2)蕭何と鄧禹を上回りたい
世代は逆になりますが、劉淵の従祖父の劉宣を見ます。
劉淵に「漢王になれ」と説得した、建国のブレーンです。
『漢書』を読み、志を練る
劉宣,字士則。朴鈍少言,好學修潔。師事樂安孫炎,沈精積思,不舍晝夜,好《毛詩》、《左氏傳》。炎每歎之曰:「宣若遇漢武,當逾于金日磾也。」學成而返,不出門閭蓋數年。每讀《漢書》,至《蕭何》、《鄧禹傳》,未曾不反覆詠之,曰:「大丈夫若遭二祖,終不令二公獨擅美於前矣。」
劉宣は、あざなを士則という。朴鈍として発言が少なく、学を好んで、潔を修めた。樂安郡の孫炎に師事した。沈精積思し、不舍晝夜、『毛詩』や『左氏傳』を好んだ。
孫炎は、いつも歎じて言っていた。
「劉宣が、もし前漢の武帝と会っていれば、金日磾のようになるだろう」
劉宣は、学問が大成したので、孫炎のところから帰った。門を閉ざして、数年間も外出しなかった。いつも『漢書』を読み、毎度「蕭何伝」と「鄧禹伝」をくり返して音読して言った。
「一人前の男たるものが、もし二祖(劉邦と劉秀)に会っていれば、二公(蕭何と鄧禹)だけに、美名を独占させないのだが」
「オレが劉邦や劉秀のような君主に出会えれば、蕭何や鄧禹よりも活躍するのになあ」
門を閉ざした現状の境遇への不満が、溢れている。
ちなみに蕭何が仕えたのが劉邦で、鄧禹が仕えたのは劉秀。なぜこの2人が選ばれたのかは、確かめる余地あり。2人とも、異民族ではない。
師匠の孫炎は、異民族の前例に、劉宣を例えた。だが劉宣は、民族にこだわらず、1人の人間として歴史の中にライバルを求めている。漢族から見た胡族と、胡族の自己認識のギャップである。
並州刺史王廣言之于武帝,帝召見,嘉其占對,因曰:「吾未見宣,謂廣言虛耳。今見其進止風儀,真所謂如圭如璋,觀其性質,足能撫集本部。」乃以宣為右部都督,特給赤幛曲蓋。蒞官清恪,所部懷之。元海即王位,宣之謀也,故特荷尊重,勳戚莫二,軍國內外靡不專之。
並州刺史の王廣は、司馬炎に劉宣を推薦した。
司馬炎は、劉宣に会った。司馬炎は、劉宣を評価して言った。
「オレは、劉宣に会ったことがなく、ただ王廣から聞いていただけだった。いま劉宣と会ってみた。彼の進止風儀は、まことに圭や璋(宝石)みたいである。彼の性質は、匈奴の部族をまとめるのに充分である」
劉宣は右部都督となり、特別に赤幛曲蓋を与えられた。仕事ぶりは清恪だったから、統治下の人に懐かれた。
劉淵が漢王となったのは、劉宣のアイディアである。ゆえに特別に劉淵から尊重され、勳戚には並ぶ人がいなかった。軍國の内外は、劉宣に従った。
おわりに
劉宣にしろ、劉淵にしろ、
「漢族の王朝で活躍したい」
という高い志を持っているのに、漢族に受け入れてもらえなかった無念が、とても大きいようです。下世話な例え方をすれば、恋愛の対象だと見てほしいのに、妹としか見られてないのね、、みたいな(笑)
劉宣が謀略を巡らし、劉淵がトップに座ったのが、漢帝国です。これは、王朝というパラダイムを破壊するために、作られたのではない。むしろ、西晋よりも高い理想に基づいて、王朝を作り直したかったようで。
「民族への偏見や、おかしな派閥主義を打破した国を作りたい」
そういう気持ちが、劉宣や劉淵の中に育っていた。西晋では、実現しない。
でも、
それだけで西晋を滅ぼしてしまうのは、あまりに暴力的である。
「私の交際の申し出を断ったわね。じゃあ、殺す」
では、短絡すぎる。劉宣も劉淵も学問をやっているから、そこの理屈はよく分かっていた。だから西晋の中で、低い身分と、活躍の幅の狭さに甘んじていた。290年代に大人しくしていたのは、そういう事情だ。
ところが、西晋が八王の乱を始めた。輿望が去った。だから、西晋に取って代わって洛陽を占拠した。
漢族の側から見ると、降って湧いた外圧に、不幸を味あわせられたような気になる。でも、そうではない。西晋が成立する前から、胡漢のギャップは、ずっとわだかまっていんたんだね。090927