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『陳志』劉表伝と、『范書』劉表伝を比較する

先日つくった、以下の記事が面白かったので(自分が)、その姉妹品。
陳寿『三国志』袁紹伝と、范曄『後漢書』袁紹伝を照合する
陳寿『三国志』袁術伝と、范曄『後漢書』袁術伝を照合する
『范書』劉表伝のほうが、あとに作られたもの。これを軸に、『陳志』をつかって補うという作業にする。つまり、范曄が省いたか、范曄が別の場所に書いたことを、『陳志』の本文および裴注で、戻していくという感じでしょうか。

荊州にいくまで

『范書』劉表伝に、

劉表字景升,山陽高平人,魯恭王之後也。身長八尺餘,姿貌溫偉。與同郡張儉等俱被訕議,號為「八顧」。

とあり、李賢注で、祖先は「恭王,景帝子,名餘。」とわかる。
容貌は、范曄が「身長八尺餘,姿貌溫偉」で、陳寿が「長八尺餘、姿貌甚偉」だから、ほぼ同じ。

◆八交・八顧・八友・八及
『陳志』は、「少知名、號八俊」と八俊の一員だと示す。
裴注で、張璠『漢紀』から「八交」「八顧」の一員であること。『漢末名士録』から「八友」の一員であることが分かる。

張璠漢紀曰。表與同郡人張隱、薛郁、王訪、宣靖、(公褚恭)[公緒恭]、劉祗、田林爲八交、或謂之八顧。
漢末名士錄云。表與汝南陳翔字仲麟、范滂字孟博、魯國孔昱字世元、勃海苑康字仲真、山陽敷字文友、張儉字元節、南陽岑晊字公孝爲八友。

ユニット名は、ひと通りに決まらない。時期・相手・目的によっても、使い分けられていたと思われるので、ひとつに決めることに意味はない。
『范書』では、列伝五十七 党錮伝の地の文で、

自是正直廢放,邪枉熾結,海內希風之流,遂共相摽搒,指天下名士,為之稱號。上曰「三君」,次曰「八俊」,次曰「八顧」,次曰「八及」,次曰「八廚」,猶古之「八元」、「八凱」也。……張儉、岑晊、劉表、陳翔、孔昱、苑康、檀(敷)〔□〕、翟超為「八及」。及者,言其能導人追宗者也。……
又張儉鄉人朱並,承望中常侍侯覽意旨,上書告儉與同鄉二十四人別相署號,共為部黨,圖危社稷。……田林、張隱、劉表、薛郁、王訪、劉祗、宣靖、公緒恭為「八顧」……

と、劉表が「八及」「八顧」の一員だと記される。范曄は党錮伝で、すでにユニット名を論じてあるから、劉表伝では「八顧」の他のメンバーを書かない。

◆王暢との交際
つづいて裴注は、王暢との交際を記す。

謝承後漢書曰。表受學於同郡王暢。暢爲南陽太守、行過乎儉。表時年十七、進諫曰「奢不僭上、儉不逼下、蓋中庸之道、是故蘧伯玉恥獨爲君子。府君若不師孔聖之明訓、而慕夷齊之末操、無乃皎然自遺於世!」暢答曰「以約失之者鮮矣。且以矯俗也。」

王暢の倹約が度を過ぎるから、劉表が諌めたエピソード。
『范書』では、王暢伝が別にあり、そこに謝承『後漢書』のエピソードを取り入れている。『范書』劉表伝のほうには、重複して書かない。


◆党錮から何進へ
『范書』劉表伝に、

與同郡張儉等俱被訕議,號為「八顧」。詔書捕案黨人,表亡走得免。黨禁解,辟大將軍何進掾。

とある。『陳志』は、党錮に遭ったことがモレている。しかし、何進の属官としての官職は、陳寿の「以大將軍掾爲北軍中候」のほうが詳しい。

荊州に着任する

初平元年,長沙太守孫堅殺荊州刺史王叡,詔書以表為荊州刺史。

と『范書』が書く。『陳志』は「靈帝崩。代王叡爲荊州刺史」とする。『范書』のほうが優れている。赴任のトリガーが孫堅が王叡を殺したこと、劉表の赴任が「詔書」に基づいたことが明確である。
陳寿は、初平元年の起兵を、なんでも一緒くたにする。だから、劉表伝に「是時山東兵起、表亦合兵、軍襄陽」と繋げる。省略しすぎて意味が変わっている。劉表は、董卓の掌る詔書で着任し、袁術と対立している。むしろ、董卓派である。

