表紙 > 読書録 > 今泉恂之介『関羽伝』で、中国のウソ史実に親しむ

03) 樊城でも麦城でも、自爆せず

今泉氏の本は『演義』の翻訳を引用して、関羽の人生を紹介しています。
基本的に、読み飛ばし! この本でしか読めない関羽の情報は、だいたいぼくが抜き出している内容でいいと思います。
このあたりから、伝説の紹介よりも、戦況の解説が充実してくるので、そちらの引用を増やします。

7章、信頼と謀略の間に

55歳の関羽は、1人で荊州に残った。現代の地名では、荊州市を劉備が、襄樊市を曹操が、武漢市を孫権が抑えた。三国の精鋭が、荊州でにらみ合った。
荊州城は、江陵城ともいう。「一城二称」である。荊州城は、西周の前901年にできた。3000年の歴史がある城で、たった6年間だけ城主だった関羽が、いちばん有名。
河川の研究書『水経注』には、
「わたくし関羽が作った城は、攻め落とすことができない」
と関羽が言ったと書いてある。

『水経注』を見なければならん!


関羽の築城について伝説を1つ。
荊州で三国でにらみ合うので、人民が休まらない。天帝は、仙女を遣わして関羽に
「荊州を天帝に返しなさい」
と命じた。関羽は、劉備のために断るしかない。力ずくは良くないので、関羽は仙女に勝負を持ちかけた。
「私が城の西南部を作る。9人の仙女たちは西北部を作れ。築城が遅かった方が引き下がろう

商売の神さまとして、計算が得意になった関羽。
土木工事は、物理学?的なシミュレーションができないと成功しない。関羽には理数系のイメージが強いのかな。
そう言えば、樊城を攻めたのも水だったなあ。『博士の愛した数式』に出てくる博士みたいなノリで関羽を描いたらどうなるだろう (笑)

張飛は、関羽が負けては大変と、大量の土を運んだ。張飛が駆けつけたときは、すでに関羽が勝っていた。張飛が運んだ土は、現存する。

◆魯粛と呂蒙
魯粛と関羽は、荊州の帰属について会談した。後ろから、
「土地は徳のある人に帰属するのだ」
と差し挟んだ部下に、関羽は目配せした。緊迫した場面に見えるが、筋書きができていたようにも見える。関羽の目配せは、
「お前の言い分も分かるが、今は黙っていろ」
である。また関羽から魯粛に対して、
「今の男の言葉はなかったことに。しかし、分かって下さい。この場はうまく収めたいものですね」
という気持ちが伝わっただろう。関羽はすぐに刀を取って、立ち上がった。双方が互いの立場を言い合えたから、結論は先送りにしよう、と合意したのではないか。

「単刀赴会」は、是非とも自分で描いてみたい場面です。

関羽は魯粛に言い負かされたという人がいるが、違う。三国の情勢を見て、戦争に発展させないよう、関羽が配慮したのだ。
会談の場所は、正史に記されていない。『演義』は、魯粛が駐屯している陸口とした。孫権が関羽を殺す謀略を、『演義』は付け加えた。だが史書では謀略がなかった。関羽と魯粛の心が通じ合っていたのではないか。

魯粛が死に、呂蒙が着任した。
関羽は麋芳と士仁を叱り飛ばした。彼らは関羽からのストレスを、いちばん受ける立場だ。子飼いの武将ではないから、恨みをためた。

8章、大勝利・大敗北

関羽は江陵から襄陽に出陣した。200キロの道中があるのに、大きな戦いに臨む関羽の気持ちを『演義』は省略してしまう。

今泉氏が補ってくれます。嬉しいことです。

1日目の行軍で、20キロ先の当陽に到着した。長坂坡の旧戦地のそばである。長坂坡で関羽は、水軍の長として、新しい一面を開拓した。11年前を思い返して、関羽は懐かしんだ。

これが今泉氏が想像した「関羽の気持ち」です。

関羽の荊州統治は、水軍の力だ。この遠征でも、輸送や攻撃に活用した。
史書には、襄陽城の攻防を書いてない。きっと関羽の楽勝だった。襄陽を手に入れたことは、前将軍となった関羽の大手柄だ。

襄陽について、あんまり意識したことがなかった。

襄陽の陥落がトリガーになり、曹操と孫権の密約が交わされた。

曹仁は樊城に籠もり、
「船で逃げ出そうか」
と弱気になった。樊城から許昌へは、250キロだから、中原が懼れた。
だが水が引いた。曹操と孫権のはさみうち。呂蒙伝によれば、関羽は食料を無断借用したから、孫権に裏切りの口実を与えた。
関羽の選択肢は3つ。
 ①襄陽城に立てこもる(劉備の援軍を待てる)
 ②漢江を船でくだり、逃げ道を探す(益州に入れる)
 ③陸路で、江陵城に向かう
関羽は、③を選んだ。情報を正確に掴んでいなかったから、最悪の選択肢を採用してしまった。呂蒙が江陵を攻めているとは聞いていたが、占領までされていると関羽は知らなかった。
「とりあえず本拠地に帰って、確かめよう」
と関羽が思ったはずだ。呉主伝によれば、関羽は呂蒙に何度も使者を送り、「どういう状況なのだ」
と質問をしている。呂蒙は、関羽の使者を鄭重にもてなし、関羽軍の家族を保護していることを知らせた。

敵に情報を求めるなんてね、滑稽ですね。


襄陽は、曹操軍が抑えていた。関羽は襄陽に入れない。

襄陽は、やはり関羽軍のキーなのか。これからは意識してみよう!

関羽は、麦城に入った。
麦城は、当陽の東20キロ。沮水とショウ水が合流する。東周のとき、楚の防衛の重要拠点だった。現在、長さ200メートル、幅10メートル、高さ8メートルの土塁が残る。

苦し紛れに入った小城かと思ったが、いちおう地勢的には重要だった。宮城谷昌光氏をはじめとした、関羽の自爆説は成り立たないな。

かつて劉備が、麦城に兵士を駐屯させようとしたことがある。劉備の提案に、諸葛亮が反対した。
「麦城は、氾濫が起こりやすい場所なので、駐屯に適しません」

そんな話があったとは、、知らなかった!

そういうわけで、このとき麦城は無人だった。関羽は敗死した。

終章、人から神へ

今泉氏が会った中国人の女性は、趙雲が好きだと言った。忠義も強さも、関羽は趙雲に劣らない。頭脳や性格では、関羽は趙雲に上回る。なぜ人気がないのか。
「趙雲は別として、関羽は好きですか?」
「関羽は好きですけど、あの人は(私に)怒るから
関羽は忠義には違いないが、不動明王にように怒る神なので、どうも人気が趙雲に劣るらしい。

信仰する人の数だけで言えば、関羽はキリストや釈迦よりも、格上の宗教だ。アラーに次ぐ2番手である。
関羽の信仰が盛んな理由は、以下の3つだ。
 ①歴代の中国王朝の政策
 ②山西商人のパワー
 ③羅貫中『三国演義』の魅力
関羽は、日中戦争のとき、日本軍を退けた伝説も生んだ。

『関羽伝』の引用を終えて

今回は、あまり自分の意見を入れられなかった。ただの要約に終わってしまった感もあります。ただ、正史のどこに、『演義』のどこに、関羽にまつわる面白い記述が散らばっているか確認できたから、それで良し。例えば関羽の最期は「呉主伝」を読め!とかね。
関羽を主人公にした物語が書きたい・・・100109