7)死床の悪夢の理由
司馬懿は気が進まなかったが、子の司馬師の主導により、曹爽をクーデターで倒した。
王淩への敬意
「淮南の三叛」という響きが、とても好きです。なぜだか分からないけど、好きです。その1つ目が、起きます。
250年、兗州刺史の令孤愚と、大尉の王淩が、謀反した。楚王の曹彪を皇帝に即けようとした。
251年、司馬懿は自ら出陣した。王淩は、司馬懿から届いた3つの矛盾した勧告に、パニックになった。大規模な戦役で、相手の心を手玉に取ることは、司馬懿が得意なのだが・・・王淩を惑わす意図がどこまであったかは、後ほど検討します。
戦闘が起こることなく(国力を費やさず)王淩は降伏した。
王淩は聞いた。
「司馬懿どの。私を中央に呼びつけたいのであれば、書簡1通で充分でしょう。なぜわざわざ、お出ましになったか」
司馬懿は、
「あなたを書簡で呼びつけるなど、無礼だからだ」
と答えた。
敗者に対する、勝者の叮嚀なコメント・・・何がどこまで建前なのか分からないから、解釈が難しい。司馬懿が出陣したのは、王淩を心理的に圧迫する作戦の一部だろう。でもぼくは、司馬懿の純粋な敬意を感じ取る。
王淩の経歴を見ると、地方統治を堅実にやり、地盤を固めた能吏です。司馬懿と同じタイプの政治家で、王淩の方が年上だ。
王淩が背いた対象は、
「曹爽を倒し、宮廷政治家に変質し始めた司馬氏」
だと思う。
宮廷政治家は、地方の実態を省みず、宮殿内で潰しあいをやるだけ。かつて曹爽は、沔南の領民を強制移住させて、損害を広げた。宮廷政治家は、机上の空論を振り回す連中である。
しかも宮廷政治家は、皇帝権力と衝突する。
司馬氏は曹爽を倒したが、曹爽と同質になりつつある。ぼくが立てた仮説では、司馬懿と司馬師の志は違う。司馬懿は老いても、地方経営のプロだを自認している。だが王淩から見れば、全て司馬氏は、都会かぶれ。もはや社稷の弊害だ。
だから王淩は、司馬氏からフリーな新しい皇帝を立てようとした。
本音ベースで喋れば、司馬懿も、司馬氏の権力の変質を苦々しく思っていたのかも。じつは司馬懿は、王淩の方に共感を覚えていたとか。だから、王淩にかけた言葉が、叮嚀だったのだ。
だが、いちど転がり始めた坂は、最後まで転がり切らねばならない。継続して統治を任された「地盤」のない司馬氏は、宮廷に生き場所を定めるしかない。王淩討伐は、仕方のない自己防衛だった。
悪夢に苦しむ
王淩は送還される途中で、賈逵の廟に詣でた。賈逵は魏臣で、なんとあの曹操から、
「キミは地方官の模範だ」
と褒められた人だ。つまり、司馬懿や王淩が目標とした人物だろう。王淩はその大先輩の祭られた場所で、嘆いた。
「私は魏の忠臣です。神明は、そのことをご存知のはずです」
王淩は鴆毒を仰いで、死んだ。
同じ歳の6月、司馬懿は病床に臥し、8月に死んだ。71歳だった。
死ぬ前に司馬懿は、賈逵と王淩の悪夢に、散々うなされた。『晋書』は、司馬懿を崇高な始祖として扱うから、こんな死に様を書いてはいけない。でも書いたということは、よほど苦しみ方が酷かったんだろう。
もしくは『晋書』には、司馬懿が貯蓄した「徳」が不充分だったから、西晋・東晋があまり栄えなかったと因果づける傾向もある。そちらを強調するなら、司馬懿の悪夢は実際はなかったか。ともあれ、もし司馬懿が悪夢を見たとすると、それはなぜか。理由をぼくなりに付けてみる。
ぼくは、司馬懿ほどの分別のある人が、自らの行動が生んだ結果に対して、後悔をしてウンウン苦しむとは思えない。100%思い通りにならなくても(っていうか、世事は全てそうだが)、司馬懿ならば、きちんとストレスに対処してきたはずだ。