劉表が荊州を平定する経緯は、裴注の司馬彪『戦略』を、范曄が要約したもの。だから原典の『戦略』のほうを貼っておく。

司馬彪戰略曰。劉表之初爲荊州也、江南宗賊盛、袁術屯魯陽、盡有南陽之衆。吳人蘇代領長沙太守、貝羽爲華容長、各阻兵作亂。表初到、單馬入宜城、而延中廬人蒯良、蒯越、襄陽人蔡瑁與謀。
表曰「宗賊甚盛、而衆不附、袁術因之、禍今至矣!吾欲徵兵、恐不集、其策安出?」良曰「衆不附者、仁不足也、附而不治者、義不足也。苟仁義之道行、百姓歸之如水之趣下、何患所至之不從而問興兵與策乎?」
表顧問越、越曰「治平者先仁義、治亂者先權謀。兵不在多、在得人也。袁術勇而無斷、蘇代、貝羽皆武人、不足慮。宗賊帥多貪暴、爲下所患。越有所素養者、使示之以利、必以衆來。君誅其無道、撫而用之。一州之人、有樂存之心、聞君盛德、必襁負而至矣。兵集衆附、南據江陵、北守襄陽、荊州八郡可傳檄而定。術等雖至、無能爲也。」
表曰「子柔之言、雍季之論也。異度之計、臼犯之謀也。」
遂使越遣人誘宗賊、至者五十五人、皆斬之。襲取其衆、或卽授部曲。唯江夏賊張虎、陳生擁衆據襄陽、表乃使越與龐季單騎往說降之、江南遂悉平。

李賢注によると、『漢官儀』曰く、荊州とは、長沙・零陵・桂陽・南陽・江夏・武陵・南郡・章陵の八郡のこと。劉表が誘った宗族の帥は、范曄は十五人とするが、裴注では五十五人である。

鎮圧した結果を、范曄がまとめてる。

諸守令聞表威名,多解印綬去。表遂理兵襄陽,以觀時變。

単馬で宜城に入って、蔡瑁・蒯良・蒯越の協力を得て、宗族を殺した。襄陽を本拠地に定めて、「時変を観じた」というのは、うまい表現。

袁術・張済・張羨との対決

◆孫堅を殺して、荊州牧となる
『范書』劉表伝は、とくに年を記さずに孫堅を殺す。

袁術與其從兄紹有隙,而紹與表相結,故術共孫堅合從襲表。表敗,堅遂圍襄陽。會表將黃祖救至,堅為流箭所中死,餘眾退走。及李傕等入長安,冬,表遣使奉貢。傕以表為鎮南將軍、荊州牧,封成武侯,假節,以為己援。

である。『陳志』は孫堅伝があるから、情報が少ない。「術遂不能勝表」と、ザックリ総括してしまう。陳寿は、李傕が劉表と交通した意図を「欲連表爲援」と記し、これが范曄では「以為己援」となる。同じ意味でした。

◆建安元年、天子への対応
『陳志』劉表伝は、張済が合流する前のこととして、

天子都許。表、雖遣使貢獻、然北與袁紹相結。治中鄧羲、諫表。表不聽、羲、辭疾而退、終表之世。
裴注:漢晉春秋曰。表答羲曰「內不失貢職、外不背盟主、此天下之達義也。治中獨何怪乎?」

曹操が献帝を許県に迎えると、劉表は袁紹と結ぼうとした。鄧羲が諌めたが、用いられなかった。裴注『漢晋春秋』は、見てきたようなセリフまで用意する。

『通鑑』は、建安元年に「この年の出来事」として、月が不明で張済のことを配置。

鄧羲のことは、『范書』劉表伝には見えない。

◆建安元年、張済への対応

建安元年,驃騎將軍張濟自關中走南陽,因攻穰城,中飛矢而死。荊州官屬皆賀。表曰:「濟以窮來,主人無禮,至於交鋒,此非牧意,牧受弔不受賀也。」使人納其眾,眾聞之喜,遂皆服從。

