表紙 > 旅行他 > イベント「三国志街道」第2回で、満田剛先生に教わったこと

03) 司馬懿が分かりません

「三国志街道」というイベントに、参加してきました。
満田剛先生に、イベント後も、教わってきました。

三国志を理解するには、王莽の理解が必須

禅譲を初めてやったのは、王莽。
満田先生曰く、
王莽を知らねば、三国志を知ることができないそうです。

ぼくも同じことを考え、王莽について、去年の初夏ごろに勉強しました。教えに先回りしていましたが、理解が及んでません。

王莽と曹操を比較して、こんな考察をしました。
前漢の正しい継承者、王莽伝 ~曹操への宿題~

「司馬懿を、誰か教えてください」

満田先生は、司馬懿がどういう人物だったか、分からないそうです。参加者に向かって、
「司馬懿がどんな人物だったか、誰か教えて下さい」
と仰っていました。
司馬懿は、『晋書』に初代皇帝として描かれてしまったせいで、元の人物像が見えないのだそうです。

満田先生曰く、
「孔明が死んだ直後、司馬懿は魏を奪うことは可能だったかもしれませんが、それは状況が可能だったというだけで、司馬懿に魏を奪うの意志があったかが、見えてきません」と。

ぼくは司馬懿を、
 ①曹操への出仕を嫌がった理由は、父と兄に遠慮したからで、
 ②遼東に北伐した理由は、曹叡のゼイタクを諌めるためで、
 ③宮廷政治が苦手で、出鎮している方が手腕を発揮する、
 ④死ぬまで魏の忠臣だった人物
だったと捉えます。
曹爽へのクーデターは、司馬師が首謀者で、司馬懿は巻き込まれただけ。狭い洛陽にあって、宮廷政治が得意な息子たちに、宮廷政治の下手な司馬懿は、ハメられたのです。
詳しくは、司馬懿伝/下「魏臣としての敗北者」に書きました。


司馬懿に簒奪の意志がなかったとする代表例が、陳舜臣氏。
小説『曹操残夢』で司馬懿は、簒奪せずに死ねることを喜んでいる場面があるそうです。

ぼくは発売直後に読んだのだが、細かく覚えてません。
陳氏の名を言う前、先生は少し沈黙し、タメました。よほど有名な研究者の名前が出てくるのかと思いきや、小説でした。

司馬懿がもっとも好例ですが、
先生は、史料に書いていないことや、史料から読み取れないことについて、自信を持って明確に「分かりません」と、お答えになります。すごいなあ、と思って先生の断言を聞いていました。

俗に「悪魔の証明」と呼ばれていますが、「ない」ことを証明するのは、とても難しいのです。
「ある」ことを言うには、1つの例を言えばいい。しかし「ない」ことを言うには、全てを調べねばならない。
三国志について、全ての資料に目を通したという自負がないと、「分かりません」とは言えないのです。

黒幕は、曹叡

満田先生は、曹叡を推測して曰く、
「司馬懿は孔明の死後、大将軍から大尉に格下げされています。曹叡が、オツカレ!と司馬懿の肩をたたいたのだと思います。曹叡は、同世代の臣下を重用し、育てたいと考えていたと思うのです」
曹叡が司馬懿を煙たがったのかもしれませんが、よくわかりません。

ただし先生は、
「曹叡は、司馬懿に失敗させるため、遼東に派遣した」
とは考えない。
満田先生の分析では、もし魏が遼東に敗れたら、国難が訪れる。呉は「融通が利く」ので、遼東と結んで、魏を挟み撃ちにする恐れがある。司馬懿を失脚させるために亡国したら、本末転倒。ちなみに呉と遼東の外交は、正史にあることです。

「融通が利く」という表現が面白おかしくて、今でも笑いそう・・・


環東シナ海の地域は、史料がないので、詳しく分からないそうです。
でも、公孫度が、海づたいに青州まで勢力を伸ばしたり、魏にとって油断できない地域だったはずだと。

五丈原の戦いは、ロシアンルーレット

時系列が前後しますが、司馬懿の話題はまだありました。
「五丈原の戦いは、魏と蜀にとって、ロシアンルーレット」
またもや名言です。
どういう意味かと言えば、
魏と蜀で、どちらが負けてもおかしくない持久戦をしていたと。大国の魏だって、郭淮が異民族に頭を下げて兵糧をもらってくるなど、全く余裕がなかった。
諸葛亮は、魏の兵糧が先に尽きると読み、滞陣した。結果、諸葛亮の命が尽きてしまったのだが・・・
それゆえに、
「諸葛亮が五丈原に回ってくれれば、司馬懿は安泰だった」
ではないと。

三国志が面白い理由

「三国志は史料が少ないので、いろいろな仮説を立てられます。史料を丹念に読み、先人の指摘を検討した上で、新しい仮説を提示することができます。だから三国志は面白い」
ぼくが三国志を好きな理由が、同じです。ここまで明確に表現する言葉は持っていませんでしたが。

次回、陸遜や劉表と、仏教の伝来について。お酒を飲みながら、質問に答えてくださったので、話題は飛び飛びですが (笑)