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魏呉蜀の天命を検証する 3)呉は皇帝になってはダメ
◆呉の天命
呉は「地の利」を得たとされる。
長江を隔てていれば、中原から独立できる。
孫呉の領土の大部分は、後漢王朝の一部ではなかった。孫権たちが新しく開拓した場所に、国を建てたのだ。列伝で、ほぼ全員が「越」の討伐をやっている。
なぜこの地域が後漢のとき「外国」扱いだったかと言えば、長江があるから。同じことをくり返したが、わざわざ言っておきたいことです。

長江に分断され、中原と連動しないというのが、孫呉のアイデンティティです。ぼくが天命と言ったり、地勢と言ったりしてきたものです。
孫権は、曹丕に降伏したり、劉備と同盟を結んだり、反覆をくり返します。正体不明で気持ち悪いのだが、これが呉の天命の使い方です。逆に言えば、確固たる国是を掲げた時点で、呉から天命が離れてしまうのです。例えば中原の人が作った、「皇帝」や「賊」という思想に絡め取られたら、不幸な結末しか残っていません。

殷のとき、周の人は西方の野蛮な民族として扱われたらしい。秦もまた同様で、中原の人には外人だと見られていた。どうやら「皇帝」というのは、馬で原野を駆ける北西の人たちが発明して育てたもので、呉とは決定的に馴染まない発想です。
一面の草原や山脈を見渡して、どこまでも続く空を見たら、天下をあまねく統一する帝王の姿が、浮かんでくるのでしょう。反対に、水路の入り組んだ湿地を見たら、思考がスパッと切ったような分かりやすさは消えて、しぶとくなるのでしょう。
・・・旅行したいなあ。

◆皇帝になることは挫折
孫権は地方軍閥として、自侭に振る舞った。山口久和先生が『三国志の迷宮』の中で、
「孫権は、国内の越族の討伐に忙殺されて、中原に進出する機会を逃した。だから天下を取れなかった」
と指摘している。
そういう面もあるだろうが、ぼくは違うと思う。孫権の天命としては、中原に打って出ることではなく、フロンティアを開拓して新しい国を作ることの方が、重要なのだ。孫権は自覚していた。天命を知った人だった。

孫権は221年8月に呉王になるが、これは大した出来事ではない。劉備の漢中王は自称して、天下に自分の居場所を宣伝したものだ。だが孫権の呉王は、曹丕に封じられたものだ。外交で授受されるアイテムの1つに過ぎない。
だが229年4月に皇帝になったのは、孫権にとっては決定的な挫折であった。呉の天命に大きく背いた苦肉の選択だった。
即位には、群臣からの突き上げがあったようだ。「瑞兆が出たから即位せよ」というプレッシャーを、いっぱいかけられた。

直前に周魴が、曹休を欺いて勝っている。「我が家の千里の駒」と曹操に言われた曹休が、周魴の偽降を信じた。なぜ、見え見えのありがちな作戦に掛かったのか。このとき呉は求心力が低下し、崩壊しそうだったからだろう。
赤壁のとき、黄蓋が投降を申し出た。曹操は黄蓋を信じた。なぜなら、張昭を筆頭とした中原の名士たちが、孫権に降伏を勧めたから。赤壁のときと同じ危機の構図が、孫権に訪れていた。
「いま孫権さんが皇帝にならないなら、オレたちは出て行く」
あくまで「皇帝に仕えたい」という北来の名士たちは、主張した。孫権はしぶしぶ皇帝になった。

皇帝になった後の孫権は無惨で、戦略性に欠いた外征をしたり、海外に出兵したり、公孫淵と結んだり、不老不死を願ったり。呉という土地の天命に逆らい、北西から伝わった「皇帝」思想の虜となったのでした。
このあたりの孫権の思考プロセスは、以前にサイト内の
「呉王孫権と呉帝孫権は、別の人だ」
で考察しました。今にも増して文章がひどいですが。

孫皓のときは、「孫皓が天下を統一するらしい」というデマゴーグが流れて、死者をダラダラと出し続ける行軍をやった。目をくり抜く遊びもやった。「呉」の「皇帝」とは、そもそも互いの属性が親和しないのだから、その身分に就いてしまった孫皓は不幸です。

◆東晋との比較
孫呉を滅ぼすのは西晋ですが、西晋のが滅びたあとに司馬睿が逃げ込んだのが、孫呉の旧領でした。
司馬睿は呉で知名度が低いものだから、在地の豪族に低頭して、やっと東晋を立てた。東晋の基盤は、孫呉が開拓してくれた土地でした。
しかし「呉」で「皇帝」をやるというのは、孫氏がやろうが司馬氏がやろうが、無理だった。
東晋は、孫呉のとき以上に求心力がなく、王朝の体裁を保てなかった。揚州と荊州の2つの拠点があるというだけの政体でした。

荊州をただの軍事拠点として扱い、自立の動きをさせなかった孫呉は、むしろ凄かったのだ。陸遜や陸抗は、あくまで建業に対して「従」の立場だった。陸遜は孫権の耄碌に「憤死」するし、陸凱は孫皓を諌めて神経を減らした。
諸葛恪、孫峻、孫綝らが建業で潰しあいをやるんだが、争うべき政治主導権が首都にあったというだけでも、孫呉の求心力の強さが分かる。

孫皓のときに先鋭化した、呉の地に宿る天命と、皇帝という概念のコンフリクトを、後日もっと詳しく見たいと思います。
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このコンテンツの目次
魏呉蜀の天命を検証する
1)天命とは何か
2)諸葛亮の抱えた矛盾
3)呉は皇帝になってはダメ
4)魏は天命を実現した
5)天命を無視した晋