これは『范書』。建安元年、張済の兵を受け入れる。『陳志』は張繍伝があるが、それに頼ることなく、『陳志』劉表伝にも同等の情報を載せる。

張済は、天子をめぐって関西から流れてきた。繋がりのあるできごと。

李賢注は、エピソードを『献帝春秋』から持ってくる。

獻帝春秋曰:「濟引眾入荊州,賈詡隨之歸劉表。襄陽城守不受,濟因攻之,為流矢所中。濟從子繡收眾而退。劉表自責,以為己無賓主禮,遣使招繡,繡遂屯襄陽,為表北藩。」


◆建安三年、張羨がそむく
『范書』は、『陳志』にない「建安三年」という情報を付ける。

三年,長沙太守張羨率零陵、桂陽三郡畔表,表遣兵攻圍,破羨,平之。於是開土遂廣,南接五領,北據漢川,地方數千里,帶甲十餘萬。

張羨については、裴注に見え、李賢注も出典が同じ『英雄記』。

英雄記曰。張羨、南陽人。先作零陵、桂陽長、甚得江、湘間心、然性屈彊不順。表薄其爲人、不甚禮也。羨由是懷恨、遂叛表焉。


劉表と張羨の戦いは、范曄が省いたから、『陳志』を頼る。

表、圍之連年不下。羨病死、長沙復立其子懌。表遂攻幷懌。

張羨・張懌のあと長沙太守になるのが、張仲景。下のワク参照。

章太炎『張仲景事状考』によると、建安四-五年、長沙太守の張羨は病死し、子の張懌が長沙太守となり、建安六年に劉表に敗れる。張仲景は、王粲とともに劉表に遇され、建安七年(張懌の平定後)長沙太守として赴任した。建安十年、長沙太守は韓玄に変わり、四年後、劉備に降る。


荊州の支配の完成

張羨・張懌を平定したことにより、『陳志』は「南收零桂、北據漢川、地方數千里、帶甲十餘萬」と、国土の繁栄をいう。裴注では、学問の隆盛が言われる。

英雄記曰。州界羣寇既盡、表乃開立學官、博求儒士、使綦毋闓、宋忠等撰五經章句、謂之後定。


『范書』劉表伝は、もっと豪華である。

初,荊州人情好擾,加四方駭震,寇賊相扇,處處麋沸。表招誘有方,威懷兼洽,其姦猾宿賊更為效用,萬里肅清,大小咸悅而服之。關西、兗、豫學士歸者蓋有千數,表安慰賑贍,皆得資全。遂起立學校,博求儒術,綦母闓、宋忠等撰立五經章句,謂之後定。愛民養士,從容自保。

荊州は、寇賊がはびこった地域だったが、劉表が粛清したことによって、治安が改善された。関西・兗州・豫州から学者が流入した。

張懌を斬ったのが、200年を少し越えたところ。荊州の繁栄が完成するのを、やや先取りして、史書が記した。


官渡の戦いへの関与

曹操と袁紹が官渡にいくと、韓嵩・劉先が曹操に味方せよという。蒯越も勧める。これは、『陳志』劉表伝の本文を、范曄が引くだけ。『陳志』を貼っておく。

太祖與袁紹、方相持于官渡、紹遣人求助。表、許之而不至、亦不佐太祖。欲保江漢間、觀天下變。從事中郎韓嵩別駕劉先、說表曰「豪傑並爭、兩雄相持。天下之重、在於將軍。將軍若欲有爲、起乘其弊可也。若不然、固將擇所從。將軍擁十萬之衆、安坐而觀望。夫見賢而不能助、請和而不得。此兩怨、必集於將軍。將軍不得中立矣。夫以曹公之明哲、天下賢俊皆歸之。其勢必舉袁紹。然後稱兵以向江漢、恐將軍不能禦也。故爲將軍計者、不若舉州以附曹公。曹公必重德將軍。長享福祚、垂之後嗣、此萬全之策也」表大將蒯越、亦勸表。表、狐疑。乃遣嵩詣太祖以觀虛實。
嵩還、深陳太祖威德、說表遣子入質。表、疑嵩反爲太祖說。大怒、欲殺嵩、考殺隨嵩行者。知嵩無他意、乃止。

