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『三国志』への宿題、王莽伝 6)禅譲は、改革の延長
◆失敗の真因
王莽が立てた王朝は、次代に引き継がれることなく滅びた。
敵対した勢力がやったのは、
「劉氏から次の皇帝を選ぼう。漢を滅ぼしてはいけない」
という運動です。
赤眉の集団がいるにはいたが、リーダーがいたわけじゃないかった。王郎は、偽って劉氏を名乗ってまで、天子になろうとした。
さいご劉秀が勝ち抜いて光武帝になった。
この結果に 必然性を求めるとしたら、劉秀が勝ったことではなく、勝者は劉氏の中から選ばれねばならなかった、ということか。

これをどう捉えるか。
「禅譲革命」という、王莽が「漢に対して行なった改革」が、受け入れられなかった。
と考えたらどうでしょう。
万民は、実態はどうあれ、漢というシンボルの継続を願った。

◆王莽にとっての禅譲
「禅譲は禅譲であって、簒奪ではない」
文字を見れば、そりゃそうだよと笑いたくなる。しかしぼくたちは、本当に禅譲と簒奪が違うと、分かっているのでしょうか。
「簒奪の血なまぐささを消すため、禅譲と言ってるだけ」
だと、穿った解釈をしていないでしょうか。

後世に行なわれた「禅譲」という儀式のいくつかには、そういう側面があったかも知れません。しかし、少なくとも王莽にとっての禅譲は、純粋な意味での禅譲だ。
異姓の有徳者へのバトンタッチだ。
禅譲の実務手続を発明したのは王莽だから、発明した時点ですでに別物ということは、ない。それじゃあ話が通らない(笑)
「これまでの電球にそっくりですが、実は蛍光灯です」
という新商品はあっても、
「彼は電球を発明しましたが、じつは蛍光灯でした」
は、ない。それを言うなら、
「彼は蛍光灯を発明しました」
と言うべきだ。アホなたとえですが。

王莽は、言葉に病的にこだわりを持つ人です。学者です。そういう人が、簒奪を「禅譲」と名づけることは、絶対にありません。
「漢を滅ぼして新を建てる」
ではなく、
「弱体化した漢をより良くするため、新を建てる」
です。すでに漢は、劉氏のプライベートな特権機関ではなく、社会の公器としての性質が意識されている。だから故事や儒教の学説を使って、改革が試行錯誤されてきた。
王莽の禅譲は、その延長上に過ぎない。

「尭が異姓の舜に、位を譲った」
という故事を踏まえて、新しい王朝を建てた。きちんと古典の根拠があるんだから、皇帝の姓を変えたことに、やましさはないんだ。少なくとも王莽の中では、筋が通った行いだ。

◆禅譲を決心したとき
東晋次氏は、王莽がいつ禅譲を受けることを決意したか、とても気にしておられた。
「王莽は、周公旦に自分を重ねていた。周公旦は、君主が成人すると政権を返上した。だから、王莽が周公旦にダブらせている内は、禅譲の意図はないはずだ
という話の運びになる。
だがぼくは、違うと思う。
禅譲を、時代を分ける画期、流れの断ち切りとして強調するならば、東氏のような問題関心は、とても大きな意味を持つ。でもそれは、放伐や暗殺を企んだ人間の心中を測るとき、気にかけるべきことだ。
「明智光秀は、いつ謀反を決意したか」
は、楽しい想像だ。

ところが王莽は一貫して、古典に基づいた社会の改革に取り組んだ。国の看板が、漢でも新でも、大した問題ではない。放伐によらない、連続した国だから、禅譲は王莽にとってエポックではない。
ゆえに、
「いつ王莽が禅譲を決心したか」
と問えば、答えは、
「決心していない。王莽は改革をじわじわ続けただけです」
だ。だから『漢書』を読んでも、心変わりの時期が読み取れない。きっと孺子嬰が階段を下ったときも、特別な感慨はなかった。
しかし、
禅譲を含むことも辞さない改革を、いつから志したか」
と言えば、世に出る前の、暗闇の青年時代のときからそうだった。
まるで、
「徳川家康は、いつ天下統一を決意したか」
と同じように、何だか答えにくくて面白くない設問なんだ。
◆王莽の言い分
ぼくが王莽なら、
「私が漢の重臣として改革すれば、拍手された。新の皇帝として改革すれば、反発された。私の政策は一貫している。むしろ新の皇帝になってからの方が、バージョンアップした良策を打っている。なのに、なぜ支持してくれないのか。士大夫たちよ、矛盾していないか」
と涙目になるだろう。

前漢末と新王朝は、同じ体制です。
ましてや、禅譲する側の漢を主催していたのは王莽だから、いわゆる簒奪をやる方が難しい。
「オレは、オレに持ち物を盗まれた」
は成立しない。せいぜい禅問答の世界での出来事で、実害はない。それなのに、王莽のこの行為は許されなかった。

◆皇帝機関説
日本の近代に「天皇機関説」というのがありました。ちゃんと覚えていませんが、
「天皇は、国家の中のひとつの機関だ」
と。当時の天皇は、永久不可侵で至尊の主権者だと言われていたから、この説は物議をかもした。
また身近な話では、日本のサラリーマンは、「役職機能論」の中で動いています。
「あのオヤジの人格が尊いから、命令を聞くのではない。あのオヤジが部長だから、命令を聞くべきなのだ」

王莽も似たような発想だったかも知れない。劉氏の血が尊いのではない。漢という国名が尊いのではない。機能が大事だ。名前は、より妥当なものに変えた方がスッキリする。
王莽は、小さな郡県の名前まで、こまごまと変更した人だ。最も大切な名前、すなわち皇帝の姓と国家の号に、無関心でいられるはずがない。最も妥当であるべきだ。

だが王莽の気持ちは通じず、
「秦漢が200年もかかって築いた秩序を、リセットするのか。また春秋戦国の殺し合いに逆戻りか」
と反対派に挙兵の口実を与えた。ヒステリックに反応した人たちに、新は滅ぼされた。
「オレの話を聞いてくれ・・・」
と王莽は思っただろうが、屁理屈屋は人気がないのだ(笑)
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このコンテンツの目次
『三国志』への宿題、王莽伝
1)永遠の漢帝国
2)儒教が生み出す「永遠」
3)王莽の強みは語学力
4)平帝を毒殺していない
5)背理法の苦しみ
6)禅譲は、改革の延長
7)禁忌、異民族政策
8)光武帝は簒奪者だ
9)曹操への宿題