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魏呉蜀の天命を検証する 4)魏は天命を実現した
さて、天命を占うことが最も難しいのが、魏です。
魏は、天命をよく体現した王朝だと思います。

◆魏のキズ
天命が下ったと宣言するときは、誰にも文句を付けられず、王朝を脅かす例外もなく、完璧でありたいものです。少なくとも、そういう文書を掲げて、皇帝に即位したいものです。
しかし魏が禅譲を受ける直接の動機となったのは、曹操が天下を統一できなかったこと。はじめから傷物の王朝だった。

曹操が権力を持つ源泉は、漢の丞相であること。しかし後漢末の戦乱を、平定できないことが明らかになった。劉備を下すことができないまま、曹操がいい年になってしまった。
理屈の上からは、
「私は漢の丞相として、不徳でした。辞職します」
曹操が引退するのが、正解だろう。
だが微弱だった曹操を助けた人たちは、そんなことを認めない。というか、曹操を抜きにしたら、漢王朝なんて中身がない。
ましてこのとき、曹操が主催する漢王朝は、漢中を領有していない。漢中のない漢王朝なんて、牛肉の入っていないハッシュドビーフである。輿望を担うことができない。
だから、漢王朝を統一できなかった曹操のミスをリセットするために、漢王朝そのものを無くしてしまうことになった。会社が潰れてしまえば、社内での人事考課なんて関係なくなる。それと同じだ。

◆後漢よりも広い
後漢の領域と魏の領域は、似ている。呉と蜀が切り離されたから、後漢より狭くなったと思われがちだが、そうではなかろう。むしろ後漢よりも、支配が広く行き渡った。

冀州を中心とする河北と、司隷や豫州のある河南は、中華として均質化が進んでいたから、1つの王朝が束ねることに何の不自然もない。後漢も魏も、文句なく統治した。
後漢がいまいち統治に成功していなかった長安を含む雍州は、蜀から外圧を受けることで、支配が行き渡った。後漢のときは、
「三輔に異民族が進入し、前漢の廟を壊されて・・・」
なんて『後漢書』の本紀に頻繁に書いてあるが、魏のときは派手に負けていない。
後漢のときに、賊が割拠しまくっていた徐州方面(東海)は、呉に備えることで、軍備も屯田も充実した。寿春の使い道も、淮南の三叛で上手くなった。青州や徐州の兵権を、鉢植えのように組み替えながら、魏はこの地方を版図に組み込んでいった。
ついでに指摘しておくと、鮮卑や烏桓に奪われていた幽州や遼東は、曹操の烏桓征伐以降、とても捗った。

魏と地勢について、まとめておく。
魏は、後漢から中原を難なく引き継いだ。一方で、後漢が統治できていなかった周辺地域を自国に取り込んだ。
これは始皇帝のように横車を押して、異なる文化圏をに縫い合わせたのではない。後漢のときから洛陽と接点のあった地域を、呉蜀に備えるという動機に基づいて、内実ともに併合した。呉と蜀が外から圧力をかけてくれるから、自然と接着した。
魏は、よくも悪くも、呉蜀とともに存在する王朝なのです。
もし蜀が自壊すれば、関中は手薄になるでしょう。呉が自壊すれば、徐州はフロンティアに逆戻りするでしょう。

◆司馬懿が知っていたこと
司馬懿の正反対の動きが、よく話題になります。
諸葛亮と闘ったときは、木造にビビッて逃げるほどに慎重だった。公孫淵を攻めたときは、兵糧が切れて、雨の中に自陣が沈んでも、絶対に引かなかった。
理由はいろいろあるでしょうが、
「蜀を滅ぼしたら、魏が存続できない」
ことを、「魏臣」の司馬懿は知っていたんじゃないか。だから、戦術として蜀を攻められないではないが、攻めなかった。

魏がなぜ成立したかと言えば、このページの初めで書きましたが、曹操が天下統一をできなかったから。じゃあ魏が漢中を回復してしまったら、どうなるの? 漢に政権を返すのか?
短期的に見れば、曹氏の正統性が揺らぐことはなかろうが、長い目で見たらどうなるか予想できない。誰にでも分かる、明快なアイデンティティがない王朝は長く続かない。
魏にとって残念なことに、この時代までに、禅譲に成功した前例はない。わずかに王莽が失敗した話が伝わっているだけだ。
魏は、前人未到の禅譲政権を、辛うじて曹叡まで2代だけつないだ。だがもし、ここで曹操以来の外敵を失ったら、どうやって転ぶか知れたもんじゃない。
「王莽は漢に代わろうとして失敗し、漢が復活した。曹丕も漢に代わろうとして失敗し、漢が復活した」
漢への世論が去って久しいから、そんな結末こそなかろうが、まだ名士との距離の取り方を身に着けていない魏には、呉蜀がいる方が安泰なんだ。
それなのに、分かっていない 皇族の連中(曹真や曹爽)が、蜀を討てと言い出す。蜀の天険に阻まれて失敗するからいいものの、成功していたら曹芳はどうなったんだろう。

いつか、天下をすっきり均質に統一する日が来るだろう。
それは、前漢がやった点と線の支配の再現ではなく、もっと緊密なものだ。だが魏には、その準備がない。結果論だが、三国鼎立という勢力図は、いずれ天下を統一することが約束されている魏にとって、とても好ましい状態だと言える。天命に適っている。
このまま三国鼎立が100年続けば、五胡十六国時代を経ずに、隋唐なみの世界帝国が出現していたかも知れない。

◆犯人は司馬昭
「司馬昭の本心は、道行く人が全員知っている」
曹髦の言葉です。
性急な統一願望の麻薬に取り付かれたのは、司馬昭だった。父の司馬懿は「魏臣」だったし、兄の司馬師は敵対勢力を潰して回った、ちょっと派手な人に過ぎない。
だが司馬昭は、魏帝の曹髦を殺した。そして、
「蜀を滅ぼした功績を手に入れて、私が王になろう」
と思いついた。
鼎立は、当時の産業や技術のレベルに似合った、望ましい形だった。だが司馬昭は、自然に忠実なこの状態が気に入らず、慌てて統一事業を開始した。
263年に蜀が滅びて司馬昭が晋公となり、265年に魏が滅びた。
「蜀なくして魏は存続できなかった」
と言ってしまうのは、結果からたぐり寄せたズルい意見だが、少しは真理を突いているだろう。漢中を領有していないのは魏の泣き所だが、同時に魏の存続理由でもあったのだ。
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このコンテンツの目次
魏呉蜀の天命を検証する
1)天命とは何か
2)諸葛亮の抱えた矛盾
3)呉は皇帝になってはダメ
4)魏は天命を実現した
5)天命を無視した晋