韓嵩・劉先には、李賢注がある。

先賢行狀曰:「嵩字德高,義陽人,少好學,貧不改操。」
零陵先賢傳曰:「先字始宗。博學強記,尤好黃老,明習漢家典故。」


曹操のもとに派遣されることになった韓嵩。韓嵩は、劉表に釘を刺して出掛ける。范曄は、陳寿の本文に『傅子』を接続するという手法で、劉表伝を書いている。原典に近い『傅子』のほうを貼っておく。

傅子曰。初表謂嵩曰「今天下大亂、未知所定、曹公擁天子都許、君爲我觀其釁。」嵩對曰「聖達節、次守節。嵩、守節者也。夫事君爲君、君臣名定、以死守之。今策名委質、唯將軍所命、雖赴湯蹈火、死無辭也。以嵩觀之、曹公至明、必濟天下。將軍能上順天子、下歸曹公、必享百世之利、楚國實受其祐、使嵩可也。設計未定、嵩使京師、天子假嵩一官、則天子之臣、而將軍之故吏耳。在君爲君、則嵩守天子之命、義不得復爲將軍死也。唯將軍重思、無負嵩。」
表遂使之、果如所言、天子拜嵩侍中、遷零陵太守、還稱朝廷、曹公之德也。
表以爲懷貳、大會寮屬數百人、陳兵見嵩、盛怒、持節將斬之、數曰「韓嵩敢懷貳邪!」衆皆恐、欲令嵩謝。嵩不動、謂表曰「將軍負嵩、嵩不負將軍!」具陳前言。表怒不已、其妻蔡氏諫之曰「韓嵩、楚國之望也。且其言直、誅之無辭。」表乃弗誅而囚之。


劉表に斬られそうになった韓嵩を、妻の蔡氏が救うというのは、裴注『傅子』に見えるが、范曄が省略してしまった。李賢注で補ってある。二度手間である。

嵩不為動容,徐陳臨行之言。表妻蔡氏知嵩賢,諫止之。表猶怒,乃考殺從行者。知無它意,但囚嵩而已。


劉備を迎え、劉表が死ぬ

建安六年、劉備が荊州にくる。『范書』から。

六年,劉備自袁紹奔荊州,表厚相待結而不能用也。十三年,曹操自將征表,未至。八月,表疽發背卒。在荊州幾二十年,家無餘積。

陳寿は「表厚待之、然不能用」とし、裴注がエピソードを保管。

漢晉春秋曰。太祖之始征柳城、劉備說表使襲許、表不從。及太祖還、謂備曰「不用君言、故失此大會也。」備曰「今天下分裂、日尋干戈、事會之來、豈有終極乎?若能應之於後者、則此未足爲恨也。」


李賢注がおもしろ史料を伝えており、裴注『世語』と同じ。

代語曰「表死後八十餘年,晉太康中,冢見發,表及妻身形如生,芬香聞數里」也。

校勘によると、唐代の李世民の忌避で、『世語』であろうと。

◆後継者問題
『范書』劉表伝が充実している。

二子:琦,琮。表初以琦貌類於己,甚愛之,後為琮娶其後妻蔡氏之姪,蔡氏遂愛琮而惡琦,毀譽之言日聞於表。表寵耽後妻,每信受焉。又妻弟蔡瑁及外甥張允並得幸於表,又睦於琮。而琦不自寧,嘗與琅邪人諸葛亮謀自安之術。亮初不對。後乃共升高樓,因令去梯,謂亮曰:「今日上不至天,下不至地,言出子口而入吾耳,可以言未?」亮曰:「君不見申生在內而危,重耳居外而安乎?」琦意感悟,陰規出計。會表將江夏太守黃祖為孫權所殺,琦遂求代其任。

『陳志』だと、「初、表及妻、愛少子琮。欲以爲後、而蔡瑁張允、爲之支黨。乃出長子琦爲江夏太守、衆遂奉琮爲嗣。琦與琮遂爲讎隙」と要約され、情報が少なすぎる。構成の都合で、諸葛亮伝に割を食わされた。

