書状を見せられたが、付き合いきれないと思ったのか、何も答えなかった。もし訂正してもらうなら、多額の金銭が必要となる。
思惑が外れた徐コウらは怒り狂い、
「やはり皇甫規は、羌族に賄賂を送っていた」
と云って落としいれ、皇甫規を獄吏に送り渡した。
「皇甫規さん、あなたのような方が、罰せられるのはおかしい。不本意なのは分かるが、宦官に銭を払って謝りなさい」
「断じて、そんなことはやらん」
西方では、また羌族による外寇が起きていた。皇甫規が洛陽に送還されてしまったから、敵対を再開したのだろう。だがこれは、皇甫規の罪の証拠として追加された。
皇甫規は廷尉に繋がれて、輪左校(将作大匠に属す)での労務刑が言い渡された。
「この判決に不服あり」
三公や太学生の張鳳ら300余人は、門に張り付いて、皇甫規の無罪を訴えた。皇甫規は許されて、家に帰ることができた。
皇甫規は、度遼将軍になった。祖父と同じ官だ。
数ヶ月は幕営で指揮を取っていたが、上書した。
「私よりも、張奐が度遼将軍に適任です。聞くところによると、人間には決まった習俗はないので、政治のやり方で治乱が分かれます。兵の強さも変化するので、帥将の能力で勝敗が分かれます。中郎将の張奐は、才能と方略を兼ね備えた人です。衆望に応えるため、張奐を任命し、私をヒマな仕事へとズラし、張奐の副将にして下さい」
珍しく朝廷は、皇甫規の提案を二つ返事でOKした。皇甫規は、使匈奴中郎将になった。南単于を守る仕事である。
張奐が大司農(九卿の1つ、財政担当)にご栄転すると、ところ天式に、皇甫規は度遼将軍に戻った。
皇甫規は、あれこれと思案・算段する人だった。
「名誉ある役職を続けて経験すると、誹謗のターゲットとなる。身が危ないのではないか」
そう思ったのか、もしくは老齢でただ疲れたからなのか、引退を願い出た。
「持病が悪化しました。職務に堪えません」
何度も願い出たが、桓帝は「分かった」とは云わなかった。
上郡太守の王旻という人は、皇甫規の友人だ。彼が喪の期間を終えて、帰ってくると聞いた。皇甫規は、喪服を着けて、飛び出した。許可なく度遼将軍の持ち場を離れ、下亭(地名)で王旻を迎えた。
皇甫規は、王旻に云った。
「ああ、しまった。キミが来たと聞いて、私はウッカリ職務を投げ捨ててしまった。上司で并州刺史の胡芳に、オレの怠慢を報告してくれ」
クビになりたいから、ワザとやったのだ。友の王旻でなくとも、それくらい分かる。
「下手な芝居はやめてくれ。私は、朝廷からキミのような才能が消えるのを惜むよ。引退の計略に、協力はしないぜ」
皇甫規は、それ以上は云わなかった。
党錮ノ禁が始まり、天下の名賢がずるずると逮捕された。
「なぜ私は逮捕されないんだ!」
皇甫規は西方の有力な将軍だが、平和なときの世間の名声は低かった。だから、党錮の対象から外された。
「私は、張奐を度遼将軍に薦めた人間だ。張奐は、宦官が目の敵にする立派な人物だ。さきに労務刑になったとき、太学生の張鳳が私を弁護しただろう。どう見ても、私は党人じゃないか」
皇甫規は、前から引退を願っていた。党錮事件は、渡りに舟だった。もし党人と見なされれば、
「清廉であるばかりに、害が及んだ。惜しいことよ」
という評判を得ながら、心中では悠々とリタイアできる。要望が通り、自尊心も満たされる。ところが、宦官から皮肉な復讐をされたのか、皇甫規は罷免されない。
「志がある人々が、任官権を剥奪されているのに、私だけ安穏としていられるか。私も辞めよう」
皇甫規が願い出たが、朝廷は無視した。
「皇甫規は、真の賢者だな。宦官の世を憂いているんだ」
何も知らない世間は、皇甫規の態度を褒めた。裏目だ。
度遼将軍を数年やって、北辺は威服した。
167年、尚書となった。同年の夏、日蝕があった。
「なぜ日蝕が起きたのだろうか。意見を云え」
