03) 六朝最後の外戚政治
謝安が桓氏をいじめた過程は安田論文で分かったのだが、
動機はいまいちぼくの中では不明。
疑問は残るものの、続きを読んでいきます。
謝安に対する批判
謝安に叩かれた桓沖は、荊州の1軍閥に戻った。
桓沖は、前秦の侵攻に苦戦した。対照的に謝安は「親挙」と批判されてもお構いなく、一族を抜擢した。兄の子の謝玄、弟の謝石、子の謝琰らが、383年に肥水で前秦を追い返した。
兄の子の謝玄は、将軍として劉牢之を招いた。この劉牢之の下から出るのが、東晋を滅ぼす劉裕である。
肥水で勝ったのと同じ383年、孝武帝の弟で会稽王の司馬道子を中核として、謝安に敵対する勢力が形成された。
384年に褚太后が61歳で死んだ。そのたった10ヵ月後に、謝安は苻堅を助けるために広陵に出鎮した。謝安が病を押してまで都から去ったのは、司馬道子からの攻撃から逃げるためだ。
「謝安の権力の源泉は、褚太后との血縁である。褚太后がなくては、謝安は執政できない。ほら、私がこの論文で述べたとおりでしょう」
と言いたいのだね。
謝安は385年6月に病死した。
謝安は老いたが、孝武帝は成人し、弟の司馬道子も20歳になった。世代交代の波に、謝安は負けたのである。
謝安死後の仕打ち
謝安が死ぬと、謝安に対する反感が噴出した。地味な葬式でいいじゃないか、という意見である。孝武帝は成人が間近なのに、謝安は太后に臨朝させた。謝安は国政を壟断して、一族を隆盛させた。謝安は野心家で、王朝への忠義や怪しいものだ云々。
孝武帝もまた、謝安の葬儀をケチることに同調した。
『世説新語』で韓伯が謝安を批判して曰く、
「謝安は肥水の後、身内の3人を受封させた。身勝手な邪悪さは、王莽と同じである」
『世説新語』は、編集された南朝宋の気風を受けて、成り上がりの謝安に最高評価を与えている。だが、韓伯による謝安批判は間接的で、パッと読みでは気づかない。『世説新語』の編集者は、謝安批判をそれと気づかずに混ぜてしまったようだ。
史料に残りにくいが、謝安への批判は確かにあった証拠である。
孝武帝は最晩年の396年に、皇太子(のちの安帝)のために王献之の娘を皇后とした。王献之とは、王羲之の子である。
王氏が選ばれたのは、男の兄弟が死に絶えていたから。孝武帝は、外戚の謝安に押さえ込まれた少年時代を苦々しく思い、外戚に介入されない未来を我が子に用意した。
むすび
東晋次氏は、
「漢から六朝への中国社会の転換、推移が外戚政治という政治形態を以って表現されている」
と言った。
安田氏に言わせると、謝安は六朝で最後の外戚政治をやった人だ。
南朝宋では、422年に劉裕が死ぬときに、太后の摂政を禁じた。南朝宋の皇帝は、元服が早かった。後廃帝は10歳、順帝は9歳である。母后が臨朝するのを防ぐためだろう。
南朝では太后の摂政が避けられた。もっとも長かったのが、南斉末の王氏だが、梁武帝の革命までの4ヶ月を摂政しただけだ。東晋と比べると、とても短い。
南朝の人は、肥水で謝氏が活躍したことを、英雄神話に仕立てた。神話の主人公が、南朝では避けられた外戚政治をやっていると、格好がつかない。だから謝安が外戚政治をやったことが史料で隠された。干害が起きても、謝安のせいではないと脚色された。
桓玄が政権維持に失敗したから、桓氏を弁護してくれる史料がない。ここは妄想で補うしか、、
論文を読み終えて
桓温という謝安という、東晋後期の2人のビッグネームの素顔が、本当に分からなくなりました。
まあ、2人の史料にどんなバイアスが掛かっているか解説してもらい、史料批判する糸口を手に入れただけでも進歩ですが。ぼくはこの安田氏の論文を読むまで、桓温については我欲が張った不遜な奴で、謝安についてはバランスの取れた聖人だと思っていたから。
究極に、残念な史料読みでした (笑)
べつにぼくは南朝の人間ではないので(奈良の吉野にさえ、ゆかりがない)謝安が外戚政治を布いたとしても、それを理由にガッカリなどはしません。肥水の戦いは、それはそれで快挙だし。
諸葛亮の評価について話すと、平気で3日くらい徹夜してしまう人が世の中に絶えないように (笑)、謝安について話し合っても面白いんじゃないか。現物と史料のギャップが、歴史学のいちばんの醍醐味です。歴史学は、それに始まりそれに終わるものだ。
そういえば、桓温の列伝は翻訳したのに、謝安をやってないですね。そのうちやります。091120