1)上「仲達が曹操より怖いもの」
1年半以上前に、「上」と「中」をやったきり、放置していたタイトルです。
司馬懿伝。
ぼくは三国志に登場する人の中で、司馬懿がいちばん好きです。好きゆえに、いろいろ思うところがあり、逆に書き終えられない。ジレンマです。今回は、「宣帝紀」を最後まで追ってみようと思います。
虚心に「宣帝紀」を読み、いま分かるところまで、書いてみます。その前に、前回の内容を忘れているので(他の誰でもないぼくが)、オリジナルな仮説を書いた部分だけ、要約して確認します。
兄に就職させられる
「宣帝紀」に、司馬懿の少年時代のことはほとんど書かれていない。しかし代わりに『三国志』の「司馬朗伝」を読めば、少年時代を推測することは可能。
190年、司馬懿が10歳のとき、董卓の乱。8つ年上の兄、司馬朗は董卓を批判して、洛陽を退出した。
司馬朗は、避難先を領有した勢力だからという理由で、特にこだわらずに曹操に仕官したんだろう。しかしすぐに、病気を理由に退職。徐州の大虐殺が、曹操を見限るキッカケだと思われるが、詳細は不明。 司馬朗は、「招かれる」側の名士のプライドとして、董卓も曹操も却下したのだと思う。
だが曹操が献帝を奉戴すると、話は一転する。司馬朗は曹操に再就職した。厳格な父親が叩き込んだ、お家芸の儒学に突き動かされたのかなあ。儒学とはすなわち、漢王朝を正当化するためのバイブルだ。
「曹操に仕えるのではない。献帝に仕えるのだ」
というロジックです。
司馬氏は「代々、地方官を輩出してきた名家」であり、司馬朗はその生き方にこだわった。しかし曹操は、司馬朗を中央に飼い殺したまま、地方に出してくれない。曹操がなぜ司馬朗を虐めるかと言うと、
――次男の司馬懿が、曹操に逆らって仕官しないから。
だとぼくは思う。司馬懿がイヤイヤながらに仕官すると、司馬朗は晴れて兗州牧になることができた。タイミングが一致するから、交換条件だったのではと勘ぐってしまう(笑)
能力を隠した理由
司馬懿には、怖ろしい父親が2人いるようなものだ。
1人目は文字通りの実父で、会話をするときの威儀について、トヤカク言われた。
2人目は、8つも歳が離れた兄だ。兄は家訓に忠実だから、司馬懿を善導しようと、説教ばかりしたはずだ。
ところで、
「司馬懿は、曹操の存命中は能力を隠していた」
という話を聞くが、それは当たっていない。
司馬懿が積極的に進言を始めるのは、曹操が死ぬ直前(1年未満)だ。
例えば、関羽が今にも北伐を始めそうな荊州の取り扱いについて、曹操に向って雄弁に反論してる。けっこうな確率で、司馬懿の方が正しかったりする。曹操に才覚がバレてまずいなら、
「あと1年我慢しておけよ・・・」
という話だ。あの司馬懿に限って、
「こらえ性がなくて、うっかり素顔を見せちゃった」
なんて、ありえない(笑)
では仕官してから10年以上もの間、なぜ司馬懿は、歴史書に残るほどの建策をしなかったか。
「無理に仕官をさせられたから、モチベーションが上がらず・・・」
では、あるまい。ガキじゃないんだから(笑)
ぼくが思うに、本当の理由は、父と兄に遠慮していたからだ。司馬氏の本流は父と兄であり、次男の司馬懿は傍流だ。出しゃばってはいけない。儒教に凝り固まった2つの父性は、司馬懿を封じた。
「魏を滅ぼし、晋を建てる準備のため、司馬懿は韜晦した」
なんて、身もフタもない邪推だ。歴史を結果から語ってはいけない。
司馬懿はもっぱら、家族問題にストレスを感じていただけ。兄が217年に死に、父が219年に死ぬ。曹操の没年は220年の正月だから、ほんの僅かしかズレていない。司馬懿が本性を隠した理由が、後世に間違って解釈される理由がここにある。
司馬懿が曹操よりも怖かったのは、父と兄だった。