「老いたから思考が緩んだだけ」
と片付けてもいいが、それだけではないと思う。
司馬懿は、王淩を討ちたくなかった。だが息子たちが、司馬氏を宮廷の臣に変質させる最初のドミノを倒してしまったから、家を守るために、血を吐く思いで討った。自ら敷いたレールではなく、息子が敷いたレールを走らされたから、司馬懿は後悔を消せなかった。
司馬懿から王淩へ、
「中軍を率いて水路を東征しよう。死すべし!王淩め」
「王淩殿のご乱心は、これまで功績に免じて見なかったことにします」
「ご子息(王広)を説諭に遣わします。まずは悔いて下され」
という、内容がブレまくった書簡が送られた。王淩を惑わすために、一貫性を欠いたのではない。司馬懿自身が迷っていたのではないか。
家族問題の連鎖
「息子に裏切られた」
というのは、言葉のニュアンスが合っているか分からないが、司馬懿が死ぬ間際に感じたのは、そんな心地だっただろう。
司馬懿は、狡猾な最終勝者のように思われがちだが、じつは正反対で、息子に対する敗北者だったのではないか。
司馬懿の子たちは、魏臣の夏侯玄や毌丘倹、諸葛誕らを討った。同じ文脈で、魏臣としての司馬懿も「討たれた」んだと思う。いちおう父親だから、矛で刺されたりはしないが。
斎藤学『「家族神話」があなたをしばる』というNHK出版の生活人新書があります。三国志と全く関係ないんだが、この中で、家庭問題を分析する方法が示されている。家族の系図を描いて、祖父母以降、親類がどんな問題を抱えたか書いていく。すると、今起きているのと全く同じ構図の対立が、どこかで起きている。再現を、やっているに過ぎない。
へえー。
司馬懿の父と兄は、司馬懿に漢臣になることを要請した。
司馬懿は反発して、漢臣になることを拒んだ。
「漢臣と言っても、曹操に仕えることが、実際だ。司馬懿が拒んだのは、曹操の臣になることではないか」
という指摘は、少なくとも司馬氏の家には当たらない。その理由はすでに書いたが、
兄はいちど曹操に仕え、曹操のやり方に愛想を尽かして、退職した。だが曹操が献帝を奉戴すると、再就職した。これにより、
「司馬朗は、曹操ではなく、漢室に仕えた」
と言える。こういう、儒教に忠実に生きよという家訓を、司馬懿は疎ましく思ったんだと思う。これは、「1)」のところで確認したとおりです。
司馬懿は父と兄が死んで、頭角を現した。
だが単純に、後継者となったのではない。司馬懿は、父と兄を反面教師にした。漢臣とならず、魏臣となったのだ。
魏の地方官として司馬懿は有能だったが、これは父や兄への反抗を続けたに等しい。本人に自覚があったかは別として、やっていることは反抗だ。子供の反抗期のような一過性のものではなく、魂に染みこんだ反抗精神だ。
死別というイベントで「視えない化」されたが、司馬懿は父と和解していない。その因果が、知らず知らずのうちに、司馬懿と子との関係を悪化させた。皮肉なことである。家族問題は、くり返すのだ。
息子たちは、父のように魏臣となることを拒んだ。魏臣を拒み、晋王を目指した。司馬懿が魏臣としてあまりに高位だったから、息子たちの野心に、実現可能性を与えた。
むりにまとめると、
「魏晋革命は、司馬懿が父との関係改善を怠ったために起きた。家族問題の呪いが次代に持ち越され、禅譲劇まで到ってしまった」
とも言えるのではなかろうか。
司馬懿は忍耐強いから、父が死ぬまでは表立った反抗をしなかった。だが司馬師は、
「70歳に手が届く老父に、曹爽を討つクーデターへ参加させる」
というカタチで、反抗を開始した。司馬懿が父に不孝を働いた代償は、息子からの不孝だったというわけ。090730