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劉備統一のシナリオ、廖立伝
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3)軍師・廖化のイフ物語
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◆諸葛亮の功罪
たまたま劉備は、益州1つだけを保って落ち着いた。
「根無し草の劉備に、ねぐらを確保した。漢中王まで名乗らせてしまった。諸葛亮はすごい」
という評価になる。ぼくは文句はないが、これは結果論でしかない。
「劉備は、もっと早く、もっと上に昇れなかったか」
という想定だって、許されるだろう。
諸葛亮がすごいのは、戦略を描けることだ。いっぽうで陳寿には、
「臨機応変な戦闘は苦手だった」
と言われた。戦略と戦闘のあいだ、つまり戦術については、中くらいだと言っても、大きな誤差はなかろう。益州を保てたのは良かったが、いちいち手際の悪い劉備を見れば、中くらいぶりが知れる。
◆軍師、廖立の始動
いよいよイフ物語。 さて、劉備のところの大方針である、
「荊州南部を足がかりに、第三勢力となり、やがて天下を統一する」
というのが、諸葛亮の隆中対。 廖立は赤壁後に、荊州で劉備の下に参加した。だから、総論としての隆中対には賛同していただろう。でないと、劉備に仕えない。 だが、細かな進め方については、意見がたびたび違った。
周瑜が益州攻めの協力を申し出てきた。このとき、荊州の通過を許してはいけない。もし廖立が軍師でも、同じ判断をしただろう。
◆劉璋との付き合い方
劉璋が、張魯の討伐を要請した。ちゃんと本気を出して、張魯を討伐する。龐統なら、その場で劉璋を殺せと言うが、廖立はそんな性急なことはしない。
「張魯は独立しているが、群雄ではない。寄らば大樹の陰という、野心だけ見たら二流の人物だ。劉備が強さを見せ付ければ従うだろうし、さもなくば張魯は、曹操のところに逃げる」
と、まず廖立は分析した。 張魯は、強い劉焉には近づいたが、弱い劉璋から離れた。のちに張魯は、曹操に組み込まれ、出世を遂げている。
「とにかく、まず、漢中を確保せよ」
これが、軍師としての廖立の第一の目標。
漢中を取れば、曹操が益州に南下することを防げる。漢中は上庸を介して、荊州との連絡がいいから、保つのは無理ではない。巴蜀を奪い合いの対象にすることは許さず、曹操は必ず漢中以北で食い止める。
もし劉備が漢中を手に入れたら、劉璋に返す義務があるだろうか。 ない! 劉璋は、漢中から張魯の脅威を取り除いてほしいと言ったのであって、
「私の部将として、漢中を攻めてこい」
と、命じたわけじゃない。劉備が漢中に居座ったって、誰からも不義を叩かれることはない。劉備が気にかけそうな、余計な悩みはいらない。
劉備が漢中を確保したら、劉璋はどうするか。
「戦闘して万民を苦しめるなら、降伏した方がマシ」
というのが、劉璋という人物だ。
張魯討伐のときは友好的だった劉備。漢中と荊州を領有して、すっぽり巴蜀を覆った劉備。包囲されたに等しい。劉璋は、劉備に国を譲渡せざるを得ないだろう。
国譲りが、すんなり成功しなくても、緜竹でダラダラ1年も引き止められるような、ダサいことはなかったはず。ありがたいことに、劉璋の部下たちは、劉備を招こうとしてくれている。
「益州の憂いだった張魯を除いてくれた、同族の劉備ならば」
と、益州に劉備の支持者が増えたかも知れない。
◆荊州の守り方
215年に孫権がいちゃもんを付けて、
「益州を取ったなら、荊州を返せ」
と言い出したのは、なぜか。
赤壁の真の功労者は孫呉だから・・・不正解!
劉備がそういう約束をしたから・・・不正解!
孫堅のもともとの勢力圏だから・・・不正解!
正解は、劉備軍の荊州の守りが手薄になったからでした(笑)孫権は、別にズルをしていない。乱世の群雄らしいロジックで動く。魯粛に単刀会で吼えさせたり、呂蒙に次々と攻め落とさせて、脅しをかけました。
なぜ孫権に付け入られたか。
劉備が益州に主力を移してしまったから。下手なゲーマーが、メインの部将を適当に出陣させたら、本陣が手薄になったのと同じだ。
もし廖立のおかげで、初めから張魯をマジに攻撃し、益州を小戦力で手に入れていたら、荊州には主力を残せた。孫権が、口を出す余地などなかった。
◆曹操との対決
214年に、夏侯淵や張郃がウロウロして、隴右を平定した。
韓遂や馬超を倒してからしか、曹操は隴右に手を出せなかった。すなわち、劉備がいち早く漢中を手に入れていたら、曹操と隴右の争奪戦をやれた。 漢中を出撃拠点として、それより北を主戦場にする。
のちに諸葛亮が、武都・陰平郡を手に入れたことがあった。あれと同じことを、スター人材が多く残っている段階で、やれた。ろくに安定しない涼州は、劉備に帰属しただろう。
孫権が黙って見ているか?
もっともな心配だが、気にしなくていい。なぜなら廖立が軍師をやっているとき、方針は、
「孫権を武力で牽制し、荊州への侵攻を許すな」
と一貫しているからだ。孫権は鼎立なんて考えてない。劉備と曹操の泥沼の殴り合いに、まだ距離を置いている。皇帝への野心を見せるのは、ずっと後年だ。 ちゃんと江陵などの後方に人を置いて、関羽には樊城攻めに取り掛かってもらえばいいだろう。関羽は、蛮勇で攻めるだけの人だ。
◆人材活用のやり方
廖立のやり方だと、少なくとも3つの頭脳が必要だ。
成都で権威を整える軍師。荊州を守る軍師。涼州を攻める軍師。
諸葛亮の独断体制みたいに、1つの頭脳と、数多くの手足、というのではない。廖立が理想とする体制は、各自が自律的に考えながら、根っこのところで戦略を共有した人たちの陣営だ。イエスマンは、嫌いである。
空想で、人選をしてみる。
成都には、のちに諸葛亮が手足として用いる頭が歯車のカタチをした官僚たちが居れば、充分だろう。史実にて、諸葛亮の死後40年も国を保った、荊州・益州閥の人たちに委ねる。
荊州は、諸葛亮に守ってもらおう。諸葛亮の名声の拠点は、荊州だ。それに、攻めて勝つよりも、戦わずして守る方が、諸葛亮の性分に合っていると思う。
廖立は、花形である北伐を担当する。その他に、もし生きててくれたら、龐統とか法正とか、実績が少ないせいで真価を見せぬまま退場した軍師たちにも、手伝ってもらう。
諸葛亮がひとりで頑張るよりも、多彩な人材活用ができたはずだ。多彩な人材のバランスは、劉備がとる。それが彼の唯一の美点なので・・・。しかも、漢室の復興という分かりやすい旗印もあるし、そう簡単にはバラバラにならない。
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このコンテンツの目次
劉備統一のシナリオ、廖立伝
1)廖立の列伝まとめ
2)もうひとりの戦略家
3)軍師・廖化のイフ物語
4)残念なのは・・・
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