劉琦は、父の死に目に会えない。裴注『典略』である。

典略曰。表疾病、琦還省疾。琦性慈孝、瑁、允恐琦見表、父子相感、更有託後之意、謂曰「將軍命君撫臨江夏、爲國東藩、其任至重。今釋衆而來、必見譴怒、傷親之歡心以增其疾、非孝敬也。」遂遏于戶外、使不得見、琦流涕而去。

范曄はこれを丸写しにしてから、末尾に「人衆聞而傷焉」とコメントを追加。

劉琮が劉琦に侯印をわたし、劉琦が投げ捨てるのは『范書』だけ!

遂以琮為嗣。琮以侯印授琦。琦怒,投之地,將因奔喪作難。


曹操に降伏する

傅巽が劉琮に、曹操に降れと説得する。范曄は「會曹操軍至新野,琦走江南」と情況を説明したあと、陳寿を写した。原典の『陳志』本文を貼っておく。

越嵩及東曹掾傅巽等、說琮歸太祖、琮曰「今與諸君據全楚之地、守先君之業。以觀天下、何爲不可乎?」巽對曰「逆順有大體、彊弱有定勢。以人臣而拒人主、逆也。以新造之楚而禦國家、其勢弗當也。以劉備而敵曹公、又弗當也。三者皆短。欲以抗王兵之鋒、必亡之道也。將軍自料何與劉備?」琮曰「吾不若也」巽曰「誠以劉備、不足禦曹公乎。則雖保楚之地、不足以自存也。誠以劉備足禦曹公乎、則備不爲將軍下也。願將軍勿疑」

傅巽について、裴注に情報が多く、傅嘏伝への案内もあって、親切である。

傅子曰。巽子公悌、瓌偉博達、有知人鑒。辟公府、拜尚書郎、後客荊州、以說劉琮之功、賜爵關內侯。文帝時爲侍中、太和中卒、巽在荊州、目龐統爲半英雄、證裴潛終以清行顯。統遂附劉備、見待次于諸葛亮、潛位至尚書令、並有名德。及在魏朝、魏諷以才智聞、巽謂之必反、卒如其言。巽弟子嘏、別有傳。


『陳志』本文「太祖軍到襄陽、琮舉州降。備走奔夏口」は、『范書』の「及操軍到襄陽,琮舉州請降,劉備奔夏口」で、時系列を合わせることができる。
ここで、劉表の滅亡に関する小ネタを、裴注が2つ提供。

◆王威が曹操の急襲を説く

漢晉春秋曰。王威說劉琮曰「曹操得將軍既降、劉備已走、必解弛無備、輕行單進。若給威奇兵數千、徼之於險、操可獲也。獲操卽威震天下、坐而虎步、中夏雖廣、可傳檄而定、非徒收一勝之功、保守今日而已。此難遇之機、不可失也。」琮不納。


◆『捜神記』が劉表の滅亡を予言する

搜神記曰。建安初、荊州童謠曰「八九年間始欲衰、至十三年無孑遺。」言自(中興)[中平]以來、荊州獨全、及劉表爲牧、民又豐樂、至建安八年九年當始衰。始衰者、謂劉表妻死、諸將並零落也。十三年無孑遺者、表當又死、因以喪破也。是時、華容有女子忽啼呼云「荊州將有大喪。」言語過差、縣以爲妖言、繫獄月餘、忽于獄中哭曰。 「劉荊州今日死。」華谷去州數百里、卽遣馬吏驗視、而劉表果死、縣乃出之。續又歌吟曰「不意李立爲貴人。」後無幾、太祖平荊州、以涿郡李立字建賢爲荊州刺史。


劉表の旧臣たちのその後

陳寿と范曄がスカスカなのは同じで、『范書』劉表伝は、

操以琮為青州刺史,封列侯。蒯越等侯者十五人。乃釋嵩之囚,以其名重,甚加禮待,使條品州人優劣,皆擢而用之。以嵩為大鴻臚,以交友禮待之。蒯越光祿勳,劉(光)〔先〕尚書令。初,表之結袁紹也,侍中從事鄧義諫不聽。義以疾退,終表世不仕,操以為侍中。其餘多至大官。操後敗於赤壁,劉備表琦為荊州刺史。明年卒。

