表紙 > 人物伝 > 司馬懿伝/下「魏臣としての敗北者」

2)中「諸葛亮がわからない」

前回までの振り返りの続きです。

蜀を無視した曹丕

曹丕は、背後を司馬懿に預け、孫呉ばかり討伐した。

なぜ孫呉ばかり狙うのか。それは蜀が、討つべきライバルだと認識されていなかったから。荊州を失い、劉備が没し、もう自然と立ち枯れるのを待つだけだ。曹丕ならずとも、後の歴史の展開を知らない人なら、そんな流れを予感しても、不自然ではない。

孫呉さえ降伏させれば天下統一が完成する。曹丕の「皇帝」という称号と、国の実態が一致する。王手をかけていたから、焦りが生まれ、無闇に出兵した。

その一方で、

「敵ですらない」

という小国を率いて、必死に存在感だけでも示そうとしたのは、諸葛亮。司馬懿のライバルとされる人。

 

第一次北伐で、司馬懿は孟達を斬った。北伐を防いだというより、持ち場の荊州を守ったという仕事だ。防衛後、司馬懿は曹叡に意見を述べた。

「荊州さえ固めておけば、蜀は出てこないでしょう。桟道を渡ってくるような暴挙は、普通はしません。孫呉さえ討てば、天下は定まります」

司馬懿の認識も、曹丕と同じだ。

諸葛亮はバカではないので(むしろ知恵者の代名詞だ)、勢力地図は見えていたはず。つまり、

「このまま益州に閉じこもっていたら、鼎の足として認定されず、無視される。成都が降伏しなくても、魏による統一が完成されたと喧伝される」

と知っていた。だから、国力を絞って北伐した。

諸葛亮を見損なっていた

231年、諸葛亮が天水郡に侵入。これが諸葛亮と司馬懿の、初対決だ。

234年、諸葛亮が最期の北伐。司馬懿は、人口の多さを理由に、渭水の南に渡って、背水の陣で守った。諸葛亮が怖いのではなく、東に攻め込まれ、領民を奪われることを怖がった。『演義』では神算の諸葛亮だが、魏の人にどれだけ怖がられたか、怪しいものだ。

「宣帝紀」のなかで司馬懿は、諸葛亮についてコメントする。弟の司馬孚に言ったことには、

「志大而不見機、多謀而少決、好兵而無權」

意訳すると、

「志はデカいが、チャンスを見逃す。あれこれ頭で考えるが、行動に移せない。たびたび出兵はしてくるが、一本調子だ」

と。酷評だが、陳寿の意見とも一致するから、あながち無視できない。

司馬懿が諸葛亮に対する認識を改めるのは、彼の死後に陣跡に踏み込んだときだ。

「天下奇才也」

司馬懿は何を見たんだろうか。五丈原の陣形があまりに完成度が高かったとか、残された兵法が卓抜したものだったとか、兵糧の1粒まで詳細に管理されていたとか、非常に変態的な祭壇があったとか・・・。

 

諸葛亮の有能を知ると、司馬懿は諸葛亮が分からなくなったはずだ。

正統性のなさそうな劉備に使え、軍事的才能がないくせに指揮を取り、膨大な移送コストをかけて北伐し、食事もせずに激務をやって・・・。

「なぜそこまで頑張れるのか?」

体調を省みず、1つのことに打ち込み続ける人の生き様は、心を打つと同時に、凡人には理解不能だ。司馬懿もまた、諸葛亮の前では凡人だった。