02) 貂蝉を含め、女性絡みは泥沼
「いちばん関羽に詳しい」郷土歴史家が、関羽の新しい「史実」を捏造してゆく。楽しいなあ。
3章、乱世に躍り出る
190年、関羽31歳のとき、反董卓連合。裴注で劉備は「董卓討伐に従った」とあるので、関羽も従軍したはず。
華雄が死ぬのは陽人で、討ち取ったのは孫堅。関羽は華雄との戦いに加わっていない。
劉備たちが呂布と戦う虎牢関。虎牢関は、西周の穆王のとき、7人の勇士がトラを捕らえて、囲いを作って飼ったから、この名がある。
呂布が、董卓を殺した。貂蝉の謀略ともされる。
貂蝉は伝統劇や講談で、関羽に殺される。貂蝉は、関羽との絡みによって、有名になった人だ。「関大王月下斬貂蝉」「貂蝉の死」「関公と貂蝉」などが有名。
劉備が徐州牧になったとき、呂布は劉備を訪れ、妻を紹介した。関羽が貂蝉に一目ぼれしたと推測することは可能だ。関羽が貂蝉を斬る伏線に。
呂布を包囲したとき、関羽は秦宜禄の妻を欲しがった。関羽ファンは、汚点として隠したがる。だが今泉氏の評価は違う。
「呂布の妻を遠慮したこと、予め許可を求めたこと、の2つに関羽の律儀さを認めてもよい」と。
史書には、呂布が董卓の侍女を妻としたという記録がない。密通しただけだ。貂蝉の物語に発展するとき、ウヤムヤになった。
っていうか、伝説がグチャグチャだからね。そのせいで、ぼくの引用もグチャグチャ。お許しを・・・
◆関羽と貂蝉の伝説
関羽が貂蝉を斬るフィクションを紹介する。
曹操は、劉備たち義兄弟の仲を裂くために、関羽に呂布の妻・貂蝉を与えた。関羽は、貂蝉と日夜を過ごした。劉備が関羽に、
「漢室復興と、女性への情と、どちらが大事か」
と忠告した。関羽は月下で貂蝉を斬った。
もしくは、
劉備や張飛が、貂蝉に夢中になってしまう話もある。
他には、
張飛が関羽へ、貂蝉を献上した。関羽は貂蝉を寝かせ、月明かりで『春秋』を読んだ。古来、美女が国を滅ぼしたこと思い起こし、貂蝉を斬った。
『三国演義』をはじめ、作者たちは、堅物の関羽というイメージを崩さぬように苦労した。貂蝉の出番は、縮小していった。『三国演義』で、貂蝉は関羽に斬られない。吉川英治では、貂蝉は董卓死後に自殺した。三好徹『興亡三国志』では、貂蝉が曹操に横取りされそうになり、恋愛関係にある関羽が貂蝉を斬った。
史書に面影がないではない貂蝉は、関羽と絡むことで「物語の中の架空の人物」になった。
4章、許昌にて
下邳城で呂布を斬ったので、関羽と張飛は中郎将になった。平時には近衛旅団長で、戦時には方面軍司令官だ。関羽は39歳。劉備に会ってから10年たった。
◆関羽の忠義なイメージが完成
劉備が徐州で独立したが、曹操に討たれた。関羽は捕虜になった。忠義の人という関羽のイメージは、ほとんど許昌で出来上がったものだ。引き立て役は、曹操だ。関羽は、劉備への忠誠を動かさなかった。
1997年の許昌も、関羽で一色だった。関羽像を建てるためなら、市民は月収の1万倍を寄付した。だが曹操の博物館は、資金が集まらずに頓挫した。三国時代の街並みを再現するのも、失敗した。
関帝廟の間で、観光地としての競争がある。洛陽の関帝廟は関羽の首がウリで、当陽は胴体がウリだ。許昌の関帝廟のウリは、
「ここには関羽の功(いさお)が祭られています」
なんだって。
◆商売の神さまになる
関羽が顔良を「刺」したと史書にあるので、関羽は青龍偃月刀を使っていない。文醜とは戦っていない。
関羽が曹操を去るとき、金銀に封をしたのはフツウのマナーだった。だから古い時代の記録は、これを美談とはしない。時代が下り、金銭感覚に世知辛くなると、関羽の律儀エピソードに加わった。
関羽が財神となるのは、この時代の伝説による。
○関羽は曹操にもらった品物のリストを作って管理した。
○関羽は日付と品物を記録し、大福帳の元祖となった。
○兵士、馬、武器、兵糧を「原、収、出、存」と記録。
○劉備や曹操は、関羽の武勇より、数量把握能力を買った。
○関羽は、暗算の達人だった。
○曹操から膨大な金品をもらったので、そろばんを発明して計算。
5章、劉備軍団の再編成
武帝紀の記述は、時系列が分かりにくく、
「関羽は許昌からでなく、官渡から劉備へ帰った」
とする研究者がいる。だが劉備の夫人をどうやって連れていたか、辻褄が合わない。
このとき劉備は、汝南にいた。関羽が顔良を殺したから、劉備は袁紹の下に居づらい。劉備は際どいタイミングで、袁紹を去ったか。曹操は、劉備が袁紹に戻らないと見て、関羽を劉備へ帰らせたとする方が自然だ。関羽は、初めから汝南を目指したかも知れない。
関羽が劉備と再会するまでは不明だ。講談師が関羽を遠回りさせたのは、知名度のある関所を通らせるためである。
劉備たちは汝南で立て直した。
『演義』の再会シーンばかり印象的で、今泉氏も再会の場面に拍手を送るばかりなのだが、、じつは劉備なりの読みがあったとか。
6章、天下三分の計
208年に劉備が諸葛亮と面会したとき、関羽は49歳。
関羽の生涯を調べるには、湖北省の取材が欠かせない。201年から19年間を関羽が過ごした。19年間の関羽の行動範囲は、江陵から北へ200キロの襄陽や樊城だけ。
今泉氏が旅行したとき、
「華容道に寄ると、水害のために大回りするからやめるか」
と聞かれた。
旅行ガイド者が示した華容道は長江の南にあった。曹操は敗走した後に、わざわざ長江を2回渡って遠回りしたことになる。あり得ない。しかしガイド者は、ココで間違いないと強弁した。
地図をよく見ると、長江の北にも華容道という地名があったそうだ (笑)