と、官職を羅列するだけ。鄧羲(曹操のもとに使者にゆき、侍中・零陵太守になって帰ってきたひと)の結末が、ここに移されており、時系列への配慮がある。
劉琦が、赤壁の翌年に死んだという情報は、『陳志』劉表伝にない。『陳志』先主伝は、いつ死んだかは書いてない。『范書』が優れている。

『陳志』劉表伝のほうは、

太祖以琮爲青州刺史、封列侯。蒯越等、侯者十五人。越爲光祿勳。嵩、大鴻臚。羲、侍中。先、尚書令。其餘多至大官。

と、あまりにも素っ気ない。これをは裴松之が補っている。

◆劉琮伝(荊州を平定した曹操の声明)

魏武故事載令曰「楚有江、漢山川之險、後服先疆、與秦爭衡、荊州則其故地。劉鎭南久用其民矣。身沒之後、諸子鼎峙、雖終難全、猶可引日。青州刺史琮、心高志潔、智深慮廣、輕榮重義、薄利厚德、蔑萬里之業、忽三軍之衆、篤中正之體、教令名之譽、上耀先君之遺塵、下圖不朽之餘祚。鮑永之棄幷州、竇融之離五郡、未足以喻也。雖封列侯一州之位、猶恨此寵未副其人。而比有牋求還州。監史雖尊、秩祿未優。今聽所執、表琮爲諫議大夫、參同軍事。」


◆蒯越伝

傅子曰。越、蒯通之後也、深中足智、魁傑有雄姿。大將軍何進聞其名、辟爲東曹掾。越勸進誅諸閹官、進猶豫不決。越知進必敗、求出爲汝陽令、佐劉表平定境內、表得以彊大。詔書拜章陵太守、封樊亭侯。荊州平、太祖與荀彧書曰「不喜得荊州、喜得蒯異度耳。」建安十九年卒。臨終、與太祖書、託以門戶。太祖報書曰「死者反生、生者不愧。孤少所舉、行之多矣。魂而有靈、亦將聞孤此言也。」


◆韓嵩伝

先賢行狀曰。嵩字德高、義陽人。少好學、貧不改操。知世將亂、不應三公之命、與同好數人隱居于酈西山中。黃巾起、嵩避難南方、劉表逼以爲別駕、轉從事中郎。表郊祀天地、嵩正諫不從、漸見違忤。奉使到許、事在前注。荊州平、嵩疾病、就在所拜授大鴻臚印綬。


◆鄧羲伝

羲、章陵人。先、尚書令。其餘多至大官。


◆劉先伝

零陵先賢傳曰。先字始宗、博學彊記、尤好黃老言、明習漢家典故。爲劉表別駕、奉章詣許、見太祖。時賓客並會、太祖問先「劉牧如何郊天也?」先對曰「劉牧託漢室肺腑、處牧伯之位、而遭王道未平、羣凶塞路、抱玉帛而無所聘頫、修章表而不獲達御、是以郊天祀地、昭告赤誠。」太祖曰「羣凶爲誰?」先曰「舉目皆是。」太祖曰「今孤有熊羆之士、步騎十萬、奉辭伐罪、誰敢不服?」先曰「漢道陵遲、羣生憔悴、既無忠義之士、翼戴天子、綏寧海內、使萬邦歸德、而阻兵安忍、曰莫己若、既蚩尤、智伯復見于今也。」太祖嘿然。拜先武陵太守。荊州平、先始爲漢尚書、後爲魏國尚書令。


◆周不疑(劉先のおい)伝

先甥同郡周不疑、字元直、零陵人。先賢傳稱不疑幼有異才、聰明敏達、太祖欲以女妻之、不疑不敢當。太祖愛子倉舒、夙有才智、謂可與不疑爲儔。及倉舒卒、太祖心忌不疑、欲除之。文帝諫以爲不可、太祖曰「此人非汝所能駕御也。」乃遣刺客殺之。
摯虞文章志曰。不疑死時年十七、著文論四首。


