表紙 > 読書録 > 田中芳樹『蘭陵王』で、三国の面白さを比べる

02) 鼎立するとき、しないとき

前回、南北朝の歴史を、ぼくが恣意的に (笑) まとめました。

三国が成立する条件

原史料に触れず、通史を何種類か読んだだけなのに、前頁で恥ずかしげもなく南北朝を語ったには、理由があります。三国が成立する条件を指摘したかったからです。すなわち、
「三国の拮抗には、前段階に強固な安定が必要だ」
ということ。
今さら言うまでもありませんが、魏呉蜀が鼎立したのは、400年も安定したとされる漢帝国の直後でした。

王莽のことは、記録としては残っているが、感覚からは抹殺されている。


『蘭陵王』を読んで、ぼくは南北朝時代についての認識を改めた。
よくある概説では、必ずこう言いますね。
「中国は後漢末に分裂してから、隋が再統一するまで、400年間も乱れた。途中で西晋が30年だけ統一したが、ほんの一瞬のことだった」

西晋の但し書きは、まるで義務のようだ (笑)

この400年を暗黒時代と言うのか、華やかな文化が育った時代だと言うのか、そのあたりは著者によって認識の違いがある。だが、ともかく統一に欠いたと言われる。
しかし、概説に逆らって、
「2つに分かれたのではなく、2つにまとまった」
と見てはいけないか。これがぼくの新しい認識だ。

以前に曹操たちの三国についても、このサイト内で同じことを言ったことがあります。
現代中国人ならば、いまの中華人民共和国の領土と比べて分裂期だと言いたくなるだろうが、日本人のぼくにその感覚は合わない。
面積の観点からのみ話せば、たかがいくつかの小島の集まりを平定しただけで、「天下統一」と言ってきた民族である。北朝にせよ南朝にせよ、それだけで日本人の言う「天下」が何個分なんだ。あれだけ治めれば、充分に立派じゃないか。べつに西晋と同じ面積を治める王朝がなかったからと言って、どこに負い目があるか。


なぜ「まとまった」などと言い出したか。『蘭陵王』に出てくる人たちは、北魏を過去の大王朝として、慕っているからだ。まるで曹操たちが、後漢を慕っているように。
失われた北魏の栄光を回顧して、感傷的だ。

作者が三国志を意識して、そう描いたという面は否定できない。だが作者は、正史を読む面白さを説き、『北斉書』をほめまくっている人だ。登場人物の北魏への思慕は、架空ばかりではあるまい。
ぼくの持論だが、史料を面白がる人に、つまらなくて根拠のないウソを言う人はいないのだ (笑)

安定した時代に生まれた子供たちは、無力感に打ちひしがれていない。努力すれば、天下統一ができると思っている。
幼児体験に恵まれた (笑) 野心家は、行けるところまで行く。すると広い大陸では、同時多発的に同じことを考える新興勢力が出てくる。安定した時代の空気を共有しているからね。

もし統一を信じる強者が1人ならば、その統一という発想そのものが競合優位性だから、始皇帝のように独り勝ちする。春秋戦国時代のような分裂の中から、統一を願うこと自体がマレだった。奇蹟だった。

新興勢力は、鼎立する。なぜ4つや5つではなく、3つで鼎立なのかと自問してみたが、
「地形がそういう仕様なんだ」
としか答えられない。ごめんなさい。鄴のある黄河下流、建康のある長江下流、山に囲まれた関中や巴蜀の3つです。

始皇帝以前の秦、前漢の劉邦、司馬昭の魏、北周などの例を見ても、関中と巴蜀はセットになりやすい。諸葛亮は関中を得られずに無念な思いをした。巴蜀と関中は別物で、そもそも北伐がムリなんだと、三国ファンは思っている。だが、そうではあるまい。


北斉と北周は、北魏の温室で育った人たちが作った王朝だ。南朝の陳は、梁の繁栄を見た人たちが作った王朝だ。彼らが、鼎立という状況を生みやすい中国大陸の上で、統一を目指したのが新三国だ。
北魏や梁の皇族はね、自王朝が傾いたせいで、無力感を学習してしまう。だから、再統一に意欲的になれない。下にいた人たちが、統一のために名乗りを上げて、しのぎを削るのです。

後漢の温室で育ち、統一の栄光を刷り込まれた人たちが、つばぜり合いをしたのが、ぼくらの知っている三国です。同じです。

三国が成立しない条件

時代の順序が入れ違ったが、なぜ南朝宋や北魏が、天下統一に消極的だったか、なぜ5世紀前半に三国鼎立がなかったかも、同じ観点から説明できる。

南朝宋を建てた劉裕は、全土統一するだけの実力がありそうなのに、あっさり華北を棄てた。五胡の国を、次々に粉砕していったのに。
きっと劉裕が弱い東晋で育ち、無力感が刷り込まれていたからだ。
「洛陽を死守してコケるなんて、割に合わない」
というドライな考え方をする人だ。長安まで観光して、帰ってきた。

北魏王朝も強いのだから、華北統一のついでに天下統一に熱心になっても良さそうだった。だが、南朝宋に450年ごろにチョッカイを出したまま、繁栄のベクトルを内側に向けた。
なぜ、こんなに地味なのか。北魏は、西晋に封じられた「代」という、可哀想なくらい小さな国の後身だ。前秦に滅亡させられた経験もある。もともと無力感を味わった人たちの国なんだ。劉裕が地ならしして去ってくれたおかげで、滑り込むことができただけ。
前秦の苻堅と同じ失敗をしても、ちっとも嬉しくない」
と思ったから、バックグラウンドで叛乱が起きたんじゃないか。過去の失敗を教訓にするだけじゃなく、ただ恐怖感を引きずるのは、必ずしも合理的な態度とは言えない。でも、人の心は弱いのです。

もしも劉裕が統一に積極的なら、北魏も必死に相手をせねばなるまい。すると北魏は、西方に手薄になる。関中あたりに燻っていた五胡の残党が、3つ目の国を建てただろう。某涼とか、赫連勃勃の夏あたりが有力か。めでたく三国鼎立の出来上がりだった。
それはそれで、見たかったのだけどねえ。

劉裕が始めた南朝も、北魏の北朝も、分裂時代の子供たちである。だから統一は頭から諦めていた。だが南朝と北朝が作った安定のおかげで、次の世代の子供たちは、統一への意欲を取り戻した。
自分に照らせば分かるんだけど、曽祖父母がどんな有能感や挫折感を抱いていたか、全く分からない。っていうか、ぼくが生まれる前に死んでいた。祖父母の代の感覚だって、よく知らん。ギリギリ親の世代の人生観を、引き継いでいるだけである。

3つの三国鼎立

後漢の安定が魏・呉・蜀の鼎立を生んだ。西晋の安定が晋・趙・成の鼎立を生んだ。

今回は触れてないけど、4世紀前半にも鼎立があった。
東晋は建康で、華北へ帰りたくて泣いていた。趙は、劉淵の漢が前身で、統一王朝の漢の復興がスローガンだった。成は、李氏が建てた王朝だ。
西晋の統一が短期間だったから、さらに前の漢を懐古したり、再統一への気運が弱かったり、進行方向がバラバラな時代だ。

南北朝の安定が陳・斉・周の鼎立を生んだ。三国鼎立にはパタンがあるかも。『蘭陵王』は、この見通しをぼくに与えてくれました。

次は、三国の滅亡について考えてみます。