桓帝から、下問があった。皇甫規は揮って答えた。こういうことは、得意なんだ。
「天と皇帝の関係は、君と臣の関係と同じです。父と子の関係にも似ています。陛下の失政を、天が叱っているのです。8年の治世で、3回の大獄と、1回の廃后と、2回の外臣殺しをやりました。それらが、全部いかんのです」
3回の大獄とは、梁冀(外戚)を誅し、鄧万世と鄧会(外戚)を誅し、李膺(清流の人)を誅したこと。廃された皇后は、鄧氏。外臣殺しは、桂陽太守を殺し、南陽太守と桂陽太守を殺したことである。
「賢者が虐げられ、愚者が重んじられています。陳蕃、劉矩、劉祐、馮コン、趙典、尹勲、李膺、王暢、孔翊は、党錮で官を失いました。バカな人事です。善政に戻すことは、手のひらを返すよりも容易です。しかし宦官を恐れて、誰も手を出そうとしません。私は罰せられる覚悟で代弁しましたが、これが日蝕のメッセージです」
「うーん」
桓帝は、あまりに歯に衣を着せぬ政治批判に、唸った。桓帝は、この王朝が滅びてしまえばいいと思っている。
「皇甫規の云うことは、王朝のために正しい。正しいがゆえに、用いることは出来ない。もし党錮を解除したら、後漢が延命し、政治がややこしくなる。それは面倒くさい」
これが結論だった。
「皇甫規は中央勤務を辞めて、弘農太守にでもなっとけ。寿成亭侯として、邑200戸をあげるから、それで勘弁ね」
「なんと、あんまりな回答ではないか」
皇甫規は、任命を拒んだ。党錮の解除をしてくれないと、洛陽を離れない覚悟だ。体面がかかると、この老人は頑固になる。
宦官は、早く厄介払いをしたい。普通の人なら、クビにするのが有効な仕打ちとなるが、彼は辞めたがっている。辞めさせては罰にならない。
「護羌校尉はどうかね」
皇甫規が西方の軍事が好きなのを考慮して、任命を修正した。皇甫規は妥協して、西に行った。西に行けば、それで満足する人である。西向く士(サムライ)とは、皇甫規にちなむ故事成語だ。もちろんウソだ。
174年、疾病により洛陽に召還されたが、到着する前に穀城(洛陽の西北)で死んだ。71歳。
皇甫規が書き残した文章は、27篇に及んだ。ジャンルは多岐にわたり、彼が文武を両取した人材だったことが分かる。
『後漢書』の論に曰く、心にやましさを隠さずに発言するのは、難しいことだ。だが皇甫規は、それが出来た。自分の長所を生かして将軍職を求め、賢者(張奐)を見つけては職を譲った。仕事を求めるとき、金銭に対する貪欲さはなく、仕事を譲ったとき、わざとらしさがなかった。自分を推薦するときは驕らず、他人を推薦するときはビビらなかった。だから皇甫規は異民族に心服され、国内で天寿を全うできた。
本当にそうか?
ちょっと違うんじゃないか。『後漢書』は、自分の推挙と他人の推挙を対句にして、カッコイイ文章を作っただけに見える。内容よりも形式が先にあったみたいだ。
皇甫規は、確かに金銭に対する欲は前面に出なかった。これは後漢末には珍しい。だが、「能力を発揮したい」という欲は、醜いほどに大きかったと思う。張奐を見繕ったのは、自分が辞めたいからだ。
やましさはないかも知れないが、過剰に我がままな人だ。これくらい我がままじゃないと、腐った後漢で「身全於邦家」は出来なっただろうが。
次は、張奐に登場してもらいます。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
ユニット名は「涼西の三明」
皇甫規
1)敗北を見抜いた若者
2)降伏は金で買えますか
3)私を党錮に処しちゃって
張奐
4)金離れの超人
5)外戚恐怖症の過ち
6)故郷の土になりたい
段熲
7)囚人から并州刺史へ
8)東西羌のホロコースト
9)段熲が貴んだ宦官
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