表紙 > 旅行他 > イベント「三国志街道」第2回で、満田剛先生に教わったこと

02) 曹操の墓と、白地将軍クイズ

「三国志街道」というイベントに、参加してきました。
満田剛先生に、教わってきました。

曹操の墓と、研究者の態度

曹操の墓が発見されたと、ニュースになりました。
ただ満田先生が行かれた1月の中国の研究会では、ややトーンダウンしていたそうです。ある高名な研究者が言うには、
「後漢時代の大きな墓だとしか、判断していない」
とのこと。

以下、墓に関する満田先生のお話。
「『魏の武王』という碑文は、盗掘者が入れたかも知れません」
「墓は一般的に、出身地に作るものです。曹操の出身地は、鄴ではありません」
棺の話が出てこないのが、不自然です。棺の大きさや材質から、埋葬者の身分を特定できることが多い。でも今回は棺がなく、骨だけが入っていたと聞いています。盗掘者が棺だけを奪い、遺体を戻していく、というは不自然です」

ぼくが考えたストーリーは、
「飢えた盗掘者1人が、侵入した。棺と被葬者がすでに運び出されていることに落胆した。盗掘者が中で寝ているうちに、骨になった」
です。いや、そんなワケないよなあ。

「曹操の他に、『魏の武王』という諡号を持つのは、五胡十六国時代の冉閔です。冉閔は殺された人ですから、棺が作られず、遺体だけが入れられた可能性があります」

「ともあれ、曹操の墓ではなくても、後漢の遺跡として、20年から30年に1度の発見です。夏侯惇の墓だという説もありますが、それなら30年から40年に1度の発見です。もし曹操の墓ならば、40年から50年に1度の発見です」

夏侯惇か曹操なら、ファンはもっとレートを吊り上げるだろう。

先生の言葉で印象的なのが、
「日本人の研究者は、中国側が開示する情報を、待つしかありません。遺跡に近づくにも、直接目にするにも、中国側の許可が必要です」
でした。

いつかまた、お話をさせて頂ける機会があったら、
「歯がゆいハンディまで感じながら、日本人である満田先生が、中国史を研究をご職業にされるのはなぜですか」
と質問してみようと思います。

白地将軍の意味は?

賞品をかけた、クイズがありました。

 問1、夏侯惇を捕虜に取られた韓浩は、どう対応したか。
 問2、夏侯淵のあだ名「白地将軍」の意味とは。


問2に答えて賞品をいただいたのですが(ありがとうございました)
復習しておきます。
もともと「白地」とは、ボンヤリという意味。転じて、バカ。

出典は『太平御覧』だそうです。イベントで何回も聞いた書名でしたが、読んだことがないです。チェックせねば・・・

曹操は夏侯淵を大切に思っていた。夏侯氏と曹氏は親戚だから、夏侯淵に要衝を任せた。夏侯淵は、柵の修理を、自ら監督していた。
そこを、卑怯?な黄忠に殺された。
「なんで、そんなバカな死に方をしたんだよー!」
という、曹操から夏侯淵への、愛情の籠もった悪口だそうです。

夢を壊すのが、研究者の仕事

「指揮官の仕事は、戦闘ではありません。采配を振るうのが仕事です。武将の一騎打ちはありません。関羽や張飛が前線で戦ったのは、おそらく下っ端のときです。出世後は、後方にいたはずです」

正史でも一騎打ちしたのは、孫策と太史慈。
太史慈は、劉繇に疎まれて、立場が悪かった。自棄になるのも分かる。
だが孫策は、いちおう売出し中の武将。孫策が下っ端ようなマネをして、一騎打ちしたのはなぜだろう。性格のせいだけじゃないはず。

「趙雲は、馬に乗ったベビーシッター。趙雲は、劉備の生前、奥向きの世話を担当しました。趙雲は、劉備の死後に孔明に使われて、将軍として活躍しました」
「黄忠は生没年が不詳ですが、活躍時期から計算して、関羽と10歳も違わないでしょう。また荊州人の黄忠は、益州人の厳顔と、口語が通じなかったはずです」
魏延は漢中太守になり、趙雲より官位が上でした」

イベントで教わったのはここまでですが、、
スタッフの打ち上げ?にも参加させていただき、もっとお話を聞きました。次回へ続きます。