表紙 > 読書録 > 田中芳樹『蘭陵王』で、三国の面白さを比べる

01) 300年後の新三国時代

今日の材料は、田中芳樹『蘭陵王』です。
宮城谷『三国志』の8巻に広告が挟まっていた本です。書き下ろしの小説です。広告につられて買うなど、どれだけ出版社の思惑どおりなんだ、と自ら呆れますが、ついつい買ってしまった。

300年後の三国志

この本も三国時代を扱っているのだが、このサイトをご覧になっている皆さんが好きな、陳寿が記録した三国ではない。小説の書き出しが、
「西暦564年といえば、三国の魏や蜀漢が滅びてからほぼ300年後のことになる」
です。南北朝時代の最末期です。
作者は後記にて、
「ほんとうなら、斉・周・陳の新三国時代については、大河長篇が書かれるべきであろうと思う。523年の「六鎮の乱」から589年、隋が陳を滅ぼして天下を統一するまでの66年間を、時系列にそって。「黄巾の乱」から「秋風五丈原」までの三国志がちょうど50年間だから、それより長くなるはずだ」
と、無責任な出版企画の提案までしている (笑)
三国志の魅力は、諸葛亮の死後も続いているのだよ!たかが50年じゃないよ!司馬懿の芝居とか!と反論したくなるが、力点はそこではない。南北朝の末期にも三国時代が現れ、作者が陳寿の三国時代と対比して小説を書いているのがポイント。
300年を経た新しい三国時代を見ることで、馴染みある三国の特徴が浮き上がってこないか。その試論です。

小説のオビには、
「中国史に輝く仮面の貴公子。その若き将軍は美しすぎる顔を隠すために、仮面をつけて戦場を疾駆した
と書いてある。表紙は、イケメンな若武者が、ラノベ風の画風で描かれている。宮城谷『三国志』に誘導されなければ、きっとぼくはこの本を100円でも買わなかったはずだ。
美顔と仮面の話はね、作中でそんなに効いてるわけじゃない。1回だけ、他人が同じ仮面を被って、蘭陵王のフリをしたことがある。一瞬だけ敵をビビらせる場面がある。だが諸葛亮の縮地に比べたら、遥かに地味です。いくら美顔でも、主役の仙女を名目上の妾にするだけで、恋人もなし。

舞台の概要

ぼくに解説する力量がありませんが、『蘭陵王』の舞台について。
南北朝時代の末期です。

まず北朝。華北で司馬氏の西晋が滅びて、五胡十六国時代へ。439年に北魏が十六国を統一し、100年間の分裂抗争が終わった。
胡族の立てた北魏は、493年に本拠の北方を棄てて、洛陽に遷都した。漢化政策だ。北魏は100年間の統一支配をした。
北方の軍事は、もとは北魏でもっとも名誉ある仕事だった。だが、だんだん田舎の貧乏クジみたいな仕事に格下げされた。523年、境遇を不満に思った北方の軍人たちが、叛乱した。これが六鎮の乱で、田中氏が新三国の始まりだと言った戦いだ。
北魏は、有力な将軍の2人が東西に分割した。西魏と東魏だ。西魏は北斉となり、東魏は北周となった。斉も周も、春秋時代の国名と位置が対応するので覚えやすいですね。
蘭陵王は、北斉の皇族です。北斉の衰退を描いた小説でした。

対する南朝のこと。
西晋が滅びると、江南で司馬氏は東晋を立てた。こちらも100年の統一支配をやった。だが軍人の劉裕に禅譲して、南朝宋ができた。
南朝の軍人政権は、王朝の名前と皇帝の姓こそコロコロ変るのだが(宋⇒斉⇒梁)、出身地も身分も似通った人たちが持ち回りをした。そういう意味で、安定していたと言える。

江南の3王朝は安定していた。これは、ぼくが勝手に思っていることです。一度も読んだことのない解釈なのだが…
秦漢以来、皇帝の姓が変わること=革命を、何よりも重視します。革命すれば、全てが切り替わるのだと。放伐なり禅譲なりは、強烈な画期だと。
だが本当にそうか?
王莽、曹丕のときは、確かに禅譲が重かった。だが禅譲をくり返すうちに、手続きや所要時間が軽減された。コストが小さくなった。慣れてきた。あたかも魏内で権力者が交代するかのような軽さで、禅譲が起こる。
南朝の皇帝は、統一王朝としての重みを、君臣ともに強いる存在ではない。北朝をも併合した真の皇帝というポジションを空席にして、その下で王朝を授受している感じだ。後漢や三国に親しんだぼくの感覚ではね。第二位の授受だから、国の体質もだいたい同じだ。
オーナー社長が変ることはめったにない。オーナー社長が変れば、会社の風土は別物になる。だが、雇われ社長が変ることは頻繁にあるだろう。風土もほぼ同じ。この比喩で語れると思う。

梁の武帝は、たった1人で50年も在位して、南朝の完成形を作った。だが分裂した北朝から流れてきた侯景に首都・建康を乱されて、皇帝を持ちまわった南朝は滅びた。
次に江南に立った陳の皇族は、孫呉のときから被支配地域だった遥か南方の出身だ。宋、斉、梁とは系統がそもそも違う。

宋斉梁と陳を、区別する話は読んだことがある。でもぼくは一歩進めて、この4王朝を「南朝」とひとくくりにしてしまうことに、とても抵抗がある。宋斉梁は東晋の派生、陳はまったくの新興なんだ。


次回、南北朝の歴史を踏まえて、三国が成立する条件を考えます。