劉表に対する史家の評価

韓嵩を送り出したくせに、韓嵩を斬ろうとしたとき、陳寿が劉表にコメント。

表、雖外貌儒雅而心多疑忌、皆此類也。

巻末の范曄の『論』でも、袁紹とまとめて貶していた。

劉表道不相越,而欲臥收天運,擬蹤三分,其猶木禺之於人也。


以上、劉表伝の比較でした。160119

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付:張羨伝と、荊州の南4郡の太守の任免権

張羨伝(再録)

『范書』劉表伝:三年,長沙太守張羨 率零陵、桂陽三郡畔表,表遣兵攻圍,破羨,平之。〈英雄記曰:「 張羨,南陽人。先作零陵、桂陽守,甚得江湘閒心。然性屈彊不順,表薄其為人,不甚禮也。羨因是懷恨,遂畔表。」〉

建安三年、長沙太守の張羨は、長沙・零陵・桂陽(・武陵)の三郡をひきいて、劉表にそむく。劉表は兵をやって囲み、平定した。『英雄記』はいう。張羨は南陽のひと。さきに零陵・桂陽の太守となり、長江・湘水のあたりの人心を得ていた。しかし性格が屈強・不順なので、劉表はその人となりを軽んじ、あまり礼遇しなかった。張羨はこれを恨み、ついに劉表に叛した。

『陳志』劉表伝:長沙太守張羨 叛 表,表圍之連年不下。羨病死,長沙復立其子懌,表遂攻并懌,南收零、桂,北據漢川,地 方數千里,帶甲十餘萬。

長沙太守の張羨がそむき、劉表は囲むが、連年(建安三年~五年か)下せず。張羨が病死すると、長沙郡は、子の張懌を立てた。劉表はこれを攻め、南のかた零陵・桂陽を得る。北は漢水に拠り、地方は数千里、帯甲は十余万。

『陳志』巻二十二 桓階伝:後太祖與袁紹相拒於官渡,表舉 州以應紹。階說其太守張羨 曰:「夫舉事而不本於義,未有不敗者也。故齊桓率諸候以尊 周,晉文逐叔帶以納王。今袁氏反此,而劉牧應之,取禍之道也。明府必欲立功明義,全福 遠禍,不宜與之同也。」羨曰:「然則何向而可?」階曰:「曹公雖弱,仗義而起,救朝廷之 危,奉王命而討有罪,孰敢不服?今若舉四郡保三江以待其來,而為之內應,不亦可乎!」
羨曰:「善。」乃舉長沙及旁三郡以拒表,遣使詣太祖。太祖大悅。會紹與太祖連戰,軍未 得南。而表急攻羨,羨病死。城陷,階遂自匿。久之,劉表辟為從事祭酒,欲妻以妻妹蔡 氏。階自陳已結緍,拒而不受,因辭疾告退。太祖定荊州,聞其為 張羨謀也,異之,辟為丞相掾主簿,遷趙郡太守。

曹操が官渡で袁紹と対峙すると、劉表は州をあげて袁紹に応じた。(長沙のひと)桓階は、太守の張羨にいう。「劉表が袁紹に呼応したが、これは禍いを取るの道である。曹操は弱いが、王命を奉じて、有罪のひとを討つ。どうして遠くからでも味方しないのか」と。
張羨は長沙およびそばの三郡をひきいて、劉表と戦った。このとき袁紹と曹操は連戦し、まだ南下できない。劉表は、急ぎ張羨を攻めた。張羨は病死して城が落ちた。桓階はかくれた。しばらくして、劉表は桓階を辟して、従事祭酒として、妻の妹の蔡氏を桓階にめあわせた。

張羨に妻の一族をめあわす。劉表。これは、規模こそ小さいが、曹操が冀州・荊州を平定して、人材を吸収したときの手段に似ている。荊州南部を接収したから、旧仇は忘れて、統治に強力してくれと。

桓階は「すでに結婚してるので」と拒んで、受けなかった。病気を理由に辞退した。曹操が荊州を定めると、桓階が張羨のために謀ったことを評価して、辟して丞相掾主簿とした。趙郡太守に遷した。

張仲景は、長沙太守の張羨の後任者か

「張羨」で検索していて、たまたまヒット。
郭象聲『張仲景姓名事迹考』によると、『傷寒雑病論』を記した張機(張仲景)とは、(荊州南部で劉表に叛いた)張羨と同一人物である。維基百科より。 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E7%BE%A1 …

ただし張仲景と張羨の没年は一致せず、別人である。
章太炎『張仲景事状考』によると、建安4-5年、長沙太守の張羨は病死し、子の張懌が長沙太守となり、建安6年に劉表に敗れる。張仲景は、王粲とともに劉表に遇され、建安7年(張懌の平定後)長沙太守として赴任したと。

@osacchi_basstrb さんはいう。傷寒論は現代の医学でも使用されている重要なものですね。ちなみに王粲の一族の王叔和も、張仲景の傷寒論を編纂して後世に残した功績のある漢方医です。王粲や張仲景と一緒に曹操に降ったのかも。華佗だけでなく皇甫謐や葛洪など医学から三国志をたどるのも興味深いです。

長沙太守は、張羨→張羨の子の張懌→『傷寒雑病論』の張仲景と継がれ、建安十年(205年)張仲景から韓玄に移ったか。

劉表の配下の韓氏といえば、南陽の韓嵩がいる。韓嵩は、曹操のもとに使者におもむき、侍中となる。金日磾の子孫として名族出身の金旋と肩を並べるためにも、韓嵩・韓玄を同族と見たい(希望的推測)


劉表と曹操による、任命の戦い

張仲景のおかげで、韓玄の着任時期がわかる。ぼくらの懸案だった、「武陵太守の金旋・長沙太守・韓玄・桂陽太守の趙範・零陵太守の劉度が着任したのはいつか」にヒントが与えられる。
建安十三年、曹操が荊州に南下して任免をした(官職の洗い替えをおこなった)記録は、積極的に史料に見えるが、四郡の太守については、記載がない。
劉表の裁量によって、任免されたひとが、赤壁後、手つかずで残されたのだろう。200年前半以降、張羨を平定して、劉表の直接支配は、荊州南部に浸透したと思われる。政権末期、よりいっそう劉表と親密で、血筋・文化的素養を備えたひとを送り込んだに違いない。劉表の「中央権力」の徹底が窺われる。

天子を得たあと、曹操は(劉表の意向に敢えて逆らって)韓嵩を零陵太守にしたり、劉先を武陵太守にしたりした。詔もて、蒯越を章陵太守にしてもいる。

いずれもこのページ内に根拠あり。
@Rieg__Goh さんはいう。零陵太守劉度は同じ零陵出身の劉先の一族なのかななんて思ったりした。
@nisekuro_at さんはいう。三互の制が未だ機能していただろうからそれはどうだろうと思ったり。
@Rieg__Goh さんはいう。劉表政権では江夏出身と疑われる黄祖が江夏太守をやっているので機能していないのではないかと思ったのです。なお、南郡出身の可能性が示されているのを見たこともありますが。
‏@nisekuro_at さんはいう。黄祖が南陽の人では?と言うのは恐らく劉表政権に参画していた黄忠が南陽の人だから同族?という所からだと思います。俺も劉表の黄祖と黄忠の扱いから南陽の人?とも思ったり。ただ南陽や江夏の黄氏の他、江陵の黄氏もいますからどうなんでしょうね。

200年代、荊州の太守の任免権は、曹操と劉表が競合関係にあり、荊州を実効支配していた劉表に決定権があったと思われる。むしろ曹操は、任命によって劉表の荊州支配を揺さぶるという段階に過ぎなかった。

結論。劉備に平定された四郡の太守は、曹操ではなく、劉表の意向によって、赴任していた人たちでしょう。
曹操の威令が荊州南部に及ぶ前に、赤壁から曹操が帰ってしまったため、四郡の太守は、劉琦を頂く劉備に編入された。先主伝では、彼らを「降す」とある。
ただし、劉表政権の首脳は、曹操に降ったという認識。劉琦をかつぐ劉備は、「劉表政権」の後継者ではない。亜流の暴力集団に過ぎないから、四郡の太守は、従いたくなかった。しかし、劉表が見惚れてくれた血筋・文化では、関羽・張飛に対抗することができなかったとか。160119

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